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旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


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第11章 第5話:市民参加の授業――町の計画に名前のない子どもたち


 駅前の再開発計画図は、大きすぎて、教室の黒板から少しはみ出していた。


 白い紙の上には、色分けされた線がいくつも引かれている。


 新しい広場。


 商業施設。


 バスロータリー。


 観光案内所。


 防災拠点。


 歩行者デッキ。


 自転車置き場。


 説明用の矢印は整っていて、文字はきれいだった。青い線は通勤者の動線、緑の線は観光客の動線、赤い線は緊急時の避難経路。点線で、高齢者向けのバリアフリールートも示されている。


 紗季は、配られた縮小版の計画図を机の上に置き、ぼんやり眺めていた。


 大人の地図だ、と思った。


 文字が多くて、線がきれいで、説明が難しい。


 そこには、町の未来が描かれているらしい。


 でも、紗季の毎日は、そこにはほとんど見当たらなかった。


 放課後、友だちと待ち合わせるコンビニ前。


 雨の日に迎えの車を待つ駅前の狭い屋根の下。


 部活帰りに通る、街灯の少ない歩道。


 自転車が急に出てきて怖い交差点。


 塾の前に少しだけ座れる低い石段。


 そういう場所は、計画図の中ではただの空白か、細い線の一部になっていた。


「難しすぎない?」


 隣の席の結衣が、小声で言った。


「うん」


「これ、私たちに聞いてどうするんだろうね」


 紗季は計画図を見つめたまま答えた。


「大人が決めることでしょ」


 町の再開発。


 行政の説明会。


 合同ワークショップ。


 そう言われても、紗季には自分の話だと思えなかった。


 駅前が変わるのは知っている。


 工事の囲いも見た。


 古い商店が閉まっていくのも見た。


 けれど、どんな広場を作るか、どこに屋根をつけるか、どの道を明るくするか。


 そういうことを決めるのは、大人だ。


 市役所の人。


 商店街の人。


 建築会社の人。


 町内会の人。


 子どもが何か言ったところで、本当に入るのだろうか。


 教室の前では、現地教師の浦川先生が資料を整えていた。


 浦川先生は、この町で育ち、この学校に戻ってきた教師だった。生徒たちにも町の未来を考えてほしいと願っている。


「今日は、市役所の方と一緒に、駅前再開発について考えるワークショップをします」


 浦川先生は言った。


「町の未来を考える大切な機会です。難しい資料もありますが、自分たちの暮らしとつなげて見てみましょう」


 自分たちの暮らし。


 紗季は計画図を見た。


 そこに自分たちの暮らしがあるとは、やはり思えなかった。


 教室の扉が開いた。


「失礼します」


 黒い上着に、使い込まれた革の鞄を持った先生が入ってきた。


 その人は、黒板からはみ出した計画図を見て、それから生徒たちの机に置かれた縮小版の地図を見た。最後に、紗季が鉛筆の先で地図の空白をなぞっているところに目を留めた。


「白瀬先生」


 浦川先生が迎える。


「お待ちしていました」


「こちらこそ、呼んでいただきありがとうございます」


 その人――白瀬灯理は、軽く頭を下げた。


「今日は町の計画を考える授業に参加させていただきます」


 紗季は灯理を見た。


 旅する先生。


 世界の学校を訪ね、いろいろな授業をしている先生。


 昨日、浦川先生から紹介されていた。


 灯理は紗季の机のそばで立ち止まった。


「計画図を見ていたんですね」


「はい」


「どんな地図に見えますか」


 紗季は少し迷った。


 言っていいのかわからなかった。


 でも、灯理の声は急がせなかった。


「大人の地図に見えます」


 紗季は小さく言った。


「大人の地図」


「はい。商店街とか、観光客とか、通勤の人とか、そういう線はあるけど」


 紗季は地図の駅前を指した。


「私たちが雨の日に待つ場所とか、部活帰りに暗くて怖い道とかは、書いてないです」


「はい」


「先生、町の計画に子どもの意見なんて入るんですか」


 灯理は、黒板の大きな計画図を見上げた。


「うん。では、毎日その町を歩いている子どもたちの経験は、町の資料にはならないのでしょうか」


 紗季は答えられなかった。


 経験が資料になる。


 そんなふうに考えたことはなかった。


 午前の授業で、灯理は黒板に新しい紙を貼った。


 計画図とは別の、何も書き込まれていない町の地図。


 学校、駅、商店街、川、公園、バス停、通学路。


 ただそれだけが描かれている。


 灯理はその上に大きく書いた。


『自分たちの一日の動線』


 生徒たちが少しざわつく。


「動線?」


「建築の授業みたい」


「何書けばいいの?」


 灯理は言った。


「町の計画図には、いろいろな人の動きが描かれています。今日は、皆さんが毎日どこを歩き、どこで困り、どこを残したいと思っているのかを重ねてみます」


 黒板に項目が並んだ。


『登下校で通る道』

『放課後に立ち寄る場所』

『雨の日に困る場所』

『暗くて怖い場所』

『座れる場所がなくて困る場所』

『車と自転車が危ない場所』

『誰かを待つ場所』

『残してほしい景色』

『新しく必要な場所』


 紗季は、配られた地図を見た。


 今度の地図は、さっきの計画図よりずっと簡単だった。


 駅から学校までの道も、よく通る商店街の路地も、自分の家の方角もわかる。


 紗季は赤いペンを持った。


 まず、登校で通る道を引く。


 家から川沿いを通り、コンビニの角を曲がり、駅前の広場を抜けて学校へ向かう道。


 次に、青いペンで放課後の道を書く。


 部活がある日は、体育館裏から自転車置き場へ行き、友だちと駅前のコンビニ前で待ち合わせる。


 雨の日は、駅前の小さな屋根の下に人が集まる。


 屋根は狭く、迎えの車を待つ生徒が車道の近くまで広がることがある。


 紗季はそこに青い丸をつけた。


『雨の日、屋根が足りない。車道に近い』


 次に、紫のペンで暗くて怖い場所。


 部活帰りに通る線路沿いの歩道。


 街灯が少なく、冬は特に暗い。


 一人で歩くと、足音が後ろからついてくるように感じる。


『部活帰り、暗い。街灯少ない』


 緑のペンで、残してほしい景色。


 古い文房具店の前にある大きな木。


 夏になると、その木の影に小学生が集まる。


 文房具店は再開発区域に入っている。


 店は閉まると聞いた。


 でも、木はどうなるのだろう。


 紗季はその場所に緑の丸をつけた。


『文房具店前の木。夏に日陰になる。残してほしい』


 書き込んでいくうちに、地図が少しずつ自分のものになっていった。


 ただの道路ではない。


 毎朝眠い目で歩く道。


 雨の日に靴下が濡れる場所。


 部活帰りに早足になる場所。


 友だちを待つ場所。


 残ってほしい影。


 自分たちは、町を使っている。


 毎日。


 当たり前すぎて、意見だと思っていなかっただけで。


 結衣が地図を覗き込んだ。


「紗季、めっちゃ書いてる」


「書き始めたら、いろいろあった」


「私、駅の階段のところ書いた。朝、自転車とぶつかりそうになる」


「そこ危ないよね」


「あと、塾の帰りにバス停で座れない。ベンチ少ない」


 周りでも、生徒たちが次々と地図に書き込み始めていた。


「この道、雨の日に水たまる」


「公園のトイレ、夜怖い」


「ここ、車が一時停止しない」


「商店街のアーケード、古いけど雨の日は助かる」


「駅前に迎えの車が並んで、歩く場所なくなる」


「友だちと待つ場所が店の前しかないから、邪魔になってるかも」


 灯理は黒板の横に立ち、生徒たちの言葉を拾っていった。


『雨』

『暗さ』

『待つ』

『座る』

『車との距離』

『残したい日陰』

『子どもの待機場所』

『部活帰りの安全』


 浦川先生は、その文字をじっと見ていた。


 午前の終わり、市役所の担当者たちが学校へ来た。


 会議室に、合同ワークショップの机が並べられる。


 市役所の都市計画課の人、商店街の代表、町内会の人、保護者、そして生徒たち。


 机の上には、最初の大きな再開発計画図と、生徒たちが書き込んだ生活動線の地図が並べられた。


 紗季は椅子に座りながら、少し緊張していた。


 大人が多い。


 話す言葉も難しい。


「駅前広場の機能を整理し、防災拠点としての役割も持たせます」


「歩行者デッキにより、車両動線と分離します」


「商業施設への回遊性を高めます」


 担当者の説明は丁寧だった。


 でも、紗季にはやはり少し遠かった。


 大人の言葉。


 大人の地図。


 自分の地図は、机の端にある。


 小さな丸と、手書きの文字でいっぱいの地図。


 それを出していいのか、迷った。


 浦川先生が生徒たちに促した。


「では、生徒の皆さんが書き込んだ動線について、気づいたことを話してみましょう」


 会議室が静かになる。


 誰もすぐには話さない。


 紗季は地図の端を指で押さえた。


 言っても、変わらないかもしれない。


 計画はもうほとんど決まっているのかもしれない。


 子どもの意見は、聞いたことにするためだけかもしれない。


 そう思うと、声が喉で止まる。


 灯理が少し離れた場所から尋ねた。


「町の未来を考える時、毎日そこを歩いている人の声は、資料のどこにありますか」


 紗季は、最初の計画図を見た。


 青い線。


 緑の線。


 赤い線。


 通勤者。


 観光客。


 高齢者。


 避難経路。


 どれも大切だ。


 でも、自分たちの線はない。


 紗季は手を挙げた。


「話してもいいですか」


 市役所の担当者がすぐに頷いた。


「もちろんです」


 紗季は、自分の地図を広げた。


 手が少し震えている。


「この駅前の屋根のところなんですけど」


 彼女は青い丸を指した。


「雨の日、迎えを待つ生徒がここに集まります。屋根が狭いので、入りきらない人が車道の近くに出ます。バスを待つ人もいるので、けっこう混みます」


 担当者が身を乗り出す。


「具体的には、どの時間帯ですか」


「部活が終わる時間と、塾に行く前の時間です。夕方五時から七時くらい」


 結衣が続けた。


「朝も、雨の日は駅から学校へ行く生徒がここを通ります。傘を閉じる場所がなくて、階段の近くで止まる人がいます」


 別の生徒が言う。


「あと、自転車がここから急に出てきます」


 紗季は紫の丸を指した。


「それから、この線路沿いの歩道は、部活帰りに暗いです。計画図だと通学路としては太く書かれてないけど、私たちはここをよく通ります」


 市役所の担当者はメモを取っている。


 商店街の代表も地図を覗き込んだ。


「その道、確かに街灯が少ないな」


 町内会の人が頷く。


「防犯灯の申請を何年か前にしたが、場所の確認で止まっていたかもしれない」


 浦川先生が驚いたように紗季を見る。


 紗季は、最後に緑の丸を指した。


「文房具店の前の木は、残るんですか」


 担当者が資料をめくる。


「現在の計画では、広場整備に伴って伐採予定になっています」


 紗季の胸が少し沈んだ。


「夏、あの木の下で小学生がよく待っています。日陰がほとんどないので」


 会議室が少し静かになった。


 市役所の担当者は、すぐに「残します」とは言わなかった。


 代わりに、計画図の余白にメモを書いた。


「既存樹木の扱いについて、日陰の機能も含めて再確認します」


 紗季はその言葉の意味を完全にはわからなかった。


 でも、今、自分の見ていた木が、大人の資料の中に入ったのはわかった。


 ワークショップは、すぐに町を大きく変えるものではなかった。


 生徒たちの意見で、広場の形がその場で変わることはない。


 屋根がすぐに増えるわけでも、街灯が今日つくわけでもない。


 それでも、担当者は最後に言った。


「今日出していただいた意見は、『子どもの動線』として資料に追加します。特に、雨の日の待機場所、夕方の安全、既存の日陰については、次回の検討項目に入れます」


 子どもの動線。


 紗季はその言葉を聞いた。


 自分たちの線に名前がついた。


 計画図の中に、まだ細いけれど、線が引かれた気がした。


 休憩時間、紗季は廊下に出た。


 窓の外には、駅前の工事用フェンスが見える。


 向こう側には、文房具店の木も小さく見えた。


 灯理が隣に立った。


「話していましたね」


「はい」


「どうでしたか」


「すぐには変わらないんですね」


「はい」


「木も、残るかわからないし、屋根も増えるかわからない」


「うん」


「でも」


 紗季は地図を胸に抱えた。


「私たちの線が、資料に入るって言っていました」


「はい」


「それだけでも、少し変わったんでしょうか」


 灯理は窓の外の町を見た。


「町の計画に、新しい見る場所が増えましたね」


 紗季は頷いた。


 自分たちの声が、すべてを変えるわけではない。


 でも、なかったことにはならなかった。


 地図の余白に書かれた手書きの文字が、会議の記録に移っていく。


 それは、小さなことかもしれない。


 でも、昨日までの紗季なら、その小さなことさえ想像していなかった。


 放課後、紗季は駅前を歩いた。


 雨は降っていない。


 でも、駅前の屋根の下には、部活帰りの生徒が何人か立っていた。


 バスを待つ高齢者。


 迎えの車を待つ小学生。


 観光案内所の前で地図を見る人。


 通勤帰りに足早に歩く人。


 同じ場所に、いろいろな人の動線が重なっている。


 紗季は、計画図ではなく、実際の町を見た。


 車道に近い場所で待つ生徒。


 自転車が曲がってくる角。


 文房具店の木の影。


 暗くなり始めた線路沿いの道。


 どれも、昨日まで当たり前に通り過ぎていた場所だった。


 今は少し違う。


 町の中に、自分たちの経験として見える。


 紗季は計画図の縮小版を取り出した。


 大人の地図。


 そう思っていた紙。


 余白に、鉛筆で小さく書く。


『ここに、私たちの道もある』


 その文字は小さかった。


 でも、消したくなかった。


 学校へ戻ると、浦川先生が教室に残っていた。


 机の上には、生徒たちの動線地図が重ねられている。


「紗季さん」


「はい」


「今日、よく話しましたね」


「緊張しました」


「そうでしょう」


 浦川先生は地図を見た。


「私は、町の未来を考えようとずっと言っていました。でも、最初に見せた資料は、生徒たちには遠かったかもしれません」


「難しかったです」


「そうですよね」


 先生は少し苦笑した。


「これからは、自分たちの一日から町を見るところから始めます。登校、昼休み、放課後、雨の日、暗い道、待つ場所。そこからなら、町の計画は遠い話ではなくなる」


 紗季は頷いた。


「私、町の計画って、大人が決めるものだと思ってました」


「今は?」


「大人がたくさん決めるものだとは思います」


「はい」


「でも、私たちが毎日歩いていることも、少し資料になるんだと思いました」


 浦川先生は静かに頷いた。


「その通りです」


 紗季は地図を机に置いた。


「次のワークショップも、行っていいですか」


「もちろん」


「今度は、駅前だけじゃなくて、線路沿いの道を写真に撮って持っていきたいです」


「一緒に準備しましょう」


 教室の外では、夕方のチャイムが鳴った。


 紗季は鞄に地図をしまった。


 もう、それは大人の地図だけではなかった。


 自分たちの道が、細く書き込まれた地図だった。


 夜、灯理は学校を出た。


 駅前の再開発区域には、工事用の明かりがともっている。フェンスの向こうでは、重機が静かに止まり、仮設の通路を人々が行き交っていた。


 浦川先生が校門まで見送りに来た。


「白瀬先生、今日はありがとうございました」


「こちらこそ、町の地図に生徒たちの線を重ねさせていただきました」


 浦川先生は、生徒たちの動線地図を抱えていた。


「行政資料を見せれば、町の未来について考えられると思っていました」


「大切な資料ですね」


「はい。けれど、資料の中に自分の暮らしが見えなければ、生徒たちは遠いものとして受け取ってしまう。今日、よくわかりました」


 彼は駅前の方を見た。


「自分たちの一日から町を見る。そこから始めるべきでした」


「紗季さんたちは、たくさんの線を持っていましたね」


「ええ。雨の日の屋根、暗い道、待つ場所、日陰。大人だけでは見落とす視点でした」


 浦川先生は地図を大切そうに持ち直した。


「次回のワークショップには、この地図を資料として提出します。子どもの動線として」


 夜風が、駅前のフェンスに貼られた再開発のお知らせを揺らした。


 灯理は鞄を肩にかけ直した。


 中には、新しい依頼状が一通入っている。


 けれど、まだ開かなかった。


 町の計画図には、最初からすべての声が書かれているわけではない。


 太い線で描かれる人もいれば、細い線にもならない人もいる。


 けれど、毎日歩く道、雨の日に困る場所、暗くて怖い道、待ち合わせる場所、残したい木の影。


 それらもまた、町を考える資料になる。


 一度で大きく変わらなくてもいい。


 自分たちの経験を地図に重ね、場に置く。


 そこから、町の未来に新しい線が一本増える。


 灯理は駅前の明かりを振り返り、静かな夜道をゆっくり歩いていった。

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