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旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


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第11章 第4話:選挙の授業――一票では何も変わらないと思う少年


 高校の廊下には、色とりどりのポスターが並んでいた。


 生徒会選挙まで、あと三日。


 昇降口の掲示板、階段の踊り場、職員室前の壁。どこを歩いても、候補者たちの名前と笑顔が目に入る。


『もっと楽しい学校へ』

『生徒の声を届けます』

『昼休み改革』

『行事をもっと自由に』

『安心できる居場所づくり』


 律は、その前をほとんど立ち止まらずに通り過ぎた。


 友人の悠人が、隣でポスターを見上げる。


「律、誰に入れる?」


「知らない」


「知らないって、もうすぐ投票だぞ」


「適当でいいだろ」


「適当はまずくない?」


「どうせ人気あるやつが勝つし」


 律は鞄の肩紐を持ち直した。


「俺の一票で何か変わるわけじゃない」


 悠人は少し困ったように笑った。


「まあ、そうかもしれないけど」


 律にとって、生徒会選挙は少し面倒な行事だった。


 候補者が体育館で演説する。


 ポスターが貼られる。


 投票用紙が配られる。


 名前を書いて箱に入れる。


 それだけ。


 勝つのは、だいたい目立つ人だ。


 部活で有名な人。


 成績が良い人。


 明るくて、友だちが多くて、先生にもよく知られている人。


 公約がどうとか、学校を変えるとか言っても、結局は人気投票に見える。


 一票。


 その言葉も、律には大げさに聞こえた。


 たった一枚の紙。


 自分が誰の名前を書いたところで、何が変わるのだろう。


 教室に入ると、担任の杉浦先生が、選挙関連のプリントを配っていた。


 杉浦先生は社会科の教師で、主権者教育に熱心だった。生徒会選挙も、ただの学校行事ではなく、社会に参加する練習として大切にしている。


「今日の六時間目は、生徒会選挙に向けた授業をします」


 杉浦先生は言った。


「候補者の公約を読み、自分の判断で投票先を考えます」


 律はプリントを受け取り、机の端に置いた。


 隣の席の悠人は、ポスター一覧を見ている。


「昼休みの居場所を増やすって書いてる人いるな」


「ふうん」


「律、興味なさすぎ」


「興味持ったところで、変わらないし」


 律は窓の外を見た。


 昼休みの校庭では、サッカーをする生徒たちの声が聞こえる。


 教室の中はいつも騒がしい。


 弁当を食べながら動画を見せ合う人。


 カードゲームをする人。


 机を寄せて笑うグループ。


 律はその空気が嫌いではない。


 でも、全員がそうではないことも知っていた。


 悠人は、昼休みになるとよく廊下の端に出る。


 理由を聞くと、「教室、ちょっとうるさいから」と笑っていた。


 律は、それ以上深く聞かなかった。


 廊下には椅子もなく、冬は寒く、夏は暑い。


 でも悠人は、そこでパンを食べていることがあった。


 ポスターの中の『安心できる居場所づくり』という文字が、頭の片隅に少し残った。


 六時間目の始まりに、教室の扉が静かに開いた。


「失礼します」


 黒い上着に、使い込まれた革の鞄を持った先生が入ってきた。


 廊下に並んだ選挙ポスターを見てきたのか、その人は手に小さなメモを持っていた。教室に入ると、生徒たちの机の上に置かれた公約一覧を一つずつ見るように視線を動かした。


「白瀬先生」


 杉浦先生が迎える。


「お待ちしていました」


「こちらこそ、呼んでいただきありがとうございます」


 その人――白瀬灯理は、軽く頭を下げた。


「今日は選挙の授業に少し混ぜていただきます」


 律は灯理を見た。


 旅する先生。


 世界の学校を訪ね、いろいろな授業をしている先生。


 昨日、杉浦先生から紹介されていた。


 灯理は教室を見渡し、律の机の端に置かれた、まだ折り目もついていない公約一覧を見た。


「まだ読んでいないんですね」


 律は少しだけ肩をすくめた。


「まあ」


「選挙には関心がありませんか」


「ないです」


「どうしてでしょう」


 律は椅子にもたれた。


「先生、どうせ一票じゃ何も変わりません」


 その言葉に、何人かがこちらを見た。


 杉浦先生が何か言いかける。


 けれど灯理は、先にゆっくり頷いた。


「うん。では、一票は結果を変えた時だけ、意味を持つのでしょうか」


 律は眉を寄せた。


 結果を変えない一票に、他に何の意味があるのか。


 そう言おうとして、言葉を止めた。


 灯理は黒板の前に立った。


「今日は、投票先を当てる授業ではありません」


 黒板に大きく文字を書く。


『一票の理由書』


 教室がざわついた。


「理由書?」


「投票に理由いるの?」


「名前書くだけじゃないの?」


 杉浦先生が、生徒たちに新しいプリントを配った。


 そこには、いくつもの欄があった。


『自分の学校生活で困っていること』

『候補者が何を変えようとしているか』

『その公約は誰に関係するか』

『実現できそうか』

『足りない視点は何か』

『自分なら何を質問したいか』

『なぜその候補に投票する、または白票にするのか』


 律はプリントを見た。


 投票用紙より、ずっと面倒くさそうだった。


 灯理は言った。


「投票は、勝つ人を予想するためだけのものではありません。自分が何を見て、何を考え、なぜその判断をしたのかを、場に置く行為でもあります」


「場に置くって、誰か見るんですか」


 律が聞いた。


「実際の投票は秘密です」


 灯理は答えた。


「でも、自分の中に理由が残ります。今日はその理由を、自分で見えるようにしてみます」


 律は公約一覧を開いた。


 候補者は三人。


 一人目は、部活動支援を掲げている。


『大会前の練習時間確保』

『部室の備品改善』

『部活動紹介イベントの充実』


 二人目は、学校行事の自由度を上げるという公約。


『文化祭の企画制限の見直し』

『体育祭の種目アンケート』

『クラス企画の予算配分改善』


 三人目は、昼休みと放課後の居場所づくり。


『空き教室の一部開放』

『静かに過ごせる昼休みスペース』

『相談しやすい意見箱の設置』

『廊下や階段で過ごす生徒の実態調査』


 律は三人目の欄で手を止めた。


 廊下や階段で過ごす生徒。


 悠人のことが浮かんだ。


 昼休み、教室を出て廊下の端でパンを食べる悠人。


 冬にはポケットに手を入れ、夏には汗をかきながら、それでも教室に戻らない。


「悠人」


 律は隣に小声で聞いた。


「お前、昼休みの居場所ってやつ、関係ある?」


 悠人は少し驚いた顔をした。


「急に何」


「いや、この公約」


 悠人はプリントを見た。


「ああ」


「教室、そんなにしんどいの?」


 悠人は少し迷った。


「しんどいってほどじゃないけど、音が多い日は疲れる」


「音?」


「笑い声とか、動画の音とか、机動かす音とか。嫌いなわけじゃないんだけど、ずっといると頭が痛くなる」


 律は黙った。


 そんなふうに聞いたのは初めてだった。


「廊下も落ち着かないけど、教室よりましな時がある」


「言えばいいじゃん」


「誰に?」


 悠人は苦笑した。


「みんなが楽しく昼休みしてるのに、静かにしてって言うのも変だし」


 律は返す言葉を見つけられなかった。


 自分の学校生活で困っていること。


 律自身は、特に困っていないと思っていた。


 でも、自分のすぐ隣に、困っているというほど大きく言えない不便を抱えている友人がいた。


 律はプリントの最初の欄に書いた。


『教室が騒がしい時、休める場所が少ない人がいる』


 書いてから、少しだけ公約一覧が違って見えた。


 単なるポスターの言葉ではなく、悠人の昼休みとつながっている。


 中盤、候補者討論会が体育館で行われた。


 全校生徒が集まり、三人の候補者が壇上に並ぶ。


 マイクの音が、少し反響した。


 一人目の候補は、部活動の環境改善について話した。


 二人目の候補は、行事の自由度について語った。


 三人目の候補、佐野先輩は、昼休みの居場所について話した。


「学校には、教室で賑やかに過ごしたい人もいれば、静かに休みたい人もいます。今は、その選択肢が少ないと感じています。空き教室の一部を昼休みに開放し、静かに過ごせる場所を作りたいです」


 律は腕を組んで聞いていた。


 いつもなら、演説はほとんど聞き流していた。


 でも、今日は少し違った。


 悠人の顔が浮かぶ。


 廊下でパンを食べる姿。


 それを思い出すと、「静かに過ごせる場所」という言葉が、ただのきれいごとではなくなる。


 質疑応答の時間になった。


 杉浦先生がマイクを持つ。


「候補者に質問がある人はいますか」


 体育館は少し静かになった。


 誰もすぐには手を挙げない。


 律は、自分の膝の上の理由書を見た。


『自分なら何を質問したいか』


 空欄だった。


 聞くなら、今だ。


 でも、全校生徒の前で質問するのは面倒だ。


 目立ちたくない。


 誰かが聞くだろう。


 そう思った時、隣で悠人が静かに息を吐いた。


 律はゆっくり手を挙げた。


 自分でも少し驚いた。


 杉浦先生が目を丸くし、それからマイクを持って近づいてきた。


「二年二組、律くん」


 マイクを渡される。


 体育館中の視線が集まる。


 律は一瞬、質問をやめたくなった。


 でも、手元の理由書を握った。


「昼休みの居場所を増やすって」


 声が少し硬い。


「具体的に、どこをどう変えるんですか」


 壇上の佐野先輩が、少し身を乗り出した。


「質問ありがとうございます。今考えているのは、昼休みに使われていない選択教室を週に何日か開放することです。ただ、管理の問題があるので、先生方と相談が必要です」


 律は続けた。


「静かに過ごす場所なら、話し声とか音のルールも必要だと思います。誰が見ますか」


 体育館が少しざわつく。


 佐野先輩は少し考えてから答えた。


「最初は図書委員や生徒会だけで見回る案を考えていました。でも、それだと負担が偏るかもしれません。利用する人自身がルール作りに参加する形にしたいです」


 律はさらに聞いた。


「使いたい人の数は調べますか」


「はい。意見箱だけではなく、昼休みに廊下や階段で過ごしている人へのアンケートを考えています。教室にいない人の声が見えにくいので」


 律はマイクを少し下げた。


「わかりました」


 席に戻ると、悠人が小さく言った。


「びっくりした」


「俺も」


「でも、聞いてくれて助かった」


 律は前を向いた。


 心臓が少し速い。


 質問したからといって、学校がすぐに変わるわけではない。


 佐野先輩が勝つとも限らない。


 でも、今、自分は一つの問いを場に置いた。


 その感覚だけは、確かに残った。


 教室に戻ると、理由書を書く時間があった。


 律は、さっきまでより真面目にプリントを見た。


『自分の学校生活で困っていること』


 自分だけではなく、隣にいる人の困りごとも含めて書き直す。


『昼休みに静かに休める場所が少ない。教室が苦手な人が廊下や階段で過ごしている』


『候補者が何を変えようとしているか』


『空き教室を昼休みに開放し、静かに過ごせる場所を作る』


『その公約は誰に関係するか』


『教室で過ごしにくい人。静かに本を読みたい人。友人と離れて休みたい人。廊下や階段にいる人』


『実現できそうか』


 律は少し考えた。


『教室の管理、ルール、先生との相談が必要。すぐ全部は無理。でも、週に一日からなら試せるかもしれない』


『足りない視点は何か』


『利用する人の声。見回りをする人の負担。静かにしたい人と少し話したい人の違い』


『自分なら何を質問したいか』


 これはもう聞いた。


『どこをどう変えるのか。誰が管理するのか。使いたい人の数を調べるのか』


 最後の欄。


『なぜその候補に投票する、または白票にするのか』


 律は鉛筆を止めた。


 誰に投票するかは、まだ完全に決めたわけではない。


 部活動支援も大切だろう。


 行事の自由度も、多くの生徒に関係する。


 でも、自分が今日いちばん考えたのは、昼休みの居場所だった。


 悠人のこと。


 廊下で過ごす生徒たちのこと。


 静かに休める場所のこと。


 律は書いた。


『この候補が勝つかどうかはわからない。でも、自分は昼休みの居場所について考えた上で、この公約を重視して投票する』


 書いてから、少しだけ恥ずかしくなった。


 でも、消さなかった。


 灯理が机の横に来た。


「ずいぶん書けていますね」


「まあ」


「最初の投票用紙は、ただの紙に見えていましたか」


「はい」


「今はどうですか」


 律は理由書を見た。


 投票用紙は、まだただの紙だ。


 薄くて、小さくて、名前を書く欄があるだけ。


 でも、その紙に書く名前の後ろに、自分が見たことや聞いたことが少しある。


「判断を置く紙、ですかね」


 自分で言って、少し照れた。


 灯理は頷いた。


「律くんの言葉ですね」


 投票日は、二日後だった。


 体育館に簡易の投票所が設置された。


 受付で名簿を確認し、投票用紙を受け取る。


 折りたたみ式の記載台。


 投票箱。


 いつもの体育館が、少しだけ違う場所に見えた。


 律は投票用紙を持って、記載台の前に立った。


 紙は思ったより薄い。


 ここに名前を書く。


 それだけ。


 この一票で、結果が変わるかはわからない。


 たぶん、変わらないかもしれない。


 でも、律はもう「どうでもいい」とは思っていなかった。


 候補者の名前を書く。


 折る。


 投票箱へ入れる。


 紙が箱の底へ落ちる小さな音は、周りのざわめきに混じってすぐ消えた。


 でも、律の中には残った。


 投票後、教室で理由書の最後の欄を書き足す時間があった。


 律は鉛筆を持ち、最後に一行を書いた。


『この一票で全部は変わらない。でも、何を見ていたかは残る』


 悠人が横から覗き込んだ。


「いいこと書いてる」


「見るな」


「俺も書いた」


「何を」


「静かな場所がほしいって、初めてちゃんと書いた」


 悠人は少し照れたように笑った。


「選挙って、候補者だけが声出すものだと思ってたけど、質問とか理由書もあるんだな」


 律は頷いた。


「まあ、面倒だけど」


「面倒?」


「でも、適当よりはまし」


 自分で言って、律は少し笑った。


 放課後、開票結果が発表された。


 当選したのは、行事改革を掲げた二人目の候補だった。


 佐野先輩は落選した。


 体育館の掲示板前で、律は結果を見た。


 自分の入れた候補は、勝たなかった。


 やっぱり一票では変わらない。


 そう思おうとすれば、思えた。


 けれど、不思議と以前ほど空っぽではなかった。


 佐野先輩の公約は、落選したから消えるのだろうか。


 昼休みの居場所の話は、なかったことになるのだろうか。


 掲示板の横で、杉浦先生が生徒たちを見ていた。


 律は近づいた。


「先生」


「はい」


「落ちた候補の公約って、もう終わりですか」


 杉浦先生は少し驚いた。


「終わりとは限りません」


「生徒会に意見として出せますか」


「出せます。むしろ、選挙で出た公約や質問は、今後の生徒会活動の資料になります」


 律は少し考えた。


「じゃあ、昼休みの居場所の話、意見箱に書きます」


 隣にいた悠人が驚いた顔をした。


「律が?」


「俺だけじゃなくて、お前も書けよ」


「まあ、書く」


 杉浦先生は穏やかに頷いた。


「それも、意思表示です」


 その夜、灯理は高校を出た。


 校舎の窓には、選挙結果の掲示を見に来た生徒たちの影がまだ残っている。昇降口のポスターは、一枚ずつ剥がされ始めていた。


 杉浦先生が校門まで見送りに来た。


「白瀬先生、今日はありがとうございました」


「こちらこそ、生徒会選挙を一緒に見せていただきました」


 杉浦先生は手元の理由書の束を見た。


「私は、生徒たちに選挙へ関心を持ってほしいと思っていました」


「大切なことですね」


「はい。でも、関心を持とうと言うだけでは、遠い生徒もいるのですね。自分の困りごとや、隣の人の困りごとから候補者を見る。そこが必要でした」


 灯理は頷いた。


「律くんは、そこから質問を出していました」


「ええ。結果として、彼が投票した候補は落選しました。でも、理由書には残りました。質問も、これからの生徒会への資料になります」


 杉浦先生は体育館の方を見た。


「一票は、勝敗を変えるためだけではない。自分の判断の理由を置くことでもある。私も、改めて学びました」


 夜風が、剥がされたポスターの角を小さく揺らした。


 灯理は鞄を肩にかけ直した。


 中には、再開発計画を進める町と学校の合同ワークショップから届いた依頼状が入っている。


 けれど、まだ開かなかった。


 選挙の紙は小さい。


 薄くて、折ればすぐ手の中に隠れる。


 その一枚で、すべてが変わるわけではない。


 時には、自分の選んだ候補が負けることもある。


 けれど、その紙に名前を書く前に、自分が何を見たのか。


 誰の困りごとを聞いたのか。


 どんな問いを持ったのか。


 その理由は、消えずに残る。


 一票は、結果だけではない。


 自分の判断を、社会の小さな箱へ置く行為なのだ。


 灯理は選挙ポスターの少なくなった廊下を振り返り、静かな夜道へ歩き出した。

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