表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
38/204

第8章 第3話:平和学習の授業――泣けない戦争資料室


 戦争資料室の朝は、校舎の中でそこだけ少し音が低い。


 廊下を走る足音も、扉の前に来ると自然に弱まる。窓から入る光は白く、ガラスケースの上で静かに止まっていた。空調の小さな音と、ページをめくるような衣擦れだけが、部屋の奥へ流れていく。


 資料室には、古い写真が並んでいる。


 焼け跡の町。


 防空壕の入口。


 避難する人々。


 学校の校庭に集まる子どもたち。


 ガラスケースの中には、防空頭巾、焦げた箸、金属の水筒、破れた教科書、手紙、そして小さな弁当箱が置かれていた。


 ナギは、その弁当箱の前で立ち止まった。


 黒く焼け、形が少し歪んでいる。


 蓋の端は焦げて、内側には何かがこびりついた跡がある。説明札には、当時の空襲の後に見つかったものだと書かれていた。


 同じ班の生徒が、隣で息を呑んだ。


「これ……」


 別の生徒は、目元を押さえている。


 誰かが小さく言った。


「かわいそう」


 ナギも、そう思うべきだとわかっていた。


 悲しい。


 怖い。


 戦争はいけない。


 平和を大切にしなければならない。


 その言葉は、頭の中にある。


 けれど、胸の奥は動かなかった。


 ガラスの向こうの弁当箱は、遠かった。


 昔のもの。


 教科書に出てくるようなもの。


 大切な資料だとわかる。


 でも、自分の昼休みや、自分の家の台所や、今朝の弁当とはつながらなかった。


 ナギは、そんな自分に戸惑った。


 泣けない。


 胸が痛くならない。


 周りの生徒たちが真剣な顔をしているほど、自分だけが冷たい人間のように思えてくる。


 資料室の前方で、榊先生が話をしていた。


 この中学校の社会科教師で、平和学習を長く担当している。毎年、生徒たちをこの資料室へ連れてきて、資料を見せ、体験者の記録を読ませ、感想文を書かせている。


「ここにあるものは、すべて実際にこの地域で残された資料です。皆さんには、戦争の悲惨さを感じ、平和の大切さを考えてほしいと思います」


 ナギは手元の感想用紙を見た。


『感じたことを書きましょう』


 そう書かれている。


 感じたこと。


 ナギは鉛筆を握った。


 そして、一行だけ書いた。


『平和は大切だと思いました。』


 それ以上、出てこなかった。


 書けない。


 でも、白紙で出すのは悪い気がする。


 だから、もう一行足した。


『戦争は悲惨だと思いました。』


 自分でも、どこかで聞いたような言葉だと思った。


 でも、それ以外に何を書けばいいかわからない。


 資料室の扉が静かに開いた。


「失礼します」


 入ってきたのは、黒い上着に使い込まれた革の鞄を持った先生だった。


 足音はとても静かだった。展示室の空気を乱さないように、その人は一度だけ部屋全体を見回し、ガラスケースの前で立ち止まっている生徒たちへ目を向けた。


「白瀬先生」


 榊先生が迎える。


「お待ちしていました」


「こちらこそ、呼んでいただきありがとうございます」


 その人――白瀬灯理は、軽く頭を下げた。


「今日は平和学習に少し混ぜていただきます」


 ナギは灯理をちらりと見た。


 旅する先生。


 世界の学校を訪ね、いろいろな授業をしている先生。


 昨日、榊先生から紹介されていた。


 灯理は、生徒たちの感想用紙を見て回った。


 多くの生徒は、長い文章を書いている。


 胸が痛くなった。


 戦争は二度としてはいけない。


 平和を守りたい。


 家族を大切にしたい。


 ナギは自分の紙を隠したくなった。


 たった二行。


 それも、借り物のような言葉。


 灯理はナギの机の前で足を止めた。


「書きにくいですか」


 ナギは顔を伏せた。


「はい」


「何が難しいですか」


 言っていいのだろうか。


 ここで。


 この資料室で。


 周りが真剣に見ている中で。


 ナギは小さな声で言った。


「悲しいと思わなきゃいけないのに、何も出てきません」


 灯理は黙って聞いていた。


 ナギは続けた。


「みんなはちゃんと感じているみたいで。でも、私は、悲しいことだってわかるのに、遠くて」


 言葉にすると、ますます自分が嫌になった。


「冷たいんだと思います」


 灯理は首を横に振らなかった。


 すぐに「そんなことない」とも言わなかった。


 ただ、ナギの感想用紙を見つめてから、静かに言った。


「うん。何も出てこなかった場所を、そのまま見つめることから始めてもいいと思います」


 ナギは顔を上げた。


「それでいいんですか」


「はい。感じられなかったことも、学びの入口になることがあります」


 榊先生は、少し離れたところでその言葉を聞いていた。


 その表情には、驚きと迷いが混じっていた。


 午前の後半、灯理は資料室の中央に生徒たちを集めた。


「今日は、心が動いた展示ではなく、心が動かなかった展示を一つ選んでみましょう」


 教室ではなく資料室なのに、ざわめきが起きた。


「動かなかった展示?」


「普通、印象に残ったものじゃないの?」


「何も感じなかったって書いていいの?」


 榊先生も少し戸惑ったように灯理を見た。


 灯理は頷いた。


「心が強く動いたものを選ぶことも大切です。でも今日は、距離を感じたもの、どう受け取ればいいかわからなかったもの、悲しいはずなのに近づけなかったものを選んでみます」


 黒板の代わりに、移動式のホワイトボードに項目が書かれた。


『誰のものだったか』

『いつ使われたか』

『何歳くらいの人のものか』

『どんな一日の中にあったか』

『今の自分の持ち物と何が違うか』

『何が同じか』

『まだわからないこと』

『自分が近づけなかった理由』


 ナギは、焼けた弁当箱を選んだ。


 近づけなかったから。


 どう感じればいいかわからなかったから。


 弁当箱の前にもう一度立つと、朝より少し息が詰まった。


 灯理が隣に来た。


「これを選んだんですね」


「はい」


「どうしてですか」


「悲しい展示だと思うんです」


「はい」


「でも、何も出てこなかったから」


 灯理はガラスケースの中を見た。


「感じられなかった場所に、まだ近づく方法はありますか」


 ナギは説明札を読んだ。


 地域の空襲の後、焼け跡から見つかった弁当箱。


 持ち主は、当時この町の学校に通っていた生徒と推定される。


 年齢は、ナギとほとんど変わらない。


「同じくらいの年」


 ナギは呟いた。


 それは資料として読めば、ただの情報だった。


 でも、同じくらいの年という言葉が、少しだけ引っかかった。


 榊先生が資料台帳を持ってきた。


「この弁当箱には、関連する聞き取りメモがあります」


 台帳のコピーが配られる。


 そこには、小さな字で、遺族から聞いた話が記録されていた。


 ナギは目を通した。


『その日の朝、母親が好きなおかずを入れたと話していた。卵焼きと、少し甘く煮た豆。本人は、いつも豆を最後に残して食べていたという。』


 ナギの手が止まった。


 卵焼き。


 甘く煮た豆。


 最後に残して食べる。


 急に、展示の弁当箱の中に、朝の台所の匂いが入り込んだ気がした。


 ナギの家でも、今朝、母が弁当を作っていた。


 卵焼きの音。


 蓋を閉める音。


「今日の弁当、忘れないでよ」と言う声。


 ナギは少し面倒くさそうに「わかってる」と答えた。


 それだけの朝。


 でも、この弁当箱にも、そういう朝があったのかもしれない。


 誰かが早起きして、おかずを詰めた。


 好きなものを少し入れた。


 昼に食べるはずだった。


 ナギはガラスケースの弁当箱を見た。


 涙は出ない。


 胸が大きく揺さぶられたわけでもない。


 でも、遠かったものが、ほんの少しだけ近づいた。


 午後の授業では、各自が選んだ展示物について調べたことを共有した。


 ある生徒は防空頭巾を選んだ。


「最初はただ古い布に見えたけど、名前が縫ってあるのを見つけた」


 別の生徒は破れた教科書を選んだ。


「当時の生徒も、今の私たちと同じように学校で勉強していたんだと思った」


 別の生徒は、家族への手紙を選んだ。


「字が小さくて、何度も書き直してあった。最後まで伝えようとしていた感じがした」


 ナギの番になった。


 彼女は弁当箱の写真とメモを持って立った。


 教室よりも資料室は静かで、声が少し響く。


「私は、焼けた弁当箱を選びました」


 言いながら、喉が少し乾いた。


「最初に見た時、悲しいものだとは思いました。でも、何を感じればいいのかわかりませんでした」


 何人かが顔を上げた。


 ナギは続けた。


「持ち主は、私たちと同じくらいの年だったそうです。聞き取りメモには、その日の朝、お母さんが好きなおかずを入れたと書いてありました。卵焼きと、甘く煮た豆です」


 自分の声が少し震えた。


 でも、涙は出なかった。


「私は今日も弁当を持ってきています。朝、母が作ってくれました。でも、私は急いでいて、ちゃんと見ませんでした」


 ナギは写真を見た。


「この弁当箱を見ても、まだ泣けません。でも、今日の昼に自分の弁当を開ける時、少し違って見えると思います」


 言い終えると、資料室は静かだった。


 榊先生が、ゆっくり頷いた。


 灯理が尋ねた。


「涙が出ることだけが、受け取った証拠でしょうか」


 ナギは首を横に振った。


「違うと思います」


「では、ナギさんは何を受け取りましたか」


「まだ、はっきりはわかりません」


 ナギは正直に言った。


「でも、遠いままにしない方法を少し見つけました」


「どんな方法ですか」


「資料の持ち主の朝を考えること。自分の朝と比べること。何も感じなかったって、そこで終わらせないこと」


 灯理は頷いた。


「とても大切な近づき方ですね」


 その日の感想文の時間、ナギは新しい紙をもらった。


 朝の二行の紙は、机の端に置いた。


『平和は大切だと思いました。』

『戦争は悲惨だと思いました。』


 嘘ではない。


 けれど、自分の言葉ではなかった。


 ナギは新しい紙に、最初の一文を書いた。


『私は泣けませんでした。』


 書いた瞬間、胸が少し痛んだ。


 でも、逃げていない痛みだった。


 続けて書く。


『焼けた弁当箱を見ても、最初は何も出てきませんでした。悲しいと思わなければいけないのに、遠いものに見えました。だから、自分は冷たいのかもしれないと思いました。』


 鉛筆の音が、紙の上を進む。


『でも、弁当箱の持ち主が私と同じくらいの年だったこと、その日の朝に母親が好きなおかずを入れたことを知りました。卵焼きと甘い豆と書いてありました。私はそこで初めて、展示物ではなく、朝の台所を少し想像しました。』


 ナギは一度手を止めた。


 資料室の弁当箱。


 今朝の自分の弁当。


 母の声。


 面倒くさそうに返事をした自分。


『私はまだ泣いていません。でも、泣けなかったから、弁当箱の持ち主の朝を調べました。泣くことだけが平和学習ではないなら、私は、感じられなかったところから近づいていきたいです。』


 最後に、ゆっくり書いた。


『今日の昼、弁当箱を開ける前に、母が何を入れてくれたのかを見ます。』


 書き終えると、ナギは深く息を吐いた。


 きれいな文章ではない。


 感動的でもない。


 でも、朝の二行よりは自分に近かった。


 榊先生が感想文を読みに来た。


 ナギは少し緊張した。


 泣けませんでした、から始まる感想文を、先生はどう思うだろう。


 榊先生は最後まで読み、しばらく黙っていた。


 その沈黙が怖かった。


 でも、やがて先生は静かに言った。


「ナギさん」


「はい」


「よく書きましたね」


 ナギは顔を上げた。


「怒られないんですか」


「どうして?」


「泣けなかったって書いたから」


 榊先生は首を横に振った。


「泣けなかったことを書けたのは、誠実だと思います」


 ナギの肩から、少し力が抜けた。


「私は、感じたことを書きましょう、と毎年言ってきました」


 榊先生は手元の紙を見た。


「でも、感じられなかったことを書いていいとは、あまり言ってきませんでした」


 灯理が隣で聞いている。


 榊先生は続けた。


「今日、皆さんの文章を読んで、感じ方には距離があるのだと改めて思いました。すぐに涙になる人もいる。言葉にならない人もいる。何も出てこないところから調べ始める人もいる」


 彼女はナギの感想文を丁寧に机へ置いた。


「平和学習は、同じ感情にたどり着くことではないのかもしれません」


 昼休み。


 ナギは教室の自分の席で弁当箱を出した。


 いつもと同じ布に包まれている。


 少しだけ手が止まった。


 朝、母が台所で作っていた弁当。


 自分は中身を見ずに鞄へ入れた。


 布をほどく。


 蓋を開ける。


 白いご飯。


 梅干し。


 卵焼き。


 小さなハンバーグ。


 ブロッコリー。


 そして、端に少しだけ甘い豆が入っていた。


 ナギは息を呑んだ。


 豆。


 偶然だ。


 ただの偶然。


 でも、その偶然が、朝見たメモとつながってしまった。


 弁当箱の持ち主も、豆を最後に残して食べていた。


 ナギは箸を持ったまま、しばらく弁当を見ていた。


 涙はやはり出なかった。


 でも、食べる前に、母の手を少し想像した。


 卵を巻く手。


 豆を端に寄せる手。


 蓋を閉める手。


 いってらっしゃい、と言う声。


 ナギは弁当箱に小さく言った。


「いただきます」


 いつもより、少しゆっくり食べた。


 放課後、資料室には数人の生徒が残っていた。


 ナギもその一人だった。


 焼けた弁当箱の前に立ち、感想文の最後に一文を書き足す。


『私は今日、豆を最後に食べました。』


 それが何を意味するのか、うまく説明できない。


 でも、書いておきたかった。


 灯理がそばに来た。


「もう一度、見に来たんですね」


「はい」


「朝と違って見えますか」


 ナギは弁当箱を見た。


 焦げた蓋。


 歪んだ形。


 説明札。


 小さなメモ。


「悲しい資料、というだけではなくなりました」


「はい」


「でも、全部わかったわけでもないです」


「うん」


「たぶん、これからも泣けないかもしれません」


「はい」


「でも、近づく方法は覚えました」


 灯理は静かに頷いた。


「その方法は、ナギさん自身のものですね」


「先生」


「はい」


「何も感じなかったって、悪いことじゃないんですか」


 灯理は少し考えた。


「悪いことではありません。ただ、そこで終わらせるか、そこから一歩近づいてみるかは選べます」


 ナギは弁当箱を見つめた。


「私は、近づいてみたいです」


 夕方、灯理は中学校を出た。


 校舎の窓には、資料室の明かりがまだ残っている。榊先生が展示ケースの前で、生徒たちの感想文を整理していた。


 校門まで見送りに来た榊先生は、手に一束の紙を持っていた。


「白瀬先生、今日はありがとうございました」


「こちらこそ、資料室で一緒に考えさせていただきました」


 榊先生は感想文の束を見た。


「私は、戦争の悲惨さを感じてほしい、とずっと思ってきました」


「大切な願いですね」


「ええ。でも、その思いが強すぎて、生徒たちに『正しい感情』を求めていたのかもしれません」


 彼女は少し目を伏せた。


「泣いた感想文、胸が痛んだ感想文、平和を守りたいという感想文。もちろん、それらは大切です。でも、ナギのように、遠く感じる生徒もいる。その距離を責めてしまったら、学びの入口を閉じてしまう」


 灯理は頷いた。


「今日、ナギさんはその距離を見つめていました」


「はい」


 榊先生は資料室の窓を見上げた。


「次から、感想文の最初にこう書きます。感じたこと、感じられなかったこと、どちらから始めてもよい、と」


「きっと、生徒たちは自分の言葉で書きやすくなると思います」


 空は淡い夕焼け色に変わっていた。


 学校の外から、家路につく生徒たちの声が聞こえる。


 その中に、ナギの声もあった。


 友人に何かを話しながら、彼女は弁当箱を入れた鞄を両手で抱えていた。


 灯理は鞄を肩にかけ直した。


 中には、古い染織工房と職業学校から届いた依頼状が入っている。


 けれど、まだ開かなかった。


 資料室の中で、焼けた弁当箱は静かに置かれている。


 それは、誰かに涙を求めるためだけにあるのではない。


 誰かが立ち止まり、自分の朝と、遠い朝との間に細い橋をかけるために、そこにある。


 灯理は暮れていく校庭を歩きながら、静かに息を吸った。


 悲しみにすぐ届かない心もある。


 それでも、近づこうとする一歩がある。


 その一歩の音を、今日の資料室は確かに受け取っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ