第8章 第2話:家族史の授業――祖母の話を聞き流す少年
住宅街の朝は、台所の音から始まる。
どこかの家で味噌汁の湯気が上がり、別の家ではトースターの小さな音が鳴る。新聞受けに紙が落ちる音、ゴミ出しの袋が擦れる音、登校する子どもたちの足音が、狭い道に少しずつ重なっていく。
ソウタの家では、祖母が朝から湯飲みを並べていた。
食卓には、焼き魚、卵焼き、少し甘い煮豆、湯気の立つ味噌汁が置かれている。
「ソウタ、味噌汁、冷めるよ」
「今行く」
ソウタは鞄の中にノートを押し込みながら返事をした。
今日は地域学習校で、聞き書きの授業がある。
身近な人に昔の話を聞き、その人生を記録する課題。
ソウタは、正直面倒だと思っていた。
身近な人と言われても、すぐに思いつくのは祖母だ。
祖母は昔の話をよくする。
川沿いの町で育ったこと。
今の町へ引っ越してきたこと。
昔は橋が低くて、雨が降るとすぐ水が増えたこと。
庭に柿の木があったこと。
近所に足の速い女の子がいたこと。
何度も聞いた。
何度も。
だから、改めて聞かなくても書ける気がした。
食卓に座ると、祖母が湯飲みを置いた。
「今日も学校かい」
「当たり前でしょ」
「昔はねえ、学校へ行く道に大きな川があって」
「それ、前も聞いた」
ソウタは味噌汁をすすりながら言った。
「橋が低くて、雨の日は渡れなかったんでしょ」
祖母は少し笑った。
「よく覚えてるね」
「何回も聞いたから」
「そうかい」
祖母はそれ以上、話さなかった。
ソウタは気づかなかった。
いつものように話が止まっただけだと思った。
学校へ向かう道で、彼は課題プリントを見た。
『身近な人への聞き書き』
『質問を作り、相手の言葉を記録しましょう』
『聞いた内容だけでなく、話す時の表情や沈黙もメモしましょう』
沈黙。
ソウタはその文字を見て、眉を寄せた。
話していない部分をどう記録するのだろう。
教室では、宮田先生が黒板の前に立っていた。
地域学習を担当する教師で、いつも生徒たちの生活に近い題材を授業にする。今日の黒板には、大きくこう書かれていた。
『家族の歴史を聞きましょう』
生徒たちはざわざわしていた。
「お父さんに聞く」
「うちは伯父さんかな」
「おばあちゃんの話ならいっぱいある」
「でも、長くなりそう」
ソウタは机に肘をついた。
自分も祖母の話ならある。
ありすぎるくらいある。
宮田先生は言った。
「聞き書きは、ただ昔話を集めることではありません。相手の言葉をできるだけそのまま記録し、どんなふうに話したかも残します」
ソウタは小さくため息をついた。
その時、教室の扉が開いた。
「失礼します」
入ってきたのは、黒い上着に使い込まれた革の鞄を持った先生だった。
住宅街の道を歩いてきたのか、靴先に少し砂がついている。教室に入ると、その人は黒板の文字を静かに見た。
「白瀬先生」
宮田先生が迎える。
「お待ちしていました」
「こちらこそ、呼んでいただきありがとうございます」
その人――白瀬灯理は、軽く頭を下げた。
「今日は聞き書きの授業に混ぜていただきます」
生徒たちは興味深そうに灯理を見た。
旅する先生。
世界の学校を訪ね、さまざまな授業をしている先生。
昨日、宮田先生から紹介されていた。
灯理は生徒たちの机の間をゆっくり歩き、ソウタの机の上にある白紙の質問用紙に目を留めた。
「誰に聞くか、決まっていますか」
「祖母です」
「よく話してくれる方ですか」
「はい。何度も同じ話をします」
「何度も」
「だから、もうだいたい知ってます」
灯理は少し頷いた。
「そう感じているんですね」
「はい。祖母の話はもう何度も聞いています」
灯理は黒板の方を見てから、静かに言った。
「うん。では、まだ聞いていない沈黙はありませんか」
ソウタは顔を上げた。
「沈黙?」
「はい。話の途中で少し止まるところ。いつも同じ言葉で終わるところ。何度も聞いているのに、そこだけ質問したことがないところ」
ソウタは返事ができなかった。
祖母の話の中に、沈黙なんてあっただろうか。
いつも同じように話して、同じように終わる。
それだけだと思っていた。
午前の授業は、質問作りから始まった。
宮田先生が黒板に例を書いた。
『いつの話ですか』
『その時、何歳でしたか』
『どこにいましたか』
『誰と一緒でしたか』
それから、灯理が別の欄を作った。
『何が一番怖かったですか』
『誰に言えませんでしたか』
『何を選べませんでしたか』
『今でも覚えている匂いや音は何ですか』
『その話をするとき、いつも言わないことはありますか』
『話したくないところはありますか』
教室が少し静かになった。
「話したくないところも聞くんですか」
誰かが言った。
灯理は首を横に振った。
「無理に聞くのではありません。相手が話したくない時は、待つことも聞くことの一部です」
ソウタはノートに質問を書き写した。
その時、朝の祖母の声を思い出した。
川沿いの町。
橋。
雨の日。
そして、自分が「前も聞いた」と遮った時の、祖母の短い笑い。
よく覚えてるね。
そうかい。
そこで話は終わった。
あれは、ただの終わりだったのだろうか。
午後、生徒たちは一度家へ戻り、身近な人に短い聞き取りをすることになった。
ソウタは家の玄関を開けた。
「ただいま」
「おかえり」
祖母は居間で洗濯物を畳んでいた。
白いタオルを膝の上で丁寧に折っている。
「ばあちゃん」
「何だい」
「学校の課題で、昔の話を聞きたいんだけど」
祖母は少し嬉しそうな顔をした。
「また川の町の話かい」
「うん」
「何度も聞いてるだろう」
ソウタは少し言葉に詰まった。
いつも自分が言っていた言葉を、祖母が先に言った。
「でも、ちゃんと聞く」
「ちゃんと?」
「質問、作ってきた」
祖母は手を止め、少し驚いたようにソウタを見た。
それから、畳んだタオルを横に置いた。
「じゃあ、お茶でも入れようか」
食卓に、湯飲みが二つ置かれた。
ソウタはノートと録音機を準備した。
「録音していい?」
「いいよ。変な声だけどね」
「変じゃないよ」
言ってから、少し照れた。
祖母は笑った。
最初に、いつもの話が始まった。
「私が子どもの頃は、川沿いの町に住んでいてね。家の裏に柿の木があった。秋になると、実がたくさんなって」
「柿の話、聞いたことある」
ソウタは言いかけて、止まった。
今日は遮らない。
最後まで聞く。
「続けて」
祖母は少し意外そうにしたが、ゆっくり続けた。
「学校へ行く道には橋があってね。木の橋で、雨が降ると川の水がすぐ上がった。橋の下を流れる水の音が、今でも耳に残ってるよ」
ソウタはノートに書いた。
『川の水の音』
「その時、何歳だった?」
「引っ越す前なら、十三だったかな」
「中学生くらい?」
「そうだね」
「引っ越しは、楽しみだった?」
祖母は湯飲みを持ったまま、少し止まった。
ソウタは、その沈黙に気づいた。
いつもなら、ここで「今の町に来てね」と話が進む。
でも今、祖母は止まっている。
「楽しみ……では、なかったね」
祖母は小さく言った。
ソウタは鉛筆を止めた。
「そうなの?」
「うん」
「前は、今の町に来てよかったって言ってた」
「それは本当だよ」
「でも、楽しみではなかった?」
「離れたくなかったんだろうね」
祖母は湯飲みの中のお茶を見た。
「川沿いの町には、友だちがいたから」
ソウタは質問用紙を見た。
『誰に言えませんでしたか』
「その友だちに、何て言ったの」
「また会おうね、って」
「会えた?」
祖母は首を横に振った。
「一度も」
部屋の時計の音が、急にはっきり聞こえた。
ソウタは祖母の顔を見た。
祖母は泣いてはいなかった。
でも、いつもより少し遠い目をしていた。
「名前は?」
「千代ちゃん」
「ちよちゃん」
「足が速くてね。川沿いの道をいつも先に走っていく子だった」
祖母は少し笑った。
「私は遅くて、いつも待ってもらっていた」
ソウタはノートに書いた。
『千代ちゃん』
『足が速い』
『一度も会えなかった』
知っている話の中に、知らない名前があった。
それだけで、祖母の昔が急に広がった。
次の質問をするのが少し怖くなった。
でも、ソウタは聞いた。
「引っ越した後、学校は?」
祖母は湯飲みを置いた。
「新しい学校へ行ったよ」
「進学は?」
また、少し沈黙があった。
今度は長かった。
ソウタは急いで言い足した。
「話したくなかったら、いい」
祖母はソウタを見た。
その顔に、少し驚きがあった。
「そんなことまで先生に教わったのかい」
「うん」
「いい先生だね」
祖母はゆっくり息を吐いた。
「本当は、もう少し勉強したかった」
ソウタは鉛筆を握る手に力を入れた。
「できなかったの?」
「家の事情でね。父が体を悪くして、母も働いていたから。下の子たちの面倒もあった」
「ばあちゃんが?」
「そう。学校を出たらすぐ働いた」
「嫌だった?」
祖母は少し考えた。
「嫌、というより」
言葉を探すように、指先で湯飲みを撫でる。
「選べなかったんだね」
ソウタは何も言えなかった。
選べなかった。
その言葉が、ノートの上で重くなった。
祖母はいつも、のんびりした声で昔の話をする。
川がきれいだった。
柿が実った。
今の町に来た。
家族で頑張った。
そういう明るい話として、ソウタは聞いていた。
でも、その中には、友だちとの別れや、進学をあきらめたことや、選べなかった時間があった。
祖母は、そういう話をしてこなかったのか。
それとも、していたのに自分が聞いていなかったのか。
「ばあちゃん」
「何だい」
「いつも、その話、してた?」
「どの話?」
「千代ちゃんのこととか、勉強したかったこと」
祖母は少し笑った。
「少しは言ったかもしれないね」
「僕、聞いてなかった?」
「子どもは忙しいからね」
「そんなことない」
ソウタは小さく言った。
「僕が、聞いてなかったんだと思う」
祖母は何も言わず、お茶を一口飲んだ。
その沈黙は、責めている沈黙ではなかった。
ただ、長い時間を置いている沈黙だった。
夕方、学校へ戻ると、生徒たちは聞き取りのメモを持ち寄った。
教室はいつもより静かだった。
誰かは父親の転職の話を聞いていた。
誰かは母親が子どもの頃に引っ越しを繰り返した話を聞いていた。
誰かは、祖父が若い頃にやりたかった仕事を諦めた話を聞いていた。
宮田先生は、生徒たちの表情を見て、少し声を落とした。
「今日は、聞いた内容だけではなく、聞いている時の自分のこともメモしてください」
黒板に書かれる。
『驚いたところ』
『聞きにくかったところ』
『相手が止まったところ』
『自分が急いで聞きたくなったところ』
『待てたところ』
『待てなかったところ』
ソウタはノートを開いた。
聞いたこと。
祖母が十三歳で引っ越したこと。
千代ちゃんという友だちがいたこと。
一度も会えなかったこと。
勉強を続けたかったこと。
家の事情で働いたこと。
選べなかったこと。
そして、聞いている自分のこと。
最初、また同じ話だと思っていた。
途中で遮りそうになった。
祖母が黙った時、すぐに質問を重ねたくなった。
でも一度だけ、待てた。
話したくなかったらいい、と言えた。
その時、祖母の顔が少し変わった。
灯理が机のそばに来た。
「どうでしたか」
ソウタはノートを見たまま答えた。
「知ってる話だと思ってました」
「はい」
「でも、全然知らなかったです」
「どんなところが?」
「祖母にも、友だちがいて。会えなくなって。勉強したかったのに、できなくて」
ソウタは少し声を詰まらせた。
「僕、ばあちゃんを、よく昔話をする人だと思ってました」
「うん」
「でも、その中に、言ってないことがありました」
「はい」
「身近すぎる人の話は、近いからこそ見えなくなることがありますか」
灯理は静かに頷いた。
「あると思います」
ソウタは鉛筆を握った。
「近いから、知ってるつもりになるんですね」
「はい」
「でも、ちゃんと聞くと、知らない人みたいでした」
「知らない人でしたか」
「ううん」
ソウタは首を振った。
「知らないところのある、ばあちゃんでした」
灯理は微笑んだ。
「とても大切な見つけ方ですね」
聞き書き原稿を書く時間になった。
ソウタは、最初に用意していた簡単なまとめを破りたくなった。
『祖母は川沿いの町で育ち、今の町へ引っ越してきました。昔は自然が豊かで、橋が低く、雨の日は大変だったそうです。』
それだけなら、今朝でも書けた。
でも、それでは祖母の話ではない。
ソウタは新しい紙に書き始めた。
『祖母は、川沿いの町を「きれいだった」と何度も言います。私はその言葉を、ただ懐かしいという意味だと思っていました。でも今日、祖母はその町を離れたくなかったのだと知りました。』
彼は、祖母の言葉をできるだけそのまま書いた。
『離れたくなかったんだろうね』
『千代ちゃんは足が速くてね』
『選べなかったんだね』
そして、その言葉の前後にあった沈黙も書いた。
『この質問の前に、祖母は湯飲みを持ったまま少し黙りました。私はすぐ次の質問をしたくなりましたが、待ちました。』
『進学の話を聞いた時、祖母は長く黙りました。私は、話したくなければいいと言いました。祖母は「いい先生だね」と言いました。』
書きながら、ソウタは何度も手を止めた。
感動的にまとめることもできた。
祖母は苦労したが頑張った。
家族のために生きた。
だから今の私たちがいる。
そんなふうに書けば、きれいな文章になる。
でも、それだけでは違う気がした。
祖母は「苦労した人」だけではない。
川沿いの町を離れたくなかった十三歳の女の子でもある。
千代ちゃんに待ってもらっていた足の遅い子でもある。
勉強したかった人でもある。
湯飲みを撫でながら「選べなかった」と言った人でもある。
ソウタは、きれいにまとめすぎないように書いた。
翌日、完成した原稿を祖母に読んでもらった。
食卓の向かいで、祖母は老眼鏡をかけ、ゆっくり文字を追っている。
ソウタは落ち着かなかった。
何か間違っているかもしれない。
書いてほしくないことを書いてしまったかもしれない。
祖母は最後まで読み終え、しばらく黙っていた。
ソウタは耐えきれず聞いた。
「だめだった?」
祖母は首を横に振った。
「そんなところまで聞いていたの」
声は小さかった。
少し驚いていて、少し嬉しそうだった。
「書いてよかった?」
「うん」
「嫌なところ、消すよ」
「消さなくていい」
祖母は原稿をもう一度見た。
「千代ちゃんの名前、久しぶりに紙に書かれたね」
ソウタは胸がぎゅっとした。
「覚えてる?」
「覚えてるよ。足が速くて、髪を二つに結んでいた」
祖母は懐かしそうに笑った。
「いつも私を待ってくれた」
ソウタは静かに頷いた。
その日の放課後、学校では聞き書きの共有会が行われた。
宮田先生は、生徒たちの原稿を読みながら言った。
「皆さんの文章には、相手の言葉だけでなく、聞いている皆さん自身の姿も入っていました」
黒板には、朝倉先生ではなく宮田先生の文字でこう書かれている。
『聞く自分も記録しましょう』
宮田先生は続けた。
「家族の歴史を聞く、という課題を出しました。でも今日わかったのは、歴史は相手の中だけにあるのではなく、聞くこちらの態度によって見え方が変わるということです」
ソウタは自分の原稿を見た。
祖母の話。
自分の沈黙。
待てた時間。
待てなかった時間。
全部が、聞き書きの一部になっていた。
授業が終わり、灯理が教室を出ようとした時、ソウタは声をかけた。
「白瀬先生」
「はい」
「また聞いてもいいんですよね」
「もちろんです」
「課題が終わっても」
「はい」
「今度は、千代ちゃんのことをもっと聞きたいです」
灯理は頷いた。
「きっと、まだ聞いていない道が残っていますね」
夕方、ソウタは家に帰った。
祖母は台所で夕飯の支度をしていた。
流しには湯飲みが一つ置かれている。
ソウタは鞄を置き、袖をまくった。
「ばあちゃん、湯飲み洗うよ」
「あら、珍しい」
「いいから」
湯飲みを洗いながら、ソウタは少し迷ってから聞いた。
「ばあちゃん」
「何だい」
「その友だちの名前、もう一回教えて」
祖母は手を止めた。
それから、ゆっくり答えた。
「千代ちゃん」
「苗字は?」
「山本千代ちゃん」
「どんな字?」
祖母は少し考え、濡れた指で台所の曇った窓に文字を書いた。
山本千代。
すぐに消えていく白い文字。
でも、ソウタはそれをノートに書き写した。
夜、灯理は地域学習校を出た。
住宅街には夕食の匂いが漂っていた。どこかの家からは笑い声が聞こえ、別の家ではテレビの音が小さく漏れている。
宮田先生が校門まで見送りに来た。
「白瀬先生、今日はありがとうございました」
「こちらこそ、聞き書きの時間に立ち会わせていただきました」
宮田先生は少し考え込むように校舎を見た。
「私は、家族の歴史を聞きましょう、と言っていました」
「大切な課題ですね」
「ええ。でも、提出物として整えることを急がせていたかもしれません。相手の沈黙や、聞く側の戸惑いまで書いていいとは、あまり伝えていませんでした」
「今日、生徒たちはよく聞いていましたね」
「はい」
宮田先生は微笑んだ。
「次から、聞き書きの評価に『待てたところ』を入れます」
「待てたところ」
「ええ。質問の上手さだけではなく、相手が言葉を探す時間を一緒にいられたかどうか」
灯理は静かに頷いた。
校舎の窓の向こうでは、生徒たちが聞き書き原稿を掲示している。
家族の話。
知らなかった名前。
選べなかった道。
言葉に詰まった時間。
それらが、紙の上に少しずつ並んでいた。
灯理は鞄を肩にかけ直した。
中には、戦争資料室を持つ中学校から届いた依頼状が入っている。
けれど、まだ開かなかった。
住宅街の道を歩きながら、灯理は窓明かりの一つ一つを見た。
どの家にも、まだ聞かれていない話がある。
何度も語られた話の中にも、まだ見つかっていない沈黙がある。
近すぎて見えなかった人が、問いを持って耳を澄ませた時、もう一度新しく出会い直されることがある。
灯理は夕暮れの細い道を、ゆっくりと歩いていった。




