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旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


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第6章 第2話:祭りの授業――太鼓を叩けない転校生


 山間の町では、朝の霧が屋根の低い家々を白く包んでいた。


 山の稜線はまだ薄くぼやけ、谷底を流れる川の音だけが、細い道に沿って静かに響いている。道端には赤い実をつけた低木が並び、軒先には祭りの提灯を干す家があった。


 秋祭りが近い。


 町の人たちは、そう言って朝から少し忙しそうだった。


 古い神社へ続く石段には、落ち葉を掃く老人の姿がある。通りの店先では、提灯の紐を直す人がいる。公民館の前には、山車の飾りに使う布が広げられていた。


 サラは、学校へ向かう坂道を一人で歩いていた。


 鞄の肩紐を握る手に、少し力が入っている。


 この町へ来て、まだ二か月。


 都市部から引っ越してきたばかりのサラにとって、町の道はまだどこかよそよそしかった。


 曲がり角の向こうに何があるのか、どの家が誰の家なのか、朝にすれ違う人へどのくらいの声で挨拶すればいいのか。


 少しずつ覚えてきた。


 でも、まだ自分のものにはなっていない。


「おはよう、サラちゃん」


 石段を掃いていた老人が声をかけた。


「あ、おはようございます」


 サラは慌てて頭を下げた。


 老人は笑って言った。


「祭りの太鼓、今日も練習かい」


「はい」


「楽しみだねえ」


 サラは曖昧に笑った。


 楽しみ。


 町の人は、みんなそう言う。


 でも、サラにはその言葉が少し重かった。


 学校の体育館には、朝から太鼓の音が響いていた。


 どん。


 どん。


 どどん。


 腹の奥に届くような低い音。


 床が小さく震える。


 体育館の中央には、大きな太鼓が三つ並んでいた。木の胴には長い年月の傷があり、革の表面には撥の跡が幾重にも重なっている。


 町の秋祭りでは、学校の子どもたちも太鼓を叩く。


 幼い頃からこの町にいる生徒たちは、リズムを体で覚えていた。足の踏み方、掛け声の間、撥を振り上げる角度。誰かが教えなくても、自然に揃っていく。


 サラは体育館の端で、それを見ていた。


 同級生のカイが太鼓の前に立つ。


「よっ」


 掛け声と同時に、撥が振り下ろされる。


 どん。


 次に、隣のミナが続く。


 どどん。


 全員の手拍子が重なる。


 ぱん、ぱん。


 リズムは複雑なのに、誰も迷わない。


 まるで町そのものが音になっているようだった。


「サラ、次」


 悠木先生が声をかけた。


 地域学校の教師で、祭りの指導も担当している。町の出身で、祭りのことを誰よりも大切にしている先生だった。


 サラは撥を握った。


 木の感触が手のひらに重い。


 太鼓の前に立つ。


 目の前の革に、いくつもの跡がある。


 誰かが叩いてきた跡。


 何年も、何十年も、この町で鳴ってきた音の跡。


「大丈夫。昨日やった通りでいいよ」


 悠木先生が言う。


 昨日やった。


 リズムは覚えた。


 どん、どん、どどん。


 頭ではわかっている。


 サラは撥を上げた。


 でも、下ろせなかった。


 体育館が静かになる。


 同級生たちの視線が集まる。


 早く叩かなきゃ。


 そう思うほど、腕が固まる。


 撥が重い。


 自分の音が、この太鼓に触れていいのかわからない。


「サラ?」


 悠木先生が少し心配そうに声をかける。


 サラは小さく首を振った。


「すみません」


「もう一度、最初から」


 先生は優しく言った。


 でも、サラは動けなかった。


 町の子どもたちは幼い頃から叩いている。


 祖父母も、親も、兄弟も、祭りに参加している。


 でも自分は違う。


 この町の昔を知らない。


 この太鼓が何のために鳴るのかも知らない。


 ただ転校してきて、クラスに入って、祭りがあるからと言われて、撥を持っているだけ。


 そんな自分が叩いたら、失礼なのではないか。


 太鼓が、違うと言うのではないか。


「今日は、見学にします」


 サラは小さな声で言った。


 悠木先生は何か言おうとしたが、言葉を飲み込んだ。


 体育館の入口に、一人の先生が立っていた。


 黒い上着に、使い込まれた革の鞄。


 町の土道を歩いてきたのか、靴の端に少し泥がついている。


「白瀬先生」


 悠木先生が気づく。


「お待ちしていました」


「こちらこそ、呼んでいただきありがとうございます」


 その人――白瀬灯理は、軽く頭を下げた。


「今日は授業に少し混ぜてもらいます」


 生徒たちは興味深そうに灯理を見た。


 旅する先生。


 世界の学校を訪ねて、さまざまな授業をしている先生。


 昨日、悠木先生から紹介されていた。


 灯理は太鼓の前に立つサラと、彼女の手の中で止まった撥を見た。


 それから、太鼓の胴に残る修理跡へ目を向けた。


「いい太鼓ですね」


 灯理が言った。


 悠木先生は少し誇らしそうに頷いた。


「町の祭りで長く使われている太鼓です。何度も修理して、今も鳴っています」


「その音を、子どもたちが受け継いでいるんですね」


「はい」


 サラは俯いた。


 受け継ぐ。


 その言葉がさらに重く感じた。


 自分は、受け継ぐ人ではない。


 ただ来ただけの人だ。


 午前の練習が終わると、灯理は体育館の前で生徒たちを集めた。


「今日は、太鼓を叩く前に、太鼓が鳴ってきた場所を歩いてみませんか」


 生徒たちは顔を見合わせた。


「太鼓が鳴ってきた場所?」


「神社ですか?」


「倉庫も?」


 悠木先生が少し驚いた顔をする。


「白瀬先生、午後は通し練習の予定でしたが」


「はい。練習も大切です。ただ、音がどこから来たのかを知る時間も、今日のサラさんたちには必要かもしれません」


 悠木先生はサラを見た。


 サラは視線を落としていた。


 少しの沈黙の後、悠木先生は頷いた。


「わかりました。午後は町を歩きましょう」


 最初に向かったのは、山の中腹にある古い神社だった。


 石段は苔むしていて、両側には背の高い杉が並んでいる。登るたびに空気が少し冷たくなり、町の音が遠ざかっていった。


 社殿は大きくはない。


 けれど、木の柱には長い年月が染み込んでいるようだった。


 境内の端には、小さな舞台がある。


「祭りの日は、ここで最初の太鼓を鳴らします」


 悠木先生が説明した。


「昔から?」


 生徒の一人が聞く。


「私の祖父の頃には、もうそうだったそうです」


 サラは舞台を見た。


 床板には傷がある。


 太鼓を置いた跡。


 人が踏んできた跡。


 灯理が尋ねた。


「どうして、ここで最初に鳴らすんですか」


 悠木先生は少し考えた。


「収穫への感謝と、町の無事を知らせるため、と聞いています」


「無事を知らせる?」


 サラが思わず聞いた。


 悠木先生は頷いた。


「山の町だから、昔は道が悪くてね。冬の前に、みんなが集まって顔を合わせることが大事だったんだと思います」


 顔を合わせる。


 ただの行事ではない。


 ここにいる。


 今年も無事だった。


 そう確かめる音。


 サラは太鼓の音を思い出した。


 どん。


 体育館で聞いた音が、少し違って感じられた。


 次に向かったのは、祭りの山車をしまう倉庫だった。


 町の公民館の裏にあり、大きな木の扉がついている。扉を開けると、薄暗い中に山車が置かれていた。


 赤い布。


 金色の飾り。


 彫刻の入った木の車輪。


 布はところどころ色褪せていたが、丁寧に修繕されている。


 倉庫の奥には、古い太鼓が一つ置かれていた。


 今は使われていない太鼓だという。


 胴には大きな傷があり、革も張り替えられている。


「これは?」


 灯理が尋ねる。


 倉庫にいた町の老人が答えた。


「昔、土砂崩れで倉庫が壊れた時に傷ついた太鼓だよ」


 生徒たちが静かになる。


 老人はゆっくり太鼓に近づいた。


「大雨で山が崩れてね。神社へ続く道もふさがった。祭りどころじゃない年だった」


「その年は、祭りをやらなかったんですか」


 カイが聞いた。


「山車は出せなかった。でも、太鼓だけ鳴らした」


「どうして?」


「みんなが無事か、確かめるためだよ」


 老人は太鼓の傷を指でなぞった。


「家を失った人もいた。畑も流された。それでも、集まれる人は集まって、太鼓を一つ鳴らした。泣きながら叩いた人もいた」


 サラは息を止めた。


 祭りは、楽しいものだと思っていた。


 提灯が並び、屋台が出て、太鼓が鳴り、みんなが笑う行事。


 でも、その音には、悲しい年もあった。


 傷ついた町が、それでも続こうとした音もあった。


 老人はサラの方を見た。


「君は、転校してきた子かい」


「はい」


「太鼓、叩くのかい」


 サラは言葉に詰まった。


「まだ、叩けていません」


「そうか」


 老人は少し笑った。


「最初の一打は、誰でも怖いよ」


「町の子たちは、みんな普通に叩いています」


「普通に見えるだけだ。あの子たちも、小さい頃は太鼓の音に驚いて泣いてた」


 老人の声は穏やかだった。


「祭りは、最初から知っている人だけのものじゃない。知ろうとする人が増えないと、続かない」


 サラは古い太鼓を見た。


 傷のある胴。


 張り替えられた革。


 それでも、まだここにある太鼓。


 次に、生徒たちは太鼓を修理する職人の家を訪ねた。


 工房には木の匂いと革の匂いが混ざっていた。


 壁には大小さまざまな撥がかかり、作業台には太鼓の部品が並んでいる。


 職人は、太鼓の胴を指で軽く叩いた。


 こん。


 乾いた音がした。


「太鼓は、強く叩けばいい音が出るわけじゃない」


 職人は言った。


「叩く場所、角度、手の力。あと、聞くこと」


「聞く?」


 ミナが聞く。


「太鼓が今、どんな音を返しているか聞くんだ。古い太鼓は日によって音が違う。湿気が多い日、寒い日、祭りの前で何度も叩かれた日」


 サラは撥を握る自分の手を思い出した。


 音を出すことばかり考えていた。


 でも、太鼓の音を聞こうとはしていなかった。


 職人は、サラに一本の古い撥を渡した。


 表面が滑らかで、手に馴染む。


「これは、昔使われていた撥だ」


 サラは両手で受け取った。


「重いです」


「使った人の手の分だけ、そう感じるのかもしれないな」


 職人は笑った。


「でも、君の手で持てば、君の撥になる」


 サラは何も言えなかった。


 町を歩くうちに、祭りは遠いものではなくなっていった。


 しかし、近づくほど怖さも増した。


 そんな大切な音なら、なおさら自分が鳴らしていいのかわからなくなる。


 学校へ戻る坂道で、サラは灯理の隣を歩いた。


「先生」


「はい」


「知らない私が叩いたら、失礼です」


 灯理は足を止めなかった。


「そう感じるんですね」


「はい」


「どうして?」


「この町の人たちが大切にしてきた音だから。土砂崩れの時も、収穫の時も、みんなが無事か確かめる時も鳴ってきた音だから」


「うん」


「私は、何も知らずに来ました。祭りのことも、町のことも。そんな私が叩いたら、ただ真似してるだけになります」


 灯理は山の方を見た。


 霧はすっかり晴れ、木々の色が少しずつ秋に変わっている。


「大切なものは、知っている人だけで守るのでしょうか」


 灯理が言った。


 サラは顔を上げる。


「それとも、知ろうとする人にも少しずつ渡されるのでしょうか」


 サラは答えられなかった。


 灯理は続けた。


「知らないまま叩くことと、知ろうとして叩くことは、同じでしょうか」


「……違うと思います」


「では、知ろうとして叩く音は、失礼な音でしょうか」


 サラは撥の入った袋を握った。


 職人から借りた古い撥。


 その重さが手に残っている。


「まだ、自信はありません」


「はい」


「でも、少しだけ、叩いてみたいです」


 灯理は静かに頷いた。


 夕方、体育館で再び太鼓の練習が始まった。


 窓の外には、祭りの提灯を吊るす町の人たちの姿が見える。体育館の中には、昼間歩いた場所の記憶が持ち込まれているようだった。


 神社の石段。


 山車倉庫の匂い。


 傷ついた古い太鼓。


 修理する職人の手。


 土砂崩れの年にも鳴った一打。


 悠木先生は生徒たちを集めた。


「今日は、最初に一人ずつ一打だけ叩きます」


 生徒たちが少し驚く。


「リズムじゃなくて?」


「一打だけ?」


「その一打に、今日見た場所を一つ思い出してください」


 悠木先生はサラを見た。


 その目は、急かしていなかった。


「上手に叩くためではなく、どこから音が来ているのかを聞くためです」


 カイが最初に叩いた。


 どん。


「神社」


 彼は言った。


 ミナが続く。


 どん。


「山車の倉庫」


 次々に生徒たちが一打を鳴らす。


 音は少しずつ違った。


 強い音。


 低い音。


 軽い音。


 迷いのある音。


 それぞれが、自分の見た場所を持っていた。


 サラの番になった。


 体育館は静かになった。


 サラは太鼓の前に立つ。


 手には、いつもの練習用の撥ではなく、職人から借りた古い撥を持っていた。


 重い。


 けれど、朝より少しだけ違う重さだった。


 知らないものの重さではなく、渡されたものの重さ。


 サラは目を閉じた。


 石段を掃く老人。


 傷ついた太鼓を撫でる老人の指。


 修理する職人の手。


 町の人たちが提灯を吊るす姿。


 そして、体育館で自分を待っている同級生たち。


 撥を上げる。


 腕が震える。


 怖い。


 それでも、下ろす。


 どん。


 音は大きくなかった。


 少し浅く、少し遅れた。


 でも、逃げた音ではなかった。


 太鼓の革が震え、体育館の床へ低く広がる。


 サラは撥を下ろしたまま、しばらく動けなかった。


 誰も笑わなかった。


 カイが小さく言った。


「今の、もう一回やろう」


 ミナが頷く。


「次、私たちが間を作る」


「間?」


 サラが聞く。


「サラが入れるところ」


 生徒たちは太鼓の周りに立った。


 いつもの速いリズムではなく、少しゆっくりしたリズムに変える。


 どん。


 どん。


 間。


 サラが入る。


 どん。


 全員が続く。


 どどん。


 掛け声が小さく上がる。


「よっ」


 サラの音はまだ弱い。


 でも、リズムの中に入っていた。


 町の子どもたちは、サラを引っ張り込むのではなく、彼女が入れる場所を作っていた。


 悠木先生はその様子を見て、静かに息を吐いた。


「昔からこうしている、と私はよく言っていました」


 隣にいた灯理へ、小さく言う。


「はい」


「でも、初めての子には、昔を歩く時間が必要だったんですね」


 灯理は頷いた。


「サラさんだけでなく、町の子たちにとっても、いい時間でした」


 悠木先生は太鼓を見た。


「知っているつもりだった子たちも、今日、少し知り直したのかもしれません」


 練習が終わった後、サラは一人で太鼓の前に残った。


 体育館には夕方の光が差し込み、床の上に長い影を作っている。


 太鼓の胴に、そっと手を触れる。


 木は少し冷たかった。


 けれど、その奥に昼間聞いたたくさんの声が残っているような気がした。


「来年は」


 サラは小さく呟いた。


「もう少し大きく叩けるかな」


 灯理が少し離れた場所に立っていた。


「きっと、今日の一打が来年につながります」


 サラは振り返った。


「先生」


「はい」


「私、まだこの町の子になれたとは思いません」


「うん」


「でも、今日、少しだけ音の中に入れた気がします」


「それは、大きな一歩ですね」


 サラは太鼓を見た。


「町の人たちが守ってきたものに、私が入ってもいいのか、まだ少し怖いです」


「はい」


「でも、知ろうとしていいんですね」


「はい」


「叩きながら、知っていってもいいんですね」


 灯理は微笑んだ。


「文化は、そうやって渡されることもあるのだと思います」


 夜、灯理は山間の町の学校を出た。


 通りには提灯が灯り始めていた。


 赤や白の小さな明かりが、家々の軒先に揺れている。遠くの神社へ続く石段にも、竹の灯りが置かれていた。


 町は、祭りの前の静かな高まりの中にあった。


 悠木先生が校門まで見送りに来た。


「白瀬先生、今日はありがとうございました」


「こちらこそ、町を歩かせていただきました」


「私は、祭りを子どもたちに伝えているつもりでした」


「はい」


「でも、伝えるというより、練習させていたのかもしれません。リズム、掛け声、順番。昔からこうしている、と」


 悠木先生は提灯の並ぶ通りを見た。


「それも必要です。でも、なぜ鳴らすのかを歩かないと、外から来た子には音が重すぎる」


 灯理は静かに頷いた。


「今日、サラさんはその重さを少し自分の手で持ちましたね」


「ええ」


 体育館の方から、まだかすかに太鼓の音が聞こえた。


 どん。


 どん。


 少し間を置いて、もう一つ。


 どん。


 悠木先生が耳を澄ませる。


「あれは、サラの音かもしれません」


 灯理は微笑んだ。


 鞄の中には、次の依頼状が入っている。


 複数の宗教文化が共存する都市の学校から届いたものだった。


 けれど、まだ開かなかった。


 山間の町に、夜の霧が少しずつ戻ってくる。


 提灯の灯りは霧ににじみ、太鼓の音は谷へ向かって低く広がっていく。


 その音は、昔からいた人だけのものではなかった。


 これから知ろうとする人へも、少しずつ渡されていく音だった。


 灯理はその響きを背に、ゆっくりと坂道を下っていった。

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