第32章 第2話:本人への授業――名前のない数字
地域学習センターの多目的室には、報告会用の資料が広げられていた。
窓の外では、午後の風が植え込みの葉を小さく揺らしている。机の上には、詳しい報告書、一枚報告カード、展示用のパネル、質問カード、シール、そして「参加者の変化」と書かれた事例案の束が並んでいた。
青柳さんは、赤いペンを持って、事例案のページを確認していた。
『事例一:学習サポートに参加した中学生A』
『小テストの点数は大きく変化しなかったが、途中式を書く回数が増え、わからない箇所を自分で言葉にできるようになった。』
『事例二:見るだけ席から参加した生徒B』
『はじめは発言せず、見るだけ席で過ごしていたが、カードで自分の状態を伝えられるようになった。』
『事例三:初参加者向けの小さな地図を描いた小学生C』
『入口で戸惑った経験をもとに、絵でわかる小さな地図作りに参加した。』
『事例四:休憩札を使えるようになったボランティアD』
『支援を一人で抱え込まず、休憩札を使いながら継続的に関わる形へ変化した。』
個人名は出していない。
学年や細かい事情も伏せている。
写真も使っていない。
青柳さんは、個人情報に配慮したつもりだった。
成果報告会では、数字だけでなく、こうした小さな変化も伝えたい。第31章で学んだ、数字の横の余白。それを報告会でも大切にしたかった。
佐伯先生も、隣で資料を確認している。
「颯太さんの事例は、学習サポートの成果として大事だと思います」
「はい」
青柳さんは頷いた。
「点数がすぐ上がったわけではないけれど、学び方が変わった。そのことを伝えたいです」
「本人名は出していませんし、点数も具体的には書いていません」
「そうですね」
青柳さんは、少し安心していた。
匿名化している。
だから、大丈夫。
そう思っていた。
そこへ、颯太が入ってきた。
今日は学習サポートの日ではなかったが、佐伯先生に頼まれて、前回の学習記録を確認しに来ていた。黒いリュックを肩にかけ、少し眠そうな顔をしている。
「こんにちは」
佐伯先生が声をかける。
「こんにちは」
颯太は、机の上の資料を見た。
そして、事例案の一枚に目を止めた。
『学習サポートに参加した中学生A』
颯太の視線が、その行で止まる。
途中式を書く回数が増えた。
わからない箇所を自分で言葉にできるようになった。
颯太は、しばらく黙って読んでいた。
佐伯先生が少し慌てたように言った。
「あ、これは報告会用の事例案で……名前は出していません」
颯太は、資料から目を離さなかった。
「これ、俺のことですよね」
佐伯先生の手が止まる。
青柳さんも、ペンを置いた。
「はい。颯太さんの学習記録をもとにしています。ただ、名前は出さず、点数も具体的には書かない形にしています」
颯太は、資料を見たまま言った。
「名前がなければ、いいんですか」
その声は、怒っているわけではなかった。
でも、軽くもなかった。
佐伯先生は、言葉に詰まった。
「もちろん、本人に確認する必要はあると思っていました。今日、その確認も」
「確認って、載せていいですかってことですか」
「はい」
颯太は、少し口を結んだ。
そして、椅子に座った。
「なんか、変な感じがします」
青柳さんは、身を乗り出した。
「変な感じ?」
「俺の話なのに、先に資料になってる」
多目的室の空気が、少し静かになった。
颯太は、事例案の紙を指で押さえた。
「中学生Aって書いてあるから、名前はないです。でも、途中式が増えたとか、わからないところ言えるようになったとか、俺がここで言ったことですよね」
「はい」
「それ、悪いとは言ってないです」
颯太は、少し困ったように眉を寄せた。
「点数が上がってないことを、そのまま笑われるわけじゃないし。先生たちが悪く書いてるわけでもないのはわかります」
佐伯先生は、黙って頷いた。
颯太は続けた。
「でも、名前がなくても、自分のことが数字みたいに置かれてる感じがします」
その言葉が、机の上の資料に重なった。
中学生A。
生徒B。
小学生C。
ボランティアD。
匿名化された事例。
個人情報を守るためには必要な形。
でも、その文字の向こうには、一人ひとりがいる。
自分の点数に悔しがった人。
見るだけ席に座っていた人。
入口で戸惑った人。
休憩札を使うまで迷った人。
名前を消せば、その人の尊厳が守られるとは限らない。
その人自身に返されないまま、成果だけが外へ出ていくこともある。
壁際の見るだけ席には、紬が座っていた。
今日は報告会準備の様子を見に来ている。
紬は、カードを一枚書いた。
佐伯先生が、颯太に確認してから受け取り、読む。
「『本人のことを、本人がいないところで大人が説明する感じが少し怖いです』」
佐伯先生は、読みながら、自分の胸にもその言葉が刺さるのを感じた。
紬は、もう一枚カードを出した。
「『名前がなくても、私の歩き方を誰かが先に決めているみたいに感じることがあります』」
青柳さんは、事例案の紙をそっと伏せた。
莉子も、スケッチブックを持って近くに座っていた。
展示に使う小さな地図の絵を確認するために来ていたのだ。
莉子は、少し不安そうに言った。
「私の絵も、展示に使いますよね」
「はい。莉子さんに確認してから使うつもりでした」
青柳さんが答えると、莉子は頷いた。
「使うのはいいです。でも、どう書かれるのか見たいです」
「もちろんです」
「私が入口で迷ったことも書くんですか?」
青柳さんは、少し迷った。
「小さな地図ができた理由として、初めて来た人が情報の多さに戸惑ったことを書く予定です」
莉子は、少し考えた。
「迷ったことは書いてもいいです。でも、『迷って何もできなかった子』みたいには書かないでほしいです」
その言葉にも、青柳さんは頷いた。
迷ったことは、失敗ではない。
小さな地図を作るきっかけだった。
でも、書き方によっては、本人を「困っていた子」に閉じ込めてしまう。
佐伯先生は、白瀬灯理を見た。
灯理は、円卓の少し外側で静かに話を聞いていた。
黒い上着に、使い込まれた革の鞄。
「先生」
「はい」
佐伯先生は、事例案を見つめた。
「本人の変化を大切に扱うつもりでした。名前を消して、特定されないようにして、悪く見えないように書いて。でも、それだけでは足りなかったのかもしれません」
颯太は、机の上の資料を見ている。
佐伯先生は、灯理に向き直った。
「どう返せばいいのでしょうか」
灯理は、佐伯先生と青柳さん、そして颯太の言葉を静かに受け止めた。
そして、問いを返した。
「うん。では、本人の変化を大切に扱うことは、名前を消して事例にするだけで足りるのでしょうか」
名前を消す。
個人情報を守る。
それは大切だ。
でも、本人の変化は、本人のものでもある。
外へ報告する前に、本人へ返す必要がある。
本人が、自分の歩みを受け取り直す時間が必要だった。
灯理は、中央に白い紙を置いた。
『本人へ返すこと』
その下に、欄を作る。
『報告用』
『本人用』
『本人が見てよい表現』
『使ってよいこと』
『使わないでほしいこと』
『本人の言葉』
『まだ途中のこと』
青柳さんが、ゆっくり言った。
「報告用と本人用を分ける」
「はい」
灯理は頷いた。
「報告用の事例は、外へ伝えるために整理されます。でも、本人が受け取るものは、外向きに整えられた事例ではなく、自分の歩みとして見られる形が必要かもしれません」
佐伯先生は、颯太を見た。
「颯太さん。今回、こちらが先に事例案を作ってしまいました。すみません」
颯太は、少し驚いた顔をした。
佐伯先生は続けた。
「あなたの変化を大切に伝えたいと思っていました。でも、あなた自身にどう返すかを後回しにしていました」
颯太は、目を伏せた。
「別に、怒ってるわけじゃないです」
「はい。でも、違和感を言ってくれて助かりました」
青柳さんは、新しいカードの案を書き始めた。
『あなたの歩みカード』
表には、やさしい線で道が描かれている。
まっすぐな道ではない。
少し曲がり、途中に小さな立ち止まりの丸がある。
欄は、こうなった。
『ここに来た日』
『自分で選んだこと』
『前よりできるようになったこと』
『まだ途中のこと』
『次に試したいこと』
『報告に使ってよいこと』
『使わないでほしいこと』
『自分の言葉』
葵が、カードのデザインをのぞき込んだ。
「『あなたはこう変わりました』って決めるんじゃなくて、本人が選べる形ですね」
「そうしたいです」
青柳さんは頷いた。
紬がカードを出す。
佐伯先生が読む。
「『大人が変化を決める欄より、自分が選ぶ欄がある方がいいです』」
灯理は頷いた。
「大切ですね」
颯太は、少し面倒くさそうにカードを見た。
「これ、俺も書くんですか」
「書いてみますか」
佐伯先生が尋ねる。
颯太は、少し迷った。
「書いてもいいですけど、変なこと書いたら?」
「変なことはありません。報告に使うかどうかも、颯太さんと確認します」
颯太は、ペンを持った。
最初の欄。
『ここに来た日』
正確な日付は覚えていない。
佐伯先生が記録を見せる。
颯太は、いくつかの日付を書いた。
次。
『自分で選んだこと』
颯太は、少し考えた。
「学習サポートに来るって、自分で選んだことになるんですか」
佐伯先生は頷いた。
「はい」
「親に言われた日もあります」
「それでも、来て席に座ったのは颯太さんです」
颯太は、渋い顔をしながら書いた。
『来た』
『数学をやった』
『文章題を見ないふりしないようにした』
美咲が小さく笑いそうになったが、真央が静かに首を振った。
颯太は続ける。
『前よりできるようになったこと』
ここで、少し手が止まった。
佐伯先生が言った。
「こちらが見たことを言ってもいいですか。選ぶかどうかは颯太さんが決めてください」
「はい」
「途中式が増えた。空欄が減った。どこからわからないかを言えた。間違いを消さずに残せた」
颯太は、少し照れくさそうにした。
「全部書くと、なんかいい子みたいですね」
真央が言った。
「いい子じゃなくて、記録です」
颯太は少し笑った。
「じゃあ、途中式が増えた、は書きます」
カードに書く。
『途中式が増えた』
『どこからわからないか言えた』
次。
『まだ途中のこと』
颯太は、すぐに書いた。
『点数』
『文章題』
『符号』
佐伯先生は、少し笑った。
「符号、まだ途中ですね」
「めちゃくちゃ途中です」
次。
『次に試したいこと』
颯太は、前回の学習記録を思い出しながら書いた。
『文章題で、何を聞かれているかに線を引く』
次。
『報告に使ってよいこと』
ここで、颯太はペンを止めた。
「使っていいことって、自分で決めていいんですか」
「はい」
青柳さんが言った。
「報告会で使う前に、本人に確認します」
颯太は、少し考えた。
「途中式が増えたことは、使っていいです」
佐伯先生が頷く。
「はい」
「どこからわからないか言えたことも、まあ、いいです」
「はい」
「点数は、具体的には出さないでほしいです」
「わかりました」
青柳さんは、事例案の該当箇所に赤で書き込んだ。
『具体的点数は出さない』
『本人確認済み表現のみ使用』
颯太は、カードに書いた。
『使ってよいこと:途中式が増えたこと。どこからわからないか言えたこと』
『使わないでほしいこと:点数を具体的に出すこと』
最後。
『自分の言葉』
颯太は、しばらくペンを持ったまま黙っていた。
多目的室には、紙をめくる音も消えていた。
誰も急かさなかった。
颯太は、ゆっくり書いた。
『俺の変化は、資料になる前に俺にも返してほしかった』
その一文を見た佐伯先生は、深く頷いた。
「ありがとうございます」
颯太は、少し照れたようにカードを伏せた。
「これ、そのまま載せるんですか」
「載せるかどうかは、颯太さんと相談します」
「じゃあ、これは載せなくていいです」
「わかりました」
「でも、先生たちは見てていいです」
佐伯先生は、もう一度頷いた。
「大切にします」
次に、紬の歩みカードも作られた。
紬は、カードで参加した。
『ここに来た日』
『見るだけ席に座った日』
『支援地図を作った日』
『カードで参加した日』
『自分で選んだこと』
『見るだけ席』
『カードで話す』
『会議に全部出ない日を選ぶ』
『前よりできるようになったこと』
『大人だけで進む前にカードを出す』
『まだ途中のこと』
『教室』
『人が多い日』
『報告に使ってよいこと』
『見るだけ席があると参加できること』
『使わないでほしいこと』
『細かい理由』
『自分の言葉』
『私のことは、私の席から始めてほしい』
その言葉を読んだ時、佐伯先生は、第28章の支援会議を思い出した。
本人のための会議なのに、本人がいないように進んでいた日。
そこから、少しずつ変わってきた。
本人の席から始めること。
それは、成果報告でも同じだった。
莉子の歩みカードには、絵が多かった。
『ここに来た日』
小さな水色リュックの絵。
『自分で選んだこと』
鉛筆の道。
『前よりできるようになったこと』
静かな作業席に自分で行けた。
『まだ途中のこと』
人が多い日。
『次に試したいこと』
初めての人用の絵カードを増やす。
『報告に使ってよいこと』
小さな地図の絵。
入口で迷ったから作ったこと。
『使わないでほしいこと』
迷って何もできなかったみたいに書くこと。
『自分の言葉』
最初に全部わからなくても、一つ選べたら入れた。
青柳さんは、それぞれのカードを見ながら、報告事例案を書き直した。
『学習サポートに参加した中学生の記録』
『本人確認済み』
『具体的点数は記載しない』
『本人が報告に使ってよいとした変化:途中式が増えたこと、わからない箇所を言葉にできたこと』
『見るだけ席を利用した参加者の記録』
『本人確認済み』
『細かい理由は記載しない』
『本人が報告に使ってよいとした変化:見るだけ席があることで参加できる日があること』
『小さな地図づくりに参加した小学生の記録』
『本人確認済み』
『迷った経験を、入口を見直す材料として扱う』
『本人が報告に使ってよいとした変化:一つ選べたら入れたこと、絵で次の人の入口を作ったこと』
事例は、前より少し長くなった。
でも、本人の歩みを奪わない形に近づいていた。
青柳さんは、報告会準備メモに新しい手順を書いた。
『事例に使う前に本人へ返す』
『本人用歩みカードを作る』
『報告に使ってよいことを確認する』
『使わないでほしいことを確認する』
『本人の言葉を尊重する』
『匿名化だけで終わらせない』
佐伯先生は、自分の記録にも書いた。
『本人の成果を外へ出す前に、本人へ返す』
彩花が、戻ってこられる席から静かに言った。
「これ、ボランティアにも必要かもしれませんね」
青柳さんが顔を上げる。
「支える人にも、歩みカードですか」
「はい。何を支えたか、何は使っていいか、何は使わないでほしいか。感謝される側にも、選ぶところがあるといいと思います」
青柳さんは、その言葉をメモした。
成果は、参加者だけのものではない。
支える人の変化も、本人へ返す必要がある。
その日の終わり、颯太は歩みカードをファイルに挟んだ。
佐伯先生が尋ねる。
「持って帰りますか。それとも、ここで保管しますか」
颯太は少し迷った。
「コピーください」
「はい」
「本物は、ここにあってもいいです」
佐伯先生は頷いた。
「わかりました」
颯太は、コピーされたカードをリュックに入れた。
「報告会、行かないとだめですか」
「無理に来なくて大丈夫です」
「行っても、前で話さなくていいですか」
「もちろんです」
「じゃあ、後ろで見るかもしれません」
佐伯先生は微笑んだ。
「見るだけでも参加です」
颯太は、少し照れくさそうに視線をそらした。
「それ、紬さんのやつですよね」
紬がカードを出した。
佐伯先生が読む。
「『見るだけは、わりと便利です』」
颯太は、少し笑った。
夜、白瀬灯理は地域学習センターを出た。
ガラス扉の向こうには、報告会用の資料が整えられている。事例案の横には、新しく作られた「あなたの歩みカード」の見本が置かれていた。道の絵の途中に、小さな立ち止まりの丸がある。
佐伯先生と青柳さんが玄関まで見送りに来た。
「白瀬先生、ありがとうございました」
佐伯先生が言った。
「こちらこそ、本人の歩みが本人へ返されていく時間を一緒に見せていただきました」
灯理は静かに答えた。
青柳さんは、少し疲れた顔で資料を抱えていた。
「匿名化すれば十分だと思っていました」
「はい」
「もちろん、名前を消すことは大切です。でも、名前を消しただけでは、その人の歩みを大切にしたことにはならないんですね」
佐伯先生も頷いた。
「本人へ先に返す。本人が使ってよいことを選ぶ。使わないでほしいことも言える。報告する側が、そこを忘れてはいけないと思いました」
外には、夜の静けさが降りていた。
センター前の道を、颯太がリュックを背負って歩いている。片手でリュックのポケットを押さえていた。そこには、コピーされた歩みカードが入っている。
少し後ろでは、莉子がスケッチブックを抱え、葵に新しい絵カードの相談をしていた。
紬は、佐伯先生と並んで、ゆっくり歩いている。
本人へ成果を返すことは、名前を消した事例を作ることだけではない。
匿名化は必要だ。
個人情報を守ること。
細かな事情を不用意に出さないこと。
本人が特定されないようにすること。
それは、欠かせない。
けれど、本人の変化は、報告する側だけの材料ではない。
途中式が増えたこと。
見るだけ席に座れたこと。
カードで参加できたこと。
小さな地図を描いたこと。
相談を出せたこと。
休憩札を使えたこと。
それらは、まず本人の歩みである。
本人が、自分の変化を受け取り直す時間がいる。
何を使ってよいか。
何を使わないでほしいか。
どう書かれたいか。
まだ途中のことは何か。
次に試したいことは何か。
自分の言葉ではどう言いたいか。
それを聞かずに外へ出すと、成果はその人から少し離れてしまう。
成果を本人へ返すことは、その人を数字や事例として扱うことではない。
自分の歩みを、自分のものとして受け取り直せるようにすることだった。
灯理は、夜の地域学習センターを振り返った。
颯太の歩みカードには、一文が残っている。
俺の変化は、資料になる前に俺にも返してほしかった。
その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。




