表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
142/204

第29章 第3話:妥協の授業――半分になった看板


 美術室には、絵の具の匂いが残っていた。


 放課後の西日が、窓際の机を斜めに照らしている。流し台の近くには、洗い終えた筆が数本、紙コップに立てられていた。壁には、前の授業で描いた静物画が並び、床には少しだけ乾いた紙の切れ端が落ちている。


 大きな模造紙が、二枚の机をつなげた上に広げられていた。


 そこに書かれているのは、地域学習センターと学校が共同で行う「よりみち縁側」の案内看板だった。


 美咲は、太いマーカーを握っていた。


「やっぱり、遠くから見てすぐわかる方がいいと思う!」


 美咲は、模造紙の中央に大きく文字を書いた。


『よりみち縁側』


 黄色で縁取り、赤で影をつける。


 その横に、大きな矢印。


 さらに、笑っている人のイラスト。


「これくらい目立たないと、初めて来た人、通り過ぎちゃうよ」


 美咲の声は明るかった。


 机の反対側で、葵は色鉛筆を並べていた。


 葵は、第28章の文化祭会議で、暗い場所や大きな音が苦手だと伝えた生徒だった。あの時、小春やクラスメイトと一緒に、怖さを選べるお化け屋敷を作った。


 今日は、共同イベントの看板デザイン担当として参加している。


 葵は、模造紙の中央に置かれた赤と黄色の文字を見つめた。


 大きい。


 明るい。


 楽しい感じはある。


 でも、少し目が疲れる。


 情報も多くなりそうだった。


「美咲」


「ん?」


「もう少し、色を減らしてもいいと思う」


 美咲の手が止まった。


「色を減らす?」


「うん。赤と黄色と青と緑が全部入ると、見ていて疲れる人もいるかもしれないから」


「でも、地味だと誰も見ないよ」


 美咲は、悪気なく言った。


「看板って、まず気づいてもらわないと意味ないし。楽しい場所って思ってもらいたいし」


 葵は、少し目を伏せた。


「それはわかる」


「じゃあ、ここに星とかつけて」


「星も多すぎると」


「えー、じゃあ何ならいいの?」


 美咲の声が、少しだけ強くなった。


 葵は、並べた色鉛筆を指で整えた。


「余白がほしい」


「余白?」


「文字の周りに何もない場所があると、読みやすいから」


「でも、余白が多いと寂しいよ」


「寂しいんじゃなくて、安心する人もいる」


 美咲は、眉を寄せた。


「安心って、看板で?」


「うん」


 葵は、少しずつ言葉を選んだ。


「初めて来る場所って、ただでさえ緊張するから。看板に情報がいっぱいあると、どこを読めばいいかわからなくなる。色が多いと、近づく前に疲れる人もいると思う」


「でも、目立たないと、来る前に気づかないよ」


「派手すぎると、入る前に引いちゃう人もいる」


 二人の間に、短い沈黙が落ちた。


 模造紙の上には、大きな赤と黄色の文字。


 その横に、まだ下書きのままの案内文。


『話す』

『書く』

『見るだけ』

『にぎやか』

『静か』

『相談』

『休憩』

『お茶』


 全部入れようとすると、看板は文字だらけになる。


 でも、削ると、大事なことが伝わらない。


 真央は、二人の間で付箋を持っていた。


「看板に入れる情報、整理した方がいいかも」


 彩花も、地域学習センターから持ってきた案内カードを広げていた。


「参加者が最初に見るものだから、遠くから見えることも、近くで読んで安心できることも、両方必要ですね」


 美咲は、模造紙を見た。


「だから、両方入れようとしてるんだけど」


 葵は、小さく言った。


「両方入れると、ぶつかる」


 その言葉に、美術室の空気が少し静かになった。


 そこへ、前田さんが入ってきた。


 地域学習センターの古い世話役で、今日は過去の掲示物や案内の失敗談を知恵カードとして持ってきている。


「看板、進んでる?」


 前田さんは、模造紙を覗き込んだ。


「あら、ずいぶん元気な字ね」


 美咲は少し得意そうにした。


「目立つようにしました」


「目立つのは大事よ。昔、町内会の案内を薄い灰色で作ったら、誰も気づかなかったことがあるの」


 美咲が、ほら、という顔をする。


 前田さんは続けた。


「でも、反対に、文字を詰め込みすぎて誰も読まなかったこともあるわ」


 美咲の顔が少し止まった。


 葵が、前田さんを見る。


「文字を詰め込みすぎて?」


「ええ。夏祭りの案内で、日時、場所、注意事項、持ち物、雨天時、駐輪場、全部一枚に入れたの。遠くから見ると、真っ黒な紙に見えたわ」


 前田さんは、知恵カードを一枚出した。


『掲示物に全部入れた』

『誰も読まなかった』

『遠くで見る情報と近くで読む情報を分ける』


 葵は、そのカードをじっと見た。


 遠くで見る情報。


 近くで読む情報。


 その分け方は、今の看板に必要な気がした。


 美咲もカードを見ていた。


「でも、遠くで見る情報が地味だと気づかないんですよね」


 前田さんは頷いた。


「そうね。だから、大きな文字と矢印は必要かもしれない。でも、細かい説明は別にしてもいい」


 葵は、色鉛筆を置いた。


「別にする」


 その時、美術室の扉が静かに開いた。


 白瀬灯理が入ってきた。


 黒い上着に、使い込まれた革の鞄。


 灯理は、模造紙の前に立ち、赤と黄色の文字、葵の並べた落ち着いた色、真央の付箋、彩花の案内カード、前田さんの知恵カードを順番に見た。


「看板の中で、いくつもの大事なものが場所を探していますね」


 美咲は、少し不満そうに言った。


「先生、目立たないと人が来ません」


 葵も、小さく言った。


「派手すぎると入れない人もいます」


 二人の言葉は、どちらもまっすぐだった。


 灯理は、うなずいた。


「どちらも、来る人のことを考えていますね」


 美咲は、少し驚いた顔をした。


 葵も顔を上げる。


 灯理は、模造紙の端に白い紙を置いた。


 そこに、こう書く。


『看板で守りたい意味』


 そして、欄を作った。


『遠くから見える』

『迷わない』

『楽しそう』

『安心できる』

『読みやすい』

『疲れにくい』

『情報が整理されている』

『初めてでも入れる』

『近づいた時に詳しくわかる』


 灯理は言った。


「まず、看板の見た目ではなく、守りたい意味を書き出してみましょう」


 美咲は、すぐに付箋を書いた。


『遠くから見える』

『楽しそう』

『迷わない』

『初めてでも入りやすい』


 葵は、少し時間をかけて書いた。


『安心できる』

『読みやすい』

『疲れにくい』

『情報が整理されている』

『音や明るさがわかる』


 真央は、


『どこを見ればいいかわかる』


 彩花は、


『入口で不安が減る』

『参加方法が選べると伝わる』


 前田さんは、


『大事なことを全部一枚に詰め込まない』


 と書いた。


 紙の上に、守りたい意味が並んだ。


 美咲は、それを見て少し黙った。


 葵が守りたいものは、「地味にしたい」ではなかった。


 安心できること。


 読みやすいこと。


 疲れにくいこと。


 情報が整理されていること。


 美咲と同じように、来る人のことを考えている。


 葵も、美咲の付箋を見た。


 美咲が守りたいものは、「派手にしたい」だけではなかった。


 遠くから見えること。


 迷わないこと。


 楽しそうに見えること。


 初めてでも入りやすいこと。


 これも、来る人のためだった。


 でも、スペースは限られている。


 看板一枚に全部入れると、どちらの良さも壊れてしまう。


 葵は、模造紙を見つめて言った。


「先生」


「はい」


「半分ずつ削ったら、どっちの良さもなくなる気がします」


 葵の声は静かだったが、はっきりしていた。


「美咲の案を半分地味にして、私の案を半分派手にしたら、目立つわけでも安心できるわけでもない、中途半端な看板になりそうで」


 美咲も、小さく頷いた。


「それは嫌かも」


 灯理は、葵の言葉を受け止めた。


 そして、問いを返した。


「うん。では、妥協とは、大事なものを同じ量ずつ失うことなのでしょうか」


 妥協。


 その言葉は、葵には少し苦手だった。


 我慢すること。


 諦めること。


 半分になること。


 自分の意見を弱くすること。


 でも、灯理の問いは、その見方を少しずらした。


 妥協とは、同じ量ずつ失うことなのか。


 違う形もあるのか。


 灯理は、模造紙を二つに分ける線を引いた。


 左に、


『遠くから見る情報』


 右に、


『近くで読む情報』


 と書く。


 前田さんが、知恵カードをその間に置いた。


『遠くで見る情報と近くで読む情報を分ける』


 真央が、最初に付箋を動かした。


「遠くから見る情報は、タイトルと矢印」


 美咲が続けた。


「あと、楽しそうってわかる色」


 葵は言った。


「でも、色は多すぎない方がいい。明るい色を使う場所を決めるなら」


「一部だけ?」


「うん。タイトルと矢印だけとか」


 美咲は、模造紙の中央を見た。


 赤と黄色が全面に広がっていた。


「じゃあ、背景全部を黄色にするのはやめる」


 葵が少し笑った。


「ありがとう」


 美咲も笑った。


「でも、タイトルは大きくする」


「それはいいと思う」


 彩花が、近くで読む情報の欄に付箋を置いた。


「参加方法は、看板の下に小さい案内カードをつけるのはどうですか」


 葵が顔を上げる。


「案内カード?」


「はい。大看板には、遠くから見える情報だけ。入口の近くに、落ち着いた色の案内カードを置く。そこに、音や明るさ、参加方法、見るだけ可、休憩席あり、心配カード箱あり、を書く」


 美咲は、少し考えた。


「看板一枚じゃなくて、二つにするってこと?」


「そうです。大看板と、近くで読むカード」


 真央が言った。


「二層構造」


 美咲が笑う。


「真央、急にかっこいい言い方した」


 真央は少し照れた。


「でも、そういうことだと思う」


 灯理は、紙に新しく書いた。


『大看板』

・遠くから見えるタイトル

・大きな矢印

・明るい色は一部

・参加方法を選べます


『案内カード』

・音、明るさ、人の多さ

・見るだけ可

・話さずカードで参加可

・休憩席あり

・心配カード箱あり

・静かな席あり

・相談は職員へ


 葵は、案内カードの色を選んだ。


 薄い水色。


 薄い緑。


 白い余白。


 文字は黒に近い濃い灰色。


 読みやすく、目に強すぎない色。


 美咲は、大看板のタイトルをもう一度描き直した。


『よりみち縁側』


 太く、大きく。


 でも、背景全体を塗りつぶすのではなく、文字の周りに余白を残す。


 矢印は明るい黄色。


 縁だけ赤。


 その下に、大きく一文を入れた。


『参加方法を選べます』


 美咲は、その文字を見て言った。


「これ、目立つけど、押しつけてない感じがする」


 葵が頷いた。


「うん。入る前に、選べるってわかる」


 彩花は、案内カードを並べた。


『にぎやかな活動があります』

『静かな作業席があります』

『見るだけでも参加です』

『話さずカードで参加できます』

『休憩席があります』

『心配カード箱は入口と出口にあります』

『音は大きくしません』

『明るさは通常の室内です』


 葵は、『音は大きくしません』の文字を見て、少し安心した顔をした。


 美咲は、それに気づいた。


「これ、看板に大きく入れなくても、カードでわかればいいんだね」


 葵は頷いた。


「うん。全部を大看板に入れなくても、近づいたら読める場所にあれば」


 真央が、付箋を見ながら言った。


「美咲の『遠くから見える』は大看板で守って、葵の『安心して読める』は案内カードで守る」


 前田さんが嬉しそうに頷いた。


「そうそう。意味を場所で分けたのね」


 灯理は、机の上にもう一枚紙を置いた。


『失われるもの』

『別の形で守るもの』


 美咲は、そこに書いた。


『大看板に全部の楽しさは入れない』

『でも、明るいタイトルと矢印で楽しそうに見せる』


 葵は書いた。


『看板全体を落ち着いた色にはできない』

『でも、案内カードで安心して読める場所を作る』


 真央は書いた。


『一枚で全部説明しない』

『でも、必要な情報へたどり着けるようにする』


 彩花は書いた。


『入口で長く説明しない』

『でも、カードで不安を減らす』


 前田さんは、知恵カードの裏に書いた。


『全部を一枚に入れず、場所を分ける』


 作業は、そこから不思議と進み始めた。


 美咲は大看板を担当した。


 太い字。


 遠くから見える矢印。


 でも、余白を残す。


 葵は案内カードを担当した。


 落ち着いた色。


 読みやすい行間。


 少ない文字。


 でも、必要な情報は落とさない。


 真央は、二つの配置を見た。


「大看板の下に案内カードを貼ると、ちょっとごちゃごちゃするかも。看板の横に、小さな案内スタンドを置いた方がいい」


 彩花は、地域学習センターの入口の写真を出した。


「入口の右側にスタンドを置けます。車椅子の通路はふさがないように、壁寄せにします」


 前田さんは、過去の掲示物の失敗をもう一つ出した。


「矢印は、入口のすぐ前だけでなく、階段のところにも必要よ。昔、会議室がわからなくて帰ってしまった人がいたから」


 美咲がすぐに言った。


「じゃあ、小さい矢印看板も作る!」


 葵が言う。


「その矢印は、色をそろえると見つけやすいと思う」


 美咲は、黄色のマーカーを持ち上げた。


「黄色担当」


 葵は、薄い緑のカードを持った。


「案内カード担当」


 二人は顔を見合わせて、少し笑った。


 さっきまでぶつかっていた看板の上に、二人の役割が並んでいる。


 半分ずつ削ったのではない。


 意味を分けて、場所を変えた。


 夕方、美術室の机の上には、完成した大看板と案内カードが並んでいた。


 大看板には、明るい文字でこう書かれている。


『よりみち縁側』

『参加方法を選べます』


 黄色い矢印が、入口の方向を示している。


 周りには余白があり、遠くからでも文字が読める。


 案内カードには、落ち着いた色で参加方法が書かれている。


『話す』

『書く』

『見るだけ』

『にぎやか』

『静か』

『お茶』

『相談』

『休憩』


 さらに小さく、


『音は大きくしません』

『休憩席があります』

『心配カード箱があります』

『話さずカードで参加できます』


 葵は、制作ノートを開いた。


 今日のページには、看板の下書きと、付箋の跡が残っている。


 最初に書いた言葉。


『派手すぎると入れない人もいる』


 美咲が書いた言葉。


『地味だと誰も来ない』


 その二つが、今は別の場所で守られている。


 葵は、ノートの下に一文を書いた。


『半分に削るのではなく、大事な意味を別の場所に移せた』


 書き終えると、美咲が隣からのぞき込んだ。


「いいね」


 葵は、少し照れた。


「美咲の大看板、遠くからでも見えると思う」


「葵の案内カード、近づいたら安心すると思う」


 二人は、看板を見た。


 大きな文字と、静かなカード。


 明るい矢印と、読みやすい余白。


 違う良さが、同じ入口に並んでいる。


 夜、白瀬灯理は学校を出た。


 美術室の窓にはまだ少し明かりが残っている。廊下には、乾ききらない絵の具の匂いと、紙を切った後の細かな静けさがあった。外へ出ると、空は深い青に変わり始めていた。


 前田さんが、地域学習センターへ持ち帰る案内カードを抱えて、灯理の横を歩いていた。


「看板って、奥が深いのね」


 前田さんは笑った。


「昔は、目立てばいいとか、全部書けばいいとか思ってたわ」


「はい」


「でも、誰にどう届くかで、場所を分けることができるのね。大きく知らせるものと、近くで安心して読むもの」


 灯理は頷いた。


 少し前を、美咲と葵と真央が歩いている。


 美咲は黄色い矢印のミニ看板を持ち、葵は案内カードの束を抱えていた。真央は、二人が落とさないように、紙袋の底を支えている。


 妥協を学ぶことは、ただ同じ量ずつ失うことではない。


 もちろん、すべてをそのまま残せない時はある。


 看板の大きさ。


 時間。


 予算。


 人手。


 読む人の集中力。


 それらには限りがある。


 だから、削らなければならないこともある。


 でも、大事な意味まで一緒に削る必要はない。


 遠くから見えること。


 迷わないこと。


 楽しそうに見えること。


 安心して読めること。


 疲れにくいこと。


 必要な情報にたどり着けること。


 それぞれの意味を見つければ、別の場所へ移せることがある。


 大看板。


 案内カード。


 矢印。


 余白。


 色の役割。


 近くで読む情報。


 遠くから見る情報。


 半分にして薄めるのではなく、意味を分けて残す。


 そうすれば、妥協は負けではなくなる。


 違う大事さを、同じ入口に並べる工夫になる。


 灯理は、夕暮れの校舎を振り返った。


 美術室の机には、葵の制作ノートが置かれている。


 そのページには、葵の字で一文が残っている。


 半分に削るのではなく、大事な意味を別の場所に移せた。


 その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ