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旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


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第29章 第2話:衝突の授業――正しい意見がぶつかる机


 会議室の机の上には、まだ新しい運営ルール案が置かれていた。


 地域学習センターの二階。窓の外では、夕方の光がビルの壁に反射している。下の広場からは、小学生の笑い声と、誰かが自転車を止める金属音が聞こえた。


 初回の「よりみち縁側」まで、あと少し。


 前回の準備会で、青柳さんたちは二時間の時間割を見直した。


 全部を入れない。


 でも、消さない。


 今入れるもの、次に残すもの、入口だけ作るもの、掲示で残すもの。


 そう分けたことで、ようやく初回の形が見え始めていた。


 今日は、その運営ルールを決める会議だった。


 机の上には、青柳さんが作った案が並んでいる。


『受付で名前を確認する』

『初回参加者は緊急連絡先を記入する』

『相談内容が重い場合は職員につなぐ』

『帰宅時間を確認する』

『小学生は保護者の連絡先を確認する』

『個人情報は職員管理とする』


 紗良は、司会席に座っていた。


 生徒会長として、学校側の参加者をまとめる役割がある。


 円卓の一角には、美咲がいる。初回のにぎやかな活動を担当する予定だ。真央も隣に座っている。少し離れた場所には、彩花が役割札のケースを持って座っていた。


 地域側には、青柳さんと佐伯先生。


 湊は、少し後ろの「名前のない席」に近い場所に座っている。中心ではないが、場から消えない距離。聞かれたら答えるが、先に奪わない席。


 白瀬灯理は、窓際の椅子に座っていた。


 黒い上着に、使い込まれた革の鞄。


 紗良は、会議ノートを開いた。


 ページの端には、前に自分で書いた言葉がある。


『沈黙を急いで埋めない』

『考える時間を取る』

『違う意見が出ても、すぐにまとめすぎない』


 今日は、沈黙ではなかった。


 むしろ、意見ははっきり出そうだった。


 だからこそ、紗良は少し緊張していた。


「では、よりみち縁側の運営ルールについて確認します」


 紗良は、できるだけ落ち着いた声で言った。


「まず、青柳さんから案をお願いします」


 青柳さんが資料を見ながら説明する。


「初回は、いろいろな参加方法を選べる場にします。ただ、センターで開催する以上、誰が来ているか、緊急時に誰へ連絡するかは把握したいです」


 青柳さんは、紙を一枚めくった。


「特に小学生や中学生が参加する場合、帰宅時間や保護者連絡先の確認が必要です。また、相談内容が深刻な場合は、ボランティアだけで抱えず、職員か学校へつなぐルールも必要です」


 佐伯先生が頷いた。


「安心して来られる場にするためにも、最低限の見守りは必要だと思います」


 美咲は、少し眉を寄せていた。


 紗良は、それに気づいた。


「美咲さん、何かありますか」


 美咲は、少し迷ってから手を挙げた。


「あります」


「お願いします」


「受付で名前とか連絡先とか、いろいろ聞かれると、入りにくくないですか」


 美咲は、資料を見ながら言った。


「せっかく学校じゃない場所なのに、最初から書類みたいなのがあると、なんか学校っぽいです」


 青柳さんが顔を上げる。


 美咲は続けた。


「よりみち縁側って、自由に来られる場所にしたかったんですよね。今日はゲームだけ、今日は見るだけ、今日はちょっとお茶だけ、みたいな。なのに、受付で細かく聞かれたら、『ちゃんと参加しないとだめなのかな』って思う人もいると思います」


 真央も小さく頷いた。


「名前を言うのが苦手な人もいるかもしれません」


 青柳さんは、少し困った顔をした。


「もちろん、入りやすさは大切です。ただ、こちらとしても誰が来ているかわからないままでは、何かあった時に対応できません」


 佐伯先生も口を開いた。


「自由だけでは守れない子もいます。相談内容が深くなった時、誰が受け止めるのか。帰る時間を過ぎても帰らない子がいた時、誰に連絡するのか。それは事前に決めておく必要があります」


 美咲の表情が硬くなった。


「でも、それって管理されてる感じがします」


「管理したいわけではありません」


 佐伯先生の声も、少し強くなった。


「守るためです」


「でも、守るって言われると、全部大人が決めるみたいに聞こえます」


 会議室の空気が張り詰めた。


 彩花が、役割札のケースを握り直す。


 青柳さんは資料を見つめている。


 佐伯先生は、美咲を責めているわけではない。けれど、安全の必要性を譲れない顔だった。


 美咲も、大人を困らせたいわけではない。けれど、自由さが失われることへの不安を譲れない顔だった。


 紗良は、喉が少し乾くのを感じた。


 どちらもわかる。


 美咲の言う通り、入口が重くなれば、来にくくなる人がいる。


 学校ではない場所だからこそ、自由に座れて、自由に過ごせる空気が必要だ。


 でも、佐伯先生の言う通り、何かあった時に誰もつなげられない場は危ない。


 相談が重くなった時、ボランティアが一人で抱えてしまうのも危険だ。


 どちらも正しい気がする。


 どちらかを選べば、もう片方を切り捨てる気がする。


 紗良は、会議ノートの上でペンを止めた。


「先生」


 思わず、灯理を見た。


「はい」


「どちらも正しい気がする時、司会はどちらを選べばいいんですか」


 声にした瞬間、自分がかなり焦っていることに気づいた。


 司会は、まとめなければいけない。


 決めなければいけない。


 衝突した意見を、どちらかに寄せなければいけない。


 そう思っていた。


 灯理は、紗良の言葉を静かに受け止めた。


 そして、問いを返した。


「うん。では、衝突している意見は、どちらかが間違っているからぶつかるのでしょうか」


 会議室が静かになった。


 美咲は、少しだけ視線を落とした。


 佐伯先生も、資料から顔を上げた。


 どちらかが間違っているから。


 そう考えると、会議は勝ち負けになる。


 自由が正しいのか。


 安全が正しいのか。


 入りやすさが正しいのか。


 見守りが正しいのか。


 でも、今ぶつかっている意見は、単純にどちらかが間違っているようには見えなかった。


 灯理は、中央に大きな紙を広げた。


 そこには、こう書かれている。


『意見の奥にある守りたいもの』


 灯理は言った。


「まず、意見そのものではなく、その奥で何を守りたいのかを書いてみましょう」


 紙の左側に、美咲たち生徒側の意見。


 右側に、青柳さんや佐伯先生たち運営側の意見。


 中央に、『重なる場所』という欄。


 紗良は、ホワイトボードに同じ表を書いた。


「美咲さんの意見から整理します」


 美咲は、少し考えて言った。


「自由に来られること」


 紗良が書く。


『自由』


「受付で緊張しないこと」


『入りやすさ』


「学校っぽくないこと」


『学校っぽくない場』


「今日は見るだけ、とか、お茶だけでもいいって思えること」


『参加方法を選べる』


 真央が付け加えた。


「名前を大きな声で言わなくてもいいこと」


『名前を言わなくてよい方法』


 美咲は、少しずつ言葉を足した。


「失敗しても、ちゃんとしなくても、いられる感じ」


『気軽さ』


 紗良は、次に佐伯先生を見た。


「佐伯先生の守りたいものは何ですか」


 佐伯先生は、少し間を置いた。


「安全です」


 紗良が書く。


『安全』


「何かあった時につなげること」


『緊急時対応』


「相談が重くなった時、子どもやボランティアが一人で抱えないこと」


『支援につなぐ責任』


「来ている子が帰る時間を過ぎた時、確認できること」


『帰宅確認』


 青柳さんも続けた。


「センターとして、利用者を把握する責任があります」


『利用者把握』


「個人情報をきちんと管理すること」


『個人情報管理』


 彩花が、少し手を挙げた。


「私は、両方わかります」


 紗良が頷く。


「お願いします」


「受付が重いと、たしかに入りにくいです。でも、何も確認しないと、ボランティアとしても怖いです。相談された時に、どこまで聞いていいのか、誰につなぐのか決まっていないと、支える側も抱えすぎます」


 彩花は、役割札を机に置いた。


「自由さと、支える人を守る仕組みは、両方必要だと思います」


 紗良は中央の欄に書いた。


『安心して自由にいられる』

『困った時につながれる』

『支える側も抱えすぎない』


 湊は、後ろの席から静かに言った。


「言葉の問題もあるかもしれない」


 紗良が振り返る。


「言葉?」


「『受付で確認します』だと、管理される感じがする。でも、『困った時につなぐためのカードです』だと、少し意味が違って聞こえる」


 青柳さんが頷いた。


「確かに」


 美咲も、少し考えた。


「『緊急連絡先を書いてください』だけだと、急に書類って感じです」


 佐伯先生が言った。


「でも、必要な情報ではあります」


「はい」


 美咲はすぐに否定しなかった。


「必要なのはわかります。でも、なんで必要なのか書いてあるといいかも」


 灯理は、別のカードを出した。


『譲れること』

『譲れないこと』

『言葉を変えること』

『形を変えること』


 紗良は、それをホワイトボードに写した。


「では、譲れないことから確認します」


 佐伯先生は言った。


「緊急時に連絡できる方法は必要です。これは譲れません」


 青柳さんも頷く。


「利用者の人数と滞在状況を把握することも必要です」


 美咲は言った。


「名前をみんなの前で言わされるのは嫌です。これは譲りたくないです」


 真央も言った。


「受付で長く話さないと入れない形も、少し困ります」


 紗良は書く。


『譲れないこと』

・緊急連絡先は必要

・誰が来ているか把握する

・名前を大声で言わない

・受付で長く話さなくても入れる


 次に、譲れること。


 美咲は、少し考えた。


「紙を書くこと自体は、理由がわかれば大丈夫かも」


 真央が言った。


「書く場所が、みんなに見えないなら」


 佐伯先生は言った。


「受付で詳しく聞く必要はないかもしれません。必要な情報を封筒で預かる形なら」


 青柳さんが続けた。


「初回だけ記入して、次回からは確認だけにすることもできます」


 彩花が言った。


「参加方法は、本人がカードで選ぶ。受付の人が質問攻めにしない」


 紗良は、少しずつ表が埋まっていくのを見た。


 衝突していた意見の奥に、それぞれ守りたいものが見えてくる。


 自由。


 入りやすさ。


 安全。


 見守り。


 気軽さ。


 緊急時対応。


 学校っぽくない場。


 支援につなぐ責任。


 それらは、完全に同じではない。


 でも、重なる場所がある。


 安心して自由にいられる場。


 困った時につながれる場。


 支える側も抱えすぎない場。


 紗良は、少しだけ呼吸が楽になった。


「では、具体的な形を考えます」


 青柳さんが、新しい紙を出した。


 灯理が言った。


「入口の名前を変えてみてもよいかもしれませんね」


 美咲がすぐに顔を上げた。


「受付じゃなくて?」


「はい」


 彩花が言った。


「『ようこそカード』はどうですか」


 美咲は少し笑った。


「それなら、ちょっと柔らかい」


 青柳さんが書く。


『ようこそカード』


 カードには、こう書くことになった。


『今日はどう過ごしますか?』


 選べる欄。


『話す』

『書く』

『見るだけ』

『にぎやかな活動』

『静かな作業』

『お茶』

『相談したい』

『休憩したい』


 名前は、受付で口に出さず、カードに自分で書く。


 呼ばれたい名前でもよい。


 ただし、緊急連絡カードは別。


 初回だけ、封筒に入れて職員へ渡す。


 封筒には、こう書く。


『困った時につなぐためのカードです』

『普段は開けません』

『職員が管理します』


 美咲は、その文言を見て頷いた。


「これなら、なんで必要か少しわかります」


 佐伯先生も言った。


「緊急時の連絡先は確認できますね」


 次に、相談が重くなった時のルール。


 彩花が言った。


「ボランティアが一人で聞き続けないように、最初から掲示した方がいいです」


 青柳さんが書く。


『相談が重くなった時は、職員につなぎます』

『一人で抱えないためのルールです』

『話したくないことは話さなくて大丈夫です』


 美咲は、その言葉を読んだ。


「職員につなぎます、だけだと少し怖いけど、『一人で抱えないため』って書いてあると違うかも」


 佐伯先生が頷く。


「守るためのルールは、本人にも意味を説明する必要がありますね」


 席についても決めた。


 自由席。


 静かな席。


 見るだけ席。


 名前のない席。


 相談したい時に使える職員近くの席。


 ただし、誰がどこに座っているかをこっそり管理するのではなく、入口で本人が選べるようにする。


 帰る時は、ようこそカードを返す。


 それで、誰がまだセンター内にいるかを確認できる。


 美咲が言った。


「帰る時にカード返すなら、受付でずっとチェックされてる感じじゃないですね」


 青柳さんは頷いた。


「はい。必要な確認だけにしましょう」


 紗良は、会議ノートにまとめていく。


『守りたいもの』

自由、入りやすさ、安全、つなぐ責任、気軽さ、支える側の安全。


『形』

ようこそカード。

緊急連絡カードは封筒。

参加方法は本人が選ぶ。

受付で名前を呼び上げない。

相談が重い時は職員へ。

帰る時にカードを返す。

自由席、静かな席、見るだけ席、名前のない席。


 会議室の空気は、最初より少し柔らかくなっていた。


 美咲は、佐伯先生の方を見た。


「先生」


「はい」


「さっき、私、守るって言われると全部大人が決めるみたいって言いました」


「はい」


「でも、困った時につなげるためって言われると、ちょっと違う気がしました」


 佐伯先生は、静かに頷いた。


「私も、自由という言葉を少し怖く受け取りすぎていたかもしれません。何も確認しないという意味ではなく、本人が過ごし方を選べるという意味なのですね」


 美咲は頷いた。


「はい」


 彩花が、小さく笑った。


「少し重なりましたね」


 紗良は、その言葉を聞いて、ホワイトボードの中央欄を見た。


 重なる場所。


 最初は空白だったそこに、今はいくつもの言葉が並んでいる。


『安心して自由にいられる』

『困った時につながれる』

『支える側も抱えすぎない』

『理由がわかるルール』

『選べる入口』


 衝突が消えたわけではない。


 自由と安全は、これからも緊張し続けるだろう。


 でも、どちらかを勝たせるだけではない形が見えた。


 会議の終わりに、紗良は参加者へ確認した。


「今日決めたルールは、初回で試して、振り返りで見直します。うまくいかなければ、次に変えます」


 青柳さんが頷いた。


「はい。第1版として扱いましょう」


 湊が、名前のない席から少しだけ手を挙げた。


「ルールの横に、『なぜ必要か』を書いておくといいと思います。形だけ残ると、また管理っぽくなるかもしれないので」


 紗良は、少し笑った。


「それは助言?」


「聞かれてないけど、短めの助言」


「今回は採用します」


 会議室に小さな笑いが生まれた。


 湊は、すぐに姿勢を戻した。


 前に出すぎない距離。


 でも、必要な知恵は場に置く。


 紗良は、その距離にも少し助けられていた。


 会議後、紗良は一人で会議ノートを開いた。


 今日のページは、矢印と丸でいっぱいだった。


 自由。


 安全。


 入りやすさ。


 見守り。


 気軽さ。


 緊急時対応。


 学校っぽくない場。


 支援につなぐ責任。


 ぶつかった言葉を見ていると、最初の空気の張り詰めた感じを思い出す。


 あの瞬間、司会としてどちらかを選ばなければと思った。


 でも、選ぶ前に、見える場所へ置くことができた。


 意見の奥にある、守りたいもの。


 それが見えると、言葉や形を変えられる。


 紗良は、ページの下に一文を書いた。


『ぶつかった意見の奥には、どちらも守りたいものを持っていた』


 ペンを置くと、胸の奥が少し静かになった。


 衝突は、これからも起きる。


 場を作れば、きっと何度でもぶつかる。


 でも、衝突したから失敗ではない。


 ぶつかった場所には、守りたいものがある。


 それを見ずに勝ち負けにすると、どちらかが黙る。


 見える場所へ置けば、重ね方を探せる。


 夜、白瀬灯理は地域学習センターを出た。


 ガラス扉の向こうには、まだ会議室の明かりが残っている。ホワイトボードには、『守りたいもの』という文字と、自由、安全、つながる、選べる、という言葉が並んでいた。


 青柳さんが、玄関まで見送りに来た。


「白瀬先生、ありがとうございました」


「こちらこそ、衝突の中にある大切なものを一緒に見せていただきました」


 青柳さんは、資料を胸に抱えたまま言った。


「最初、美咲さんに反対された時、少し焦りました」


「はい」


「でも、自由を大事にしたいという声がなければ、私たちのルールは管理的に見えたかもしれません。安全を守る理由を、参加者に伝える必要にも気づけませんでした」


 少し離れた廊下で、美咲と真央が「ようこそカード」の色を選んでいる。


 佐伯先生は、相談を職員につなぐ時の文面を彩花と確認していた。


 紗良は湊に何かを見せ、湊は頷くだけで返している。


 衝突を学ぶことは、どちらが正しいかを急いで決めることではない。


 もちろん、決めなければならない場面はある。


 安全のために譲れないこともある。


 自由を守るために譲ってはいけないこともある。


 でも、意見がぶつかる時、そこには単なる間違いではなく、互いが守りたいものがあることが多い。


 入りやすさ。


 安全。


 気軽さ。


 見守り。


 信頼。


 個人情報。


 学校っぽくない場。


 支援につなぐ責任。


 それぞれが別の方向から、場を大切にしようとしている。


 だから、意見をすぐに裁かず、奥にあるものを書く。


 譲れることと譲れないことを分ける。


 言葉を変える。


 形を変える。


 理由を説明する。


 重なる場所を探す。


 衝突は、場が壊れる音だけではない。


 まだ見えていなかった大事なものが、机の上に出てくる音でもある。


 灯理は、夜の地域学習センターを振り返った。


 会議室の机には、紗良の会議ノートが置かれている。


 そのページには、紗良の字で一文が残っている。


 ぶつかった意見の奥には、どちらも守りたいものを持っていた。


 その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。

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