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旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


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第28章 第3話:当事者の授業――代わりに語られる席


 紬は、会議室の椅子に座っていた。


 窓の外では、午後の光が校庭に落ちている。体育の授業を終えた生徒たちが、白線の上をゆっくり歩いていた。遠くで笛の音が鳴り、砂の匂いを含んだ風が、少しだけ開いた窓から入ってくる。


 会議室の机は、長方形に並べられていた。


 紬の前には、水の入った紙コップと、いつもの見守りカードが置かれている。


 カードの端には、何度も見返した言葉があった。


『ここまで来られましたね』

『今日はどこまでにしますか』

『戻れなかった日も、地図から消えません』


 その文字を見ると、少しだけ呼吸がしやすくなる。


 でも、今日は校門ではない。


 別室でもない。


 支援ミーティング。


 紬のこれからの登校について、大人たちが集まって話す日だった。


 会議室には、担任の井沢先生、養護教諭の佐伯先生、若手の河合先生、紬の母、そして白瀬灯理がいた。


 灯理は黒い上着を着て、使い込まれた革の鞄を足元に置いている。


 紬は、灯理がいることに少し安心していた。


 それでも、緊張は消えない。


 自分のことを話す場。


 自分がそこに座っているのに、うまく話せる気がしない場。


 井沢先生が、資料を開いた。


「では、紬さんの今後の登校について確認します」


 紙をめくる音がした。


「現在は、校門、昇降口、保健室、別室、図書室前まで行ける日が増えています。教室の入口までは、放課後に一度行けました」


 紬は、膝の上で手を握った。


 教室の入口。


 あの日のことを思い出す。


 放課後の教室は、空っぽだった。


 机が並んでいて、自分の席も見えた。


 でも、入れなかった。


 入れなかったけれど、入口まで行けた。


 その両方が本当だった。


 井沢先生は続けた。


「次の段階として、短時間なら教室に入る練習も考えられるかと思います。朝の会だけ、あるいは一時間目の前に数分だけ」


 母が、すぐに顔を上げた。


「朝の会に入れたら、だいぶ安心ですね」


 安心。


 その言葉に、紬の胸が少し縮んだ。


 母は安心したいのだと思う。


 紬が学校へ行けるようになったと、目に見える形で知りたいのだと思う。


 それは、責められない。


 母は、紬が朝、布団から出られなかった日も、玄関で立ち尽くした日も、何も言えずに泣いた日も見てきた。


 母も不安だった。


 でも、朝の会。


 人がいる教室。


 席に座る視線。


 名前を呼ばれる声。


 それを想像すると、紬の喉が少し詰まった。


 佐伯先生が、紬の表情を見て言った。


「ただ、紬さんはまだ人の視線が強く不安になることがあります。教室に入る前に、廊下を通る練習や、放課後の教室確認をもう少し重ねた方がよいかもしれません」


 紬は、少し安心した。


 佐伯先生はわかってくれている。


 でも、同時に、少し苦しくもなった。


 自分のことを、佐伯先生が話している。


 自分は、そこに座っているのに。


 井沢先生が頷く。


「そうですね。ただ、学習の遅れも心配です。別室でできることは増えていますが、クラスとのつながりも少しずつ戻したいです」


 母が言った。


「給食はどうでしょう。みんなと食べるのは難しいかもしれませんが、少しだけでも」


 紬の指が、紙コップの縁に触れた。


 給食。


 におい。


 机を向かい合わせる音。


 「いただきます」の声。


 誰かがこちらを見る気配。


 食べられなかったらどうしよう。


 涙が出たらどうしよう。


 佐伯先生が、また口を開いた。


「給食は、今の紬さんにはまだ負担が大きいと思います」


 母は少し表情を曇らせた。


「でも、家では食べられる日も増えていますし」


「学校の給食時間は、家とはかなり違います」


「そうですよね。ただ、ずっと別室で食べるわけにも」


 大人たちの声が、机の上を行き交う。


 教室。


 朝の会。


 給食。


 廊下。


 学習。


 別室。


 視線。


 母の安心。


 先生の心配。


 言葉が、紬の周りを回っている。


 どれも、紬のための言葉なのだと思う。


 でも、その真ん中に、紬の声はなかった。


 河合先生が、小さく手を挙げた。


「紬さん本人に、今の感じを聞いてみるのはどうでしょうか」


 その瞬間、全員の視線が紬に向いた。


 紬は、息を止めた。


 急に自分の番が来た。


 何か言わなければならない。


 教室は怖いです。


 でも、入口までは行ってみたいです。


 給食はまだ無理です。


 でも、図書室前から教室の廊下を通る練習ならできるかもしれません。


 頭の中には、断片があった。


 でも、声にならない。


 井沢先生が優しく聞いた。


「紬さん、どうですか」


 母も、少し身を乗り出した。


「紬、言える?」


 言える?


 その言葉が、紬の胸をさらに固くした。


 言いたいことはある。


 でも、今すぐ言える形になっていない。


 佐伯先生が助けるように言った。


「紬さんは、急に聞かれると答えにくいと思います。今は、教室よりも廊下の練習からの方が」


 紬は、佐伯先生の声を聞きながら、視線を落とした。


 守ってくれている。


 でも、また自分の代わりに話が進んでいく。


 紬は、見守りカードの端を指で押さえた。


 今日はどこまでにしますか。


 そのカードには、そう書いてある。


 でも、この会議では、どこまでにするかを自分が選んでいる感じがしなかった。


 会議が一度休憩になった時、紬は廊下に出た。


 佐伯先生がそばに来る。


「紬さん、大丈夫ですか」


 紬は、いつものように「大丈夫」と言いかけた。


 でも、言えなかった。


 廊下の窓から、校庭の声が聞こえる。


 紬は、見守りカードを握ったまま、小さく言った。


「先生」


「はい」


「私のことなのに、私がいないみたいでした」


 佐伯先生の表情が、少し揺れた。


 紬は、言ってから胸が痛くなった。


 佐伯先生を責めたいわけではない。


 母を責めたいわけでもない。


 先生たちは、紬のために話してくれている。


 それはわかっている。


 でも、苦しかった。


 白瀬灯理が、少し離れたところでその言葉を聞いていた。


 灯理は、紬の前にしゃがむでもなく、見下ろすでもなく、少し横に立った。


「紬さん」


「はい」


「今の言葉を、会議の中で扱ってもよいですか。紬さんが直接言わなくてもかまいません。紙に書いても、カードにしても、私が読む形でもよいです」


 紬は、灯理を見た。


 今すぐ、みんなの前で言わなくてもいい。


 それだけで、少し息が戻る。


「紙に」


 紬は言った。


「紙に書きたいです」


 会議室に戻ると、灯理は机の中央に大きな紙を置いた。


 そこには、まだ何も書かれていない。


 灯理は、最初に紬へ小さなカードを渡した。


『今は聞くだけ』

『後で書いて伝える』

『その案はまだ怖い』

『試してみたい』

『今日はここまで』

『休憩したい』

『自分で言います』

『誰かに読んでほしい』


 紬は、そのカードを見た。


 言葉が、選べる形になっている。


 全部を自分で作らなくてもいい。


 今の自分に近い言葉を、選ぶことができる。


 紬は、『後で書いて伝える』と『その案はまだ怖い』のカードに指を置いた。


 灯理は頷いた。


 そして、会議室の大人たちに向き直った。


「少し、会議の進め方を見直してみませんか」


 井沢先生が、姿勢を正した。


 母も、紬の方を心配そうに見た。


 灯理は、黒板に書いた。


『誰が何を話したか』


 その下に、さっきの会議で発言した人の名前を書いていく。


 井沢先生。


 母。


 佐伯先生。


 井沢先生。


 母。


 佐伯先生。


 河合先生。


 井沢先生。


 佐伯先生。


 母。


 紬の名前は、一つもなかった。


 会議室が静かになった。


 佐伯先生は、表情をこわばらせた。


 井沢先生は、資料を見つめた。


 母は、唇に手を当てた。


 灯理は言った。


「皆さんが紬さんのために真剣に考えていたことは、確かです」


 誰も否定されているわけではなかった。


 それでも、紙の上に名前が並ぶと、見える。


 本人のための会議で、本人の声がほとんどなかった。


 紬は、自分の名前がない紙を見た。


 少し胸が痛かった。


 でも、同時に、ほっとした。


 苦しかった理由が、紙の上に出た気がした。


 佐伯先生が、静かに言った。


「私、紬さんを守りたくて、代わりに話していました」


 紬は、佐伯先生を見た。


「でも、代わりに話しすぎると、紬さんが言う場所を取ってしまうことがあるんですね」


 佐伯先生の声は、少し震えていた。


「ごめんなさい」


 紬は、首を横に振った。


 謝ってほしかったわけではない。


 でも、佐伯先生が気づいてくれたことは、嬉しかった。


 母も、俯いたまま言った。


「私は、安心したかったんだと思います」


 紙コップの水面が、少し揺れている。


「紬が教室に戻るとか、給食に入るとか、目に見える形があれば、大丈夫に近づいていると思える気がして」


 母は、紬を見た。


「でも、それは私の安心で、紬の今の怖さとは違うかもしれないね」


 紬は、何も言えなかった。


 でも、母の言葉を聞いて、少しだけ肩の力が抜けた。


 灯理は、次の紙を広げた。


 中央に、こう書かれている。


『本人の声から始める支援地図』


 周りには、いくつもの欄があった。


『今行ける場所』

『まだ怖い場所』

『試してみたい場所』

『今日は決めないこと』

『大人が提案したいこと』

『本人が選ぶ方法』

『休憩カード』

『後で伝えること』

『仮の一歩』

『戻れなかった時の戻り方』


 灯理は、紬に言った。


「紬さん、まず地図を作ってみましょう。話さなくても、カードを置くだけで大丈夫です」


 紬は頷いた。


 学校の簡単な見取り図が机の上に置かれた。


 校門。


 昇降口。


 保健室。


 別室。


 図書室前。


 教室の廊下。


 教室入口。


 自分の席。


 給食の教室。


 それぞれの場所に、色のカードを置く。


 緑。


『今行ける』


 黄色。


『練習中』


 青。


『試してみたい』


 赤。


『まだ怖い』


 灰色。


『今は考えない』


 紬は、ゆっくりカードを置いていった。


 校門、緑。


 昇降口、黄色。


 保健室、緑。


 別室、緑。


 図書室前、黄色。


 教室の廊下、青。


 教室入口、青と赤の間で迷った。


 紬は、カードを二枚重ねた。


 青と赤。


 試してみたい。


 でも怖い。


 自分の席、赤。


 給食の教室、灰色。


 母が、給食のところに灰色が置かれるのを見て、少し息を飲んだ。


 でも、何も言わなかった。


 紬は、それに気づいた。


 母が黙って待ってくれている。


 その沈黙は、少し安心できるものだった。


 次に、紬はカードを選んだ。


『その案はまだ怖い』


 そして、給食の教室の横に置いた。


 さらに、


『試してみたい』


 教室の廊下の横。


『後で書いて伝える』


 教室入口の横。


 灯理は、地図を見ながら言った。


「では、今日の会議は、この地図から始めましょう。大人の案は、この後に置きます」


 井沢先生が、資料を閉じた。


「わかりました」


 佐伯先生も頷いた。


 母は、紬の地図を見つめていた。


「紬、教室の廊下は試してみたいの?」


 紬は、少し考えた。


 声を出すのは怖い。


 でも、カードがある。


 紬は『自分で言います』のカードに指を置いた。


 そして、小さく言った。


「放課後なら」


 母は頷いた。


「放課後なら、なんだね」


「人が少ない時。図書室前から、教室の廊下を通るだけなら」


 井沢先生が、すぐにメモを取った。


「教室に入るのではなく、廊下を通る練習ですね」


 紬は頷いた。


「入口は、見るだけ」


「入らない」


「はい」


 河合先生が、そっと言った。


「同行は誰が安心ですか」


 紬は、少し迷った。


 佐伯先生。


 井沢先生。


 河合先生。


 灯理。


 誰でも同じではない。


 でも、前の章で見守りカードを使って、佐伯先生だけでなく、河合先生とも少し歩けるようになった。


 紬は、カードを見た。


『試してみたい』


 そして、河合先生の方を見た。


「河合先生と、佐伯先生が近くにいるなら」


 河合先生の顔が、少し明るくなった。


「はい。急かしません」


 佐伯先生も言った。


「私は少し離れた場所で待ちます」


 井沢先生は、教室入口について尋ねた。


「入口を見る日は、いつがよいですか」


 紬は、『後で書いて伝える』カードを置いた。


「今日は、決めない」


 井沢先生は、すぐに頷いた。


「わかりました。今日は決めません」


 母が、小さく言った。


「給食は、今は考えない?」


 紬は、灰色のカードを見た。


 今は考えない。


 その言葉があるから、言える。


「はい。今は考えない」


 母は、目を少し伏せた。


 でも、頷いた。


「わかった。お母さん、少し急いでた」


 紬は、母を見た。


 母は続けた。


「紬が早く楽になってほしいって思ってた。でも、早く見えることと、楽になることは同じじゃないね」


 紬の胸が、少し熱くなった。


 会議は、最初とは違う速度で進んだ。


 大人たちは、すぐに案を決めない。


 まず、紬の地図を見る。


 紬が選んだカードを見る。


 言葉が出ない時は待つ。


 カードで返せるようにする。


 井沢先生は、次のようにまとめた。


『仮の一歩』


一、今週は、放課後に図書室前から教室の廊下を通る練習を一回する。

二、教室には入らない。入口を見るだけ。

三、同行は河合先生。佐伯先生は少し離れて待つ。

四、終わった後、紬はカードかメモで感じたことを伝える。

五、次の一歩は、その感想を見てから決める。

六、給食については、今は決めない。

七、戻れなかった日も失敗にしない。


 紬は、その紙を見た。


 教室に入ること。


 給食に戻ること。


 それらが今日決められなかった。


 そのことに、ほっとしていた。


 代わりに、廊下を通る練習。


 入口を見るだけ。


 仮の一歩。


 それなら、試してみたいと思えた。


 会議の最後に、灯理は尋ねた。


「紬さん、今日の会議について、何か残したい言葉はありますか。今書いても、後で書いてもかまいません」


 紬は、支援地図の端に鉛筆を置いた。


 すぐには書けなかった。


 でも、会議室は待っていた。


 井沢先生も、母も、佐伯先生も、河合先生も、誰も先に言わなかった。


 その沈黙の中で、紬はゆっくり書いた。


『私の声は大きくなくても、私の席から始めてほしかった』


 書き終えて、紬はその紙を少しだけ前へ出した。


 佐伯先生が、静かに読んだ。


 母も読んだ。


 井沢先生は、メモを取る手を止めた。


 灯理は、その一文を見て頷いた。


 大きな声ではない。


 でも、紬の席から出た言葉だった。


 翌日の放課後。


 校舎の中は、少し静かだった。


 教室の方からは、部活動へ向かう生徒の声が遠く聞こえる。廊下には、掃除のあとに残った水拭きの匂いがかすかにあった。


 紬は、図書室前に立っていた。


 隣には河合先生。


 少し離れた場所に、佐伯先生がいる。


 河合先生は、見守りカードを持っている。


「今日は、図書室前から教室の廊下を通ります。教室には入りません。入口を見るだけです」


 紬は頷いた。


「途中で止まってもいいですか」


「もちろんです」


「戻ってもいいですか」


「戻っても、地図から消えません」


 紬は、少しだけ息を吸った。


 歩き出す。


 廊下の床が、上履きの下で小さく鳴る。


 教室が近づく。


 扉の窓が見える。


 中には、机が並んでいる。


 誰もいない。


 それでも、胸が強く鳴った。


 紬は、教室の入口の少し手前で止まった。


 河合先生も止まる。


 何も言わない。


 待っている。


 紬は、扉の窓から中を見た。


 自分の席は、見えなかった。


 でも、教室の空気は見えた気がした。


 まだ怖い。


 でも、今日はここまで来た。


「今日は、ここまで」


 紬は言った。


 河合先生は頷いた。


「はい。今日はここまで」


 少し離れた場所で、佐伯先生も頷いていた。


 別室に戻ると、紬は支援地図にカードを貼った。


 教室の廊下。


 青から黄色へ。


 試してみたい、から、練習中へ。


 教室入口は、まだ赤と青のまま。


 給食は灰色。


 それでいい。


 その日の記録には、紬自身のメモが添えられた。


『廊下は通れた』

『入口の前で止まった』

『中は見た』

『席までは見えなかった』

『心臓が速かった』

『今日はここまでと言えた』

『給食はまだ考えない』


 井沢先生は、そのメモを見て言った。


「この記録から、次を考えましょう」


 佐伯先生は頷いた。


「はい。まず紬さんの記録から」


 母には、写真ではなく、紬が書いた言葉のコピーが渡された。


 母は家でそれを読み、紬に言った。


「今日はここまで、って言えたんだね」


 紬は頷いた。


「うん」


「お母さんも、今日はここまでを覚える」


 その言葉に、紬は少しだけ笑った。


 数日後、支援ミーティングの進め方が変わった。


 会議の最初に、必ず本人の地図を見る。


 大人の案は、その後。


 本人が参加する時は、事前に議題を渡す。


 話す、書く、カードで選ぶ、誰かに読んでもらう、後で伝える、休憩する。


 その方法を最初に選べるようにする。


 会議の途中で止めるカードも作られた。


『今日はここまで』

『その話はまだ怖い』

『少し休みたい』

『後で書いて伝える』


 佐伯先生は、自分のノートに書いた。


『代弁する前に、本人が言える形を探す』


 井沢先生は、支援会議記録の一番上にこう書いた。


『本人の地図から始める』


 河合先生は、見守りカードに新しい欄を加えた。


『会議で使える言葉』


 母は、紬の支援地図を冷蔵庫ではなく、紬の机の横に置いた。


 みんなに見せるためではない。


 紬自身が、必要な時に確認できるように。


 夕方、灯理は中学校を出た。


 校門の前には、部活動を終えた生徒たちが自転車を押している。空は薄い橙色に染まり、校舎の窓に柔らかな光が残っていた。保健室の窓は少し開いていて、カーテンが静かに揺れている。


 佐伯先生が、玄関まで見送りに来た。


「白瀬先生、ありがとうございました」


「こちらこそ、本人の席から会議が始まる時間を一緒に見せていただきました」


 佐伯先生は、手元のノートを見た。


「私は、紬さんを守りたいと思っていました」


「はい」


「でも、守ることと、代わりに話し続けることは違うのですね。本人が言える形を作らずに代弁すると、紬さんの席を私が使ってしまうことになる」


 灯理は頷いた。


「はい」


 少し離れたところで、井沢先生が河合先生と支援地図を見ながら話していた。


「次回も、まず紬さんのカードからですね」


「はい。大人の案は後にしましょう」


 佐伯先生は、その声を聞いて、静かに息を吐いた。


「紬さんの声は、本当に小さい時があります。でも、小さいからないわけではないんですね」


「はい」


「聞く側が、方法と時間を作らないといけない」


 灯理は、校舎を振り返った。


 当事者の声を学ぶことは、本人に大きな声で話させることではない。


 もちろん、本人のことを思って話す大人の声には、善意がある。


 心配。


 期待。


 守りたい気持ち。


 早く安心したい気持ち。


 支えたい気持ち。


 それらは、間違いではない。


 けれど、本人のための会議で、大人の声だけが行き交う時、本人は自分の話し合いから少しずつ遠ざかってしまう。


 目の前に座っていても、いないように感じることがある。


 だから、本人の席から始める。


 事前に議題を知る。


 話すか、書くか、カードで選ぶかを選べる。


 休憩できる。


 後で伝えられる。


 その案はまだ怖いと言える。


 今は聞くだけ、と言える。


 今日はここまで、と止められる。


 本人の地図を見る。


 大人の案は、その後に置く。


 決定ではなく、仮の一歩にする。


 戻れなかった日も、地図から消さない。


 本人の声は、いつも大きく整っているわけではない。


 震えることもある。


 遅れることもある。


 紙の上に出ることもある。


 カードの一枚として出ることもある。


 それでも、その声は本人の席から出ている。


 支援は、そこから始める必要がある。


 灯理は、夕暮れの校舎を振り返った。


 会議室の机には、紬の支援地図が置かれている。


 その端には、紬の字で一文が残っている。


 私の声は大きくなくても、私の席から始めてほしかった。


 その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。

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