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旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


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第27章 第2話:先輩の授業――教えすぎる練習場


 体育館の床に、ボールの音が跳ねていた。


 だん、だん、だん。


 乾いた音が、夕方の体育館に重なる。


 窓の上の方から差し込む光は、少し黄色くなっていた。バスケットゴールの白いネットが揺れ、床には何本ものラインが交差している。シューズの底がこすれる音。笛の音。息を吐く声。


「芽衣、そこ右!」


 莉央は、コートの端から声を飛ばした。


 ボールを持った二年生の芽衣が、一瞬だけ莉央を見る。


「右、右! 今ドライブ!」


 芽衣は、言われた通りに右へ抜いた。


 ディフェンスの横を通り、シュートへ行く。


 ボールはリングに当たり、外へ弾かれた。


「リバウンド! 紗季、前に出て!」


 莉央は、すぐに次の声を出す。


「今の、パス出すの遅い。芽衣、見るのはリングだけじゃなくて、逆サイドも」


「はい!」


「紗季、スクリーン忘れてる。さっき言ったよね」


「はい!」


「美羽、立ち止まらない。動きながらもらう」


「はい!」


 返事は返ってくる。


 後輩たちは、莉央の声に反応して動く。


 莉央は、体育館の空気を見ていた。


 どこで詰まりそうか。


 誰が迷っているか。


 パスコースが消えそうなところ。


 ディフェンスが寄りすぎている場所。


 それらが、莉央にはよく見えた。


 だから、言う。


 後輩たちが困らないように。


 失敗しすぎて自信をなくさないように。


 自分たち三年生が引退した後、二年生たちがちゃんとチームを作れるように。


 莉央は、副キャプテンだった。


 キャプテンではないけれど、練習中の声かけや後輩の面倒を見る役割は、自然と莉央に集まっていた。


 顧問の小野先生もよく言う。


「莉央がいると、練習が締まるな」


 その言葉は、嬉しかった。


 頼られていると思った。


 でも最近、莉央の声は少し増えすぎていた。


「今のは止まらない!」

「パスフェイク入れて!」

「そこ、打たない!」

「戻って!」

「芽衣、迷ったら一回外!」


 芽衣は、言われた通りにボールを外へ出した。


 練習は、大きく崩れない。


 でも、莉央が一瞬水を飲むためにベンチへ下がった時だった。


 コートの中で、後輩たちの動きが止まった。


 ボールを持った芽衣が、右を見る。


 左を見る。


 莉央を見る。


 莉央は、水筒を手にしたまま、思わず言いかけた。


「そこは――」


「莉央」


 同級生の沙耶が、横から腕を軽く押さえた。


「今、黙ってみなよ」


「でも」


「見てみなって」


 芽衣は、ボールを持ったまま迷っていた。


 ディフェンスが寄ってくる。


 パスコースはある。


 けれど、誰も声を出さない。


 芽衣は、焦って無理なパスを出した。


 ボールは相手にカットされ、速攻になる。


「戻って!」


 莉央は、耐えきれず声を出した。


 後輩たちが一斉に走り出す。


 小野先生の笛が鳴った。


「一回止めよう」


 体育館に、はあはあと息の音が広がる。


 芽衣は、額の汗を拭きながら俯いていた。


「すみません」


 莉央は、すぐに言った。


「今のは、パスを焦りすぎ。芽衣は、相手が寄ってきたら逆サイドを見る。紗季は、もっと早く開いて。美羽は――」


「莉央」


 小野先生が、少し低い声で呼んだ。


 莉央は、言葉を止めた。


「はい」


「少し、後輩たちに話させよう」


 莉央は、息を飲んだ。


 後輩たちに話させる。


 でも、今の失敗の理由は見えている。


 言った方が早い。


 今直さないと、同じことを繰り返す。


 芽衣は困っている。


 莉央は、唇を結んだ。


 小野先生が、二年生たちへ声をかける。


「今の場面、自分たちで何が起きたか話してみよう」


 芽衣たちは、顔を見合わせた。


 誰もすぐに話し出さない。


 沈黙が落ちる。


 莉央の胸がむずむずした。


 言いたい。


 教えたい。


 沈黙を埋めたい。


 でも、沙耶が隣で小さく言った。


「ほら。莉央がいつも先に言うから、あの子たち自分で話す前に待っちゃうんだよ」


 莉央は、沙耶を見た。


「私のせいってこと?」


「せい、とは言ってない」


「でも、そういうことでしょ」


 沙耶は、少し困ったように肩をすくめた。


「莉央が悪いんじゃない。莉央が見えすぎるんだよ」


「見えたら言うでしょ」


「全部言うと、後輩が見る前に答えが来る」


 莉央は、言い返せなかった。


 コートの中では、芽衣がようやく口を開いた。


「私が、焦ってパスしました」


 紗季が続く。


「私、開くの遅かったです」


 美羽が言った。


「声、出してなかった」


 小野先生が頷く。


「では、次はどうしますか」


 芽衣たちは、また黙った。


 莉央は、拳を握った。


 次はどうするか。


 それを言えばいいのに。


 外へ出す。


 逆サイドを見る。


 声をかける。


 スクリーンを早くする。


 頭の中には、答えがいくつもある。


 でも、口を閉じていると、胸が苦しくなる。


 その日の練習後、体育館の床をモップで拭きながら、莉央はずっともやもやしていた。


 自分は後輩のために言っている。


 言わなければ、後輩たちが困る。


 引退まで、もう少ししかない。


 今のうちにできるだけ渡したい。


 それなのに、黙れと言われる。


 どうすればいいのか、わからなかった。


 翌日、体育館には白瀬灯理が来ていた。


 黒い上着に、使い込まれた革の鞄。


 今日は、部活動での先輩後輩の学びについて、小野先生と一緒に練習を見に来ている先生だった。


 灯理は、体育館の壁際で練習を見ていた。


 莉央は、いつもより声を抑えようとした。


 けれど、後輩が間違えそうになると、反射的に声が出る。


「芽衣、そこじゃない!」


 言ってから、しまったと思う。


 芽衣はすぐに足を止め、言われた方向へ動いた。


 練習は止まらない。


 うまくいったように見える。


 でも、芽衣の目はまた莉央を見ていた。


 練習後、小野先生がミーティングを開いた。


 体育館の端に、部員たちが円になって座る。


 床は少し冷たく、汗が引いた体にじわりと伝わった。


 灯理も、その円の少し外に座った。


 小野先生は言った。


「今日は、先輩の声かけについて考えたい」


 莉央の肩が強張る。


 みんなの前で言われるのは、少し恥ずかしかった。


 けれど、小野先生の声は責めるものではなかった。


「莉央は、よく後輩を見ている。助言も的確だ。それは大きな力です」


 莉央は、少しだけほっとした。


「ただ、今のチームに必要なのは、後輩たちが自分で判断する時間でもある」


 芽衣が、膝の上で指を組んだ。


 莉央は、芽衣を見た。


 芽衣は莉央と目が合うと、すぐに視線を落とした。


 灯理が、莉央に尋ねた。


「莉央さん」


「はい」


「後輩に声をかける時、どんな気持ちですか」


 莉央は、少し考えた。


「困らないようにしたいです」


「はい」


「間違ったまま覚えてほしくないし、試合で失敗したら自信なくすかもしれないし」


「はい」


「私たちが引退したら、二年生が中心になるので。今のうちに教えられることは教えたいです」


「はい」


 灯理は、静かに頷く。


 莉央は、胸の奥にあった焦りをそのまま言った。


「先生」


「はい」


「私が教えないと、後輩たちが困るんです」


 体育館の空気が、少しだけ止まった。


 それは、莉央の本音だった。


 自分が口を出しすぎているかもしれない。


 でも、教えなければ後輩が止まる。


 失敗する。


 困る。


 だから、言う。


 灯理は、莉央の言葉を受け止めた。


 そして、問いを返した。


「うん。では、先輩が教えることは、後輩が失敗する前に全部止めることなのでしょうか」


 莉央は、答えられなかった。


 失敗する前に止める。


 そうしていた。


 パスを間違える前に。


 動きが遅れる前に。


 判断に迷う前に。


 芽衣が困る前に、答えを渡していた。


 でも、その結果、芽衣は莉央を見る。


 自分で見る前に、莉央を見る。


 灯理は、大きな紙を広げた。


 中央には、こう書かれている。


『先輩の声かけ地図』


 その周りに、いくつかの欄があった。


『必要な助言』

『言いすぎている助言』

『後輩が自分で考える時間』

『失敗してよい練習』

『先輩が黙る時間』

『質問で返す声かけ』

『後輩だけの作戦タイム』

『練習後の振り返り』

『引退後に残したいもの』

『任せる段階表』


 莉央は、その紙を見た。


 声かけにも、地図がある。


 ただ「言う」か「黙る」かではない。


 どこで言うか。


 どこで待つか。


 どんな言葉なら考える余白が残るか。


 それを分けるのだ。


 最初に、莉央が普段言っている言葉を書き出した。


『そこ右』

『パス遅い』

『今は打たない』

『スクリーン忘れてる』

『戻って』

『逆サイド見て』

『止まらない』

『声出して』

『今ドライブ』

『一回外』

『その位置じゃない』

『もっと早く』


 付箋は、次々に増えた。


 沙耶が、少し苦笑した。


「莉央、めっちゃ言ってる」


「うるさい」


 莉央は言い返したが、自分でも驚いていた。


 こんなに言っていたのか。


 練習中の自分の声が、紙の上で見える。


 次に、『必要な助言』と『言いすぎている助言』に分けた。


 小野先生が言った。


「危険な時、怪我につながる時、ルール上すぐ修正が必要な時は、声をかける必要があります」


 莉央は、『必要な助言』へ置いた。


『危ない接触』

『ルール違反』

『怪我につながる動き』

『試合前に確認済みの約束』


 次に、『言いすぎている助言』。


 莉央は、少し迷った。


 全部必要に見える。


 でも、芽衣が小さな声で言った。


「莉央先輩」


「うん」


「『今ドライブ』とか『パス』とかは、ありがたいんですけど……言われると、その通りに動くので、自分で見なくなります」


 莉央は、胸を突かれたように感じた。


「嫌だった?」


 芽衣は、慌てて首を横に振った。


「嫌じゃないです。助かります。でも、莉央先輩がいない時、どうすればいいかわからなくなります」


 その言葉は、莉央の胸に重く落ちた。


 後輩が困らないように教えていた。


 でも、自分がいない時に困る形にしていたのかもしれない。


 灯理は、芽衣に尋ねた。


「芽衣さんは、どんな時間があると考えやすいですか」


 芽衣は、少し考えた。


「失敗してもすぐ止められない時間」


 莉央は、思わず芽衣を見た。


 芽衣は続けた。


「あと、自分たちで作戦を話す時間。最初は変でも、話してみたいです」


 沙耶が頷いた。


「それ、いいと思う」


 小野先生がホワイトボードに書いた。


『先輩が黙る五分間』


 莉央は、その文字を見て顔をしかめた。


「五分も?」


 沙耶が笑う。


「五分だけだよ」


「長いよ」


 灯理は微笑んだ。


「莉央さんにとっては、長い五分かもしれませんね」


 その言葉に、部員たちが少し笑った。


 でも、莉央にとっては本当に長く感じた。


 練習の中に、新しい時間が入った。


 後輩だけの三対三。


 三年生はベンチ。


 先輩は五分間、声を出さない。


 小野先生が笛を吹く。


「始め」


 芽衣がボールを持つ。


 莉央は、ベンチで膝の上に手を置いた。


 最初の三十秒で、もう言いたくなった。


 芽衣が右を見すぎている。


 紗季がスクリーンの位置を間違えている。


 美羽がパスを受ける動きに入っていない。


 莉央は、唇を噛んだ。


 芽衣が迷う。


 パスが少し遅れる。


 相手に触られ、ボールがこぼれる。


 莉央の体が前へ出そうになる。


 沙耶が隣で、小さく言った。


「黙る五分」


「わかってる」


「今、三十二秒」


「まだ?」


 沙耶が笑いをこらえた。


 コートの中で、芽衣がボールを拾い直す。


「ごめん、もう一回!」


 芽衣が、自分で声を出した。


 莉央は、はっとした。


 いつもなら、自分が「もう一回」と言っていた。


 芽衣が言った。


 次のプレー。


 紗季がスクリーンに入るタイミングを間違える。


 美羽がぶつかりそうになる。


「あ、違う、こっち!」


 紗季が自分で言った。


 ぎこちない。


 うまくいかない。


 でも、声が出始めている。


 莉央は、膝の上で握った手を少し緩めた。


 五分は長かった。


 後輩たちは何度も失敗した。


 パスミス。


 シュートミス。


 立ち止まる時間。


 誰も動かない沈黙。


 でも、五分の最後の一分、芽衣が言った。


「次、私が上で持つ。紗季は左でスクリーン。美羽は逆から出て」


 その声は、少し震えていた。


 でも、芽衣の声だった。


 笛が鳴った。


「終了」


 莉央は、息を吐いた。


 自分が走ったわけではないのに、汗をかいていた。


 小野先生が言った。


「後輩チーム、今の五分を自分たちで振り返って」


 芽衣たちは、円になった。


 最初は少し戸惑っていたが、すぐに話し始めた。


「私、見るの遅い」

「でも、最後の声はよかった」

「スクリーンの場所、決めてから始めた方がいい」

「莉央先輩がいないと静かになる」

「自分たちで声出さないと」


 莉央は、その会話を聞いていた。


 言いたいことはある。


 足したいこともある。


 でも、後輩たちが自分たちの言葉で話している。


 そこに、莉央の声が入っていない。


 なのに、練習は止まっていない。


 沙耶が、隣で小さく言った。


「育つ音、してる?」


 莉央は、少しだけ笑った。


「うるさい」


 でも、否定はしなかった。


 次の練習では、「質問で返す声かけ」を試した。


 莉央は、言いたいことを一度飲み込んで、問いに変える。


「芽衣、今どこが空いてた?」


 芽衣は、少し考える。


「逆サイドです」


「じゃあ、次はどう見る?」


「ボール持つ前に一回見ます」


「うん」


 別の場面。


 紗季がスクリーンの位置で迷う。


 莉央は「そこじゃない」と言いかけて、止める。


「紗季、味方はどこへ行きたいと思う?」


 紗季は、コートを見る。


「右に抜きたいなら、こっち?」


「試してみよう」


 失敗も増えた。


 でも、練習後の振り返りで、後輩たちの言葉も増えた。


 芽衣はノートに書いていた。


『莉央先輩に聞く前に、自分で一回見る』

『間違えても、次の作戦にする』

『声を出すのは怖いけど、出すと動きやすい』


 莉央も、部活ノートを開いた。


 そこには、新しい欄ができている。


『言った方がよかったこと』

『待ってよかったこと』

『質問に変えられたこと』

『後輩が自分で気づいたこと』


 莉央は書いた。


『危ない接触は止めた』

『芽衣のパスミスは待った』

『紗季のスクリーン位置は質問にした』

『芽衣が最後に自分で作戦を言った』


 書いてみると、教えないことは何もしないことではなかった。


 待つ。


 見る。


 質問する。


 後で振り返る。


 失敗が怪我や危険につながらないかだけは守る。


 その全部が、先輩の仕事だった。


 数日後、三年生と二年生の練習試合が行われた。


 二年生チームの中心は芽衣だった。


 莉央は相手チームとしてコートに立つ。


 試合が始まる。


 芽衣がボールを持つ。


 莉央は、ディフェンスにつきながら芽衣の目線を見る。


 以前なら、芽衣はすぐに莉央を見ていた。


 でも今日は違った。


 芽衣は、リングを見る。


 逆サイドを見る。


 味方の動きを見る。


 莉央を見るのではなく、コートを見ている。


 芽衣が声を出した。


「美羽、逆!」


 パスが通る。


 シュートは外れた。


 でも、美羽がリバウンドに入った。


「もう一回!」


 芽衣が叫ぶ。


 体育館に、その声が響いた。


 莉央は、ディフェンスに戻りながら胸の奥が少し熱くなった。


 まだうまくはない。


 判断も遅い。


 失敗も多い。


 でも、芽衣たちは自分たちで動き始めている。


 自分の声ではなく、自分たちの声で。


 練習後、芽衣が莉央のところへ来た。


「莉央先輩」


「うん」


「次の後輩だけの作戦タイム、私が進めます」


 莉央は、少し驚いた。


「できる?」


 言ってから、しまったと思った。


 芽衣は少しだけ笑った。


「できるかはわからないです。でも、やります」


 莉央は、言葉を飲み込んだ。


 できるかどうかを先に決めるのではない。


 やってみる。


 その余白を、先輩が残す。


「わかった」


 莉央は頷いた。


「困ったら?」


 芽衣は、少し考えて言った。


「まず、自分たちで一回話します。それでもわからなかったら、聞きます」


 莉央は、笑った。


「うん。それでいい」


 体育館の片づけが終わる頃、夕日が床に長く伸びていた。


 ボールをかごに入れる音。


 モップをかける音。


 後輩たちの笑い声。


 莉央は、部活ノートを開いた。


 今日の欄に、ゆっくり書く。


『先輩が黙る五分間』

『芽衣が自分で作戦を言った』

『後輩だけで声が出た』

『私は言いたかったけど、待った』

『待っている間も、見ていた』


 そして、最後に一文を書いた。


『教えない時間にも、後輩が育つ音がしていた』


 その文字を見て、莉央は少し息を吐いた。


 教えることは、好きだ。


 後輩ができるようになるのは嬉しい。


 自分が知っていることを渡したい。


 それは変わらない。


 けれど、渡すとは、全部を先に置いていくことではなかった。


 時には、空けること。


 黙ること。


 失敗を見守ること。


 問いで返すこと。


 自分で気づくまで待つこと。


 それも、渡すことだった。


 夕方、灯理は中学校を出た。


 体育館の窓には、まだ淡い光が残っている。床を拭き終えた生徒たちの声が、扉の向こうから遠く響いていた。外へ出ると、少し冷えた風が頬をなでた。


 小野先生が、体育館の鍵を閉めてから灯理の隣に来た。


「白瀬先生、ありがとうございました」


「こちらこそ、先輩が余白を渡す時間を一緒に見せていただきました」


 小野先生は、体育館を振り返った。


「莉央は、本当に後輩をよく見ています」


「はい」


「だからこそ、私は助かっていました。でも、莉央の声があることで、後輩たちが自分で判断する前に答えをもらっていたんですね」


 灯理は頷いた。


「はい」


「指導力を育てることと、任せる力を育てることは、両方必要ですね」


 少し離れたところで、莉央と芽衣が体育館シューズの紐を結び直していた。


 芽衣が何かを話し、莉央がすぐには答えず、コートの方を指して問い返している。


 芽衣は少し考え、それから自分の言葉で答えた。


 小野先生は、その様子を見て微笑んだ。


 先輩でいることを学ぶとは、後輩の失敗を全部消すことではない。


 もちろん、教えることは大切だ。


 危ない動きは止める。


 必要な技術は伝える。


 試合で困らないように経験を渡す。


 先輩の言葉に救われる後輩もいる。


 けれど、先輩が見えすぎる時、聞こえすぎる時、答えを早く出しすぎる時、後輩は自分の目でコートを見る前に、先輩を見るようになる。


 失敗する前に止められると、失敗から考える時間を持てない。


 困る前に答えをもらうと、困った時に自分たちで話す力が育ちにくい。


 だから、余白を残す。


 先輩が黙る五分間。


 後輩だけの作戦タイム。


 質問で返す声かけ。


 失敗してよい練習。


 練習後の振り返り。


 任せる段階表。


 それは、後輩を突き放すことではない。


 後輩が自分の足でコートに立つための、少し静かな支えだった。


 灯理は、夕暮れの体育館を振り返った。


 部活ノートのページには、莉央の字で一文が残っている。


 教えない時間にも、後輩が育つ音がしていた。


 その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。

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