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旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


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第27章 第1話:係の授業――最後まで持つ黒板消し


 真央は、休み時間のチャイムが鳴る前に立ち上がった。


 教室には、授業の熱がまだ残っている。


 窓から入る風に、チョークの粉がかすかに舞った。黒板には、算数の式が端までびっしり書かれている。分数の計算、線分図、赤いチョークで囲まれた「通分」の文字。


 クラスのみんなは、チャイムが鳴った瞬間に椅子を引いた。


「外行こうぜ」

「ドッジボールする人!」

「水飲んでくる」


 足音と声が、廊下へ流れていく。


 真央は、黒板消しを手に取った。


 灰色のフェルトには、白い粉が厚くついている。


 黒板の左端から、まっすぐ消す。


 上から下へ。


 粉が落ちないように、ゆっくり。


 端に残った赤チョークの跡は、少し力を入れてこする。


 黒板の下に落ちた粉を、雑巾で拭く。


 チョーク入れを確認する。


 白が三本、赤が一本、黄色が半分。


 白チョークを一本補充する。


 その間に、係の相方である蓮は、廊下で友だちと笑っていた。


「蓮くん」


 真央は、小さく呼んだ。


 でも、廊下の声にかき消された。


 蓮は振り返らず、階段の方へ走っていく。


 真央は、黒板消しをもう一度見た。


 今日も、蓮は忘れた。


 悪気があるわけではない。


 蓮は明るくて、すぐに友だちに呼ばれる。黒板係をさぼろうとしているというより、チャイムが鳴ると仕事のことが頭から飛んでいくのだ。


 最初は、真央も「次は一緒にやろうね」と言っていた。


 蓮も「ごめん、次やる」と言っていた。


 でも、その次も、そのまた次も、気づけば真央が消していた。


 先生は言った。


「真央さん、いつもきれいにしてくれてありがとう」


 その言葉は嬉しかった。


 自分が教室の役に立っている気がした。


 黒板がきれいだと、次の授業が始めやすい。


 チョークがそろっていると、先生が困らない。


 黒板消しが粉だらけだと、次に使う人が手を汚す。


 だから、真央はやった。


 毎時間。


 休み時間。


 給食前。


 放課後。


 黒板消しクリーナーの箱を開ける。


 中で黒板消しを左右に動かすと、ぶおん、と小さな音が鳴る。白い粉が中に吸い込まれていく。


 真央は、クリーナーの中の粉受けも確認した。


 もういっぱいになりかけている。


 給食前に捨てなければ。


「真央!」


 教室の入口から、美咲が顔を出した。


 髪を揺らして、息を少し弾ませている。


「外、行こう。ドッジ、人数足りないって」


「ごめん。黒板消してから」


「また?」


 美咲の声には、責めるというより、あきれが混じっていた。


「さっきも消してたじゃん」


「次、国語だから。線が残ってると先生困るし」


「蓮くんは?」


「……先に行った」


 美咲は、廊下の方を見た。


「蓮くーん!」


 大きな声で呼んだが、蓮はもういなかった。


 美咲はため息をついた。


「真央ばっかりじゃん」


「でも、係だから」


「係って、二人じゃないの?」


「そうだけど」


 真央は、黒板消しを動かした。


 白い粉が指につく。


「私がやらなかったら、黒板そのままだし」


「たまにはそのままでいいじゃん」


 美咲の言葉に、真央は首を横に振った。


「だめだよ。係だもん」


 美咲は、何か言いかけたが、廊下から呼ぶ声がして振り返った。


「美咲、来るの?」


「あー、行く!」


 美咲は、もう一度真央を見た。


「あとでね」


「うん」


 教室に、真央だけが残った。


 遠くから、校庭の声が聞こえる。


 ボールが弾む音。


 笑い声。


 走る足音。


 真央は、黒板の右上に残った薄い白い跡をこすった。


 きれいに消えると、少し安心した。


 でも、その安心の中に、ほんの少しだけ寂しさが混じっていた。


 給食前、真央はまた黒板の前にいた。


 四時間目の社会で、黒板いっぱいに地図が描かれていた。日本地図の輪郭、川の名前、山地の名前。消すのに時間がかかる。


 給食当番の子たちは、白衣を着て廊下に並び始めている。


「真央、配膳遅れるよ」


 美咲が言った。


「すぐ行く」


 真央は、黒板消しをクリーナーにかけた。


 その時、クリーナーの粉受けが少し外れて、白い粉が床にこぼれた。


「あっ」


 真央は慌てて雑巾を取りに行った。


 手が白くなる。


 床にしゃがみ込み、粉を拭き取る。


 給食の匂いが廊下から流れてきた。


 カレーだった。


 クラスがざわつく。


「今日カレーだ!」

「早く並ぼう」

「真央、まだ?」


 真央の胸が少し焦る。


 でも、粉を残したままにはできない。


 担任の三井先生が教室に戻ってきた。


「真央さん、また黒板消しクリーナーまでしてくれているのですね」


「はい」


「いつもありがとう。真央さんがいると、本当に助かります」


 先生の声は、やさしかった。


 真央は、嬉しいはずだった。


 でも、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がきゅっと苦しくなった。


 助かります。


 その言葉は、これまで何度も聞いた。


 聞くたびに、もっとちゃんとやらなきゃと思った。


 でも今日は、その「助かります」が、真央の手に持った雑巾を少し重くした。


「真央さん?」


 三井先生が、真央の顔をのぞき込む。


 真央は、慌てて立ち上がった。


「大丈夫です」


 そう言って、給食当番の列へ急いだ。


 カレーは、少し冷めていた。


 昼休みのあと、特別活動の時間があった。


 今日は、係活動の見直しをする日だった。


 教室の前には、黒い上着を着た白瀬灯理が立っている。使い込まれた革の鞄を机の横に置き、黒板を見上げていた。


 黒板はきれいだった。


 真央が消したからだ。


 三井先生が、クラスに言った。


「今日は、係の仕事について考えます。白瀬先生にも一緒に見てもらいます」


 灯理は、ゆっくり教室を見渡した。


「係は、教室をみんなで動かすための小さな役割です。今日は、役割を持つことと、役割を一人で持ちすぎることの違いを考えてみましょう」


 真央は、少しだけ背中を伸ばした。


 役割。


 係。


 自分のことを言われている気がした。


 最初に、各係が自分たちの仕事を書き出すことになった。


 配り係。


 掲示係。


 図書係。


 生き物係。


 黒板係。


 真央と蓮は、同じ紙の前に座った。


 蓮は、鉛筆を持って少し困ったように笑った。


「黒板係って、何書けばいい?」


 真央は、蓮を見た。


「何って……黒板消すとか」


「だよね」


 蓮は紙に書いた。


『黒板を消す』


 それだけ書いて、鉛筆を置きそうになった。


 真央は思わず言った。


「まだあるよ」


「え?」


「チョークの補充。黒板消しクリーナー。粉受け。黒板の下を拭く。日直が消し忘れた時の確認。次の授業の前に黒板が空いてるか見る。放課後にチョーク入れをそろえる」


 蓮は、目を丸くした。


「そんなにやってたの?」


 真央は、少しだけ唇を結んだ。


「うん」


「俺、黒板消すだけだと思ってた」


 その言葉に、真央の胸の奥で何かが小さくはじけた。


 黒板消すだけ。


 蓮にとってはそうだった。


 でも、真央にとっては違った。


 毎時間、粉を払うこと。


 休み時間が短くなること。


 給食に遅れること。


 美咲と遊べないこと。


 黒板が少しでも白く残っていると気になること。


 それらは、蓮には見えていなかった。


 見せていなかったのは、自分かもしれない。


 三井先生が、黒板係の紙を見に来た。


「たくさんありますね」


 蓮が言った。


「先生、俺、こんなにあるって知らなかった」


 三井先生は、真央を見た。


「真央さんが、ずっとやってくれていたのですね」


 真央は、頷いた。


 でも、言葉が出なかった。


 灯理が、少し離れたところから歩いてきた。


「真央さん」


「はい」


「係の仕事を書き出してみて、どう感じましたか」


 真央は、紙を見た。


 黒板を消す。


 チョークをそろえる。


 クリーナー。


 粉受け。


 床。


 確認。


 たくさんの文字。


「思ったより、いっぱいありました」


「はい」


「でも、係だから」


 その言葉は、いつものように出た。


 でも、今日は少し震えていた。


 灯理は、真央の声を急がせなかった。


 真央は、膝の上で手を握った。


「先生」


「はい」


「私がやらなかったら、係をさぼったことになりますか」


 教室の音が、少し遠くなった気がした。


 蓮が、真央を見ている。


 美咲も、離れた席からこちらを見ていた。


 真央は、胸の奥にあった問いを初めて外に出した。


 自分がやらなければ。


 黒板が白いままなら。


 チョークがなくなったら。


 クリーナーが粉でいっぱいになったら。


 係としてだめなのではないか。


 先生の「ありがとう」に応えられないのではないか。


 灯理は、真央の問いを静かに受け取った。


 そして、問いを返した。


「うん。では、責任を持つことは、最後まで一人で持ち続けることなのでしょうか」


 真央は、答えられなかった。


 責任を持つ。


 それは、一人でちゃんとやることだと思っていた。


 誰かが忘れても、自分が埋めること。


 最後まできれいにすること。


 黒板に跡を残さないこと。


 でも、一人で持ち続けた結果、自分は休み時間から消えかけていた。


 灯理は、黒板係の紙の隣に新しい紙を置いた。


 中央に書かれている。


『係の仕事を渡せる形にする地図』


 周りには、いくつかの欄があった。


『必ず必要な仕事』

『気づきにくい仕事』

『毎時間すること』

『一日一回でよいこと』

『二人で分けること』

『忘れた時の戻り方』

『手伝ってと言えること』

『代わりの人』

『チェック表』

『次の係へ渡すこと』


 灯理は言った。


「係の仕事が真央さんの頭の中にあるだけだと、真央さんが一人で持つことになります。仕事を見える形にすれば、他の人も持てるようになります」


 三井先生が頷いた。


「先生も、真央さんの丁寧さを褒めるだけで、どれだけの仕事をしていたか見ていませんでした」


 真央は、少し驚いて先生を見た。


 三井先生は、真央に向かって言った。


「真央さん、ありがとう。でも、ありがとうだけで終わらせてはいけませんでしたね」


 その言葉に、真央の胸が少し熱くなった。


 ありがとう。


 でも、それだけではない。


 次にどう分けるかを、先生も考えてくれる。


 係活動の時間、クラス全体で黒板係の仕事を見直した。


 まず、『毎時間すること』。


『黒板を消す』

『次の授業に必要なところを残すか先生に確認する』

『チョークの粉を下に落としすぎない』


 次に、『一日一回でよいこと』。


『チョーク補充』

『黒板消しクリーナー』

『粉受け確認』

『黒板下の雑巾がけ』


 蓮が、初めて手を挙げた。


「黒板消しクリーナーって、毎回じゃなくていいんですか」


 三井先生が言った。


「毎回でなくて大丈夫です。粉が多い時と、放課後に一回でよいでしょう」


 真央は、少し目を見開いた。


 毎回しなくていい。


 今まで、粉がついているたびに気になっていた。


 でも、全部を毎回完璧にしなくても、教室は回る。


 次に、『二人で分けること』。


 蓮が紙に書いた。


『一時間目と三時間目の後は蓮』

『二時間目と四時間目の後は真央』

『給食前は二人』

『放課後は交代』


 真央は、その字を見た。


 蓮の字は少し大きくて、線が跳ねている。


 でも、そこに蓮の名前がある。


 それだけで、少し肩が軽くなった。


 美咲が手を挙げた。


「黒板係じゃなくても、手伝っていいんですか」


 三井先生は、クラスに向かって尋ねた。


「どう思いますか」


 何人かが頷いた。


「忙しい時はいいと思う」

「給食前とか、早くした方がいいし」

「日直も黒板使うから、少し手伝える」


 灯理は、地図に新しい欄を足した。


『手伝いを頼める時』


 真央は、そこに書いた。


『給食前に間に合わない時』

『黒板いっぱいに書いてある時』

『係の一人が休んだ時』

『粉受けがいっぱいの時』


 そして、別の欄。


『手伝ってと言う言葉』


 真央は、少し迷った。


 手伝って。


 その一言が、なぜか難しい。


 自分の仕事を人に渡すようで、さぼっているようで。


 灯理は言った。


「練習してみますか」


 真央は、蓮を見た。


 蓮も、少し緊張した顔をしている。


「蓮くん」


「うん」


「給食前は、黒板消すの手伝ってほしい」


 言えた。


 言葉は小さかったけれど、確かに出た。


 蓮は、すぐに頷いた。


「うん。俺、忘れそうだから、チェック表見えると助かる」


 真央は、少しだけ笑った。


「忘れる前提なんだ」


「うん。俺、自信ある」


 クラスに笑いが起きた。


 蓮も笑っている。


 でも、その笑いは、真央を軽くする笑いだった。


 忘れるなら、戻れる仕組みを作ればいい。


 蓮を責めるだけではなく、真央が全部抱えるだけでもなく。


 黒板の横に、係チェック表が貼られた。


『黒板係チェック表』


一時間目後 蓮

二時間目後 真央

三時間目後 蓮

四時間目後 二人

放課後 交代


□ 黒板を消す

□ チョーク確認

□ クリーナーは放課後

□ 粉受けは金曜日

□ 忘れたら次の休み時間に戻る

□ 間に合わない時は「手伝って」と言う


 最後に、三井先生が大きく書いた。


『係は、人ではなく仕組みにする』


 真央は、その言葉をじっと見た。


 黒板係は、真央ではない。


 真央と蓮、チェック表、手伝いの言葉、忘れた時の戻り方。


 その全部で黒板係なのだ。


 翌日、一時間目が終わった。


 チャイムが鳴る。


 蓮は、いつものように立ち上がって廊下へ行きかけた。


「あ」


 真央が声を出す前に、蓮は黒板横のチェック表を見た。


「俺だ」


 蓮は、少し大げさに戻ってきた。


 黒板消しを手に取る。


 真央は、立ち上がりかけた。


 でも、足を止めた。


 蓮の番だ。


 任せる番だ。


 蓮は、黒板を消し始めた。


 少し雑だった。


 上の端に、チョークの白い線が残っている。


 真央の指が動きそうになる。


 消したい。


 あそこ、残ってる。


 次の授業で先生が気づくかもしれない。


 でも、蓮は一生懸命消している。


 美咲が、真央の隣に来た。


「外行こう」


 真央は、黒板を見た。


 白い跡。


 蓮。


 チェック表。


 休み時間。


 美咲。


 真央は、ゆっくり頷いた。


「行く」


 廊下へ出る前に、蓮が振り返った。


「真央、これでいい?」


 真央は、黒板を見た。


 白い跡は、少し残っている。


 でも、次の授業は始められる。


「うん。大丈夫」


「ほんと?」


「上の端、ちょっと残ってるけど、あとで見ればいいと思う」


 蓮は、黒板を見上げた。


「あ、本当だ。次、気をつける」


 それで終わった。


 真央が飛んでいって消さなくても、蓮は気づけた。


 完璧ではない。


 でも、渡せた。


 校庭に出ると、風が少し冷たかった。


 美咲がボールを投げてきた。


「真央、いくよ!」


 真央は、慌てて両手を出した。


 ボールが胸に当たって、少し後ろへよろめく。


「わっ」


 美咲が笑う。


「久しぶりすぎて下手になってる」


「うるさい」


 真央も笑った。


 休み時間に外で走るのは、久しぶりだった。


 息が弾む。


 靴の裏に砂がつく。


 教室の黒板が少し白く残っていることを、真央は何度か思い出した。


 でも、校庭の光の中で、その白い跡は少しずつ小さくなっていった。


 給食前、四時間目の社会が終わる。


 今日も黒板には地図が描かれていた。


 真央は、蓮と目を合わせた。


「二人の番」


「うん」


 二人で黒板の左右に分かれる。


 蓮は大きな面を消し、真央は細かい文字を消した。


 美咲が給食当番の白衣を着ながら言った。


「間に合いそう?」


 真央は、少し考えてから言った。


「粉受け、あとでにする」


 それを言った自分に、真央は少し驚いた。


 あとでにする。


 それでいい。


 今すぐ全部やらなくてもいい。


 蓮が言った。


「放課後、俺やるよ。粉受け」


「やり方わかる?」


「わかんない」


「じゃあ、一緒にやる」


「うん」


 給食の列に、真央は遅れずに並んだ。


 カレーの日ではなかったけれど、今日の味噌汁は温かかった。


 放課後、真央と蓮は黒板消しクリーナーの前にいた。


 真央は、粉受けの外し方を蓮に見せた。


「ここを持って、ゆっくり引く。勢いよくやるとこぼれる」


「昨日、こぼした?」


「……こぼした」


「そっか」


 蓮は、慎重に粉受けを外した。


 少しだけ粉が落ちた。


「あ」


「大丈夫。少しなら拭けばいい」


 真央は、雑巾を渡した。


 蓮が床を拭く。


 その姿を見て、真央は不思議な気持ちになった。


 今まで、自分だけが知っていたことを、蓮が覚えている。


 黒板係の仕事が、自分の中から少しずつ外へ出ていく。


 それは、寂しいような、楽なような、くすぐったいような感覚だった。


 三井先生が、教室の後ろから見ていた。


「二人でできましたね」


 蓮が言った。


「先生、粉受けってけっこう大事ですね」


「そうですね」


「俺、知らなかったです」


 三井先生は頷いた。


「知らない仕事は、ないものに見えてしまいますね」


 真央は、その言葉を聞いて、係ノートを開いた。


 黒板係のページに、今日のことを書く。


『蓮くんが一時間目の後に黒板を消した』

『上が少し白く残った』

『でも、次に気をつけると言った』

『休み時間に外で遊べた』

『給食前、粉受けはあとでにした』

『放課後、蓮くんに粉受けを教えた』


 最後に、少し迷ってから一文を書いた。


『黒板が少し白く残っても、私だけが消えなくてよかった』


 書いた文字を見て、真央は息を吐いた。


 黒板は、完璧ではなかった。


 でも、教室は困らなかった。


 蓮も気づけた。


 美咲と遊べた。


 給食に間に合った。


 係をさぼったわけではない。


 責任を捨てたわけでもない。


 自分だけが責任の形にならなくてよかったのだ。


 数日後、黒板係のチェック表には、蓮の字で書き込みが増えていた。


『金曜の粉受け、忘れそうなら昼に見る』

『チョークが短くなったら箱から出す』

『先生が残してと言ったところは消さない』

『迷ったら聞く』


 真央も、係ノートに「次の係へ伝えること」を書いた。


『黒板消しは上から下へ』

『赤チョークは残りやすい』

『クリーナーは毎回じゃなくてよい』

『給食前は二人で』

『手伝ってと言ってよい』

『忘れたら、次に戻ればよい』

『完璧に消えなくても、次に気づける』


 係活動の時間に、三井先生はクラスへ言った。


「黒板係の見直しをきっかけに、他の係も、仕事が一人に集まっていないか見てみましょう」


 掲示係の子が「画びょうの場所、私しか知らない」と言った。


 図書係の子が「返却チェック、いつも同じ人がやってる」と言った。


 生き物係の子が「水槽のフィルター掃除、誰も知らないかも」と言った。


 係活動は、少し騒がしくなった。


 でも、それは悪い騒がしさではなかった。


 隠れていた仕事が、教室の上に少しずつ出てくる音だった。


 灯理は、窓際でその様子を見ていた。


 小さな教室の中に、役割が動き始めていた。


 夕方、白瀬灯理は小学校を出た。


 校舎の窓には、放課後の淡い光が残っている。廊下の奥からは、机を整える音と、誰かが笑う声が聞こえた。黒板の近くには、係チェック表が貼られ、黒板消しクリーナーの横には小さな「粉受け金曜」の札が揺れていた。


 三井先生が、玄関まで見送りに来た。


「白瀬先生、ありがとうございました」


「こちらこそ、係の仕事が一人の手から教室へ広がる時間を一緒に見せていただきました」


 三井先生は、少し苦笑した。


「私は、真央さんの責任感を褒めていました」


「はい」


「それ自体は、悪いことではなかったと思います。でも、ありがとうと言うたびに、真央さんがさらに一人で持つ形にしてしまっていたのですね」


 灯理は頷いた。


「はい」


「これからは、よくやっている子を見る時ほど、その子の後ろに隠れている仕事も見たいです」


 校庭では、真央と美咲がボールを追いかけていた。


 教室の中では、蓮が黒板の上の端を見上げ、消し残しに気づいて黒板消しを伸ばしている。


 うまく届かず、椅子を使おうとして、三井先生に「椅子は危ないですよ」と声をかけられていた。


 真央は、それに気づいて教室へ戻ろうとしかけたが、美咲が腕を引いた。


 真央は少し迷い、それから校庭に残った。


 蓮は、黒板用の長い棒つき消しを探し出し、白い跡を消した。


 灯理は、その様子を静かに見ていた。


 責任を学ぶことは、全部を一人で抱えることではない。


 係を任されることは、大切な経験だ。


 教室のために動くこと。


 誰かが気づかない場所を整えること。


 次の授業が始まりやすいように準備すること。


 その中で、子どもは自分の力を知る。


 けれど、責任感の強い子ほど、自分の役割を最後まで一人で持とうとする。


 誰かが忘れた分も持つ。


 先生のありがとうに応えようとする。


 きれいに整っている状態を守ろうとする。


 その結果、休み時間や給食や友だちとの時間から、その子だけが少しずつ消えてしまうことがある。


 だから、見えるようにする。


 仕事を書き出す。


 気づきにくい仕事に名前をつける。


 毎回することと、一日一回でよいことを分ける。


 二人で持つ。


 チェック表にする。


 忘れた時の戻り方を作る。


 手伝ってと言う練習をする。


 次の係へ渡せるノートを残す。


 係は、人ではなく仕組みにする。


 それは、責任を軽くするためだけではない。


 責任を、次の人へ渡せる形にするためだった。


 灯理は、夕暮れの教室を振り返った。


 黒板は、完全な黒ではなかった。


 右上に、ほんの少しだけ白い跡が残っている。


 けれど、教室は静かに明日を待っていた。


 係ノートのページには、真央の字で一文が残っている。


 黒板が少し白く残っても、私だけが消えなくてよかった。


 その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。

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