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旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


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第24章 第3話:期待の授業――一番の子が泣けない席


 怜の答案用紙には、赤い丸がほとんど隙間なく並んでいた。


 数学。


 英語。


 国語。


 理科。


 社会。


 模試の結果表は、薄い青色の紙に印刷されている。教室の蛍光灯の下で見ると、その紙は少し冷たく見えた。


 学年順位、一位。


 全国偏差値。


 志望校判定。


 第一志望、A判定。


 文字は整然と並び、怜が積み上げてきた努力を、数字として示していた。


 教室の後ろでは、クラスメイトたちが模試の結果を見せ合っている。


「やばい、英語落ちた」

「数学、時間足りなかった」

「判定Cだった」

「怜、どうだった?」


 誰かが怜の机の方へ来た。


 怜は、結果表を少しだけ隠すように伏せた。


「普通」


「普通って何? どうせ一位でしょ」


 笑い声が起きる。


 別の生徒がのぞき込んで、声を上げた。


「やっぱり一位じゃん。すご」


「さすが怜」


「怜なら東大もいけるよね」


「医学部も余裕じゃない?」


「不安とかないでしょ」


 怜は笑った。


 口角を上げるのは、もう慣れていた。


「そんなことないよ」


 そう言うと、みんなはさらに笑った。


「出た、余裕ある人の『そんなことない』」


「言ってみたいわ」


「一位の悩みとか贅沢すぎ」


 悪意はなかった。


 わかっている。


 友人たちは怜を責めているわけではない。


 むしろ、褒めている。


 認めている。


 すごいと言ってくれている。


 だから、怜は笑う。


 笑って、結果表をクリアファイルにしまう。


 でも、その紙をしまった手のひらには、じっとりと汗が滲んでいた。


 特進クラスの教室は、放課後になっても人が多い。


 自習する生徒。


 先生に質問する生徒。


 模試の復習を始める生徒。


 ホワイトボードには、大学別説明会の日程が貼られていた。


『難関国公立対策講座』

『医学部志望者面談』

『推薦入試ガイダンス』

『高二秋からの受験戦略』


 怜の席は、窓際の前から二番目。


 授業中も、先生の視線がよく届く場所だった。


 担任の高瀬先生は、模試の結果表を返す時、怜に言った。


「今回もよく頑張りましたね。さすがです」


「ありがとうございます」


「この調子なら、志望校は十分狙えます。怜さんなら大丈夫ですよ」


 怜さんなら大丈夫。


 その言葉は、何度も聞いてきた。


 高瀬先生だけではない。


 母も言う。


 塾の先生も言う。


 親戚も言う。


 友人も言う。


 怜なら大丈夫。


 怜ならできる。


 怜なら失敗しない。


 その言葉を聞くたび、怜は背筋を伸ばした。


 大丈夫でいなければならない。


 できる自分でいなければならない。


 失敗しない自分でいなければならない。


 放課後、怜はトイレの個室に入った。


 鍵をかける。


 鞄を膝の上に置き、結果表を取り出す。


 一位。


 A判定。


 高い偏差値。


 誰かが見たら、喜ぶべき紙。


 怜も、嬉しくないわけではない。


 頑張った結果だ。


 眠い日も机に向かった。


 遊びたい誘いを断った。


 問題集を何周も解いた。


 間違いノートも作った。


 だから、結果が出たことは嬉しい。


 でも、紙の数字を見ていると、胸が苦しくなる。


 次も、一位でいなければ。


 次も、A判定でいなければ。


 次も、期待を裏切ってはいけない。


 涙が出そうになった。


 怜は、慌てて上を向く。


 一番の子が、模試の結果を見て泣くなんて、おかしい。


 悔しくて泣くならまだわかる。


 順位が落ちて泣くなら、まだ理由がある。


 でも、一位で泣くなんて。


 誰にも言えない。


 怜は、深呼吸をした。


 それでも、喉の奥が熱い。


 スマートフォンが震えた。


 母からのメッセージだった。


『模試どうだった?』

『今日、おばあちゃんにも聞かれたよ』

『怜なら今回も大丈夫よね』


 怜は、画面を見つめた。


 返事を打つ。


『大丈夫だった』

『一位だった』


 すぐに、母から返信が来る。


『すごい!』

『やっぱり怜はすごいね』

『お父さんにも言うね』

『医学部も本当に夢じゃないね』


 怜は、スマートフォンを伏せた。


 医学部。


 いつから自分は、医学部志望になったのだろう。


 最初は、母が言った。


「怜は理系もできるし、人の役に立つ仕事が向いているんじゃない?」


 高瀬先生も言った。


「この成績なら医学部も視野に入りますね」


 塾の先生も、医学部コースのパンフレットを渡してくれた。


 周囲が喜んだ。


 誇らしそうだった。


 だから、怜も「医学部を考えています」と言うようになった。


 それが、自分の言葉なのか。


 誰かが喜ぶから選んだ言葉なのか。


 今はもう、よくわからない。


 その日の夕方、進路資料室で小さな相談会が開かれていた。


 外部の学習支援者として、白瀬灯理が来ている。


 黒い上着に、使い込まれた革の鞄。


 生徒が自分の進路や学びを整理するためのワークを行う、と案内には書かれていた。


 怜は、行くつもりはなかった。


 自分には必要ないと思われている。


 進路も成績も順調。


 模試も良好。


 先生からも親からも期待されている。


 相談会に行くのは、迷っている人、成績が伸びない人、志望校を決められない人。


 そう思っていた。


 けれど、帰り支度をして廊下を歩いている時、進路資料室の前で灯理と目が合った。


 灯理は、怜の顔を見て、静かに言った。


「怜さん」


「はい」


「少しだけ、座っていきますか」


 怜は、反射的に断ろうとした。


「私は大丈夫です」


 いつもの言葉。


 口にした瞬間、自分でもその響きに疲れた。


 灯理は、怜の「大丈夫」を押し返さなかった。


「はい。大丈夫な人も、少し座ってよい場所です」


 その言葉に、怜は足を止めた。


 大丈夫な人も、座ってよい。


 進路資料室には、大学案内の冊子が棚いっぱいに並んでいた。紙の匂いと、少し古い空調の匂いがする。窓際の机には、付箋、色鉛筆、白いカードが置かれていた。


 怜は、椅子に座った。


 鞄を膝の上に置く。


 灯理は向かいに座らず、少し斜めの位置に腰を下ろした。


 真正面で見られないだけで、少し息がしやすかった。


「模試の結果が返ってきたのですね」


「はい」


「どうでしたか」


 怜は、いつものように答えた。


「大丈夫でした」


「はい」


「一位でした」


「そうでしたか」


 灯理は、すごいですね、とすぐには言わなかった。


 それが少し意外だった。


 怜は、鞄の持ち手を握った。


「みんな、すごいって言ってくれました」


「はい」


「先生も、母も、友だちも」


「はい」


「でも」


 言葉が止まる。


 言ってはいけない気がした。


 一位なのに。


 結果が出ているのに。


 恵まれているのに。


 灯理は待った。


 空調の音が小さく響いている。


 怜は、膝の上の手を見つめた。


「先生」


「はい」


「一番なら、つらいって言っちゃいけないんですか」


 言った瞬間、目の奥が熱くなった。


 ずっと言えなかった言葉だった。


 一番の席に座っている人間が、つらいと言うのは、許されない気がした。


 灯理は、怜の言葉を静かに受け止めた。


 そして、問いを返した。


「うん。では、期待されている人は、重さを感じてはいけないのでしょうか」


 怜は、唇を震わせた。


 感じてはいけないと思っていた。


 期待されることは、ありがたいことだから。


 褒められることは、幸せなことだから。


 一位でいることは、恵まれていることだから。


 だから、重いと言ってはいけない。


 でも、重かった。


 灯理は、白いカードを数枚並べた。


「期待を、少し見える場所へ置いてみませんか」


 カードには、それぞれ見出しが書かれていた。


『自分に向けられている言葉』

『嬉しい期待』

『重い期待』

『自分で選んだ目標』

『誰かの期待を引き受けている目標』

『失うのが怖いもの』

『本当は学びたいこと』

『順位では測れない関心』

『大丈夫と言われて苦しい時の返し方』


 怜は、そのカードを見た。


 期待を、見える場所へ置く。


 それだけで、胸の中の絡まった糸に少し隙間ができるようだった。


 最初のカード。


『自分に向けられている言葉』


 怜は、付箋に書いていった。


『怜なら大丈夫』

『さすが』

『一位ってすごい』

『東大も狙える』

『医学部もいける』

『失敗しなさそう』

『怜は悩みがなさそう』

『親孝行だね』

『うちの自慢』

『あなたならできる』


 書き出してみると、どれも悪い言葉ではなかった。


 むしろ、善意の言葉だった。


 でも、並べると重い。


 次に、『嬉しい期待』。


 怜は少し考えた。


『努力を見てくれている』

『できると信じてくれる』

『応援してくれる』

『頼りにされる』


 期待が全部嫌なわけではない。


 怜は、それもわかっていた。


 高瀬先生が自分の努力を見てくれているのは嬉しい。


 母が誇らしそうにするのも、嫌いではない。


 次に、『重い期待』。


 鉛筆が、少し止まる。


 怜は、ゆっくり書いた。


『失敗できない』

『順位を落とせない』

『不安と言えない』

『進路を変えにくい』

『医学部と言わないとがっかりされそう』

『泣けない』

『大丈夫なふりをする』

『自分が何をしたいかわからなくなる』


 最後の一行を書いた時、胸が詰まった。


 自分が何をしたいかわからなくなる。


 それが、一番怖かった。


 灯理は、その付箋を見て言った。


「怜さんの中には、嬉しい期待と重い期待が両方あるのですね」


「はい」


「どちらか一つにしなくてもよいと思います」


 怜は、少し驚いた。


 期待が嫌だと言えば、周りに失礼な気がしていた。


 期待が嬉しいと言えば、重いと言えない気がしていた。


 両方あっていい。


 そのことを、怜は考えたことがなかった。


 次のカード。


『自分で選んだ目標』

『誰かの期待を引き受けている目標』


 怜は、医学部と書こうとして手を止めた。


 医学部。


 それは、どちらに入るのか。


 自分で選んだ目標。


 誰かの期待を引き受けている目標。


 どちらにも少しある。


 でも、完全に自分のものではない。


 怜は、『誰かの期待を引き受けている目標』の方に書いた。


『医学部』


 書いた瞬間、怖くなった。


 否定したわけではない。


 医師という仕事を軽く見ているわけでもない。


 ただ、自分の心の中心にある言葉ではない気がした。


 灯理は、問いかけた。


「本当は、どんなことに関心がありますか」


 怜は、すぐには答えられなかった。


 成績に関係のある関心なら言える。


 理系科目が得意。


 英語も得意。


 論述もできる。


 でも、本当に気になること。


 順位では測れない関心。


 怜は、棚に並ぶ大学案内をぼんやり見た。


 生物の授業で、生命倫理の話をした時のことを思い出した。


 出生前診断。


 臓器移植。


 医療と社会。


 正解が一つに決まらない問い。


 国語の評論で、教育格差について読んだ時のことも思い出した。


 科学の知識が社会にどう伝わるか。


 専門家の言葉が、一般の人にどう届くか。


 そういう話になると、怜は時間を忘れて調べていた。


 怜は、付箋に書いた。


『生命倫理』

『哲学』

『教育』

『科学コミュニケーション』

『医療と社会のつながり』

『人が正解のない問いをどう考えるか』


 書きながら、少し恥ずかしくなった。


 はっきりした職業名ではない。


 医学部、法学部、工学部、経済学部。


 そういうわかりやすい言葉ではない。


 でも、付箋に並んだ言葉を見ると、胸の奥が少し明るくなった。


 高瀬先生が、進路資料室に入ってきた。


 灯理から事前に、怜と話していることは伝えられていた。


 先生は、怜の前に並んだ付箋を見て、静かに椅子に座った。


「怜さん」


「はい」


「見せてもらってもいいですか」


 怜は迷った。


 でも、小さく頷いた。


 高瀬先生は、一枚ずつ読んだ。


『怜なら大丈夫』

『医学部と言わないとがっかりされそう』

『不安と言えない』

『自分が何をしたいかわからなくなる』


 先生の表情が、少しずつ変わっていった。


「私は、怜さんを励ましているつもりでした」


 高瀬先生は、低い声で言った。


「君なら大丈夫、と言えば安心できると思っていました」


 怜は、視線を落とした。


「嬉しい時もあります」


「はい」


「でも、いつもそう言われると、不安って言えなくなります」


 高瀬先生は、ゆっくり頷いた。


「大丈夫という言葉で、不安を聞く前にふさいでいたのですね」


 怜は、何も言わなかった。


 でも、先生がそう言ってくれたことで、少し呼吸が楽になった。


 高瀬先生は、机の上に新しいカードを置いた。


『進路面談で聞くこと』


「次の面談では、志望校や判定の前に、怜さんがどんな問いに関心があるのかを聞かせてください」


 怜は、顔を上げた。


「志望校より先にですか」


「はい」


「でも、学校としては」


「もちろん、受験情報も必要です。成績や判定も大切です。でも、それだけで進路を決めると、怜さんの学びたいことが見えなくなってしまう」


 高瀬先生は、少し苦笑した。


「私も、進学校の担任として、判定や実績を見すぎていたかもしれません」


 灯理は言った。


「進路は、能力で行ける場所を選ぶだけではなく、本人が問いを持って歩ける場所を探すことでもありますね」


 怜は、付箋を見た。


『人が正解のない問いをどう考えるか』


 その言葉は、まだぼんやりしている。


 でも、自分のものに見えた。


 その週末、母との三者面談が行われた。


 母は、いつものように明るい表情で教室に入ってきた。


「先生、模試の結果、見ました。本当に安心しました」


 怜は、椅子に座っていた。


 机の上には、模試の結果表と、灯理と作った期待カードのコピーがある。


 母は、結果表を見て嬉しそうに言った。


「このままなら医学部も」


 怜の胸が、また少し縮む。


 でも、高瀬先生が静かに言った。


「今日は、その前に怜さんの関心について聞きたいと思っています」


 母は少し驚いた。


「関心、ですか」


 怜は、手元の紙を握った。


 母をがっかりさせたくない。


 母が自分を誇りに思ってくれることは嬉しい。


 でも、黙っていると、また自分の言葉が遠くなる。


 怜は、ゆっくり話し始めた。


「お母さん」


「うん」


「医学部のこと、嫌なわけじゃない」


「うん」


「医療にも興味はある。でも、私が気になっているのは、医師になることだけじゃないかもしれない」


 母は、黙って聞いていた。


 怜は続けた。


「生命倫理とか、科学のことを人にどう伝えるかとか、教育とか、正解が一つじゃない問いを考えることに興味がある」


 言いながら、自分でも言葉がまだ不完全だと思った。


 でも、不完全な言葉でも、出してよかった。


 母は、少し戸惑っていた。


「でも、怜は理系もできるし、せっかく成績もいいから」


 せっかく。


 その言葉に、怜は少しだけ胸が痛んだ。


 高瀬先生が、母に向かって言った。


「成績がよいからこそ、選択肢は広がります。ただ、その広さがすべて期待として怜さんに乗ると、本人の言葉が見えにくくなります」


 灯理も静かに言った。


「怜さんは、お母さんの期待を嫌っているわけではありません。けれど、期待が重くなる時がある。その重さを置く場が必要なのだと思います」


 母は、怜を見た。


 その目に、初めて不安が浮かんでいた。


「怜、重かった?」


 怜は、すぐには答えられなかった。


 母を傷つけるのが怖かった。


 でも、嘘をつく方がもっと怖かった。


「少し」


 母の顔が揺れた。


「ごめん」


 怜は首を横に振った。


「嬉しい時もある。お母さんが喜んでくれるのは、私も嬉しい」


「うん」


「でも、親戚に成績のことを話されると、次も一位じゃなきゃって思う」


 母は、手を膝の上で握った。


「そうだったんだね」


「医学部って言うと、お母さんが嬉しそうだから、私もそう言った方がいいのかなって」


 母は、目を伏せた。


「お母さん、怜のためって思ってた。でも、怜が何を考えているかを、ちゃんと聞いてなかったね」


 教室の外では、部活動の声が聞こえていた。


 夕方の光が、窓から机の上に差し込んでいる。


 母は、ゆっくり言った。


「成績の話を、勝手に人に話すのはやめるね」


 怜は、少し目を見開いた。


「全部じゃなくてもいいけど」


「ううん。怜のことだから。話していいか聞く」


 母は、怜の期待カードを見た。


『本当は学びたいこと』


「この紙、家でも一緒に見てもいい?」


 怜は、迷った末に頷いた。


「うん。でも、すぐに答えは出ないと思う」


「出なくていいよ」


 母は、少しだけ笑った。


「お母さんも、すぐ医学部って言いすぎないようにする」


 その笑顔は、いつもの誇らしげな笑顔とは少し違った。


 怜の結果ではなく、怜の言葉を見ようとする笑顔だった。


 数日後、怜は友人の真琴と昼休みに廊下で話していた。


 真琴は、怜の模試結果を見て以来、何度も「怜はいいよね」と言っていた。


 その日も、進路希望調査の紙を持ちながらため息をつく。


「怜はいいよね。何でも選べるし」


 怜は、いつものように笑って流そうとした。


 でも、少しだけ言葉を変えた。


「選べるのも、ちょっと怖いよ」


 真琴は、意外そうに顔を上げた。


「怜でも?」


「うん」


「一位なのに?」


 その言葉に、怜は苦笑した。


「一位でも」


 真琴は、少し黙った。


 それから、気まずそうに言った。


「私、怜は悩みないと思ってた」


「よく言われる」


「ごめん」


「ううん」


 怜は、窓の外を見た。


 校庭では、一年生が走っている。


「悩みがあるって言うと、贅沢って思われそうで言えなかった」


 真琴は、小さく首を横に振った。


「贅沢じゃないと思う」


 その言葉だけで、怜は少し救われた。


 放課後、怜は進路ノートを開いた。


 これまでは、模試の点数や志望校の情報を書いていたノートだ。


 今日は、ページの上に新しい見出しを書いた。


『私が考え続けたい問い』


 その下に、ゆっくり書く。


『命に関わる選択に、正解が一つではない時、人はどう考えるのか』

『科学の言葉は、どうしたら専門外の人に届くのか』

『できる人と期待される人の間に、どんな重さがあるのか』

『教育は、人が自分の問いを持つことをどう支えられるのか』


 書いてみると、まだ進路には直結していない。


 でも、怜の中にある言葉だった。


 進路ノートの端に、怜は一文を書いた。


『一番の席にも、重さを置いていい』


 その文字を見つめて、怜は小さく息を吐いた。


 一位であることは、消えない。


 努力してきたことも、消えない。


 期待されることも、きっとこれからもある。


 でも、重さを感じた時に、何も言えずに笑うだけでなくていい。


 嬉しい期待と重い期待を分けていい。


 大丈夫と言われて苦しい時は、「少し不安です」と返していい。


 医学部という言葉を、すぐに捨てる必要も、すぐに選び続ける必要もない。


 自分の問いを見ながら、考え直していい。


 夜、灯理は進学校の校舎を出た。


 正門へ続く道には、街灯が点き始めている。校舎の上階には自習室の明かりが残り、窓の向こうで何人もの生徒が机に向かっていた。


 高瀬先生が、玄関まで見送りに来た。


「白瀬先生、ありがとうございました」


「こちらこそ、期待の重さを一緒に見せていただきました」


 高瀬先生は、少し苦い顔で笑った。


「優秀な生徒ほど、安心して見てしまうところがありました」


「はい」


「成績が出ている。課題も出す。進路も高いところを目指せる。だから、大丈夫だろうと」


 灯理は、黙って聞いていた。


「でも、大丈夫と言われ続けることで、不安を言えなくなる生徒もいるのですね」


「はい」


「これからの面談では、判定や志望校の前に、その生徒が何を気にしているのか、どんな問いに立っているのかを聞くようにします」


 高瀬先生は、校舎の窓を見上げた。


「期待は、支えにもなる。でも、置き場所がないと重りにもなる」


 灯理は頷いた。


 期待を学ぶことは、応えるか逃げるかを決めることだけではない。


 誰かに信じてもらうこと。


 努力を認めてもらうこと。


 可能性を広げてもらうこと。


 それは、人を支える力になる。


 けれど、期待がいつも「大丈夫」の形で渡されると、不安を言う場所がなくなる。


 一位だから。


 優秀だから。


 失敗しないから。


 何でも選べるから。


 その言葉の下で、本人の問いが見えなくなることがある。


 だから、分ける。


 嬉しい期待。


 重い期待。


 自分で選んだ目標。


 誰かの期待を引き受けている目標。


 失うのが怖いもの。


 本当は学びたいこと。


 順位では測れない関心。


 大丈夫と言われて苦しい時の返し方。


 重さを置ける場所があれば、一番の席に座っている人も、泣きたい時に泣けるかもしれない。


 その涙は、努力を否定するものではない。


 期待してくれた人を裏切るものでもない。


 自分の学びを取り戻すための、静かな合図だった。


 灯理は、夜の校舎を振り返った。


 進路資料室の机には、怜の期待カードが残っている。


 その端には、怜の字で一文が書かれている。


 一番の席にも、重さを置いていい。


 その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。

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