第21章 第2話:家族の事情の授業――提出されない進路希望
蒼の進路希望調査票は、今日も白紙だった。
高校三年の教室には、放課後の光が斜めに差し込んでいる。
窓際の机の上には、部活動へ向かう生徒が置いていったプリントが一枚、風で少しめくれていた。廊下からは、運動部の掛け声と、吹奏楽部の音階練習が混ざって聞こえてくる。
進路希望調査票。
その紙の上には、名前だけが書かれていた。
第一希望。
第二希望。
志望理由。
保護者確認欄。
どの欄も空いている。
蒼は、シャープペンシルの先を紙に当てたまま、何も書けずにいた。
提出期限は、今日。
もう何度目かわからない。
担任の久我先生は、教卓の上で回収した調査票を確認していた。
「蒼」
名前を呼ばれて、蒼は顔を上げた。
「また白紙か」
「はい」
「はい、じゃないだろ」
久我先生の声には、苛立ちよりも心配が混じっていた。
蒼は成績がよかった。
授業態度も悪くない。
提出物も、進路関係以外はきちんと出す。
建築やまちづくりの授業になると、いつもより顔つきが変わることも久我先生は知っていた。
校舎の古い階段。
団地の配置図。
地域の公民館の使いにくさ。
そういう話になると、蒼は小さくメモを取る。
なのに、進路希望だけは出さない。
「本当は何をしたいんだ」
久我先生が聞いた。
蒼は、肩をすくめた。
「別に」
「別に、で済む時期じゃない」
「わかってます」
「わかってるなら書け」
蒼は、白紙の調査票を見た。
書けるなら、とっくに書いている。
書きたいことはある。
でも、書いた瞬間、それが現実に負ける気がした。
建築を学びたい。
古い団地を、住みやすい場所に変える仕事がしたい。
使われなくなった公共施設を、もう一度人が集まる場所にしたい。
子どもも高齢者も、雨の日に濡れずに行ける通路を考えたい。
夏に暑すぎない広場を作りたい。
灯りが少なくて怖い道を変えたい。
そういうことを考えると、胸の奥が少し熱くなる。
けれど、その熱の横に、別の現実がある。
学費。
通学費。
家賃。
弟と妹の迎え。
夕食の準備。
母の帰宅時間。
水道代の請求書。
冷蔵庫の中身。
古くなった洗濯機の音。
蒼の家に、夢だけを書く余白はあまりなかった。
久我先生は、深く息を吐いた。
「今日の放課後、進路指導室に来い」
「バイトが」
「何時からだ」
「六時半です」
「じゃあ、五時まででいい。来い」
蒼は返事をしなかった。
けれど、白紙の調査票を鞄にしまった。
進路指導室は、紙の匂いがした。
大学案内。
専門学校のパンフレット。
就職求人票。
奨学金の資料。
壁には、進路実績の一覧が貼られている。
合格。
内定。
進学。
就職。
そういう言葉が、蒼には少しまぶしかった。
久我先生は、机の向かいに座った。
「怒りたいわけじゃない」
「怒ってるじゃないですか」
「少しは怒ってる」
蒼は、苦笑しなかった。
久我先生は、声を落とした。
「でも、それ以上に心配してる。お前が何も考えてないとは思ってない」
蒼は、視線をそらした。
「じゃあ、考えてるってことでいいじゃないですか」
「紙に出さないと、学校は動けない」
「動いてもらっても、どうにもならないです」
「どうにもならないかどうかも、出してみないとわからない」
蒼は、机の端を指でなぞった。
言葉が喉の奥で固まっていた。
そこへ、進路指導室の扉が静かに開いた。
黒い上着に、使い込まれた革の鞄。
白瀬灯理。
進路支援の授業づくりで学校に来ている先生だった。
灯理は、机の上の白紙を見た。
そして、蒼の伏せた視線を見た。
久我先生が言った。
「白瀬先生、すみません。少し同席していただけますか」
灯理は頷き、蒼の斜め向かいに座った。
蒼は、少し身構えた。
また、夢を聞かれるのだと思った。
何になりたいの。
どこの学校に行きたいの。
将来どうしたいの。
その質問が嫌いだった。
答えたところで、行けない現実がある。
書いたところで、母を困らせるだけだ。
久我先生が、もう一度尋ねた。
「蒼、本当は何をしたい」
蒼は、白紙の調査票を見つめた。
しばらくして、低い声で言った。
「先生、行きたいって書いたら、行けない現実がもっとはっきりするじゃないですか」
久我先生は、言葉を失った。
蒼は続けた。
「白紙なら、まだ何も決めてないってことにできる。でも、書いたら、そこに行けない理由を並べることになる。お金がないとか、家が無理とか、弟妹の迎えがあるとか」
手のひらに汗がにじむ。
「行きたいって書いた自分が、馬鹿みたいになる」
進路指導室の空気が静かになった。
灯理は、白紙の調査票を見つめた。
そして、蒼に問いを返した。
「うん。では、書けない希望は、存在しない希望なのでしょうか」
蒼は、顔を上げた。
「存在しても、無理なら同じです」
「同じだと感じているのですね」
「はい」
「でも、希望が見えないままだと、何がそれを狭めているのかも見えなくなります」
灯理は、鞄から白い紙を取り出した。
「進路希望を、夢を書く紙ではなく、条件を見えるようにする紙に変えてみませんか」
蒼は眉を寄せた。
「条件?」
「はい。行きたい場所だけでなく、行けないと思う理由も同じ紙に置きます」
久我先生が、灯理の言葉を受けて頷いた。
「やってみよう」
蒼は、少し嫌そうに息を吐いた。
けれど、席を立たなかった。
灯理は、新しいワークシートを机に置いた。
上には、こう書かれている。
『希望と条件を見えるようにする紙』
項目が並んでいた。
『行きたい進路』
『気になっている分野』
『行けないと思う理由』
『お金の不安』
『家で担っている役割』
『通学距離・時間』
『働きながら学ぶ方法』
『奨学金・支援制度』
『学校が一緒に調べられること』
『家族に言えていないこと』
『すぐには無理でも残したい希望』
蒼は、その紙をじっと見た。
進路希望調査票とは違う。
第一希望を一つだけ書かせる紙ではない。
不安を書く欄がある。
家のことを書く欄がある。
無理かもしれない希望を、消さずに置く欄がある。
「これ、書いたら何か変わるんですか」
蒼が聞いた。
灯理は答えた。
「すぐにすべてが変わるとは言えません」
「ですよね」
「でも、何が壁なのかが見えれば、一緒に調べられることが出てくるかもしれません」
久我先生が言った。
「蒼、お前が何に困ってるか、俺は全部は知らない。知らないまま『進学しろ』とも『就職しろ』とも言えない」
蒼は、黙った。
そして、ゆっくりシャープペンシルを持った。
最初の欄。
『行きたい進路』
手が止まる。
書けば、現実になる。
いや、現実にはならない。
むしろ、現実ではないことがはっきりする。
蒼は、深く息を吐いた。
そして、小さく書いた。
『建築を学びたい』
その文字を見た瞬間、胸が少し痛くなった。
でも、消さなかった。
次の欄。
『気になっている分野』
『団地の改修』
『公共施設』
『地域の居場所』
『暑さや暗さを減らす設計』
『古い建物を使い直すこと』
久我先生は、蒼の字を見て目を細めた。
やはり、考えていた。
何もないわけではなかった。
次に、蒼は『行けないと思う理由』の欄を見た。
ここからが苦しかった。
『学費』
『通学費』
『家にお金がない』
『弟妹の迎え』
『夕飯の準備』
『母の帰りが遅い』
『一人暮らしは無理』
『母に負担をかけたくない』
『奨学金が借金になるのが怖い』
『進学しても途中で辞めることになったら困る』
書きながら、蒼の手が少し震えた。
久我先生は、口を挟まなかった。
灯理も待っていた。
紙の上に、希望と不安が並んでいく。
それはきれいな進路希望ではなかった。
でも、蒼の現実だった。
蒼は、最後の欄に目を移した。
『すぐには無理でも残したい希望』
少し迷ってから、書いた。
『建物を直す仕事に関わりたい』
書き終えた瞬間、蒼はシャープペンシルを置いた。
「これでいいですか」
声は少し荒かった。
久我先生は、紙を見た。
「いい」
短く言った。
「これで、やっと一緒に考えられる」
蒼は、目をそらした。
進路指導室の棚には、建築系の大学案内や専門学校のパンフレットが並んでいた。
久我先生は、それらをすぐに出そうとして、手を止めた。
今は、パンフレットを積むだけでは足りない。
蒼の紙には、進学先だけではなく、生活の条件が書かれている。
久我先生は、別のファイルを開いた。
奨学金。
給付型支援。
授業料減免。
夜間課程。
通信制大学。
職業訓練。
地元企業の見学。
建築事務所のインターン。
働きながら学ぶ道。
蒼が知らなかった選択肢が、少しずつ机に並んでいった。
もちろん、それらは魔法ではない。
給付型の支援には条件がある。
奨学金には手続きがある。
夜間や通信には時間管理の難しさがある。
働きながら学ぶことは簡単ではない。
家族の協力も必要だ。
それでも、白紙よりは見えるものが増えた。
灯理は言った。
「次は、お母さんと話す場を作りましょう」
蒼の顔がこわばった。
「母さんには、言わなくていいです」
「なぜでしょう」
「困るから」
「蒼さんが希望を言うと、お母さんは困りますか」
「困るに決まってるじゃないですか」
蒼は、声を抑えた。
「母さん、いつも疲れてるんです。朝早く出て、帰りも遅い。弟と妹のこともある。俺が進学したいとか言ったら、またお金のこと考えなきゃいけない」
久我先生は、静かに聞いている。
「母さんは『無理しなくていい』って言います。だから、俺が無理しない方がいいんです」
灯理は尋ねた。
「その『無理しなくていい』は、蒼さんにはどう聞こえていますか」
蒼は、少し黙った。
「諦めていいって」
「お母さんは、そういう意味で言っているのでしょうか」
「知らないです」
「では、確かめる必要があるかもしれません」
蒼は、嫌そうに顔を歪めた。
でも、完全には拒まなかった。
数日後、三者面談が行われた。
夕方の進路指導室。
窓の外は少し暗くなり始めている。
蒼の母は、仕事帰りの制服のまま来た。
髪を一つに結び、手には使い込まれた鞄を持っている。
椅子に座るなり、何度も頭を下げた。
「遅くなってすみません」
久我先生は首を振った。
「お仕事の後にありがとうございます」
母は、蒼の横に座った。
蒼は、机の上のワークシートを見ていた。
母に見せるのは怖かった。
建築を学びたい。
その一行を読まれた瞬間、母の顔が曇るのではないかと思った。
久我先生が、まず話した。
「今日は、蒼さんの進路について、希望と不安を一緒に確認したいと思っています」
母は、少し不安そうに頷いた。
「はい」
灯理も同席していた。
蒼は、ワークシートを母の前に置いた。
母は、その紙をゆっくり読んだ。
『建築を学びたい』
その文字を見た瞬間、母の指が止まった。
蒼は、母の顔を見られなかった。
母は、次の欄を読む。
『団地の改修』
『公共施設』
『地域の居場所』
そして、不安の欄へ進む。
『学費』
『通学費』
『弟妹の迎え』
『夕飯の準備』
『母に負担をかけたくない』
母は、そこで紙から目を離した。
「蒼」
声が少し震えていた。
蒼は、先に言った。
「母さんを困らせたいんじゃない」
母は、何も言わなかった。
「でも、何も書かないまま諦めたことにしたくない」
言った途端、蒼の胸の奥が熱くなった。
「行けないかもしれないのはわかってる。金がないのも知ってる。弟たちのこともある。だから、無理に行かせろって言いたいんじゃない」
蒼は、拳を握った。
「でも、行きたいって思ったことまで、なかったことにしたくない」
母は、ワークシートに視線を落とした。
しばらくして、ぽつりと言った。
「無理しなくていいって、いつも言ってたね」
蒼は頷いた。
「うん」
「お母さんは、蒼に我慢してほしくなくて言ってたつもりだった」
蒼は顔を上げた。
「え?」
「家のことがあるから、蒼が自分を責めるんじゃないかと思って。だから、無理しなくていいって」
母は、目を伏せた。
「でも、蒼には、諦めてって聞こえてたんだね」
蒼は、何も言えなかった。
母は、ワークシートの不安の欄を指でなぞった。
「ごめんね。こんなに考えさせてたんだね」
「母さんが謝ることじゃない」
「でも、一人で決めさせることでもなかった」
母は、久我先生と灯理を見た。
「先生、うちでできることは限られていると思います。でも、制度とか、働きながら学ぶ方法とか、調べられることがあるなら、知りたいです」
久我先生は、大きく頷いた。
「一緒に調べましょう」
机の上に資料が並べられた。
給付型奨学金の条件。
授業料減免の制度。
自宅から通える専門学校。
建築系の短大。
夜間課程。
通信とスクーリング。
地元の工務店や建築事務所の見学。
公共施設改修に関わる地域団体。
蒼は、資料を見ながら初めて、自分の希望が紙の上で少し動き始めるのを感じた。
まだ遠い。
まだ難しい。
でも、完全に閉じてはいない。
母が言った。
「弟たちの迎えは、曜日を決めれば、お母さんが調整できる日もあるかもしれない」
「でも、仕事」
「全部は無理。でも、全部蒼がやることでもない」
蒼は、母を見た。
母は疲れていた。
目の下にはくまがある。
それでも、今日は蒼の希望から目をそらしていなかった。
灯理は、静かに言った。
「希望を書くことは、すぐに叶うと約束することではありません」
蒼も母も、灯理を見る。
「でも、書かなければ、何を支えればよいのかが見えません。希望と条件を同じ紙に置くことで、一緒に調べられることが生まれます」
蒼は、ワークシートを見た。
建築を学びたい。
学費。
弟妹の迎え。
母に負担をかけたくない。
そのすべてが同じ紙にある。
夢だけではない。
現実だけでもない。
両方ある。
面談の終わりに、久我先生は進路希望調査票をもう一度出した。
「蒼、今すぐ完璧に決める必要はない。でも、今日の時点で書けることを書こう」
蒼は、調査票を見た。
もう、ただの白い紙ではなかった。
第一希望の欄に、ゆっくり書く。
『建築系専門学校・大学を検討』
志望理由の欄。
『地域の古い建物や公共施設を、使いやすい場所に変える仕事に関わりたい』
不安・相談事項の欄には、久我先生が新しく枠を作ってくれた。
蒼はそこに書いた。
『学費、通学費、家庭での役割について相談したい』
『奨学金や働きながら学ぶ方法を調べたい』
書き終えた後、蒼は余白に小さく一文を書いた。
『無理かもしれない。でも、まだ消さない』
久我先生は、その余白の言葉を見て、何も言わずに頷いた。
それから数週間、蒼の進路指導は少しずつ進んだ。
学校は奨学金の条件を確認した。
母は勤務先に、来年度の勤務時間の相談ができるかを聞いた。
弟妹の迎えについては、近所の親戚や放課後支援の利用も含めて考えることになった。
蒼は、地元の建築事務所へ見学に行った。
古い団地の改修図面を見せてもらい、住む人の動線や暑さ、段差、集会室の位置について話を聞いた。
その帰り道、蒼はスケッチブックを開いた。
これまで隠すように描いていた団地のスケッチ。
階段の手すり。
暗い通路。
使われていない広場。
雨の日に濡れる入口。
そこに、赤いペンで新しい線を足した。
屋根。
ベンチ。
灯り。
車椅子でも通れるゆるい坂。
子どもが宿題をできる小さな部屋。
蒼は、スケッチの端に書いた。
『直すことは、残すことでもある』
自分が建築を学びたい理由が、少しはっきりした気がした。
進路が決まったわけではない。
まだ迷っている。
お金の問題も残っている。
家のことも、簡単には変わらない。
けれど、白紙で止まっていた時間は動き出した。
夕方、灯理は高校の校門を出た。
空は薄い橙色に変わり、校舎の窓には部活動の明かりが点き始めている。進路指導室の窓には、まだ久我先生の影があった。机の上には、蒼の進路希望調査票と、希望と条件を書き出したワークシートが重ねられている。
久我先生が、校門まで見送りに来た。
「白瀬先生、ありがとうございました」
「こちらこそ、白紙の中にあった希望を一緒に見せていただきました」
久我先生は、少し苦笑した。
「私は、蒼が進路から逃げているのだと思っていました」
「はい」
「でも、逃げていたのではなく、書くことで家の現実がはっきりするのが怖かったのですね」
灯理は頷いた。
「希望を書くことが、痛みになることもありますね」
「はい。だからこそ、希望だけを書かせても足りない。希望を狭めている条件も、一緒に紙に置く必要があるのだと思いました」
久我先生は、進路指導室の方を振り返った。
「進路指導は、夢を聞くだけではだめですね。生徒の生活も、家族の事情も、制度も、一緒に見なければ」
夜風が、校門の横の掲示板を揺らした。
灯理は鞄を肩にかけ直した。
中には、川を挟んだ町から届いた依頼状が入っている。
けれど、まだ開かなかった。
進路を学ぶことは、夢を一つ書くことだけではない。
第一希望。
第二希望。
志望理由。
それらを書ける生徒ばかりではない。
書けば、行けない現実がはっきりしてしまう生徒がいる。
学費。
家計。
通学距離。
弟妹の世話。
親の勤務時間。
奨学金への不安。
家族を困らせたくない気持ち。
そうした条件が、希望の手前に立っていることがある。
白紙は、何も考えていない紙ではない。
書けないほど重い現実を抱えた紙かもしれない。
だから、希望と条件を同じ場所に置く。
行きたい場所。
行けないと思う理由。
残したい夢。
調べられる制度。
家族に言えていない言葉。
学校が一緒に探せる道。
それらを一枚の紙に並べることで、白紙は少しずつ地図になる。
灯理は、夕暮れの校舎を振り返った。
進路指導室の机には、蒼の調査票が置かれている。
その余白には、小さな字で一文が残っている。
無理かもしれない。でも、まだ消さない。
その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。




