一 桐壺
人は私を光と讃えた。抜きん出て美しく、比類なく優れ、地にありて天のごとく、すべてを手に入れたとされながら、けれど、いつの時も私は想いゆえの闇路を彷徨うばかりだった。
私にとっての光は、ただ一人。
朱雀──神の名と帝位を与えられた、父も母も異なる兄こそ私にとって比類なき唯一無二。焦がれ求め続けたただ一つの光だった。
ある春の夜、一人の女が帝のもとへ入内した。後ろ盾も満足な調度さえもない身でありながら、女は大納言であった亡き父から我が子孫に天位をとの悲願を託されていた。当代の帝である桐壺帝の皇子を産み、次代の帝とできれば、女は国母、一族は今上帝の外戚としてこの上ない栄耀栄華が約束される。
亡き父の身分ゆえに女には、女御より位の劣る更衣の身位が与えられた。日々暮らす局は桐壺、帝の暮らす清涼殿からは最も遠い淑景舎の片隅だった。後見もない身で、更衣は自らの容色のみを頼みとして帝の寝所に侍る日々を待ち続けた。しかし、帝の後宮には美しさとともに確かな後見に恵まれた女御たちがすでに数多ひしめいていた。中でも、右大臣を父に持つ弘徽殿の女御は、帝の元服の際に添い臥しを務め、今上の第一の妃として重く遇されていた。大輪の牡丹を思わせる美貌と才気に満ちた勝気な気質を穏やかな帝は深く慈しんだ。後宮の誰よりも愛された女御は誰よりも早くその身に今上の子を宿した。
桐壺の更衣が入内して一月も経たぬ春の明け方、弘徽殿の女御は母となった。産まれたのは皇子。今上帝の一の皇子の誕生に沸き立つ後宮で、更衣は幼い時から仕えている女房に神泉苑に行くよう命じた。
内裏の近くに一つの泉がある。水底に龍神が棲むと伝わり、中央の浮島には社が建てられている。
かつて龍神は世に仇なす邪神であった。泉水はありとあらゆる病を癒すとされながら、人々は邪神を怖れ、泉に近付けずにいた。
いつの御代のことか、聖帝と讃えられた帝の重臣が病に倒れた。帝は政の柱石である臣下を救うべく泉のある神泉苑に向かった。
真摯に祈る帝の前に現れた龍神は、頭上に鹿に似た二本の角を生やし、鱗に覆われた背に馬のようなたてがみを靡かせ、四肢の先には鷹よりも鋭い爪を持っていた。角も鱗も爪もその身はすべてが闇の色を纏っていたが、双眸だけは左は金色に、右は白銀に眩いばかりに輝いていた。異形の姿にも動じす、帝は静かに龍神を諭した。帝と言葉を交わし、自らの過ちを知った龍神は帝に泉水を与え、それにより重臣の病は快癒した。
時を置かず、帝はその身に矢疵を負った。泉の水が癒せるのは病だけ。龍神に国の守護となるよう言い遺し、帝は崩御した。龍神は深く嘆き、金と銀の瞳から零れた涙は泉へと数限りなく注がれた。
以来、その泉に祈れば、どのような願いでも叶うと伝えられている。
泉の水は女房により、桐壺の更衣のもとへ秘かに届けられた。角盥を満たす怖ろしいほどに澄んだそれに更衣は夜ごと願いをかけ続けた。
──どうか、帝のご寵愛をこの身に。この後宮の誰よりも深い思し召しをわたくしに。
目を閉じ手を合わせ、ひたすらに願い続け、一夜として欠けず千の夜が明ける頃、ふいに聞き覚えのない香が薫った。佐曾羅に似て涼しげな、けれど、もっと冷やかな、あたかも雪を焚いたような薫り。痛みを覚えるほどにきつく閉ざしていたまぶたを開けば、間近に一人の公達が立っていた。
漆黒の直衣の文様は、帝にのみ許される桐竹鳳凰文。くせのない黒髪には冠もなく、結い上げてさえいない。姫君のように長い髪が風もないのにゆらりと揺れる。左は金、右の目は銀に輝き、氷を思わせる冴え冴えとした美貌には喜びの気配も悲しみのかけらも見当たらない。一切の感情を削ぎ落としたようなそのさまは、姿こそ人の形をしているが、人ではないと容易に知れた。
「願いは今上の恩寵か」
見下ろされたまま冷やかに問われ、更衣は必死に願いを紡ぐ。
「……どうか、どうか、わたくしに弘徽殿の女御さまをも凌ぐご寵愛をお与えくださいませ。この血を受け継ぐ者が帝位に昇ることは一族すべての宿願。果たせるのなら、この命も惜しくはございません」
深く深く、這いつくばるほどに深く頭を下げた。
「どうか、わたくしと一族の悲願をお聞き届けくださいませ」
「いつの世も人とは愚かなもの」
独り言にも似た声の後、龍神は更衣に顔を上げるよう命じた。言われるまま上体を起こすと、龍神は右の目を閉ざした。
「手を」
短く言われ両手を差し出せば、手のひらに小さな珠が落とされた。親指の先よりもやや大きなそれは氷のようにひやりと冷たい。白銀の中で紅、藍、翡翠、黄丹、瑠璃、桜、萌黄、山吹、蘇芳、藤、さまざまな彩りが笑いさざめき戯れるかのように生まれては混ざりあい消えていく。刻一刻と色を変わるそれは、この世のすべての色彩を閉じ込めたかのように美しい。
「龍珠だ。月の力を宿す。地に生きる人が持つべきものではない。不相応な望みは命を縮める。それでも望むか」
「望みます」
女は日の光を知らないかのように真白い手で神の宝玉をきつく握り締めた。
数日の後、更衣は帝に召され、その夜から比類なき寵愛を得た。
「そなたは不思議なほどに妙なる香りがする」
龍珠を隠し持つ更衣は、その肌から帝にだけ伝わる芳香を放った。細く頼りなげな肢体から、熟し朽ちかけた果実のような甘く豊潤な香りが漂う。
帝は熱病にかかったかのように更衣を求め、朝も夕もなく傍らに留め置いた。寵妃と過ごすためだけに政務までも疎かにし、重臣や弘徽殿の女御の訴えも退け、賢帝と崇敬された君主が一人の女に執着し内裏に乱れを招くさまは、玄宗皇帝と寵姫である楊貴妃に例えられるほどだった。帝の愛が深まるほどに更衣は病がちになり、女がその身を細らせるほどに香りはより深くなり、帝の執着をかき立てた。
時を置かず帝の側へ侍る日々の中、更衣は久方ぶりに淑景舎に戻ると、小袖の合わせから龍珠を取り出し、平伏した。
「どうかお出ましくださいませ」
女房や命婦たちを遠ざけ、一人きりで乞う。凍てつくような香りに顔を上げれば、傍らに右目を閉ざした公達が座している。
「願いは叶えた。このまま日々が続けば、今上の子を得る日も遠くない」
「主上にはすでに弘徽殿の女御さまの皇子さまがおいででございます。弘徽殿の女御さまは右大臣家の姫君、後見の確かさは大納言の父をすでに亡くしたわたくしとでは比べられるはずもございません」
秋の月を愛でるため弘徽殿の女御が催した管絃の宴の喧騒がかすかに聴こえてくる。
「わたくしはすべてに置いて一の皇子さまに勝る皇子を望みます。この血から帝を奉ることは我が一族の宿願。そのためには、わたくしの身分を超えられるほどに美しく優れた皇子でなくては。一の皇子さまは人の子としては十分に優れておいででございます。……けれど」
龍珠を握り締め、まっすぐに龍神を見据える。
「けれど、神の御子とは比較にならぬはず」
「この世のすべてを欺き、龍神の子を今上の皇子と偽るつもりか」
「この血を受け継ぐ者を帝とできるのであれば、どのような罪も罰も恐れはしません」
「神の血を継ぎながら人として生きるとなれば、人としての幸福は遠くなる」
「至尊の身として高御座に昇るに勝る幸福など、この世に一つとしてございません」
言い切った女は、帝に召されなかったその夜、私を身ごもった。
時が満ち、私は桐壺帝の第二皇子として誰よりも美しく産まれ落ちた。
三歳の夏、母は死の床でこの手を取った。
「貴方は龍神の御子。誰よりも美しく誰よりも優れていらっしゃる。必ずや日嗣の皇子に選ばれましょう」
すべての真実と龍珠を我が子に遺し、桐壺の更衣は逝った。けれど、母は分かっていなかった。弘徽殿の女御の産んだ第一皇子は私に叶わずとも十分に優れていた。父である帝に似ていながらもそれ以上に優美で繊細な顔立ち、侍従の不始末を許す寛容さもあり、正式に学問を始める読書始の前であっても聡明さは明らかだった。日ごとに輝きを増す第二皇子には劣りはしても、容姿にも資質にも不足はない上、右大臣を祖父に女御を母に持つ第一皇子を排する道理などあるはずもなかった。
私が四歳の春、三つ上の兄が東宮として立った。立太子の礼において、日嗣の皇子の証である壺切の御剣を授かる姿は貴やかに麗しく、人々から多いに賞賛された。
孫である私にすべての望みを託していた祖母はその知らせを聞くや「これほど美しく優れておいでなのに」と娘を喪った時以上に嘆き悲しみ、ほどなく儚くなった。
身寄りを亡くした私は帝に引き取られ、母が入内に際し賜り、桐壺と呼ばれる淑景舎で暮らすようになった。
七つを迎え読書始を行うと、比べる者さえないほどに聡慧だと熱讚され、龍神の血を引く私を我が子と疑わない帝は「あまりにも美しく優れていて末恐ろしい心地がする」とまで口にした。漢籍は容易に読み解け咀嚼できた。歌の詠み方、笙や横笛、琴の奏で方、筆の運びに至るまで、一度教えを受ければ、乾いた土に雨が浸み込むように苦もなく自らのものにできた。三船と呼ばれ、貴人として生きるために必要とされる漢詩、和歌、管絃のどれもが比類なき出来栄えだった。どう振る舞えば人々がより私を称賛するのかさえ教えられずとも知っていた。
母を亡くした幼子を哀れみ、帝は女御や更衣の暮らす殿舎へも私を伴って渡った。弘徽殿の女御の御簾の内にまで「私以外に頼る者のない不憫な子なのだから」との申し開きとともに私とともに足を進めた。
右大臣の姫君として育ち、今上の寵愛を受け、東宮に続き、一の宮と三の宮の二人の姫宮を得た女御を主とする弘徽殿は、贅を尽くし調えられていた。唐の織物、螺鈿細工、漆に蒔絵、ほのかな伽羅の香。女房たちも血筋の確かな優れた者ばかりが集められ、人も調度も夢幻のように麗しいその局で私は東宮と出逢った。父も母も異なる兄が日嗣の御子となり、すでに三年が過ぎていた。
更衣腹でありながら最も優れた皇子と讃えられる私は、東宮にとって疎ましいものだろう。冷遇を覚悟し、諦めとともに名乗れば、三つ年上の東宮は不躾なほどにまっすぐに私を見つめ、その後で陰りも含みもない無垢な笑顔を向けてきた。
「ああ、驚いた。女房たちに聞いてはいたけれど、わたしの弟は本当に光の君だね」
初めて耳にする声はやわらかで、無邪気な賞賛の響きに満ちている。
半月ほど前、帝が秘かに私を占わせた高麗の観相見の言葉がいつしか人の口の端に上り、私は光の君ともてはやされていた。その呼び名は、私への好奇と身分の劣る亡き母への軽視と帝への阿りを含む声で口にされるのが常だった。右大臣や弘徽殿の女御は、高位ゆえに蔑みをあからさまにはしなかったが、好意など微塵もないことは明らかだった。更衣腹の身で目障りなと声無き声が満ちる弘徽殿で、東宮だけが私を受け入れてくれた。
この世に生み落とされ七年、初めて私をありのままに認め、打算も蔑みもない笑みを与えられた。それは目も眩むような喜びだった。
「観相見は龍顔とも言っていたそうだね。本当にそのとおりだ」
屈託なく続けるそのさまは、花が咲いたことを喜ぶ幼子のように邪気がなく、正しいものだけで形作られているように感じられる。同時に、帝が秘かに占わせた観相見の言葉が広く広まっている事実に、人の欲が魑魅魍魎として跋扈する内裏らしいとも感じる。
東宮の言うとおり、海の向こうから訪れた観相見は私を見るなり感嘆とともに口を開いた。
「まさに龍顔。人とは思えぬほどに尊きお顔立ちをなさっておいででございます。天子さまにも、それ以上に貴い方にさえおなりになれましょう。しかし、帝王となれば争いを招くように感じます。臣下で終わる相かと申し上げれば、それも異なるように思えます。神威を感じるほどに眩く光輝く相をお持ちでございます」
名高い観相見はそう言った後、私にだけ届くように声を低めた。
「……光あれば必ず影が生まれます。強く大きな煌めきほど、その闇は暗く冷たくなるもの。日と月、どちらも輝かしいゆえに同じ空には並べぬもの、それが天の理でございます。どうかくれぐれもお忘れなきよう」
皇子さまにだけお伝えするのです、と続けられた内容までは広まっていないらしいことに安堵する。帝以外に後ろ盾のない身で人々の好奇を煽る噂は望ましくない。
考えを巡らせながら微笑む私に、東宮は西国から届いたというびわを無邪気に勧めた。
光の君という呼び名のとおり日ごとに輝きを増しながら十歳になった私は皇籍を奪われ、源氏の姓を賜った。右大臣方との軋轢を避け、愛し子に自由を与えるために帝が下した決断だった。
臣籍へ落とされたその夜、御帳台で一人眠っていると、どこからか憶えのない香を感じた。真冬を思わせる芳香にまぶたを開けば、ぞんざいに褥の上に転がしておいた白銀の珠が内から七色の光を放ち、普段以上に輝いている。どれほど祖略に扱っても手許から失われない龍珠の傍ら、褥のごく近くに隻眼の公達が座していた。長い髪は結わず冠もつけず、闇の色をした直衣の文様は桐竹鳳凰文。研ぎ澄まされた刀身のような顔立ち、金色に輝く左目に、閉ざされたままの右目。 母が言い残したとおりの姿に、私は上体を起こした。魔除けのためにかけられた八稜鏡も神には意味をなさらないらしい。
燈台の灯りは消えていたが、周囲はほのかに明るく、氷を削ったような美貌がよく見える。
「私は臣籍に下った」
初めて会う父に短く告げた。命さえも捧げて望んだ母の願いは断たれた。その事実に、ほんのわずかの悲しみも憤りも、哀れみさえ覚えない。確かな後見のない身で右大臣の姫に勝てるはずもない、初めから分かっていたことだ。
「今上の皇子とされ、東宮よりも優れていると讃えられながら帝位を望まないのか」
深い水底を思わせる低い声で問われた。
「今上の血を受けぬ身で望めるはずもない。何より東宮は十二分に帝位にふさわしい」
十三歳の兄は東宮として昭陽舎に、私は亡き母の局であった淑景舎に暮らしている。どちらも御所の北東に位置し、東宮は「遠くにいるわけではないのだから」と兄として様々な心づかいをしてくれる。母を亡くし、父帝の他に有力な後ろ盾を持たない私を気づかい、衣替えには新しい衣を贈ってくれさえする。漢籍よりも和歌を好む風雅な東宮らしく趣味のよい色づかいは女房たちからも羨ましがられるほどだ。
母と祖母にとって私は一族再興のための捧げものだった。桐壺帝にとっては亡き寵妃の忘れ形見。侍従や女房たちは帝の顔色を伺い、私を褒めそやしてばかりいる。右大臣側の人々からは更衣腹でありながら煩わしいと疎まれる。
ただ一人、東宮だけが裏表のない穏やかな笑みを向け、思いやりに満ちた言葉をかけてくれる。東宮は竹取の物語を目にすると涙ぐむようなやわらかな心を持ち、周囲の諌言に耳を傾ける謙虚さもある。優しすぎるとも言われるが、それだけ慈悲深い帝となるだろう。
皇子という出自と自らの才で、私なら官位の頂点である太政大臣にさえ昇れる。東宮が帝となった暁には重臣としてその御代を支えたい。
「私は臣下として東宮の力となりたい」
「母とは違い欲がないのだな」
「欲深いのでない。母は愚かだっただけだ」
「自らは愚かではないと思うのか」
「神の目には人はみな愚かに映るのだろう」
問いに問いを返せば、金色の瞳が細められる。
「そうではない者がいることは知っている」
声色が変わったと気づき、その理由を問うより早く、薄い口唇が開かれた。
「我が血を受け継ぐ者に先の世を知らせよう。数多くはないが子に恵まれる。長子は位人臣を極め、次子は后妃として立つ」
「一人めの子は太政大臣に、二人めは帝の中宮に選ばれると言うのか」
神は答えず、閉じた扇の先を私に向けた。
「血はこの国の皇統に永久に流れゆくだろう」
微笑みとともに言い残し、龍神は消え、銀の宝珠だけが残された。
私が臣下となってまもなく先々帝の四の宮が桐壺帝に入内した。桐壺の更衣を忘れられず生き写しの人形を作らせようとした帝を見かねた典侍が更衣に酷似した姫宮がいると奏上したために、先々帝を父に中宮を母に持つ十七歳の姫宮は帝に乞われ藤壺の女御となった。
弘徽殿の女御以上に高貴な出自の姫宮を帝は格別に愛でた。身分の劣る更衣への偏愛は非難されたが、藤壺の女御への寵愛はその血統の高貴さゆえに容認された。
「そなたの母によく似ている、本当に似ているよ。香りだけは違うけれどね」
そうくり返す帝とともに御簾の内に入れば、藤壺の女御は満開の桜のように華やかな微笑みを向けてきた。帝の姫宮として生まれ今上帝の寵愛を得て、前世にどれほどの功徳を積んだのかと人々に讃えられながら、藤壺の女御は奢りも見せず、女房を介さず直に私に声をかけてきた。
「光の君、頼りないわたくしですけれど、母とも姉ともお思いになってくださいませね」
「お気持ち、心よりうれしく存じます。ありがとうございます」
微笑みを交わす私たちに帝が相好を崩す。
「美しいところがよく似ていて、母と子ではなく姉と弟のように見えるよ」
満足げな帝に藤壺の女御が笑みを深める。細められた目に、帝への想いはかけらほども見えなかった。
一族再興のために不義を犯した母を恋しく思うはずもなかったが、私は亡母の面影を求め、藤壺の女御を慕う健気な子どもを演じた。官位は血筋と後援で決まる。皇籍を失い、徒人として生きる私は桐壺帝の他に有力な後見を持たない。先々帝の姫宮であり今上帝の寵姫である藤壺の女御を確かな後ろ盾とするため、私は折々に文や花などを贈り続けた。
私を「光の君」と呼ぶ人々は、いつしか藤壺の女御を「輝く日の宮」と讃えるようになった。
私が十一歳の春、十四歳の東宮が元服した。紫宸殿で行われた元服の儀に、子どもである私は参列を許されなかったが、右大臣家の力を誇示するような華々しさだったと伝え聞いた。
後日、祝意を伝えるため昭陽殿に出向くと大人になった東宮は、これまでどおり私を御簾の内へ招いた。
髪を左右に分け耳の上で結うみづらから冠をつけた姿になり、闕腋袍から縫腋袍へ変わっても、清廉な美しさは損なわれていない。闕腋袍は脇が縫われておらず動きやすいため武官や子どもが纏い、元服の後は縫腋袍を身につける決まりとなっている。
私にはまだ許されない袍を着た東宮に、
「元服の儀、心よりお祝い申し上げます」
祝辞を伝えれば、かすかに頬を染めて微笑む。
「ありがとう、光の君。大人になるってなんだか不思議な気持ちだよ」
まだ慣れないのか、細い指先で冠に触れる。
「天に伸びる若木のように清々しく、よくお似合いでいらっしゃいます」
言えば、幼い頃と変わらない笑顔を浮かべる。東宮は私より先に、私より高貴な血筋で生まれた。私より先に大人になって、いつかは至尊の位に昇る。年を重ねるほど、ただ一人が遠くなる。
「光の君の元服も楽しみにしているよ」
晴れやかな笑みが眩しく、私は目を伏せた。
翌年、私は十二歳で元服を迎えた。桐壺帝の直々の命により清涼殿の東の廂が豪奢に飾りつけられ、加冠の役は左大臣が担った。前年に行われた東宮の元服にも勝るとも劣らぬと称賛されたが、東宮は公の政が行われる紫宸殿で、私は帝が日々を暮らす清涼殿で冠を授けられた。
いったん退席し、淑景舎で縫腋袍に改めていると龍神が現れた。凍てついた湖面を思わせる香が薫り、見慣れぬ公達が傍らに佇んでいるにも関わらず、私を飾り立てることに夢中な女房たちは一人として驚きも騒ぎもしない。
「龍珠に触れた者以外、この姿は見えず声も聞こえず、薫りにも気づかない」
胸のうちを読んだかのように龍神が言った。
「髪を上げても美しさは衰えていない。左大臣の姫は果報者と騒がれるだろう」
私にしか聞こえない声に答えずにいると、
「東宮妃を奪うとは忠臣にあるまじき振る舞いだな」
皮肉に言い残し、龍神は消えた。
私は今夜、妻を娶る。左大臣を父に桐壺帝の妹宮を母に持つ姫は、幼い時から東宮妃にと望まれていた。右大臣からの申し入れを受け、左大臣家は東宮に献上するため麗しく誇り高く教養に優れた姫を育て上げた。しかし、臣下に落とした第二皇子に確かな後見をと願う帝の意向を汲んだ左大臣は、右大臣との内々の約束を一方的に反故にし、元服した私の添い臥しとして姫を差し出し正室にすると決めた。
帝は私と左大臣家との結びつきをこの上なく喜ばしいものとして歓迎した。
父である帝の裏切りとも言える仕打ちを知っても、東宮は私に微笑み、寿ぎを与えた。
「美しく聡明な姫君だと聞いている。光の君とならば似合いだろう。幸多い日々となるよう祈っているよ」
誰も責めず、自らの痛みとともに受け入れる。その稀有な心映えに想いが募る。どんな高貴な姫も望まない。この心が望むのはただ一人。
届くはずのない想いを抱えたまま衣を改め、清涼殿の東の廂に戻り、私は庭へと降りた。帝、東宮、居並ぶ親王たちの前で臣下として拝舞を披露する。この上ない喜びを意味する舞に身をひねり袖を揺らめかせ、殿上に座す東宮を想う。
幼い私をいつも気にかけ、優しさを分け与えてくれた人。妬みも打算もなく私の絵や楽の音を褒めてくれた唯一の人、病身を見舞えば、薬湯を飲む代わりに絵を描いてほしいと幼子のように願われた。望みのままに筆を取れば、頬を喜びに染め、何度も感謝を伝えてくれた。
束帯の袖をひるがえし、殿上へと手を伸ばす。届かない指の先で、東宮はただ穏やかに微笑んでいる。
舞を終え、私は殿上の間に設けられた祝いの場で親王席の末席に座した。東宮は帝とともに座上で笑みを浮かべている。弟の元服を慶ぶ晴れやかな笑顔を見つめれば、東宮はほどなく私の眼差しに気づき、やわらかに微笑みかけてきた。その微笑み一つに波打つ心を隠し、目礼を返した。
その夜、私は御所を後にし、左大臣の邸に迎えられた。贅を尽くして飾りつけられた邸では、四つ年上の葵が待っていた。
正室となる葵を愛し愛されたのなら、東宮へと向かうこの想いを手放せるかもしれない。
「どうか末長くよろしくお願いいたします」
御帳台で向かい合い、私は真心とともに葵に告げたが、東宮妃となるべく育てられた姫は徒人である私を拒むように顔を背けた。世に認められた夫と妻として新枕を交わしても、整った顔立ちには笑みの一つさえ浮かばなかった。
帝は私を寵妃の遺した皇子として、左大臣は葵を宮腹の姫君として掌中の珠のように慈しみ、婚姻に歓喜していたが、華やかに祝されながら私たちに喜びはなかった。
左大臣の婿となっても私は葵の待つ三条の邸ではなく、宮中の淑景舎で多くの時を過ごしていた。寄りつかない私を舅である左大臣が嘆いているとは耳にしたが、葵は途切れがちな訪れにも泣き言も恨み言も口にしなかった。
左大臣と桐壺帝の妹宮の間には葵の他にもう一人、蔵人の少将がいた。妹とは違い、取り澄ましたところのない少将の方が話していて気が楽だった。華やかな顔立ちに武官姿もよく似合う大柄な体躯。文武に優れ楽の才にも長けている。私の方が多くを勝っているが、弓と蹴鞠だけはどうしても敵わない。
右大臣家にも劣らぬ名族である左大臣家では、龍神の泉の水で病を癒された重臣こそが一族の祖であると伝えられ、代々その御代の帝へ忠義の限りを尽くしている。輝かしい出自の才気にあふれた義理の兄は私にとっては気の置けない友であり、負けたくないと思わせる好敵手でもあった。
同じ頃、私は祖母が遺した二条の里屋敷に手を入れ、広大ではないが趣味を尽くした邸と大きな池を配した庭を完成させた。
過不足なく整えた二条院を見回した後、惟光を始めとする侍従たちを中庭に残し、一人で橋を渡る。池の中央にある中島を歩き、青々と茂る松を眺める。心から想うただ一人とともにここで暮らせたら、どれほど幸せだろう。
帝を父に女御を母に持ち、容姿の他、和歌や楽の才にも恵まれながら、東宮は元服を済ませた頃からどこか寂しげに微笑むようになった。この世の悲しみのすべてを引き受けるかのような笑みを目にするたび、胸のうちがひどく痛くなる。
どこまでも優しく、他人の痛みを我がものとして感じてしまう東宮にとって、人々の欲が蠢く宮中での日々は安らぎとは遠いはず。この邸に迎え、好きな管絃の遊びをしてともに過ごせたなら、幼い頃のように屈託のない笑みを浮かべてくれるだろうか。
どれほど想っても、この想いを伝えることさえ許されない。光の君と讃えられながら、私は一人、嘆いていた。