二 夕顔
「気分が思わしくございませんので」
二人きりの寝所で葵はそれだけを口にして、私に背を向けた。露顕の式を行い、世間から婚姻を認められ五年が過ぎたが、十七歳を数えた今も葵とは打ち解けられずにいる。
褥に仰向けになり一つ息を吐く。まぶたを閉ざし、昼下がりに内裏で見た東宮の笑みを心に描く。
「藤の花が見頃だから」
そう微笑んで、東宮は私を藤棚へ誘った。
淡い紫の花以上に、東宮の香が甘く薫る。天に向かう木蓮の白い花びらを思わせる清らかな芳香が好ましい。東宮の冠にかかりそうな花房を指先で払うと、「ありがとう」と微笑む。
「こうして源氏の君を見上げるなんて、不思議な心地がするね」
東宮は優美な顔立ちに似つかわしく線の細い身体つきをしている、その背丈を私は一年ほど前に追い越していた。今となっては、私の方が一回りほど恵まれた体躯となっている。
「幼い頃、ずっと兄君を見上げておりましたので、せめてもの意趣返しでございます」
あえて剣呑な物言いをすれば、笑みが深くなる。
「それはおかしいな。わたしの弟はとても優しいはずなのに」
「では、優しい弟として兄君の願いを叶えて差し上げましょう」
言うなり、私は東宮へと両手を伸ばした。華奢な身体を抱き上げ、下から顔をのぞき込む。
「お気に召しましたか、兄君」
問えば、東宮は驚きの後、花が咲くように笑顔を広げた。少し距離を置いて控えていた侍従たちが慌てて駆け寄ってくるさまを見て、めずらしく声を上げて笑う。
玉体を案じる臣下たちが私に苦言を呈するより早く、
「わたしが源氏の君に頼んだのだよ。藤をもっと近くで見てみたいと思ってね」
そう言って私を庇った。
久しぶりに目にした晴れやかな笑顔を思い返せば、気持ちの通わぬ妻との共寝の空しさも薄れていく。
「……あまり軽々しいお振る舞いをなさらないでくださいませ」
ふいに聞こえた声に目を開き、眼差しを向けたが、葵は背中を向けたままだ。
方違えのため出向いた紀伊守の屋敷で見初め、関係を持った空蝉のことを耳にしたのか。 身分は低いが慎み深い性格を好ましく感じていたが、夫を持つ空蝉は小袿を一枚残して私から逃れた。
一夜で終わった結びつきは、位のかけ離れた受領の後妻に気まぐれに情けをかけただけと見なされても無理はない。それでも、かすかな香りの残る小袿を抱きしめて、この心の空ろがただ一人以外には埋めようもないと改めて思い知ったあの時の絶望にも似た思いを、葵は決して理解しようとはしないのだろう。
「徒人の私ではなく東宮さまに入内していたならばとお思いですか」
返事はない。もう一度まぶたを閉ざし、藤の下で白い頬を喜びに染めた東宮を想う。
どれほどの女性と情を交わしても、満たされない。美貌を謳われ風雅を極め当代一の貴婦人と名高い六条の御息所との関係さえ安らぎにはほど遠い。
御息所は先代の東宮の正妃だった。大臣の姫君として産まれ、東宮の寵愛を受け姫宮にも恵まれたが、東宮は年若くして薨御した。亡き東宮は桐壺帝の弟皇子であり、帝は臈たけた御息所を惜しみ後宮に残るよう勧めたが、御息所はそれを固辞し、六条に壮麗な邸を構え典雅な日々を送っている。
麗しく高尚な御息所は蔵人の少将から昇進した頭の中将の他、あまたの上達部たちから数限りなく恋文を贈られていたが、御簾の内に招かれたのは七歳年下の私だけだった。
確かな教養と高貴な美貌を持つ恋人を手に入れ、人々の羨望を受けながらも、瑕疵のない御息所とは互いに隙を見せられず、甘やかなはずの恋はいつも駆け引きめいている。
葵と六条の御息所、出自と美貌に恵まれ、確かな教養を持ち、ゆえにどこまでも誇り高い二人に私は疲れていた。
だからだろうか、ある日、乳母の見舞いに出向いた五条の町で、粗末な屋敷の塀にひっそりと咲く白い花が目に止まった。
「目にしたことのない花だな。惟光、あの花の名を知っているか」
「あちらは夕顔と申します。貧しい家の軒先に夕暮れに咲いては翌朝には萎びる粗末な花でございます」
小さく儚い花。もしあの人が貴い身でなかったら、この心のままに手折れたのだろうか。
物思いに沈んだ私を気づかい、
「一枝、願って参りましょう」
言って、惟光は屋敷へ向かった。
牛車から見ていると、中の者に断り一輪を得ようとする惟光に、色の褪せた衣ながらも賤しくはなさそうな女童が歩み寄り、扇を差し出している。ほどなく戻ってきた惟光の手には、扇にのせられた夕顔があった。
「弱い花だから、扇にのせてお渡しするようにとのことでございます」
「貧しげな様子なのに気のつくことだね」
牛車の御簾の脇から差し入れられた扇を受け取れば、女の筆で恋の歌が綴られていた。夕顔の美しさを愛でながら私の素性を訊ねる歌に、私は筆跡を変えて、もっと近づけば、この身が誰か分かるはずだと返した。
数日の後、夕顔の咲く屋敷で私はその女主人と結ばれた。私は名も身分も名乗らず、女には夕顔という呼び名だけを与えた。
「安らぎとは縁遠い想いを抱えておいでなのでしょう」
夕顔はそう言って、東宮への想いに足掻く私をやわらかに受け入れてくれた。
「私が想うただ一人はどこまでも優しくて、……優しすぎて歯がゆくなるほどで。声や眼差しや、その一挙手一投足、何もかもに心が揺れてしまう。恋と呼ぶにはあまりに心を占めすぎているから、恋なのかさえ分からなくて、ただどうしようもなく惹かれてやまない」
胸にわだかまる想いを声にすれば瞳が濡れてしまいそうで、私は粗末な褥の上で、両手で顔を覆う。
「悩んだり苦しんだりせず、ただ笑っていてほしいと願うのに、私以外の誰かに笑いかけるぐらいなら二度と笑えないほどに傷つけたいとも思う。誰も知らないどこかに連れ去って閉じ込めてしまえば、私のことだけを考えてくれるかもしれないと。何も知らずに笑いかけられて、この気持ちをぶつけてしまいたくもなる。同じ想いを返されないのなら誰よりも憎まれたいとさえ願ってしまう。誰かを憎んだり嫌ったりできない人だと分かっているのに」
夕顔は何も言わない。ただひどく優しい手つきで髪を撫でられる。
ここには高価な調度も洗練されたやりとりもない。隣の家からは今年の稲の出来を案じる粗野な声が聞こえてくる。何もないからこそ、私も叶わぬ恋に惑うだけの一人でいられる。私が私である限り、この想いを消すことはできないだろう。それでも、こんな風にやわらかに受け止められているうちに、いつか自分の内にこの想いの在り処を定められるかもしれない。
葉月の十五夜の夜明け近く、私はふと思い立ち、夕顔を廃院へ連れ出した。住む者を失い荒れ果てたその場所に夕顔や女房の右近はひどく脅えていたが、私はそのさまさえおもしろく感じた。
急ごしらえで整えられた廂の間で夕顔とともに荒れた庭を眺め、そのまま夜を迎えた。しなやかな身体を腕に抱いたまま目を閉じ、まどろむと、不意に女の気配が近づいてきた。
豪華な綾織の小袿、趣味のよい紫苑の襲ねを彩る艶やかな黒髪。馴染みのある薫りは高貴な恋人のもの。
「……御息所」
呼べば、ごく近くに年上の恋人が座している。「龍神さまにお伺いいたしましたとおり、このような下賤の者とお戯れとは」
端正な美貌が悋気と愛憎に歪む。声をかける間もなく御息所はかき消えた。
驚きとともに目覚め、夢だと気づく。上体を起こし、額の汗を拭う。
「……嫌な夢を見たよ」
言いながら身を屈め、恋人を抱き寄せる。途端に違和感を覚えた。冷たい、まるで氷のように。
確信へと変わりそうな恐れとともに薄い肩を掴み、顔をのぞき込む。月明りの下、まぶたは閉ざされ、頬にも口唇にも色はない。
「夕顔っ、夕顔っ、起きてくれ」
必死に呼んでも、吐息一つ零れない。
命を呼び戻そうとする私を邪魔立てするように雲に覆われたのか月明かりが弱まる。燈台の灯りは今にも消えそうに小さい。
「夕顔っ、どうか目を開けてくれ」
動かない肢体を両腕で乱暴に揺すれば、どこからか龍珠が転がり出た。褥へ落ちたそれは、こんな時さえも眩い輝きを放つ。
「どういうつもりだっ」
叫べば、すぐ傍らに人ならざるものが憎らしいほどゆったりと座している。
「源氏の君の想いの先はどこにあるのかと思い悩んでいたので、答えを与えたまでのこと」
金色の左目が細められる。
「これは戯れの相手、真の想いの先は昭陽舎に在ると知らせるべきであったか」
かけがえのないただ一人が暮らす殿舎の名を口にされ、怒りが沸き起こる。
「東宮に仇なすつもりかっ」
「東宮ならば、このような所に連れてはこなかったのだろう。その女を殺したのはお前だ」
動かしがたい事実を突きつけ、龍神は消えた。
興味本位で身分の低い夕顔を物の怪でも出そうな廃屋へ連れ出した。私に軽んじられた夕顔は、私に心ない仕打ちをくり返された御息所の妬心によって殺された。
「源氏の君さま、いかがなされました」
ようやく宿直の者たちが紙燭を手に駆け込んできた。事実が広まれば醜聞になる。私は二条院に戻っていた惟光を呼び寄せ、後を託すと右近を連れて廃院を出た。
夕顔は人知れず荼毘に付され、以来、私は病の床へついた。褥に横たわり、この心の罪を思う。一つの命を犠牲にしながらも、なお東宮への想いは消えない。まるで、熱病のようだ。
病床で右近に夕顔の素性について訊ねると、夕顔は三位の中将の姫として産まれ育ち、父を亡くした後、まだ少将だった頭の中将と結ばれ、一人の娘を産んでいたと知らされた。頭の中将に「常夏の女」と呼ばれ愛されたが、正室である弘徽殿の女御の妹姫から嫌がらせを受け、中将の前から姿を消した。
「あの五条の屋敷には方違えのために僅かな間だけ留まるはずでございましたのに」
右近は「このようなことになるとは」と続け、泣き伏した。屋敷の者たちは名さえ分からぬ公達に連れ出されたまま戻らない女主人をひどく案じているだろう。
夕顔の忘れ形見となった娘も気がかりではあったが、私は右近に五条に近付くことを固く禁じ、自らも二度と足を向けないと決めた。




