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Trigger Point  作者: 群青 坊哉
4.昇竜
22/26

2

 結界は既に、術師を失った事で消失していた。室内に溜まっていた印場沼の清水は壁にあいた大穴から全て流れ落ちていた。

 破壊された天井に代わり、広がる闇の空が支配している。

 黒い黒い曇天。否、うねる巨大な体。時折上空で響く恐ろしい咆哮。晶は濡れ鼠のまま、ただ呆然と見上げるしかなかった。

「……なんだ、あれは」

 感覚が麻痺しているのか、初冬の深夜の凍てつく寒さをまるで感じない。呼吸も忘れる程だ。その全てを視界に捉えてもいないのに、天を覆う程巨大な体から放たれる圧倒的な存在感に、行動を起こす気力も意志も全て吸い上げられてしまった。死という概念が形づくったものを目の辺りにしているようだった。自分のような小さな存在など、呼吸をするように吹き消してしまうのだろう。これまで最強と信じ、相棒のように慕い頼ってきた武具――竜角など、あの存在の持つ力のたったの一部でしかない。人の分際で、天空を支配するアレの全貌をまともに把握しようとすればきっと気が狂う。存在自体が悪夢。見た事も触れた事も感じたことすらないデタラメな重圧に無防備に晒された晶は戦慄するしかなく。立ち尽くしていた。何故か、涙が出そうだった。

「あれこそが、黒い竜の魂」

 背後で響いた声に、ようやく我に返って振り返る。

「ずっと、御子柴君の中に居たモノ。ずっと竜駒(からだ)を求め彷徨っていた、黒い竜の精神体」

 白衣――ゆったりとした長袖の白いワンピースに身を包んで瞼を閉ざしたまま動く事のなかった一華が裸足で立っていた。暴風に攫われる栗色の長い髪をそのままに天を仰いでいる。

「おまえ……飯沼、か?」

 姿形は間違いなく飯沼一華だ。だが、気配が違う。以前の彼女が保持していた強大な霊力が半減している。いや、抜け落ちているのは竜玉の力のみか――

 眉をひそめた晶に一華が振り返った。

「貴女のお兄さんが」

 身を震わせた晶の様子に、一華は一旦言葉を切る。晶の視線を受け止めてから再び口を開いた。

「竜玉を手に入れた一守君が、現実の……既に魂の離れたこの身体にわたしを移したの」

「……ばかな」

 黒い竜が昇る直前。成駒化した瑛は一華の身体を裂いて体内を探った。恐らく、一華の中の竜玉を手に入れるためだろう。刹那、惣一が吠え、その身の内から出現した黒い竜の魂によって惣一の精神体は消し飛んだ。それとほぼ同時に、竜玉の力は完全に瑛へと移行し、直後なぜか制服姿の一華の身体は弾けるように消失した。

 一華の命が尽きたのを晶は確かに確認したのだ。

「大体おまえのの身体は、既に死にかけていたはずでは……!?」

 頷くと、一華は目を伏せる。

「一守君が放った、飛竜の力で」

「飛竜……だと!?」

 一華の言葉に思い返してみる。瑛が最後に飛竜を放ったのは確か、彼が六つの竜駒と成駒化した直後だった。

 てっきり、一華を助けようと水中を跳んだ惣一を阻むためだとばかり思っていたのだが――

「あの時兄は、ミコシバに対して飛竜を放ったのではなく……」

 驚愕の声に、一華はこっくりと頷いてみせる。胸に当てていた両手をぎゅっと握り締めた。

「御子柴君の後ろにあった、この身体に」

「……そうだったか」

 全ては、この為だったのだ。

 数種ある竜駒の中で瑛が真っ先に飛竜を手に入れたのは恐らく、現実の一華を生き返らせる為に、完全に使いこなせるよう飛竜に慣れておく必要があったから。

 だが、瑛は結局成駒化する事を選んだ。心霊省のバックアップをもってしてでも千日手の状態は負担が大きかったのだろう。そう、成駒化は単に竜玉を奪う為ではなく、確実に事を成す為の手段だった。暴走する危険のある千日手の状態を回避し、あえて成駒化する事で全ての竜駒の力を上限まで引き出し扱う事を可能としたのだ。

 そうして手に入れた竜玉の力で瑛は、竜玉と混ざり合っていた不純物――一華の肉体を否定(じょきょ)した。

 行き場を失った一華の魂は、前もって飛竜で再生させていた一華の身体が放っておいても引き寄せる。

 そうして成り立った現在いま。この場は、瑛の願いが招き呼び寄せた現実。『竜玉を失った飯沼一華』が存在する――恐らく唯一の世であり、瑛が己の人生を真っ直ぐに生き、遂行した証でもある。

「本当に兄は、己の意思で竜駒を集め……成駒化したのだな……」

 愕然とした。自分との差に。

 瑛の行動には何一つ曇りはなく。彼は本当に、己の目的の為だけにその生を全うしたのだ。

 自分はどうだ。兄が家を出た後はずっと、竜を救う事、兄のかつての目的を遂行する事こそ己の目的だと自身に言い聞かせながら生きてきた。きっと、どこかで自分の本音に気づいていたから、綺麗で崇高な銀の意志(ひかり)で蓋をして、気づかないふりをした。無様な自分は、兄にも……きっと、ミコシバにさえも見透かされていただろう。結局、自分はただの子供でしかなく。選ばれなくて、置いていかれて寂しかったとか悲しかったとか悔しかったとか。自分を選んで……傍にいて欲しかったとか。そんな幼稚な感情を隠す為、肩肘張って……意地を張りたかったが為に、まんまと他者に――その目的に乗っかったのだ。

 己の生きる理由を見出せずに。自身の中に"生きる価値"を見つけられずに。結果、ナニカに依存した。

 瑛であったり、その意志であったり。竜駒であったり。

 本当はずっと、己の人生を生きている誰かが眩しかった。

 受け入れた、今なら解る。

「………………ごめんなさい」

 この美しい造りの女がいけ好かないのも……本当はただ単に、兄に選ばれたこの女に嫉妬していただけなのだ。

 なんて醜い感情(こころ)だろう。思い知りたくなくて余計にこの女を毛嫌いしていた。人が人を好いたり嫌ったりする原因は己の中にこそある。知らぬ内に相手に自分を見ているのだと、宮司に聞かされてきたのに。

「…………何を謝る」

 ここまで思い知っても、未だ認めたくないのか、この女のように素直に謝罪できない(こども)。そんな自分に失望する。

 こちらの心情を知らぬ一華は恐らく、顔を顰める自分の様子が一華(じぶん)に対する憤りによるものだと感じているだろうに。

「貴女のお兄さんは、私と竜玉を引き離す為に、成駒化して私を上回る力を得た後、竜玉をも自分に取り込もうとしたの」

「……分離するはずのない飯沼と竜玉が分かれたのは、兄が竜玉を手にしたと同時に、竜玉と混ざり合っている飯沼の体を否定した結果だな? わざわざ"現実"で事を成したのは、"現実"に在る壊れた飯沼の体を、行き場を失くした魂の新たな身体(うつわ)とするため。そして、それらを印場沼の水中で行ったのは恐らく、早急に竜を天に還す為。成駒化した後、どれほど理性を保っていられるか予測がつかなかったのかもしれない。もしくは、自身や竜が世界に及ぼす悪影響を最小に食い止めるためだろう。兄は――」

 言いかけて。晶はこの時、黒男を初めて直視した。

 黒男は、上空を見上げたまま一寸も動かなかった。

 形は瑛のそれだが、中身は真っ黒に塗りつぶされている。濃厚な闇の中に、もう瑛の気配はなかった。

 消えた(ほんたい)の代わりに、その影が実体化してそこに立っているかのようだ。

 兄妹の二度目の別れは、あまりにも哀しい最期(けつまつ)だった。

「――果たした兄に、悔いはない。……だからおまえも、謝る事はない」

 一華は痛みを堪えるような表情で、それでも首を横に振る。

「私は、一守君の好意に甘える事は出来ない」

 静かな、確固たる決意の言葉を発して、胸の前で組んでいた両手を離した。

 一華が両手で包んでいたのは、七色に輝く玉。

「竜玉……だと!?」

「一守君のおかげで私と竜玉は完全に分離したけれど……でも。私はまだ、これを失う訳にはいかないの……!」

 一華の瞳の強い光が上空を射た。

 釣られて晶も天を仰ぐ。

 宙高く昇った黒い竜が物凄いスピードでこちらに降りてきた。

 瞬く間に迫る竜の目前には、自我を破壊され人でなくなってしまった黒男。駆け寄った一華が、意思もなくただ竜を見上げるだけの黒男の正面に立つ。

「よせ……! 一体なにを……!?」

 追いかけようとして、派手に転倒する。晶は足に力がまるで入らない事に初めて気づいた。自分も限界が近い。

 伏せたまま歯を食いしばって叫んだ。

「……飯沼……っ!」

 目前に迫る黒い竜の精神体に向かって一華が両手を突き出す。

「竜玉……! お願い!」

 広げた両手で、応えるように竜玉が七色の輝きを発した。

「黒い竜! 私は貴方を否定する……!」

 瞬間、竜玉を中心に七色に輝く障壁が一面に広がった。

 物凄い勢いで一華たちに辿り着く、その寸前で、黒い竜が完全に動きを止める。

 黒い力と虹色の光が拮抗している。

「飯沼……! なにを……!」

 竜玉はその力で全てを否定し消し去るものだが、同じ竜駒を消し去る事は出来ない。竜の精神体ならなおさらだ。そんな事、継承者(いいぬま)なら熟知しているはず。どうやら黒い竜の接近を否定しているようだが、あれでは竜玉を扱う人間の方が持たないだろう。竜玉をこのまま使い続ける事が出来れば永遠に黒い竜を否定し続ける事が出来るだろう。しかしあれほどの力を全解放し続けていれば使い手(ヒト)の脆い肉体はたちまち崩れる。いくら半神族で霊力、適応力が共に高かろうと恐らく数分ももたないだろう。

「黒い竜の意志は、体を切断された後、自力で復活していたの」

 整った顔を苦しげに歪めながら拮抗状態を保ち続ける一華。晶を視界に入れる事なく語る。

「いつしか、人を仮の(からだ)にして。全ては自身の体――竜駒を取り戻すため」

「それは、天に還る為に必要だから……」

「昇天なら、魂だけでも出来る事。でしょう?」

 これまで死した魂を幾度と無く昇天させてきた晶ははっとして竜玉の光に阻まれている巨大な竜を見る。

 『天に還る』が、一華の言う通り昇天と同じ意味だったなら。

 本当にそうならば、むしろ肉体など不要ではないか。

「自身の力で人の世が乱れてしまう事を恐れた竜にとって、己の体を回収する事は必須だった。けれど神力が欲しかった人間達――巫覡はこれを許さずに、竜駒の――竜の力を持って竜の魂を撃退し続けた」

「…………竜駒で……撃退しただと……?」

 困惑の表情で繰り返す晶。

 一華は無慈悲に肯定する。

「竜駒とは、三つに分断され地に堕ちた竜の体を巫覡達がさらに七つに切断して創った武守具。竜駒巫覡は、竜の意志を否定し続ける為に存在するの」

 ――かつて。竜駒巫覡になりたいと語った男がいた。

 人を救った竜を救いたいと真っ直ぐな意思を口にした、その横顔に憧れた。

 古く愛しい自身の原点たる記憶(えがお)に、耳障りな音を立てて大きな皹が入る。

「……嘘だ」

「いいえ。これは本当の事。貴女だけが知らなかったの」

「だって……それでは、あまりに竜が……!」

「可哀想? そうね、私も同情した。だけどそれを許しては……決して救えないものがある。だって人はとても非力で、自分以外の何かを救う事なんてどうしたって出来ない……。手を差し伸べる事の出来る範囲でさえ、とてもとても狭いから……!」

 一華の言葉に苛立ったのか竜が大きな口を開けて咆哮する。

 大気を揺るがす轟き。もはや音ではなくそれは巨大地震のように感じた。全てのものがビリビリと震える。いつ足元――建物が崩れてもおかしくはない状況だ。いやむしろ、未だ原型を留めている事が不思議でならなかった。

 一華は己を掻き消そうとする竜の意志に抗い、竜玉を抱える両手をさらに前へ突き出す。

 だが、竜に拮抗する程の竜玉ちからを支えるには、その身はあまりにもか細かった。両腕は大きく震え、その身体は徐々に後退していった。

 苦悶の表情。がくがくと震える身。晶の視界に映る全てが、一華の限界が近い事を物語っていた。

「……一守さん、貴女の目的は尊い竜を救う事。確かに竜は、気の遠くなるような長い間ずっと空へ還りたがっていた。私も竜駒巫覡です。貴女の気持ちは理解出来る。だけど、それでも……全てのものを犠牲にしてでも救いたいモノがあるの、だから、私は竜を否定する……!」

 二度目の咆哮。巨大な体を障壁に叩きつける。あまりの衝撃に一華が大きく後退した。障壁を支える白い両腕のあちこちから血が噴出する。既に組織はずたずたに破壊されているだろう。それでも障壁は状態を保ち――一華の意志は揺るがない。

「……一守さん……! 貴女の護りたいモノは何……!?」

 突如投げかけられた問いに、晶は即答できなかった。一華の後ろで全ての目的を果たし全てを喪失して立っている黒い影を視界に入れる。自分の全ては兄だったと、一華に答えようとしたけれど、言葉が喉の奥につっかえて出てこない。

 体力も気力も精神力も全て使い果たしてしまっていた。支えにしていた存在もくてきは消え、頼っていたともはもう出せず、今の自分には何もない。世界ここに存在している事すら今はただ、漠然と辛い。そんな、どこかぼうとしている頭に、それでも一華の明澄な(おと)が懸命に響く。

「貴女はこの竜を空に還したいの? だったら私を止めればいい。今貴女に残ってる力でも十分可能なはず」

 言葉に、障壁に向かってでたらめに暴れている巨大な竜を視界に入れた。

 竜に比べれば人という存在は塵のようなもので、どんな抵抗をしようと一瞬で掻き消されてしまうだろう事は既に全身で感じていた。けれど感情や感覚が麻痺してしまったのだろうか、この場にいて己の内に恐怖感など欠片もなかった。いや……。

 あの竜からどことなく、微かだが、よく見知った存在の感じがする。

 あれは竜であり、確かに……御子柴惣一でもあるのだ。

「……ミコ、シバ……」

 名を呟くと脳裏に、親の心配をする惣一の顔、学校で友達と楽しく過ごしていた惣一の笑顔、よく知りもしない自分をずっと気にかけていた惣一の姿が次々と思い起こされる。

「…………ミコシバはそんなこと、望んでいない」

「あれは御子柴君でもあるけれど、竜でもあるの」

「…………」

「竜駒巫覡は本来、竜を復活させないために用意された、貴女とは正反対の存在。例え真実を知っていたってそれでも貴女は最後まで竜を救おうとしていたでしょう。そんな貴女だから一守さん。一守君ではなく、貴女に竜角を託したの。出来れば竜駒の本当の目的、その存在の理由を貴女に伝える事なく継承してもらえる様に、一徹さんにお願いしたの」

「……おまえが……!?」

「全ては、未だ人の世に残る(でんせつ)を否定するため」

 混乱する晶に構わず、きっぱりと言い放つ一華。

 三度の竜の咆哮に、激しくなる体当たりに一華が背中の瑛と共にさらに後退する。障壁のあちこちに亀裂が走りはじめた。

 だが、その整った横顔に絶望の色はなく。健気なまでに頑なな意思は、決して揺るがない。

 晶は気づいてしまった。

「御子柴君を守りたい」

 一華を、羨ましく思っている自分に。

「……貴女は?」

 一華は澄んだ瞳で晶を射た。晶の小さな身体は跳ねる心臓と共に大きく揺れる。

「貴女の望みってなに?」

「私、の望み……?」

「貴女の全ては竜角なんかじゃない。一守君でもない。そう思い込もうと必死に押さえ込んでいた夢や望み、意思があったはず。だって、貴女の全ては貴女自身だから」

 迷いの表情のまま、竜を見上げ、一華に視線を移した晶。

 一華は、美しい顔に挑発的な笑みを浮かべた。

「私がとめてもいいのだけれど……御子柴君(かれ)は貴女の式でしょう?」

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