7
漆黒の長い髪を後ろで一つにまとめた黒衣の男は身構える二人の正面で仰々しい手振りで恭しくお辞儀する。
「ようこそ。現実へ」
ゆっくりと上げた顔から仮面のような笑顔が覗く。細められた切れ長の黒瞳からは真意は読み取れない。
「水戸は倒れたか」
瑛の両手首に嵌められた銀輪を目にした晶が、動揺を示した惣一を庇うように一歩前に出た。
「彼こそが一番の脅威だったからね。竜玉をだしにこちらの陣地に釣り上げてみたんだけど寸での所で逃げられてしまったよ。やっぱりさすがだね彼は。用意周到と言うべきか」
「追わずにこちらを優先させたのか。らしくないな」
「こっちにも事情があるからね。既に再起不能である彼に引導を渡すのは、後でも出来るかなって」
「おまえ……!」
今にも飛びかからんばかりの惣一を片手で制し、晶が真一文字に結んだ口を開く。
「問おう、兄よ」
「堅苦しいなぁ。"お兄さん"って呼んでいいよと何度も……」
「狙いはなんだ」
おや。と不思議そうに首を捻る瑛。
「晶ならとっくに気づいていると思ったけど」
「目的が黒竜の復活であれば竜角を献上しようと思っていた。だが、そんな単純な話ならここまで手の込んだ事はしまい。病院の空間を歪めた理由はなんだ。何故飯沼を」
「生かしているのかと言いたいのかい?」
「…………!」
惣一の感情を読んだか、振り返らずに晶は告げた。
「生きている。竜玉の力は未だ感じる。それは抜け殻だ」
「ぬけ……がら……?」
惣一はベッドを振り返った。
何度目にしても悪夢のような光景だ。白い衣服に包まれた、眠るように横たわっている青白い顔はどう見たって飯沼一華なのだが……。
「私にも理屈はわからないが、その飯沼からは竜玉の力を感じないのだ。しかし、幻のように見えて決してそうではない。その飯沼も確かに生きている。今はまだ」
「意味判らないんだけど。彼女、飯沼じゃないってのか? どう見たって本人……」
「言ったでしょう。これが現実であると」
よく通る楽しげな声に晶が眉を潜める。
「"現実"とは、わざわざ竜駒を用いて世界の一部を侵食させてまで存在させているこの異空間の事を言っているのか?」
「そうだね。確かにここは異空間で、今まさに死にゆこうとしているそこの彼女は異空間の飯沼一華だ。君達が救おうとしている彼女ではないね。けれど間違いなく彼女は飯沼一華だよ。竜玉を手放してしまった後の、ね」
「水戸は、竜玉は他者には使えまいと言っていたが」
「ああ、それは確かに誤算だった。彼女、仮死状態にしたって意思を手放さなかったよ。そんな真似が出来るのは、竜玉と同化している証」
「竜玉と、同化……?」
声を上げる惣一の表情を視野に入れて瑛は薄く笑んだ。
「そうですよ、御子柴惣一君。彼女は竜駒を所持しているのではなく、竜駒と同化しているのです。竜玉は彼女の中で混ざり合って溶けています。もう切り離す事は出来ない」
その表情は、初めてその姿を見せた時、男が自分に告げた言葉を思い起こさせた。
――……貴方には、全てが終わった後、たっぷり身の程を思い知らせてから消えてもらおうと思っていたのですが――
あの時と同じ、冷めた瞳で自分の反応を見つつ、口調だけは楽しげに語る。一体、自分に何を知らしめようとしているのか。慇懃無礼に言葉を並べてくれるが、自分にはいまいち飲み込めない。
顔に出ていたのだろう。瑛はさらに笑みを浮かべて、まるで子供に語りかけるような優しい声でゆっくりと言葉を紡いだ。
「竜召喚は、彼女の命と引き換えだという事ですよ」
ねっとりと脳に纏わり付くような言葉は、まるで破滅の呪文のように響いた。
「…………なんだって?」
「竜駒は竜の体、各部位で作られています。体を返さなければ竜は現存できません。彼女は竜玉と混ざり合っています。恐らく現存時には彼女毎竜に取り込まれるでしょう」
真っ白になった頭に言葉がゆっくりと浸透してゆく。
浮かんだのは、時々見つける一華の悲しげな表情。そして。
――ミコシバも私を止めるか?
「…………一守」
自分でも驚くほど低く、乾いた声が出た。
目の前の小さな背中は振り向かない。
「おまえ……、おまえ知ってて俺に協力しろなんて」
「……ああ。言った」
晶の考えはわからない。だって、俺には彼女の心は読めないから。
「どうしても、竜は復活させなきゃならないのか? ……その」
ちょっと変な奴だけど。能天気に生きてきた俺とは全く違う生き方をしてきた奴だけど。だけど彼女は真っ直ぐな人間だと思った。昨日会ったばっかりだけれど、いい奴だと。信じるにたる人間だと思わせた。
「飯沼が……死んでも」
瞳の強い光が。
「飯沼とて竜駒巫覡だ」
未だ手に残る、柔らかな感触が。
「私とて同じ立場なら、己の命で竜が復活するのならば本望……」
「……おかしいだろ」
「なにが」
「おかしいだろう、そんなの!」
きっぱりと言い切る、その意思に、晶は驚きに見開かれた瞳で僅かに惣一を振り返った。
「妹を責めないでやってくれますか?」
にこやかな表情を崩すことなく口を挟んできた瑛を睨みつける。構わず、さらに言及しようと口を開く惣一を、
「わざわざ口にしなくたって、君はもう十分晶を詰っているのだろうに」
穏やかな表情の男が放った、冷酷な声が遮った。
「確かに晶は昔から真面目一辺倒で、融通の利かない性格だ。その為に誰かと衝突する事も多かった。しかし、そもそも人の価値観は決して等しくない。個は寄り添う事は出来ても交わり一つになる事はない。それなのに自分だけの正義を他者に押し付けるのは感心しないですね。御子柴惣一君」
「押し付けてなんか……、俺は普通に考えて……!」
「いいや、君は君個人の意思よりに物を言っているよ。好いているのでしょう、飯沼一華を」
さらっと紡ぐ男の声を耳にした瞬間、カッと顔が赤くなった。
そんな事を、なんだって今、飯沼を奪ったこんな奴に言われなくちゃならないのか。
「そんな事関係な……!」
「いいえ、大いにあります。君が彼女に特別な感情を抱いてしまったが為にこの現状が成り立っているのですから」
「どういう意味だよ、訳わかんねぇよ!」
「わからないのなら、わかろうとすればいい。この部屋に全てが在ります」
続く不可解な言葉に表情を歪ませる惣一。
ここに全てが在る……だって?
飯沼が霊安室に寝ているだなんて、これ以上ない位悪ふざけな空間にか。
考えれば考えるほどに、怒りが沸々と頭に上り、支配して思考を短絡化させる。
「飯沼が死んだ方がいいっていうのか? おまえも、一守と同じように……!」
「それは違います。君は主観で物を言っている。人である以上無理もない事ですがね。晶は言い訳をする子じゃないから、私が彼女の代わりに弁解してあげてもよいのですが」
「弁解だ……!?」
「ええ。真実とは存外、ストレートで分かりやすいものです。もっと俯瞰で世界を見てください。そうすれば自ずと理解出来るはずだ。だって君はもう持っているじゃないですか」
「持っているって、何を……」
「真実を」
ドクン。
鼓動が、何故か一際大きく響いた。
「ミコシバ……?」
惣一の反応に、晶は怪訝そうに眉を歪ませ、瑛は黒瞳を細める。
「見ようと思えばなんでも目に出来るし、わかろうと思えばなんでも理解できるはず」
「だから、あんたの言葉はさっきから意味がわからないって……何が言いたいんだよ! 俺は何も……!」
「わかろうとしないのなら、君には不必要って事で。私がいただいてもいいんですよね?」
言い終わらぬ内に、瑛は手の内に八角形の枠に囲まれた丸鏡を出現させると、鏡を惣一に向けた。
一度だけ目にした事がある。瑛に捕らわれた時、一華が『竜眼』と呼んだものだ。それが今、惣一の全身を――困惑の表情を映し出していた。
「なんだよ、それ」
「…………やはりか」
瑛は溜息交じりに呟くと、竜眼を小さくし衣服のポケットにしまう。代わりに手にした長方形の薄い紙の表面を人差し指と中指でなぞった後、惣一に向けて飛ばした。紙は、まるで鳥のようなスピードで惣一に接近すると目前で消失する。疑問に思った刹那、猛烈な圧力が惣一を襲った。上下左右前後、あらゆる角度から押し潰される……!
意識が吹き飛ぶ瞬間、暗くなった視界で銀の光が縦に走った。
圧力から開放され、惣一はその場に崩れ落ちた。
――// SIDE-A //――
「ミコシバに手をかけるのは、私を倒してからにしろ」
竜角を手にした晶が、刃先を瑛に向ける。
「おや。自分を信じぬ男を救おうというのかい? 君を庇った兄と敵対しても?」
「周りは関係ない。私は私の決めた通りに動くだけだ」
「勝てないと判っていても? 真実も知らぬまま散って、君はそれで本望かい?」
「兄は言った。ここには全てが在る。これこそが、現実であると」
「……気づいたのか。晶」
「ああ」
「『大事なのは、状況に囚われぬ意志と判断力、それに物事に動じぬ強靭な精神力』。宮司の教えが生きているのだね」
ふと懐かしい表情で晶を見る瑛。垣間見た瞬間、まだこの手が彼に届く気がして晶は思わず叫んだ。
「兄、兄が望んでいるのは、今この世で竜を復活させる理由はもしかして――」
だが、自分の知る温かな表情は、その一瞬で消える。
「私情と心霊省の利害が一致したという訳だ。そのために今一度心霊省に移り鍛錬を続けながら機会を伺っていた」
「心霊省を出る時、兄は二度とここには戻らないと、そう私と誓った。力をつけて、我々であの馬鹿げた施設を破壊しようとも。それはもう……!」
「本当はもう、解っているのだろう晶」
自分を宥めようとする、困ったような笑顔。無駄な物を全て削ぎ落としてしまった、生活を共にしていた頃とはまるで別人のような痩躯の男が今浮かべている表情はしかし、自分が最も好きだった兄の表情と寸分も違わなかった。
晶は愕然とする。瑛は正気だ。心霊省に操られているのではなく、本当に自分の意志で成そうとしている。
「おまえが関わる必要はない。悪いようにはしない。だから、私に竜角を渡して欲しい」
「……だが」
短く切った言葉。晶は僅かに、兄から視線を逸らしていた。
「だが。兄は私を利用した」
「………………晶」
「おかげで。関係、なくはないのだ、私は、もう」
「よく、考えてみなさい晶。式守に執着するのがおまえの悪い癖だ。痛覚すら共有しようとする。だから、式は選べと昔から……」
「……式じゃない!」
いつの間にか握っていたはずの竜角が数珠に返っていた。
気づいたら、両手を握り締めて、地を見ながら、晶は全身で叫んでいた。
「ミコシバは、式なんかじゃない!」
大きなまっすぐな黒瞳で瑛を見返す。
射抜かれて思わず瑛は絶句した。
それは、瑛が今まで見たこともない晶の表情だった。
「……わかっているのかい、晶。おまえがやろうとしている事は私と、それからそこに寝転がっている男が最も嫌がる事だよ」
「無論」
「竜角は攻撃型。おまえと同じで、守るには不向きだ」
「ああ」
「月齢十五日前後はお前の霊力が最も落ちる刻だね?」
「そうだな」
「私は……おまえより、強いよ」
「承知している」
「…………そうか」
瑛は目を閉じた。
いつの間にかその手に、一メートル程の大きさの棒を握っていた。
打撃部分に節目のような突起が二十一も付いた硬鞭。
瑛の意により、硬鞭に銀色の紋様が浮かび上がる。
「竜爪……!」
竜爪は確か、精神操作が可能な竜駒――気づいた晶が動くよりも早く、
「残念だよ晶。まさかこんな事になろうとは」
表情を完全に消した瑛が、硬鞭を振るった。
晶の体が完全に固まる。
「……っ」
しかし、晶の顔に敗北の色はない。
近づこうとした瑛を、無数の風の刃が襲った。
晶の目前に、イタチの動物霊が浮かぶ。
「式守? ……竜爪の精神操作は竜玉以外破れないはずだが」
地に落とした竜牙の描いた魔法陣が瞬時に発動する。
噴き出す大量の光は瑛のすぐ間近まで迫っていた式の攻撃を全て反射させた。
「…………」
が、晶は無傷だ。
「なるほど、もう一体いるね。竜爪を受けたのは――」
二輪の竜牙がそれぞれ軌跡を描いて晶に飛ぶ。
動けないはずの晶が瞬時に前に出て、竜角を振るった。竜牙を地に叩き落す。
「――不可視にした式だったか。数年間見ない間に少しは成長したんだね。ではこちらも」
その手に現れる身の丈以上の大きさの弓――飛竜。
「少し、本気になろうか」
同時に晶の周りを、何千何万の炎槍――竜尾が包囲した。
「……これは……!?」
目前に現れた一本の竜尾を手に、瑛が飛竜の光弦を引く。と、周囲の竜尾の穂先の炎が一斉に晶を向いた。
「竜眼でコピーした竜尾だよ。性能も本物とほとんど変わらない。四方八方から発射される全ての竜尾を竜角で打ち落とす事は不可能だろう? かといって避ければ後ろの御子柴惣一君に当たってしまうかもしれない。お姫様は自身で身を守れるかもしれないが……」
「…………」
「お手並み拝見といこうか」
にこりと笑って限界まで引かれた光弦を離す。竜尾が放たれると、それを合図に竜尾のコピーも一斉に晶に向かって飛んだ。動じず、素早く三つの印を結んだ晶は、懐から取り出した四枚の薄紙を人差し指と中指の間で挟み上から下まで指を滑らせ発光させると後方に投げた。紙はまるで意思を持つかのように、それぞれの方向に向かって飛んだ。
「障壁」
晶の言葉で四枚全ての紙が弾け、惣一達の前に不可視の壁が出来た。確認する事なく疾走した晶は進行方向上の竜尾だけを竜角で打ち落としながら瑛に接近する。後方から、今まさに己の頭を貫かんとする竜尾の接近を感じた晶は、瑛の目前で竜角の刃先を床につけると棒高跳びの要領で瑛を飛び越えた。
「相変わらず体育会系で荒々しいなぁ」
晶を追って目前に迫った無数の竜尾を、瑛は竜眼を掲げて瞬時に完成させた強固な結界壁で防ぐ。まるでガラスが破損するような音を立てて砕けると、地に落ち消滅する竜尾のコピー。振り返って、己の後方に着地し身を翻した晶の振るう竜角を、手にしていた飛竜で受け止めた。
「太刀筋はいい」
「…………!」
晶は驚愕に瞳を見開く。これまで竜角に切れぬものはなかった。しかし、今兄の手にしている華奢な飛竜が、何故か斬れない。
「竜角は単純になんでも斬る。形のない物も斬る事が出来る。時空だろうが人の魂だろうが真っ二つさ。でもそれは逆に、なんにでも触れられると言う事だ」
ぶるぶると震える巨大な銀の刃が己の頭上数センチの所に迫っていても、瑛は表情を崩すことなく歌うように語る。
「御子柴惣一は確かに消失する運命だった。消滅するはずだった魂の行く末を斬って留めたのは、実は晶なんだよ」
「……私はあの時、強烈な神力――恐らく竜玉の波動を感知してあの場に駆けつけた。だが、病室が現実だと言うのであれば、仕組んだのは飯沼ではないはずだ」
「ああ。仕組んだのは私だ。晶の特殊な魂昇天手順を知っていたのは私だけだしね。それに神力を感知して他の竜駒巫覡も集まってくれた。一石二鳥というわけだ。首尾よく竜玉、竜角、竜牙以外の竜駒を手に入れる事が出来たよ」
「どうしてミコシバを救った? 兄は……飯沼さえ助かればそれでよかったはず……」
「たった一日とは言え、そんなに彼の近くに居たのに気づかなかったのかい? 晶」
「勿体つけていないで――」
晶の表情に、ふっと笑って瑛はそれを口にした。
晶の表情が驚愕に歪む。
その隙を見逃すはずもなく、瑛は瞬時に手にした竜尾を正面に突き出す。
槍の刀身――炎塊が、晶の薄い腹を貫通した。
「…………っ!」
焼けるような痛みに晶の力が緩んだ。頭上の竜角の刃を受け流した瑛は数歩下がりながら竜牙を放つ。弧を描いて晶の後ろに回りこむと円形の刃は小さな身体を執拗に切り刻んだ。同時に、正面から飛ぶ飛竜の衝撃波。これを察知して、晶はなんとか気力を振り絞り竜角で打ち払う。完全には斬れず、軌道を逸らされた衝撃波は晶と障壁の向こう側にいるもの以外、室内のあらゆる物質を全て破壊した。部屋の外――建物が無事だったのは瑛の張っている結界のおかげである。
室内を舞う大量の粉塵の中、瑛は困った表情で戻ってきた二輪の竜牙を掴んだ。
「炎上しなかったね。身を任せていれば痛いのは一瞬だけだったのに。とっさに式守で身を守ったか」
後方に跳躍し距離をとると、着地と同時に片膝をつく晶。取り出した護符を傷口に押しつける。吸い込まれるように消えた護符が大量の出血を止めると同時に痛覚を麻痺させた。晶は素早く息を整える。
……咄嗟だった。炎が自分を貫通する直前、水属性で体積の大きな式守をと考えて瞬時にイルカ守を出した。イルカ守は現存したその一瞬で自分に鋭利な痛みを遺して消失した。しかしその犠牲すら超えて、竜尾は自分の身体を貫通した。
「傷は浅くはないというのに竜角は手放さないのだね」
晶は未だ荒い息で体勢を整えながら、それでも瑛から片時も視線を外さなかった。その瞳の色を慈しみの表情で眺める瑛。
「そうだね。手放せば、晶の意志は貫けない。……竜角を継いだだけの事はあるようだ」
瑛の言葉に、晶の精神が大きく揺らぐ。
竜角は、兄が受け継ぐはずのものだった。
でも、宮司は選んだのは、何故か血の繋がりのない自分だった。
あの時の兄の表情が脳にこびり付いてしまって、未だ竜角を手にする度に思い起こされる。
柄を握る度に、問われるのだ。
何故おまえが手にしている、と。
「だけど、まだまだだ」
静かに言葉を紡ぐ兄の浮かべる薄い笑み。しまったと思った時には遅かった。竜爪の先端が晶の体を縛っていた。
「せめて一瞬で終わらせよう。だから、今度こそ抵抗するんじゃないよ」
正面で、飛竜の光弦が限界まで引かれる。瑛は矢を手にしていなかったが、代わりに飛竜に集まる尋常でない霊気を感知して晶は戦慄した。なんという膨大な力だろう。あれが放たれれば自分は愚か、後ろの障壁も、この室内も人も壁も、その背後に在る景色も全て木っ端微塵に消し飛んでしまうだろう。ミコシバも――
――なんとかして竜爪の呪縛を解かねば。いや……解かずとも打ち消してしまえば。迷っている間はなかった。一瞬で精神集中。手にしていた竜角に全ての霊力を注ぎこむ。刃に碧光が走る。その淡い発光が先端まで行き着くと、晶は叫んだ。
「……招雷!」
瞬間、天から落とされた轟光が、あらゆる障壁、呪縛を超え晶を直撃した。
意識が消し飛ぶ寸前、風穴の開いた腹を押さえ付けてなんとか踏み留まった晶、落雷の一瞬前に放たれた飛竜の力を、雷光の宿った竜角で叩き斬る。間一髪だった。耳をやられてしまったのか無音の世界で、一刀両断された飛竜の衝撃は晶とその後方を残して全てを綺麗に吹き飛ばしてしまった。惣一と一華、二人の背後の直線状にある壁や景色だけは破滅を免れ、何事もなかったように残されていた。その光景は、まるで合成写真のようだった。
その少女は、既に虫の息だった。
腹部、背中の穴から流れた血で真っ赤に染まったスカート。ぼろぼろになってしまった制服。その布地に守りの術が施されていた事に瑛はこの時初めて気づく。……宮司の仕業か。
少女は、自分が竜眼で結界を修復する数十秒の間、立ったまま微塵も動く事はなかった。……ひょっとしたら気絶しているのではないだろうか。
「たった五分程なのに、満身創痍だね。苦しいだろう晶」
言って放った竜牙は抵抗しない小さな身体を容赦なく刻む。倒れない所を見るとまだ意識は残っているようだ。
「……どうして。君はそんなに一途なんだい?」
下肢を斬られ、踏みとどまっていた晶が大きくよろめいた。しかし倒れる事を許さないのか、倒れようとする方向から飛んできた竜牙がさらに華奢な身体を刻んだ。その後も続く衝撃に、晶の身体は木の葉のように踊る。
「本当は弱くて小さな女の子なのに。修行なんて適当でよかったんだ。元々晶は一守の人間ではなかった。錘を唐突に託された時は恐れからあんなに青ざめていたのに。断ればよかったのに」
それでも、真っ黒に焼け焦げた小さな手は決して竜角を離さない。
「いつまで、昔の私を守ろうとする」
既に答える気力がないのか、耳をやられて届いてもいないのか。晶は成すがまま身体を弄ばれるだけだった。構わずに瑛は続ける。
「私がいいと言ったのに」
「…………だ」
漏れた音に注意深く見れば、晶はかすかに口元を動かしていた。意を汲んで手元に返ってきた竜牙を瑛は腕輪状に戻す。
「…………だっ……ら」
倒れそうになるのをしかし踏みとどまって、黒い煤と赤い血で覆われた顔を上げる。
晶の真っ直ぐな眼光が瑛を貫いた。
「……私の目的は、ずっと、兄、だったから」
か細い声に一瞬、驚いたように瞳を見開いた瑛。「本当に、君は……」小さくそう呟くと優しく苦笑する。
「折角の愛の告白が、過去形かい」
「……あい、などでは…………」
いつもいつでも。困ったように表情を歪ませるこの少女が、本当にかわいくて仕方のなかったあの頃。
自分はどこかで、この少女の想いに気づいていたかもしれない。
けれど、自分は、選んでしまった。
望むものを手に入れるために。
少女を、たくさんのものを置き去りにして――
「――いいよ。晶、君を解放しよう」
穏やかな表情で、瑛はゆっくりと飛竜を構えた。
「私を含めて、全てのものから」
瑛が飛竜を構えるのを見て、すぐに晶は竜角を構えようとした。が、力が入らない。黒い両手を震わせてなんとか刀身を上げようとするが半分も上がらない。
「理解しているだろう。竜駒は力ではなく、霊力を持って初めて揮う事が出来る。要するに、晶は今エンストしているんだ」
「えん……すと……だと?」
「晶」
顔を上げた晶が目にしたのは、あの頃慕っていた瑛の、優しい兄の表情だった。
「もう、楽になっていいんだよ」
許されて、ふっと、肩の荷が下りたような気がした。全身の力が抜けていく。
その場に膝をついた晶。顔を上げると、限界まで引かれた飛竜が、放たれた所だった。
竜角を扱えない今、自分に防ぐ手立てはない。(すまない)脳裏に浮かんだ男に謝ると、観念して晶が目を瞑る。
が、衝撃はいつまで経っても訪れなかった。
目前の気配に、晶が目を開ける。
「……みこ、しば……!?」
目の前には、両手を広げ晶を守った惣一の背中があった。
――// TO RETURN //――