届かない剣-05
折れた木剣を握り締めたまま、ノアはゆっくりと立ち上がった。
足が震える。
息が苦しい。
腕は痺れ、もう思うように動かなかった。
それでも。
前へ出る。
黒い獣は静かに見下ろしている。
その巨大な瞳には怒りも憎しみもない。
ただ、じっとノアを見つめていた。
まるで何かを待っているように。
「ノア……。」
後ろからリリアの泣き声が聞こえる。
「もう、いいよ……。」
「お願い……。」
「逃げて……。」
ノアは小さく首を横に振った。
「逃げない。」
「でも……!」
「逃げたら。」
一度だけ振り返る。
涙でぐしゃぐしゃになったリリアと目が合った。
「リリアが一人になっちゃう。」
その一言に、リリアは言葉を失った。
ノアは微笑もうとする。
けれど、うまく笑えなかった。
「僕、一人じゃ帰れないよ。」
「約束したもん。」
「また遊ぼうって。」
さっき交わしたばかりの約束。
剣を見せる約束。
魚を捕る約束。
また遊ぶ約束。
その全部を守りたかった。
だから。
ノアは足元に転がっていた石を拾う。
木剣は折れた。
でも、まだ終わっていない。
石でも。
枝でも。
素手でも。
守れるなら何でもよかった。
黒い獣が一歩踏み出す。
――ズン。
ノアも、一歩前へ。
石を握り締める。
「来るなぁぁぁっ!」
精一杯の叫びとともに、石を投げる。
小さな石は黒い外殻に当たり、乾いた音を立てて地面へ落ちた。
傷一つ付かない。
それでもノアは諦めなかった。
近くの枝を拾う。
振るう。
折れる。
また石を拾う。
投げる。
何度でも。
何度でも。
何度でも。
やがて、肩で息をするノアの前で、黒い獣が静かに前足を持ち上げた。
これまでとは違う。
今度は確かに、その巨大な爪がノアへ向けられていた。
死ぬ。
そう思った。
でも、不思議と怖くはなかった。
いや。
怖い。
怖くてたまらない。
それでも、身体は自然に動いた。
ノアは後ろへ飛び退くのではなく、リリアの前へ駆け寄る。
そして、小さな身体で彼女を抱きしめた。
「ノア……?」
「目、閉じて。」
「え……。」
「大丈夫。」
震える声で、それでも優しく言う。
「君は、僕が守るから。」
その瞬間。
黒い獣の爪が、静かに振り下ろされた。
世界が、白い光に包まれた。




