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求め行く者  作者: 祓川雄次


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31/48

1998年8月21日(金) (2)

(二)

 時刻は一五時を過ぎた頃であった。

後楽園ホールの周りにはダフ屋が多く出没していた。あまったチケットを安く買い、それを転売する人たちである。違法で行っている彼らの商売は、ある種興行の人気のバロメーターでもある。対戦カードによってはそんな事をしても儲けが出ないので、多く出ているという事は、注目の一戦と言うことができた。

「すみません、チケットを買ってもらえますか」

 加奈月啓太郎は、ガラの悪いダフ屋に近づいた。大きな鞄を背中から下ろすと、その中からチケットを取り出した。その鞄が開いた時にノーファイルカップが見え隠れしていた。ダフ屋は今日出場するボクサーだとわかったようだった。

「七枚だね」

 ダフ屋はそれを受け取り、それ相応の金を加奈月に渡した。それを財布の中へとしまうと、まだ開場まで時間がある後楽園ホールへと向かうべくエレベーターへと加奈月は乗り込んだ。

 加奈月は今日の興行の出場選手である。彼の所属するジムは、A級ライセンス保持者以外のファイトマネーはチケットでの支給であった。六万円のチケットが試合の二ヶ月程前に手渡され、友人、知人に売りさばき、二万円のマネージメント料をジムへと返すのである。

 しかし地方出身で、尚且つ人の少ない職場でバイトをする加奈月は、全てを売り切ることができなかった。やっとの事で数枚は売れたが、残りは当日になり、ゴミ同然になった。だからダフ屋に安い金額を言われても、それを売る以外現金化する方法はなかった。もしも負けたらこれで引退をするかもしれない。そう思うと、加奈月は、財布の中に残している一枚のチケットを見た。これが最後の試合になるかもしれない。そう思うと、記念にチケットを残しておこうと思う気持ちは、少なからず理解ができた。


 碑はJR水道橋駅から後楽園ホールへと続く橋を渡っていた。駅に着く直前には雨がぱらついていたが、それほどではなく止んでしまった。だが蒸し暑い熱気が身体を包むようで、あまり良い気持ちではなかった。けれどもこれから、これよりも凄い熱気がリングの中にはあるのかもしれない。今まで先輩や後輩の試合のたびに、幾度となく足を運んだ道のりでも、今日は異なるように感じられる。背中の大きな鞄が、尚更それを実感させる。 

 試合だ、そんな気持ちが碑を高揚させていく。

 チケットを全て売り切った碑は、ダフ屋たちを相手にせず、後楽園ホールへと向かい、エレベーターに身を任せた。上昇していくたびにテンションが上がっていく。試合まではまだまだ時間がある。この気持ちをどれだけ持続できるか……碑はそんな事を考える余裕さえもなかった。

 五階へと着くと、開始まで時間がありながらも自由席の人たちなのか、観客たちが列を作って並んでいた。その列を横目に見ながら「俺は選手だ」と言わんばかりに関係者専用の入り口を通り抜けていく。

その先にある未だ照明のついていないリング……。ボクサーたちが神聖な場所というリング……。会場から一段浮かび上がった空間……。碑は胸の中に沸き上がってくる熱い物を改めて実感していた。今日の第三試合、彼がはじめてプロとして上がるリングがそこにはあった。

 昨日の計量を行った四階の控室へと降りると、すぐさま体重のチェックを受ける。一日でどれくらいの体重が増えたかなど、健康面を今一度確認するためのものである。それを済ませると着替えを済ませて、再び五階へと上がった。

 先ほど見たリングへと、思わず口の中へと溢れてきた唾を飲み込み、一歩一歩と上がって行く。プロテストの時にも上がっているリングではあるが、なぜかそれは同じリングとは思えないものであった。コーナーへスポンサーなどの名前などが入っていることなども、ちょっとした違いであるが、感じることがないわけではなかった。 

 ロープを潜り、それによって下界から遮られたキャンバスへと足を着いた。

一度大きく深呼吸をしてから碑は軽く動きはじめた。ステップを踏みながら、大きくリングの中を一周し、左のジャブを放つ。それだけで自分の今日の調子が良い事を感じられる。

 照明の未だに当たっていないリング……。しかしその照明に照らされる時、今までとは違うリングの感覚を覚えるのかもしれない。ひと通り動くとキャンバスの上をゆっくりと歩きながら、緊張しないようにと、今から心がけた。


 碑がリングを降りて、再び控室へと降りた頃……開場の時間になったのか、自由席を争う一部の観客がホールの中へと雪崩れ込んできた。まだ時間が早いが、これから少しずつ観客席が埋まっていく。そうして世界戦の準備は徐々に整っていくのであった。


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