始章
雪藤久恵は、先ほどの興奮と熱狂が信じられないくらいのボクシングの試合会場を出て、打って変わって静寂なタクシーへと乗り込んだ。自らが勤める雑誌編集社へと行先だけを告げ、口を開くことがないので、それは自らが生んだ静寂でもあった。
電車で帰ることも可能であるが、遠回りになることを嫌がった久恵の判断であった。
試合中に執ったメモをタクシーの中で、何となくまとめてきた事もあってか、雑誌編集社に着いて、すぐに向き合ったパソコンのキーボードはスムーズに打ち鳴らされた。そこには会場の興奮が続いているようにも感じられた。
ネットに上げる記事は、それほど細かく書かずに、状況と結果だけを書き記しておけばよい。
「これでお願い」
出来上がった記事をネット担当者へと送信し、久恵は雑誌用にもっと細かい、試合背景や選手事情などを明記した記事を構成していく。
雑誌編集社に入社し、二〇年以上ボクシングに関わっているからなのか、専門用語などを含めて、慣れた手つきでパソコンのキーボードは叩かれた。その動きはある意味コンビネーションブローに、継続的にはい回った。
記事が出来上がったのは翌日を迎える直前であった。
「終わった」
会場の興奮を身にまとったまま文章をかけたことに安堵した久恵は、身体を大きく天へと伸ばした。まだ入稿を急ぐものではないので、後日遂行をしてしまえば良いだろうと、久恵は弛緩した体で社を後にした。
終電にはギリギリ間に合うかもしれなかった。だがつい先ほど世界タイトルマッチを見てきた興奮と、一仕事終えた緊張の糸の緩みにより、このまま家に帰る気分にはなれなかった。
少し飲んで行こうかな……。
そんな気持ちが芽生え、近場でタクシーを捕まえて行きつけのバーへと入り込んだ。
店には先客が二名程存在していた。だがその客たちは別々のようであった。久恵の近くに座る女性は、スマートフォンをいじっていた。
カウンターのみ、薄暗いバーの雰囲気とは異なり、少し明るく感じられる照明の下へ、久恵は座り込んだ。
「お疲れ様です。今日はやっぱり会場に行っていたのですか」
バーテンダーは一言添えながら、おしぼり受けにおしぼりを乗せて、久恵の前へと綺麗な所作で指し出した。久恵はおしぼりを手にすることなく、バーテンダーに言葉を返した。
「もちろん、見てきたよ。見事なKOだったからね。本当に良い試合だったよ」
脳裏に焼きついた光景を思い出すように、久恵は少し興奮した口調で語った。バーテンダーはその言葉を冷静に受け止めながら、笑顔で答えた。
「そうでしたか、私も帰ったら録画した試合を見てみますよ」
「ぜひ、良い試合だったから楽しめると思うよ。
取りあえずマンハッタンを」
今日の試合の話をもっとしても良いと思いながらも、とりあえず喉の乾きを癒したく、久恵はショート・カクテルを注文した。
「かしこまりました」
バーテンダーは無駄な動きをせずにカクテルを作る準備に入った。
世界戦で日本人が勝った時に、久恵が一杯目に頼むカクテルは昔も今も変わらない。目の前にチェリーの入ったカクテル・グラスが置かれ、ミキシング・グラスから赤茶色の液体が注がれていく。そこにレモンピールが広がるようにしてカクテル・グラスを覆った。その香りは、久恵を興奮から、少しだけ覚まさせてくれるようであった。
「お待たせいたしました」
バーテンダーの言葉は、カクテルと戦い始める合図のようで、久恵が数時間前にボクシング会場で聞いたゴングの音のように思えた。
グラスに入ったチェリーに刺さったカクテル・ピンを人差し指で押さえながら、そっとグラスを持ち上げて口をつけた。
甘さと共にアルコールの整った感覚が、口の中へと広がっていく。それを味わい、大きく息を吐き出した。日本人選手の勝利と仕事を終えた満足から思わず笑みが洩れた。
「久恵さん、お久しぶりです」
先客の一人であった桜子が、スマートフォンから手を離し、喉の渇きを癒した久恵に話しかけてきた。
「久しぶり、桜子ちゃん、元気にしていた」
久恵は、顔見知りの桜子に対して、親近感のある笑顔を見せた。
「もちろんです。明日から休みをもらっているので、今日は夜更かしです」
桜子は定休ではない休みが嬉しいのか、とびっきりの笑顔を見せて返した。
「そうなの、いいねぇ。私は明日、ゆっくりでもいいから、今日は飲みたくてね」
桜子の休みを羨ましそうに答えると、久恵は空いた口に再びカクテルを含んだ。
「久恵さん、今日のボクシングを見に行っていたのですか」
先ほどのバーテンダーとの話に聞き耳を立てていたのか、桜子は訪ねてきた。
「そうよ、仕事でね。でもボクシング自体が好きだから楽しんでもいるけど」
久恵は飛び切りの笑顔を見せた。
「仕事って、ボクシング関係なんですか」
バーでは仕事の話を滅多にしなかったので、桜子がそんな話をしてくるとは思いもよらなかったが、嫌な顔せず久恵は答えた。
「そう、とは言っても選手じゃなくて雑誌記者だけれどね」
スマートフォンを手に取り、先ほど書いてきた記事が乗っているホームページを表示して、久恵はそれを桜子に見せた。
「今日の世界タイトルマッチの記事、さっき書いてきたんだ」
「この記事を久恵さんが書いているのですか、凄いです」
桜子は素直に驚きの表情を見せた。
「凄くはないよ」
ちょっと照れくさそうな表情を見せて、久恵は微笑み、カクテルを口に運んだ。
「でも、どうしてボクシングの記者になったのですか……」
桜子は素朴な疑問をぶつけた。ボクシングの世界は一般人に取って近いようで遠いものである。選手ではないにせよ、何がきっかけで久恵がその世界に入り込んだのか、桜子は湧いてきた興味をぶつけた。
「たまたま就職難の時代に滑り込んだって感じかな。
でもきっかけはもちろん、あったけれどね」
久恵は昔を懐かしむように、赤茶色の液体の入ったカクテル・グラスを見つめた。
あの出来事がなかったら、自分は雑誌社に入社しても、ボクシング担当を希望・選択しなかったであろう。久恵は、懐かしむ表情を宙へと浮かべた。
「きっかけって何だったのですか」
桜子は自らの好奇心に胸が躍っているのか、何かを求めるような視線を久恵に向けた。
このような話で、久恵が嫌がるような素振りを見せようものなら、バーテンダーは間に入って話を止めようとも考えていた。客に取って、この空間が嫌なものにならないようにという配慮であった。
しかし久恵は、そんな素振りを見せることなく、グラスを見つめ、微笑んだ。
あの夏の出来事……。
「そうね、あれは私が大学四年の時だったかな……」
久恵はそう言うと、マンハッタンを口にしてから話を始めた。




