第12話 薔薇の香りと、王城の舞踏会
王都ロイヤル・ニースの中枢、ニース王城。
その大広間「白鳥の間」は今、数百の燭台と魔導シャンデリアの輝きに満たされていた。
新年の祝賀会。
王国の有力貴族が一堂に会する、年に一度の最大級の社交場である。
色とりどりのドレスを纏った貴婦人たち、勲章を輝かせた紳士たち。
生演奏の優雅な調べに乗せて、囁き声と笑い声がさざ波のように広がっている。
だが、その華やかな空気の一角に、目に見えない「壁」が存在していた。
「……あれが、噂のバーンズ伯爵家の?」
「ええ。石鹸で成金になったという」
「フン。所詮は辺境の芋掘り貴族だろう。見てみろ、あの子供を」
好奇と蔑みの視線が突き刺さる中心に、マイルズは立っていた。
父ロッシュ、姉リーナ、そしてパートナーとして同行を許されたエリーゼと共に。
マイルズの正装は、夜の闇を思わせるミッドナイトブルーのベルベット仕立て。
金糸の刺繍は控えめだが、その仕立ての良さと、本人の宝石のような美貌が相まって、会場の誰よりも洗練されて見えた。
だが、貴族派の人間たちには、それが余計に鼻につくらしい。
「落ち着いて、マイルズ。敵の視線が痛いくらいだわ」
姉のリーナが扇子で口元を隠しながら囁く。
「構いませんよ、姉上。注目されるのは商売の基本です」
マイルズはグラスを片手に、悠然と微笑んだ。
その余裕が、さらに敵の神経を逆撫でする。
人垣が割れ、一際豪奢な、いや、悪趣味なほどに宝石をジャラジャラとつけた巨体の婦人が現れた。
強烈なムスク(ジャコウ)の香水の匂いが、鼻を突く。
ゼファー公爵夫人、ベアトリスだ。
貴族派の重鎮であり、今回の「マイルズ潰し」の首謀者と目される人物。
「あらあら。どこのどなたかと思いましたら……バーンズ伯爵家の皆様ですわね」
ベアトリスは、分厚い化粧の下からマイルズを見下ろした。
「ようこそ王都へ。……まあ、少し『土』の臭いが残っているようですが、お風呂には入られましたの?」
周囲の取り巻きたちが、クスクスと嘲笑を漏らす。
「田舎の泥臭さは、洗っても落ちないのかしら」
「石鹸を売っているのに、ご自分では使わないのね」
典型的な挑発。
父ロッシュがこめかみに青筋を浮かべるが、マイルズは片手を上げて父を制した。
そして、一歩前に進み出ると、流麗な所作で最敬礼をした。
「お初にお目にかかります、公爵夫人。マイルズ・バーンズです」
澄んだ声が、周囲の雑音を切り裂いた。
「お気遣い感謝いたします。……ええ、確かに我が領の土は豊かゆえ、その香りが染み付いているのかもしれません。それは我々の誇りでもあります」
「あら、開き直り? 貧乏くさい誇りですこと」
「ですが」
マイルズは言葉を切らず、ベアトリスに近づいた。
「その土の匂いを消すために、夫人は随分と……『強い』香りをお使いのようですね。ムスク、竜涎香、それにシナモン……少々、香りが喧嘩をなさっているようだ」
「なっ……!?」
ベアトリスの顔色が赤黒く変わる。
香水のつけすぎ、香りの調和の欠如。それを「臭い」と遠回しに指摘されたのだ。
「無礼な! この香水は東方から取り寄せた最高級品ざます! 田舎者の子供に、この高貴な香りが分かってたまるものですか!」
ベアトリスが金切り声を上げる。
会場の注目が一気に集まった。
「騒がしいな。何事だ」
その時、玉座の方から威厳ある声が響いた。
人々が慌てて平伏し、道を開ける。
現れたのは、初老の男性と、その横に寄り添う銀髪の淑女。
国王エドワードと、王妃ソフィアだ。
「へ、陛下! 王妃様!」
ベアトリスが慌てて媚びへつらうような笑みを浮かべる。
「いえ、この田舎貴族の子供が、わたくしの香りを『臭い』などと侮辱いたしましたので、教育をしてやろうかと……」
「侮辱など滅相もありません」
マイルズは王の御前でも動じず、静かに言った。
「ただ、公爵夫人の香りは素晴らしいのですが、少々『重すぎる』かと存じました。……特に、繊細な感覚をお持ちの王妃殿下の前では」
王妃ソフィアが、わずかに眉をひそめていた。彼女はベアトリスの強烈な香りに、先ほどから気分が悪そうにしていたのだ。
マイルズの指摘は図星だった。
「口が減らない子供だ。……ならば、お前には『正解』が分かるというのか?」
国王エドワードが、興味深そうにマイルズを見た。
「はい、陛下。……僭越ながら、本日、王妃殿下のために、ある『香り』を用意して参りました」
マイルズは懐から、あの小瓶を取り出した。
バーンズ領特産の、青く透き通るクリスタルガラスの小瓶。
その中には、黄金色の液体が揺らめいている。
「なんだそれは? ただの水か?」
ベアトリスがせせら笑う。
マイルズは無視し、王妃の前に進み出た。
「お許しいただけますでしょうか」
王妃が小さく頷く。
マイルズは恭しく小瓶の蓋を開けた。
そして、王妃の手首ではなく、自身が持っていた絹のハンカチに一滴垂らし、それを王妃の前でふわりと扇いだ。
瞬間。
「……!」
大広間の空気が変わった。
ムスクのような動物的な重い臭いではない。
それは、朝露に濡れた白薔薇の花園に、一陣の風が吹き抜けたような……。
清冽で、甘く、それでいて儚い香り。
王妃ソフィアが、目を大きく見開いた。
「……まあ。なんて、いい香り……」
彼女は思わず身を乗り出し、その空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「薔薇……いいえ、もっと複雑で、奥深い……。まるで、私の故郷の花畑にいるようだわ」
「『トップノート』はシトラスとグリーン。『ミドルノート』にダマスクローズとジャスミン。そして『ラストノート』に微かなサンダルウッドを据えました」
マイルズは静かに解説した。
「時間の経過と共に、香りは表情を変えます。……王妃殿下のような、多面的な魅力を持つ女性のために調合した、世界に一つだけの香水。名は『ソフィアの朝』と」
「ソフィアの朝……」
王妃の頬が、少女のように紅潮した。
「素晴らしいわ。これほど心安らぐ、美しい香りは初めてよ」
会場中の貴婦人たちが、羨望の眼差しでその香りを探っていた。
ベアトリスの強烈なムスクの臭いは、この洗練された香りの前では、ただの「悪臭」に成り下がっていた。
「……ば、馬鹿な! そんな水みたいなものが……!」
ベアトリスがわななく。
マイルズは彼女に冷ややかな視線を向けた。
「公爵夫人。香りは『鎧』ではありません。『翼』です。……重く纏うものではなく、心を空へ羽ばたかせるもの。それが、バーンズ流の美学です」
勝負あった。
公爵夫人は顔を真っ赤にして、言葉もなく立ち尽くすしかなかった。
彼女の厚化粧が、ピエロのメイクのように滑稽に見える。
「はっはっは! 見事だ!」
国王エドワードが、愉快そうに笑った。
「『鎧ではなく翼』か。十歳の口から出るとは思えん言葉だ。……マイルズ・バーンズと言ったな」
「はっ」
「そなたの父、ロッシュから報告は聞いている。領地で面白いことを始めているそうだな。石鹸、肥料、そしてこの香水。……余の国に、新たな風を吹かせようとしているようだな」
「恐悦至極に存じます。……すべては、ニース王国の繁栄のため」
マイルズは深く頭を下げた。
「よい。後で余の執務室へ来い。……ゆっくりと話が聞きたい」
国王のその言葉は、マイルズが王家公認の「重要人物」として認められたことを意味していた。
貴族派の面々は、苦虫を噛み潰したような顔で沈黙するしかない。
◇
その後の舞踏会は、マイルズの独壇場だった。
「マイルズ様! あの香水はどこで買えますの!?」
「まあ、お肌がツルツル! どんな石鹸を使えばそうなるの?」
「是非、我が領とも取引を!」
貴婦人たちがマイルズを取り囲む。
マイルズは笑顔で対応しながら、横に控えるエリーゼに目配せした。
(……仕事だぞ、エリーゼ)
(分かっていますわ。……注文が殺到して、嬉しい悲鳴ですこと!)
エリーゼは商談用の手帳に、凄まじい速度で予約を書き込んでいく。
その様子を、少し離れた場所からシンシアが見つめていた。
彼女の手元のメモには、会場内の貴族たちの相関図と、マイルズに対する「好感度」の数値が羅列されている。
「……貴族派の二十パーセントが、中立あるいは親バーンズ派に傾いた。……計算通り」
宴の熱狂の中、マイルズはふと、バルコニーへと出た。
冷たい夜風が、火照った頬に心地よい。
「……疲れたか?」
背後から声をかけられた。父ロッシュだ。
「少しだけ。……やはり、戦場の方が気が楽かもしれませんね」
「違いない」
ロッシュは苦笑し、息子の隣に並んだ。
「だが、お前は勝った。完勝だ。あのゼファー公爵夫人が、逃げるように帰っていったぞ」
「ええ。ですが、これで敵意は決定的になりました。……次は、もっと陰湿な手を使ってくるでしょう」
マイルズは、眼下に広がる王都の夜景を見下ろした。
光と闇が混在する街。
「父上。王都での足場はできました。……次は、この王都そのものを『治療』します」
「治療?」
「ええ。来る時に見たでしょう? この街の不衛生さを。……香水で臭いを隠すだけでは不十分です。下水道を整備し、疫病の温床を断つ。それができて初めて、本当の文明国です」
「……また、デカイことを言う」
ロッシュは呆れたが、その目は楽しそうだった。
「国王陛下も乗り気だった。……予算を引っぱれるかもしれんぞ」
「そのつもりです。……私の『内政』は、領地だけには留まりませんよ」
マイルズが夜空に手を伸ばすと、まるで星を掴むかのように見えた。
王城での勝利は、彼の名声を不動のものにし、同時に彼を王国の歴史の表舞台へと引きずり出した。
バーンズ領の神童。
その名は今夜、伝説となって王都を駆け巡る。




