第13話 王の憂鬱と、見えざる怪物
舞踏会での狂乱のような一夜が明け、王都は気怠い朝を迎えていた。
だが、ハール侯爵邸の一室だけは、戦場のような喧騒に包まれていた。
「マイルズ様! 香水の追加注文が止まりません! 既に三百本……いいえ、三百五十本の予約が入りました!」
エリーゼが、髪を振り乱しながら(それでも美しさは損なわれていないが)悲鳴に近い声を上げた。
「生産が追いつきません! 原料の花が足りないわ!」
「落ち着いて、エリーゼ殿。初回ロットは限定生産にして、プレミアム感を維持するんだ。『今は手に入らない』という飢餓感が、さらに価値を高める」
マイルズは優雅にモーニングティーを飲みながら、パニック状態の商会令嬢を諭した。
その横で、シンシアが淡々と計算機(そろばんのような道具)を弾いている。
「……計算終了。香水の利益率はおよそ八十割。石鹸と合わせれば、バーンズ領の年間予算の三年分が、この一週間で稼げます」
「三年分か。……悪くない」
マイルズはカップを置いた。
「だが、金儲けは君たちに任せる。……私は、もっと大きな『商談』に行ってくる」
今日は、国王陛下からの呼び出しの日だ。
場所は、公式な謁見の間ではなく、王の私的な執務室。
つまり、腹を割った話がしたいということだ。
◇
王城の奥深く。
重厚な扉の前で、マイルズと父ロッシュは騎士に武装解除を求められた。
当然の手続きだが、マイルズの懐にある「小箱」については、検査の結果、危険物ではないと判断され、持ち込みが許可された。
部屋に入ると、そこには三人の人物が待っていた。
国王エドワード。
昨夜、香水に魅了された王妃ソフィア。
そしてもう一人。不機嫌そうに腕を組む、鷲鼻の初老の男。
国王の弟であり、貴族派の領袖、ゼファー公爵だ。
「……よく来たな、マイルズ」
国王エドワードが、書類から顔を上げた。
「昨夜は楽しませてもらった。妻も、そなたの香水のおかげでよく眠れたそうだ」
「それは重畳に存じます」
マイルズが礼をとる。
「さて。……余計な前置きは無しだ。単刀直入に聞く」
国王の目が鋭くなった。
「そなたの領地で起きている『改革』。……石鹸、肥料、製鉄、そして香水。これらは全て、そなた一人の頭から出てきたものか?」
空気が張り詰めた。
十歳の子供に対する質問ではない。国家の最高権力者が、未知の脅威を値踏みする目だ。
マイルズは、嘘をつかずに答えた。
「はい。……正確には、私が持つ『記憶』と、それを形にする領民たちの努力の結晶です」
「記憶、か。……洗礼式で『生命』と『創造』、二つの神話級スキルを賜ったという報告は聞いていたが」
国王は深く頷き、納得したように息を吐いた。
「その異質な『知識』こそが、神がそなたに与えたもうた祝福というわけか。……よもや、人の身には余るほどの叡智だな」
国王は、マイルズを「神の知識を持つ特異点」として認識したようだ。
マイルズとしても、前世の話をするより、神のせいにした方が都合が良い。無言で肯定の礼をした。
「マイルズよ。そなたの知識、王家のために使う気はないか? 宮廷魔導師……いや、宰相補佐として召し抱えてもよいぞ」
破格の提案だ。
だが、横からゼファー公爵が口を挟んだ。
「兄上! お戯れを! このような得体の知れぬ子供を中枢に? 昨夜の香水とて、何か毒が含まれているやもしれませんぞ!」
公爵はマイルズを睨みつけた。昨夜、自分の妻が恥をかかされたことを根に持っているのだ。
「それに、所詮は金儲けの道具。国家の運営とは次元が違う」
マイルズは、公爵の言葉を聞き流し、国王に向き直った。
「陛下。お誘いは光栄ですが、私は現場が好きです。それに……宰相になるよりも先に、解決すべき『緊急事態』があります」
「緊急事態だと?」
「はい。……この王都は今、滅亡の危機に瀕しております」
部屋が静まり返った。
「……不敬だぞ、小僧!」
ゼファー公爵が立ち上がる。「王都の繁栄を前にして滅亡とは、何の妄言か!」
「繁栄? ……この悪臭の中でですか?」
マイルズは窓の方を指差した。
「陛下。王都に入ってから、私は鼻が曲がりそうです。下水は垂れ流し、井戸水は濁っている。……失礼ながら、ここは『巨大な便壺』の上に住んでいるようなものです」
「言葉を慎め!」
「事実です。……陛下、王宮の井戸から汲んだ水を一杯、いただけますか?」
国王が侍従に目配せし、銀の杯に入った水が運ばれてきた。
澄んだ、綺麗な水に見える。
「これは王家専用の井戸の水だ。清浄なものだが?」
「では、これをご覧ください」
マイルズは懐から、持ち込んだ「小箱」を取り出した。
真鍮とガラスで作られた筒状の機械。
「……『顕微鏡』です。ガラス職人と共に作り上げました」
マイルズはスポイトで水を一滴垂らし、プレパラート(ガラス板)に挟んで、レンズの下にセットした。
「魔法で光を増幅します。……陛下、この筒の中を覗いてみてください」
国王は半信半疑で、片目を接眼レンズに当てた。
「……む? 何も見え……いや、なんだこれは!?」
国王が仰け反った。
「う、動いている! 小さな虫のようなものが、無数に……!」
「な、なんだと?」
ゼファー公爵も、王に促されて覗き込む。
「ひっ! 気持ち悪い! なんだこの怪物は!」
「それが、皆様が毎日飲んでいる『清浄な水』の正体です」
マイルズは冷淡に告げた。
「細菌。目に見えない微小な生物。……この中には、腹痛を起こすものもあれば、死に至る疫病を引き起こすものもいます。かつての『赤い咳』も、これが原因の一つです」
「こ、これを飲んでいると言うのか……」
王妃ソフィアが青ざめて口元を押さえる。
「はい。今はまだ、運良く致命的な菌が少ないだけです。ですが、夏になり、気温が上がれば……あるいは、外部から強力な菌が持ち込まれれば」
マイルズは指を鳴らした。
「爆発的な感染が起き、王都の人口は半分になるでしょう。……貴族も平民も関係なく」
恐怖。
目に見えない怪物を見せつけられた大人たちは、戦慄した。
剣や魔法なら戦える。だが、水の中に潜む無数の敵とは、どう戦えばいいのか。
「……マイルズよ。脅すだけではあるまいな」
国王の声が震えている。
「神の知識を持つそなたには、これが見えていたのか。……ならば、対策もあるのだろう?」
「もちろんです」
マイルズは地図を広げた。
「『上下水道計画』です。……地下に巨大な水路を張り巡らせ、汚水を一箇所に集めて浄化処理する。同時に、水源地から清潔な水を各家庭に送るパイプラインを構築します」
「地下に水路だと? ……莫大な金と時間がかかるぞ」
ゼファー公爵が呻く。「それに、どうやって水漏れを防ぐ? 石組みの隙間から汚水が漏れれば、地下水が汚染される」
「そこで、これを使います」
マイルズは、ポケットから灰色の粉を取り出した。
「『セメント』です」
「セメント?」
「我が領の赤錆山の製鉄所で出るゴミ……『スラグ』と、石灰、火山灰を混ぜたものです。これに水と砂利を混ぜると……」
マイルズは、予め用意していた、セメントで固めた小さなブロックを見せた。
「石のように硬くなり、水を通しません。形も自由に作れます」
ローマン・コンクリートの再現。
赤錆山の「ゴミ」だと思われていた鉱滓が、最強の建築資材に化けたのだ。
「この『コンクリート』を使えば、安価に、短期間で、巨大な地下水路を建設できます」
国王は、その灰色の塊を手に取り、まじまじと見つめた。
「……そなたは、ゴミから黄金だけでなく、城壁すら作るというのか」
「はい。このコンクリートは、百年、いや千年保ちます。……陛下、私に王都の地下を弄る許可をください。そうすれば、この街を世界一清潔で、美しい都に変えてみせます」
国王エドワードは、椅子に深く座り直し、目を閉じた。
そして、数秒の沈黙の後、カッと目を開いた。
「よかろう。マイルズ・バーンズ。そなたを『王都衛生改革官』に任命する」
「兄上!? 正気ですか!」
「黙れゼファー。……あの『怪物』を見たろう。あれを放置しては眠れん」
国王はマイルズを見た。
「ただし、予算は限られている。……そなたの商才で、なんとかできるな?」
「……ははっ。無茶をおっしゃる」
マイルズは苦笑したが、その目は楽しそうだった。
「仰せのままに。資金の一部は、汚水を浄化して作る『肥料』の売上と、各家庭から徴収する『水道代』で賄います。……初期投資はかかりますが、長期的には黒字になりますよ」
謁見は終わった。
マイルズは、王都の地下という、新たな広大な「領地」を手に入れた。
だが、部屋を出たマイルズの顔は、険しかった。
「……マイルズ。うまくいったな」
父ロッシュが肩を叩くが、マイルズは首を横に振った。
「いいえ、父上。……一番の難関は、王の許可でも、工事の難易度でもありません」
マイルズは、足元の床――その遥か下を見つめた。
「王都の地下には、既に『住人』がいるのです」
「住人? 鼠か?」
「もっと厄介な鼠です。……犯罪ギルド、浮浪者、そして密輸業者。地下水路を作るには、彼らの巣窟を掃除しなければなりません」
華やかな王都の光。その影にある地下世界。
そこは、法も王の権威も届かない無法地帯だ。
「……武力が必要になりますね。それも、とびきり腕の立つ」
マイルズの脳裏に、あるアイデアが浮かんだ。
赤錆山の職人たちが作った、試作段階の「新兵器」。
そして、あの計算高いシンシアの分析能力。
「……掃除の時間だ」
十歳の衛生改革官は、白衣ではなく、漆黒のコートを翻し、王都の闇へと足を踏み入れる決意を固めた。
内政とは、時としてドブ掃除であり、害虫駆除である。
マイルズの「王都浄化作戦」が、静かに幕を開けた。




