3手目 松姫は見ていた
【数日前・チェス部部室】
「待てよ、軽歩」
彫須が突然立ち上がった。いつもの軽薄な笑みが消え、その瞳に真剣な光が宿っている。
「俺の『魔眼』が、さらなる真実の欠片を捉えたぜ」
「また始まった……」
軽歩が苦笑するが、彫須の真剣さに押されて耳を傾ける。
「松姫だ」
が机に両手をつき、身を乗り出す。
「武田信玄の娘、松姫は八王子の北西にある恩方村で暮らしていた……そうだろ?」
賀瑠璃がスマホから顔を上げる。
「史料によれば、1590年頃から1616年に死去するまで、確かに恩方で過ごしたとある」
「だったら!」
彫須の声が高ぶる。
「その恩方村から見える山は何だ?考えろ、軽歩!お前の正義感溢れる脳みそで考えるんだ!」
軽歩は地図を思い浮かべた。八王子市の北西部、恩方地区。そこから南東方向を見上げたとき、一番目立つ山といえば……
「……高尾山」
軽歩の声が震える。
賀瑠璃のスマホを操る手が完全に止まった。論理的な彼の頭脳が、一つの結論に到達する。
「論理的帰結として……つながっている」
三人の間に、重い静寂が流れた。
『姫が山を見る』
400年以上も前、戦国の世を生き抜いた一人の姫が、恩方村から高尾山を見上げていた。毎日、毎日、山を眺めながら。
「これは……偶然じゃない」
軽歩が震え声で呟く。
「絶対に」
「ククク……」
彫須が低く笑う。
「運命の歯車が回り始めたな。俺たちは選ばれし者として、歴史に封印された『禁断の知識』に近づいているのかもしれない……」
賀瑠璃が冷静に、しかし興奮を抑えきれない様子で分析を始める。
「『8人の王子』が八王子を指す、『姫が山を見る』が松姫と高尾山を指す……」
軽歩は胸の高鳴りを感じていた。これは正しい道だ。じいちゃんが遺してくれた、正しい道なんだ。
「残るは『ユダヤ人の落とし物』だけ……」
「その謎も」彫須が不敵に笑う。
「俺の『洞察力』で必ず解き明かしてみせる」
【現在・山小屋】
記憶を失った男性は、自分の手帳を震える手でめくっていた。そこには、びっしりとチェスの棋譜が書き込まれている。文字は丁寧で、明らかに長年の研究の成果だった。
「あなたは、チェスをされていたんですね」
軽歩の優しい問いかけに、男性は困惑した表情を浮かべる。
「わからない……やっていたような、やっていないような……頭の中がもやもやして」
男性は手帳の一ページを指差した。そこには、見覚えのある戦型が記されている。
「これは……」
軽歩が驚く。
「スラブディフェンスですね。僕たちのノートと同じ戦型が……」
「スラブ……」
男性が呟く。
「なぜか、とても馴染み深い響きに感じる」
彫須が男性の手帳を覗き込む。
「おいおい、ちょっと待てよ」
賀瑠璃の目が鋭くなる。
「確かにスラブディフェンスもあるが……これ、フィリドールディフェンスの方が多くないか?」
「フィリドール……」
軽歩が考え込む。
「『ポーンはチェスの魂である』と言った18世紀の偉大なチェスプレイヤー……」
記憶喪失の男性の目に、一瞬だけ光が戻った。
「フィリドール……そうだ、私は……」
だが、すぐに頭を押さえて苦しむ。
「思い出せない……でも、とても大切なことな気がするのに…」
賀瑠璃が身を乗り出す。
「他に何か、断片的でも構いません。思い出せることはありませんか?」
「何かを……」
男性が額を押さえながら必死に記憶を辿る。
「何かを探しにこの山に。とても大切な、歴史的価値のある何かを……」
「歴史的価値?」
賀瑠璃が興味深そうに呟く。
その時だった。
「おい……」
彫須の声が急に低くなった。いつもの芝居がかった口調ではない、本気で警戒している声だった。
「『死神』どもが、ついに俺たちの隠れ家を見つけやがったようだぜ……」
四人は窓の隙間から外を覗いた。
山小屋の前に、サングラスをかけた黒いスーツの男が三人、完全に無言で立っている。
まるで墓石のように、ただそこに存在している。風が吹いても、木々がざわめいても、彼らだけは微動だにしない。
「見つかってしまった……」
軽歩が青ざめる。
「でも、逃げるわけにはいかない。このノートには、きっと重要な意味があるんだ」
記憶喪失の男性が、突然全身を震わせた。
「あの男たち……」
「ご存知なんですか?」
軽歩が心配そうに聞く。
「わからない……体が、細胞の一つ一つが拒絶しているような……」
賀瑠璃が冷静に状況を分析する。
「我々は包囲されている可能性が高い。退路の確保が急務だ。裏口の有無を確認しよう」
彫須が小屋の奥を調べる。中二病の彼だが、こういう時の行動力は侮れない。
「あったぜ!裏に勝手口が!でも……」
彫須が振り返る。
「ここから出ても、奴らの『包囲網』から逃れられるかどうか……」
その時、外から機械的な日本語が聞こえてきた。まるでコンピュータが翻訳した文章を読み上げているような、不自然なイントネーション。
「知ッテイマス。中ニイルコトハ」
「ノート、返シテモライマス」
「ソシテ、『協力者』モ、連レテイキマス」
協力者?
四人は顔を見合わせた。
記憶喪失の男性が、ハッとした表情を浮かべる。
「協力者……その言葉を聞くと、何かが……」
「思い出されたんですか?」
軽歩が期待を込めて聞く。
「わからない……でも、私がこの山に来た理由と関係がある気がする…」
男性が手帳の最後のページをめくる。そこには、他のページとは明らかに違う、震える文字で何かが書かれていた。まるで、記憶を失う直前に、必死に書き留めたもののように。
『フィリドールの遺産』
「フィリドール?」
軽歩が驚く。
「18世紀最高のチェスプレイヤーじゃないか」
賀瑠璃が即座に反応する。
「『ポーンはチェスの魂である』と言った伝説の男だな」
彫須が思い出したように言う。
「まさか、その『遺産』がこの山に……?」
記憶喪失の男性の目に、一瞬だけ確かな光が戻った。
「そうです……私は……彼の残した秘密を……」
だが、すぐにまた混乱した表情に戻る。
「思い出せない……でも、とても重要なことだった気がする…」
外で足音が近づいてくる。重く、規則正しいブーツの音。
「時間切れだ」
賀瑠璃が立ち上がる。
「即座に退避しよう」
「ドア、開ケマス」
機械的な声が小屋のすぐ外から響いた。




