2手目 八王子の謎
「はあ、はあ……っ」
穴鳥軽歩、彫須、賀瑠璃の三人は、息を切らしながら山道を駆け下りていた。
「チッ、しつけーな…」
彫須が忌々しげに振り返る。
「まるで俺たちの宿命に惹きつけられる虫ケラのようだぜ」
黒いスーツの男たちの姿は見えないが、時折、木の枝が折れる音が聞こえる。賀瑠璃が冷静に呟いた。
「音の間隔から、追跡者との距離は50メートル以内。このままでは捕捉される。ルート変更を」
「あ……」
その言葉を遮るように、軽歩が足を止めた。木の根元に、一人の男性が倒れている。 40代くらいだろうか。もうろうとしていて、額から血を流していた。
「大丈夫ですか!」
真面目な軽歩が、考えるより先に駆け寄る。男性は薄っすらと目を開けた。
「君たちは……」
「怪我してますよ。ひどい出血だ」
男性はひどく困惑した表情を浮かべる。
「私は……私は、誰だ?」
三人は顔を見合わせた。賀瑠璃が即座に状況を判断する。
「ここは危険だ。移動する」
三人は男性を支えながら、さらに奥へと向かった。
■ 人里離れた山小屋 ■
廃屋になった小屋で、男性がようやく落ち着きを取り戻していた。
「頭が……割れるように痛い」
「記憶は戻りませんか?」
軽歩が心配そうに聞くと、男性は力なく首を振った。
「名前すら思い出せない……。ただ、黒いスーツの男たちに追われていたような、そんな気がするんだ」
「ほう…」
彫須の目がキランと光る。
「記憶を封印されし同胞か。面白い」
「あなたも追われていたんですか?」
軽歩の問いに、男性は
「わからない……でも、とても危険な気がする」
と答えるだけだった。
その時、男性のポケットから手帳が落ちた。軽歩が拾い上げる。
「これ……あなたの?」
手帳には、チェスの棋譜がびっしりと書かれていた。
「その手帳が…」
彫須が芝居がかった口調で言う。
「あんたの失われた記憶を呼び覚ます鍵になるやもしれんな…」
【数日前・チェス部部室】
放課後の埃っぽい空気の中、俺たちは机に広げた古びたノートを囲んでいた。 そこに記された、祖父の筆跡による三つの謎の言葉。
『8人の王子』 『姫が山を見る』 『ユダヤ人の落とし物』
「『8人の王子』はチェスのポーンのことだよな。8つあるし」
軽歩が言うと、彫須がニヤリと笑った。
「フッ、凡人め。発想が固いな。もっと柔軟に考えろよ、俺のようにな。ほら、『はち・おうじ』…」
「「……八王子?」」
軽歩と賀瑠璃の声がハモった。まさか、そんなダジャレみたいな。
「可能性はゼロではない」
賀瑠璃が冷静に返す。
「あらゆる仮説は検証する価値がある」
「じゃあ『姫が山を見る』ってのはなんだよ」
彫須が続ける。
「『姫』…。あ、そういや駅近くに『松姫』って和菓子屋あったよな。そこのカフェオレ大福、結構うまいんだぜ」
その、何の気なしの一言に、賀瑠璃がスマホを手に取った。高速で何かを打ち込み、やがて顔を上げる。その目には、論理が答えを導き出した時の、冷たい光が宿っていた。
「…彫須、お前、たまに役に立つな」
「フッ…俺の慧眼が、歴史の闇に眠る真実をこじ開けちまったようだな」
得意げな彫須を無視して、賀瑠璃が淡々と告げる。
「松姫。1561年生まれ、武田信玄の五女。政略結婚の相手だった織田信忠が本能寺で死んだ後、彼女は出家し、兄を頼って八王子に移り住んだという記録がある」
心臓がどくん、と跳ねた。 彫須の中二病じみたダジャレと、ただの和菓子屋の名前が、一本の線で繋がってしまった。
8人の王子─────八王子。
姫が山を見る─────武田信玄の娘、松姫。
「おい、これってまさか…」
俺、穴鳥軽歩は呟いた。 ただのじいちゃんの土産話。そう思っていたものが、急に現実の地図と歴史にリンクし始めた。それは、パズルがはまる快感とは違う。開けてはいけない扉の鍵を、見つけてしまったような、ぞっとする感覚だった。




