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エッチなことをしたいのは、あなたとだけです

「……気絶、したんですか……?」


 竹刀を床に置いた恭弥へ、由良は慎重に声をかける。恭弥は「ああ」と答えると、由良を見下ろし、自身の紺のカーディガンを脱いだ。


「キョウ?」


「俺の服は嫌かもしれないが、我慢しろ」


 由良の肌蹴た上半身を隠すように、恭弥のカーディガンがかけられた。それによって、自分があられもない姿をしていたことを思い出し、由良は羞恥に頬を染める。恭弥は由良が寝かされているベンチの足元に膝をつくと、固く結ばれた手ぬぐいをほどいてくれた。


「あ……りがとうございます……」


「起きられるか」


 手ぬぐいの圧迫感がなくなったことにより、やっと腕に感覚が戻ってくる。止まっていた血が巡っていくような熱い感覚を感じていると、恭弥が背中に手を当て、起こしてくれた。壁に寄りかかるようにベンチに座らされる。


 由良が恭弥のカーディガンに手を当て胸元を隠すようにしていれば、縛られた痕が赤黒く残った手首を認め、恭弥は痛ましそうな顔をした。


「……来るのが遅くなって、悪かった。その顔、殴られたんだろう?」


「そんな、貴方が謝ることじゃありません……!」


 むしろ助けに来てくれただけで、信じられないほど嬉しかったのに。あんなに傷つけたのに、どうしてここまでやってきてくれたのか。


「キョウが来てくれなかったら、今頃――――……」


「由良」


 膝をついて同じ視線になった恭弥に、優しく目元を撫でられる。由良はそれで犯されそうになっている間、絶対に泣くまいと堪えていた涙がとうとう溢れ出したのだと悟った。張っていた虚勢が緩む。


 怖かった。好きでもない人に覆いかぶさられて、初めてを奪われるかもしれない恐怖で身が竦んだ。抱かれるのは恭弥しか嫌だと思った。


「――――……っ」


「大丈夫だ、由良。もう大丈夫だから」


 安堵から堰を切ったように泣きだした由良を見て、恭弥は繊細な硝子細工を扱うような手つきで由良を撫でた。


「……津和蕗に迎えにくるよう連絡してやる。だからもう大丈夫だ」


「景に……?」


「ああ。本当は嫌っている俺に助けられるくらいならあいつに助けてもらいたかったんだろうが、間に合いそうになかったから、勘弁してくれ」


「……そんなっ」


 ああ、この期に及んでまだ、恭弥は由良に嫌われていると勘違いしているのだ。由良はもどかしくなった。他の誰でもない、恭弥が助けてくれて何より嬉しかったのに。


 しかし、誤解を解くために外足場で待っていたところを佐山に連れ去られ結局話が出来ていないため、恭弥が勘違いしたままなのは無理からぬことだった。


「違う……私、私は……」


(ああ、このまま勘違いされたままでいいの? こんなにも、こんなにも急いで助けに来てくれた彼に)


「由良?」


 俯いた由良を、気遣わしげに恭弥が覗きこむ。由良は涙に濡れた瞳で恭弥を射抜いた。玉砕したっていい。勘違いされたままでは嫌だ。この想いを伝えなければと由良は思った。


「違う……私、私は……っ貴方が好きなんです! キョウが好きなの! だから、キョウが助けにきてくれて嬉しくて……でもっ私……」


(助けてもらう資格なんてないと思ってた)


 恭弥は何も悪くないのに、彼に嫌われるのを恐れて身勝手に避けた自分は、彼に助けてもらいたいなんて願うのすらおこがましい。そう思っていたのに……。


「お前が、俺を好き……?」


 にわかには信じがたいといった様子で、恭弥が訊いた。


「冗談だろう?」


「冗談じゃありません!」


 何故かムッとして、由良は瞳に涙を浮かべたまま声を荒げた。恭弥の顔を見て助かったと安心したせいか、普段の強気な由良が戻ってくる。


「私は、貴方が……っ貴方が私を、キョウのくせに私を、何度も癒すから! 優しさで包みこんだり、欲しい言葉をくれたりするから! 母親のことでずっと後ろめたい気持ちを抱えていた私を、許してくれたから……! 好きになっちゃったんじゃないですか……!」


 最後の方は捨て鉢になりながら由良は喚いた。切れ長の目を驚いて丸める恭弥が憎たらしく感じて、由良は彼の厚い胸板を叩いた。


「何か言ったらどうですか!」


「……いや、驚いて……」


 先ほどまで草花も凍るような怒気を佐山に向けていた同一人物とは思えないほど、恭弥は心底たまげた様子で言った。丸まった目が少し幼く見えて可愛い。それがさらに憎たらしくて、由良は八つ当たりしたくなった。


「好きなら何で俺のことを避けたんだ」


「それは……っ。貴方こそ! 何で助けに来たんですか! 私、私、貴方のこと避けたのに! 貴方にふさわしくないから……っ」


「ふさわしくないって何だ。そんな理由で俺を避けていたのか?」


「そんな理由!? 大した理由ですよ! 私は……っ」


 由良はギュッと拳を握った。ヒートアップしていても、避けた理由を言うのは勇気がいった。


「貴方の初恋の私はっ、五年前みたいに無垢で純真なわけじゃないし何より私もっ」


(あの頃、キョウが好きになってくれた私じゃない。それに)


「私も、貴方の義母と一緒なんです。貴方のことをやらしい目で見ていたし、『こういう人間』だとレッテルを貼り決めつけようとした! 心の中で決めつけてた! 知ってます!? 私、貴方のこと、心の中で漫画に出てくるようなエッチな男の人だと思ってたんですよ!?」


「そういえば、津和蕗の家で対面した時そんなことを言っていたな……」


 イギリスから戻ってきた由良と再会した時に言われた台詞を思い出し、恭弥は言った。由良は赤い顔をし、上ずった声で言った。


「そ、それだけじゃありません! 私、実際に貴方と……」


「ん?」


「貴方でエッチな妄想を……したり……」


「ほお……?」


 恭弥の目が何故か至極愉しげにきらめいた。しかし由良は後ろめたくて仕方なかった。どんどん声が小さくなっていく。


 由良はロッカーに凭れて伸びている佐山を見つめた。恭弥は佐山を侮蔑的な目で見下ろしていたし、由良も佐山のことは絶対に許せないと思う。しかし……。


「佐山さんのこと、怖いと思いました。狂ってるって。でも私も……佐山さんのことを悪く言える立場じゃないんです。あの人も、勝手な妄想で私と両想いだと勘違いしていましたが、私だって、貴方で妄想していた……」


 情けない。最低だ。自分が嫌になる。本当は、優しく恭弥にカーディガンを羽織らせてもらえるような立場じゃないのだ。由良は黙りこむ。しかし、恭弥の大きな手に頬を掬われ、上を向かされた。


 由良の蒼い瞳に映った恭弥は、意外にも穏やかな顔をしていた。


「佐山と一緒か」


「……はい」


「そうか。だが、お前は妄想と現実の区別がつかなかったか? 妄想を現実にしようと、俺を無理やり押し倒したり、そういう展開に持ちこもうとしたか? 俺の気持ちを無視して付き合いたいと思ったか?」


「しません!」


 由良は慌てて否定した。


「そんなことしません……!」


「そうだ。お前はしない。そういうことだろ。誰だって、他人に対し『もしああしてくれたら』『こう行動してくれたら』『実はあんな人かも』と想像も妄想もする。それは普通のことだ。だが、それを現実で無理やり押しつけたりしない。分別があるからだ。佐山にはそれがなかった。でもお前には、分別があった。違うか?」


「……キョウ……」


 涙の引っかかったまつ毛を震わせる由良へ、恭弥は優しく微笑みかけた。


「今度こそ誤解はごめんだからもう一度確認するが、お前は俺でエッチな妄想をしていたから、それが後ろめたくて避けていたのか?」


「う……はい、そうです……」


「そうか。じゃあ」


「ん?」


「お前は最初から俺に惹かれていたみたいだな」


「……は」


 ニヤリと口の端を上げて笑った恭弥に、由良は涙が引っこんだ。


「ちょ、ちょっと待ってください。何でそうなるんですか」


「好きな男以外に抱かれたいなんて妄想しないだろう? それともお前は、津和蕗に抱かれる妄想をしたのか?」


 したなら調教が必要かもしれないがな、と小さく低い声で呟かれた気がしたが、由良は真っ赤になって否定した。


「け、景は家族です! そんなエッチな妄想するわけない!」


「じゃあ、佐山に抱かれる妄想はしたか? それ以外の男とも」


「それは、してない……」


(そうだ、さっき佐山さんに抱かれそうになった時、キョウじゃないと嫌だと思った。キョウに抱かれる以外想像なんてつかなかった。それは、キョウが好きだからで……)


 茹でダコのように赤くなったまま黙りこんだ由良を見て、恭弥はさもありなんと言いたげな様子だった。


「納得したか?」


「……はい」


「他の女に勝手に妄想されるのは不快だが」


「キョウ?」


「自分の好いた女が、俺を好きでエッチな妄想をしたっていうなら、俺としては歓迎するがな」


「……っ」


 悪魔のように艶っぽい笑みを浮かべて言われ、由良は耳まで真っ赤になった。しかし、払拭できない心配事はもう一つあった。


「でも、私、貴方のお義母さんみたいに……貴方のことをレッテル貼っていたんですよ……。それでも、許してくれるんですか」


 由良の中でネックになっていたのはそれだった。しかし、恭弥はまだ分からないのか、と半ば呆れた様子で言った。


「俺は、あの女が俺といかがわしい関係を結びたかったのに上手くいかなかった腹いせにレッテルを貼ったから軽蔑していたわけじゃない。俺をそういう対象として見ていたからでもない。一人の人間を愛し抜こうとしない姿勢が、人として許せなかったんだ。でも」


 恭弥の手が後頭部に回され、由良は恭弥と額をつき合わせられた。


「お前は違うだろう? お前は俺を、俺だけを愛してくれるだろう?」


「……はい。はい……っ」


 由良が必死に頷く。すると視界いっぱいに、小さな子供のように無邪気に笑う恭弥の笑顔が広がり、甘く抱きしめられた。


 自分を好きだと言って見つめてくれる人の腕の中の心地よさを初めて知った由良は、幸せを噛みしめるように恭弥の背中へ腕を回した。



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