第72話 迫る水線、非情なる退避線
第72話 迫る水線、非情なる退避線
シュバババッ! ドバシャァァンッ!
耐火ハッチを蹴破って突入した第二小隊は、電光石火の陣形を展開した。
消防犬の血を引く三笠が排気ダンパーを瞬時に全開にして熱気と可燃性ガスを上空へ逃がし、大輔と俊平が構える二基の五十ミリノズルから高圧の微粒子噴霧が放たれる。水煙のカーテンが再燃した炎の舌を物理的に押し込め、冷却水が熱せられた鋼鉄の床を叩いて蒸発していく。
「第一小隊を後方へ搬送! 谷崎、神尾を背負え! 佐藤、黒田の肩を貸せ!」
大輔の鋭い号令のもと、ニューファンドランドの谷崎が巨躯を活かして呼吸困難に陥った神尾を抱え上げ、佐藤が高山と黒田を誘導して脱出ハッチへと滑り込ませる。
炎が完全にへし折られた瞬間、大輔と俊平は蒸気の奥へ突入した。
主機架台の奥に挟まっていた六十キロの救助ダミーを二頭の連携で引きずり出し、残火の完全冷却を確認してハッチの外へ生還した。
「第二小隊――要救助者ダミーおよび第一小隊の救出、完了!」
煤まみれの大輔の報告に、源統括教官はストップウォッチを止め、無言で小さく頷いた。
初日の失態を跳ね返す、完璧な即応と制圧だった。
*
だが、安堵の息を吐く猶予など、羽田には一秒も用意されていなかった。
午後十四時――。
濡れた防火衣を脱ぎ捨て、ウェットスーツとスリムハーネスに着替えた候補生たちが連行されたのは、基地の西側に位置する「動揺・浸水救助訓練棟」だった。
油圧ジャッキで最大三十度まで船体を傾斜させ、内部に数千トンの海水を注入できる実寸大の船舶区画シミュレーター。
「午後の課目は、浸水区画進入・複数要救助者救出訓練だ」
源教官が、水を滴らせる分厚い水密扉を指し示した。
「想定は、座礁衝突により急速に浸水が進む貨物船の機関室区画。内部に生存者二名が取り残されている。水路は瓦礫と配管で閉塞し、照明は全滅。……制限時間は八分。八分を過ぎれば区画は完全に水没し、外部ハッチは水圧で自動閉鎖される。要救助者二名を捜索し、全員無事に生還せよ」
制限時間八分。完全な暗黒、閉塞された水路、そして刻一刻と上昇する水面。
「第三班――間大輔、大田原慶彦、谷崎陽太、神崎俊平。進入用意!」
「「「了解ッ!!」」」
ガチャンッ!
重厚な水密ハッチが開かれ、大輔たち四頭は冷たい闇の中へ身を投じた。
ザザァァァッ……!
足元を満たす海水は、突入からわずか一分で膝から腰へと這い上がってきた。
傾斜した通路。頭上の非常灯は消え失せ、防水ライトの頼りない光条だけが、水面に浮かぶドラム缶や木材、垂れ下がった高圧ケーブルを照らし出す。
キィィィン……と、船体が水圧に軋む不気味な金属音が通路に反響する。
「左舷通路、閉塞! 配管を潜って迂回するぞ!」
大輔の指示で、四頭は濁水を掻き分けて奥へと進む。
開始三分――機関室手前の工作室区画。
漂流物に足を挟まれ、動けなくなっていた一名のダミー人形を発見した。
「一名確保! 大田原、谷崎、こいつを抱えてハッチへ向かえ!」
「フゴッ……了解!」
大田原と谷崎が先行し、一名を出口へと搬送し始める。
残る一名は、さらに奥――主機の最深部、隔壁を越えた狭隘区画に取り残されていた。
「俊平、行くぞ!」
「おう!」
大輔と俊平は胸まで浸かる冷水を押しのけ、格子状のラッタルを越えて奥の区画へ向かった。
だが――その時だった。
ゴゴゴゴゴッ……!
訓練棟の警報ブザーが、無慈悲に鳴り響いた。
『浸水限界まで、残り二分! 退路ハッチの水位、天井まであと五十センチ!』
スピーカーからの機械音声が響き渡る。
大輔が防水ライトを前方へ向けた。
奥の区画へ続く防水扉は、歪んだ鉄骨で半分塞がれ、進入には最低でも数分の障害物除去が必要だった。
しかも、足元の水面はすでに首元まで達している。大輔が腕につけた残圧計の針は、すでに帰還限界を示すレッドゾーンに差し掛かっていた。今から鉄骨を排除して奥へ突入すれば、要救助者を発見できたとしても空気が尽きる。さらに退路の水密ハッチは完全に水没し、水圧で開かなくなる。
全員が、この鉄の棺桶の中に閉じ込められる。
「大輔……!」
俊平が濁水から顎を突き出し、大輔の横顔を見つめた。
奥には、確実に「命」がある。
だが、前へ進めば、大輔も俊平も、そして先行した大田原たちすら巻き込んで全滅する可能性が極めて高い。
(命の手を、離すな……?)
神田の怒号が、冷たい水音の中で激しく反響する。
だが――大輔の瞳の奥で、炎のような感情が急速に冷え、絶対零度の冷徹な思考へと変わっていった。数時間前、水底の暗黒でパニックを起こし、バディに命を救われた自分はもういない。あの失態で失った救難士としての誇りを取り戻すかのように、大輔の脳は残圧と時間を完璧に計算していた。
(……違う。神田先輩は、犬死にしろとは言っていない)
救助者が全滅すれば、現場に残るのは屍の山だけだ。
大輔は奥歯を砕けんばかりに噛み締め、胸の奥で血を流しながら、喉の底から叫んだ。
「……退避ッ!! 反転しろ、俊平! 今すぐ脱出ハッチへ戻るぞ!!」
「……了解ッ!!」
二頭は踵を返し、首まで迫る激流を必死のストロークで掻き分けながら、閉鎖寸前の水密ハッチへと滑り込んだ。
バシャァァッ!
四頭と一体のダミーが訓練棟の外へ転がり出た瞬間、背後でガシャンッ! と重厚な防水ハッチが完全にロックされ、区画は完全に水没した。
タイム、七分四十五秒。
全員生還。だが――救出できたのは、二名中一名のみ。
アスファルトに倒れ込み、肩で荒い息を吐き出す大輔の全身から、冷たい水が滴り落ちる。
その目の前に、編上靴の重い足音が近づいてきた。
源統括教官だった。
ロットワイラーの傷だらけの顔が、無表情に大輔を見下ろしている。
「一名救出、一名未救出。……だが、全員生還だ」
源の声は、怒号でも称賛でもなかった。ただ、氷のように冷たく、大輔の魂の芯を抉るように響いた。
「間大輔。……お前の判断は、救難隊の規程としては百点だ。二次災害を回避し、隊員の命と空気を守った」
源はわずかに目を細め、静かに問いかけた。
「だが、現場の海はお前のその判断に拍手などしてくれん。……お前は、見捨てざるを得なかったその一つの命を、これからどう受け止めて生きていく?」
大輔は濡れた前足をアスファルトに突き立てたまま、顔を上げられなかった。
胸の奥で、救えなかった命の冷たい重みが、消えない焼印となって深く刻み込まれていた。




