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異世界持ち込み食堂~あなたの食材を料理します~  作者: シロの空


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第99話 戻してから食べる返し殻豆と、届けられない荷を終わらせられない配達人

 デリク・ノーウェンは四十四歳になる人間の男性であり、レーヴェン市内と周辺の村々を結ぶ配送組合《青羽便》で、手紙や小包、商店同士の商品見本、役所からの通知書などを運ぶ配達人として二十三年間働いていた。日に焼けた褐色の肌と、風雨へ晒され続けて色の抜けた茶髪を持ち、左肩へ掛ける大型の革鞄には、擦り切れるたびに別の革を当ててきた補修跡が幾重にも残っている。毎日のように石畳と街道を歩くため、右脚の靴底だけが左より少し早く減る癖があり、馴染みの靴職人からは、新しい靴を頼むたびに「今年も右から駄目になるだろう」と笑われるのが恒例になっていた。


 《青羽便》の南集配所は、レーヴェン南門からほど近い運送区画にある。


 夜明け前から街道便が到着し、各地から運ばれてきた袋や木箱が長い作業台へ並べられる。そこから市内、北門方面、西門方面、近郊村、さらに遠方へ回す継送便へ仕分けられ、配達人たちは自分の担当区域に合わせて荷を鞄や小型荷車へ積み込んでいく。


 配達の仕事は、住所通りの家へ行き、荷を渡して終わるものばかりではなかった。


 宛先の店が閉じている。


 受取人が転居している。


 住所の一部が間違っている。


 本人が亡くなっている。


 受け取りを拒まれる。


 送り主の書き忘れがあり、問い合わせさえできない。


 長く暮らす人間が多い町であっても、家も店も人も動く以上、一定数の荷は途中で道を失う。


 そうした時のために、《青羽便》には手順が決められていた。


 届け先が不在なら、決められた回数だけ再訪する。


 転居している可能性があれば、組合へ届けられた転居台帳を確認する。


 正式な情報が得られる範囲で近隣へ尋ねることもできるが、荷の中身や必要以上の個人情報を漏らしてはならない。


 送り主が分かるなら問い合わせを出し、それでも届け先を確認できなければ、一定期間後に送り主へ返す。


 送り主も不明なら、規則に従って保管担当へ移す。


 デリクは、その手順を知らないわけではない。


 むしろ新人へ教える立場だった。


「家が空いてても、隣の人に中身まで言うな。『この名前の人が以前住んでいたか』だけ聞けばいい」


「同じ名字だからって家族へ勝手に渡すな。本人受領の区分なら本人だけだ」


「三回不在なら不在札を残して、一度集配所へ戻せ。毎晩自分の鞄へ入れたまま持ち歩くな」


 そう教える。


 ところが、自分が担当した荷についてだけは、同じ線を引くのが苦手だった。


 一度、


(この人へ届ける)


 と受け持つと、受取人本人へ渡すまで仕事が終わった気がしない。


 三回不在でも、生活時間が違うだけかもしれないと四回目へ行く。


 店が閉まっていれば、周辺の店へ聞く。


「北へ移ったらしい」と聞けば、北区なのか北門外なのかまで知りたくなる。


 新しい店名が分からなくても、同業の工房を回れば見つかるかもしれないと考える。


 規則では返送できる段階へ入っても、


(あと一日あれば)


 と思う。


 その粘りによって、本当に届いた荷もあった。


 だからデリク自身は、自分が必要以上に抱えているとは長い間思っていなかった。


 簡単に戻すより、一歩多く探す。


 受取人が見つかれば、送り主も受取人も助かる。


 それこそ配達人の仕事だと思っていた。


 ただ近年、南集配所の職員たちは、デリクの個人棚にいつも他人より多くの荷が残っていることへ気づいていた。


『確認中』


『再訪予定』


『転居調査』


『送り主照会中』


 そうした札が付いた包みが、五つ、七つ、多い時には十近く並ぶ。


 問題は、どの荷にも、


「まだ何かできる気がする」


 という理由だけはあるのに、


「次に何を確認すれば進むのか」


 が分からないものまで混じり始めていたことだった。


          ◇


 デリクが配達人を志したのは、子どもの頃に見た一通の手紙がきっかけだった。


 生まれ育った《ラト村》は、レーヴェンから北西へ半日ほど歩いた場所にある小さな農村で、父は牧場を営み、母は共同炊事場で働いていた。三人兄弟の真ん中だったデリクは、兄のように家畜の世話へ強い関心を持つことも、弟のように畑仕事を好むこともなく、村の外からやってくる物や人へばかり興味を向けていた。


 当時、ラト村へ《青羽便》が来るのは週に二度ほどだった。


 配達人が姿を見せる日には、子どものデリクもよく村の入口まで走った。


 紙一枚しか入っていない薄い封筒。


 商店印の付いた小さな箱。


 兵役へ出た若者から家族への便り。


 遠い町で働く娘から両親へ送られた包み。


 自分が一度も見たことのない土地で書かれたものが、何人もの手を渡ってこの村まで来る。それが不思議で仕方なかった。


 十五歳の時、隣家の老女へ一通の手紙が届いた。


 宛名には、数年前に亡くなった夫の名が書かれていた。


 配達人は家を訪ね、周囲へ確認する。


 名字。


 住所。


 送り主の名。


 そして、この家に亡夫の妻が今も暮らしていること。


 本人宛てとして扱える種類の便りではなかったため、必要な確認をしたうえで老女へ渡すことができた。


 老女は封筒の送り主を見た瞬間、両手で胸へ抱え込んだ。


「この子、生きてたのね」


 十年以上前に南方へ嫁ぎ、その後ほとんど連絡が途絶えていた娘からの便りだった。


 内容まではデリクも知らない。


 ただ、もし配達人が、


「宛名の男は亡くなっている」


 という一点だけで戻していたら、この手紙は老女へ届かなかったのかもしれない。


 その記憶が、長く残った。


 二十一歳で《青羽便》へ入った頃、最初に仕事を教えた先輩はカイルという五十代の男性だった。


 カイルは市内の細い路地まで熟知しており、同じ通りでも、


「この店は昼を過ぎると裏工房へいる」


「この家の老人は耳が遠いから、扉を叩くだけじゃなく鐘を鳴らせ」


 と教える一方、届け先を失った荷については、驚くほど規則を守った。


 新人だったデリクが、転居先の分からない荷を前に、


「もう少し探せば見つかるかもしれません」


 と言ったことがある。


 カイルは荷札を見ながら聞いた。


「何を手掛かりに?」


「隣の人が、東へ行ったかもしれないって」


「東区?」


「そこまでは」


「新しい職場は?」


「分かりません」


「なら今は返送手続きだ」


「でも、見つかるかもしれないでしょう」


「正式な住所が分かれば転送する。分からないまま町中へ持ち歩いたら、荷を失う危険も上がる」


「送り主へ戻したら届かないですよ」


「送り主が新しい住所を知ってるかもしれない」


 デリクには、当時その考えが冷たく見えた。


「配達人は届ける仕事でしょう」


 カイルはしばらく考えた後、ゆっくり答えた。


「届け先の分かる物を届けるのは仕事だ。届け先を失った荷を、勝手な推測で違う場所へ持っていかないのも仕事だよ」


 その言葉を、デリクは覚えている。


 ただし若い彼は、


(見つけられないから戻すための理屈だ)


 と考えていた。


 そんな考えをさらに強くする出来事が、二十五歳の頃に起きた。


 南通りの集合住宅宛てに、北方の小村から一通の手紙が届いた。


 宛名は《ノーラ・セイス》。


 しかし管理人へ聞いても、その名の住人はいない。


「三月前までいたよ」


 管理人が言う。


「転居先は?」


「東の方へ働きに行くって。どこの店かまでは聞いてない」


 転居届は出されていない。


 規則なら、転居先不明として返送できる。


 ところが送り主を見ると、《セイス村・マルダ》という個人名がある。


 管理人へ聞くと、ノーラは祖母のいる北の村から出てきた若い女性だという。


(ここまで来ているのに)


 デリクは、すぐ返せなかった。


 以前親しくしていた住人へ聞く。


「仕立仕事を探してたと思う」


 東区の仕立工房を三軒回る。


 いない。


 翌日、同僚から、


「北東側に新しい縫製工房ができた」


 と聞く。


 そちらを回る。


 二軒目。


 ようやくノーラが見つかった。


「私に手紙?」


「北のセイス村からです」


 送り主を見た瞬間、彼女の表情が変わった。


「祖母からだ」


 ノーラは、その場で何度も礼を言った。


 数日後。


 転居届を出すため集配所へ来た彼女が、デリクへ話した。


「祖母が体調を崩して、帰ってきてほしいっていう手紙でした。すぐ村へ戻れました。本当にありがとうございます」


 その瞬間、デリクは確信した。


(戻さなくて良かった)


(少しでも手掛かりがあるなら、探す意味はある)


 そこまでは間違っていなかった。


 問題は、その成功が強く残りすぎたことだった。


 ノーラには、


「東寄り」


「仕立仕事」


 という手掛かりがあった。


 市内にいる可能性も高かった。


 ところが年月が経つにつれ、デリクはもっと曖昧な情報でも、


「ノーラの時だって最初は分からなかった」


 と考えるようになった。


 一件だけの成功が、


「探し続ければ最後には届く」


 という感覚へ変わっていったのである。


          ◇


 現在の南集配所で、デリクとよく組むのは三十一歳の女性セラ・メインと、十九歳の新人ティオ・ラグだった。


 セラは配達人九年目で、市内の道にも詳しく、早さより正確さを重視する。転居処理や返送判断も淡々と行うため、彼女の棚に何日も荷が残ることは少ない。


 ティオは入って半年ほどで、まだ細い路地や古い通り名に弱い。ただし分からない時には素直に人へ聞き、台帳を確認するため、セラからは、


「変に分かったふりするより、その方が早い」


 と言われていた。


 春の商談期が始まったある朝、南集配所へ市内便だけで百五十を超える荷が入った。


 価格表。


 商品見本。


 契約書。


 小さな商店から職人工房への注文品。


 作業台の上には荷が途切れなく並び、配達人たちは仕分けを急いでいた。


 その最中、セラがデリクの棚を見て眉を寄せた。


「また増えてません?」


「何が?」


「確認中の荷です」


 棚には七個。


 他の配達人なら一つか二つ程度しか残っていない。


 しかも一番古い小箱の日付は十二日前だった。


「これ、返送期限が昨日ですよ」


 セラが取ったのは、西区の《ロア雑貨店》宛ての小包だった。


「店が閉まってる」


「なら送り主へ戻せますよね」


「近所へ聞いたら、店主が北へ行ったって人がいた」


「北区ですか?」


「そこまでは分からない」


「北門の外かもしれない?」


「かもしれない」


 セラは小箱を見た。


「それ、手掛かりって言えます?」


「何もないよりはいい」


「十二日持ってる間に、北区調べたんですか」


「北側の雑貨店を三軒」


「いた?」


「いない」


「転居台帳は?」


「なし」


「なら、送り主へ返した方が早くないですか。送り主なら店主と取引してるんでしょう」


「西方の商社だ。戻すだけで日数が掛かる」


「今ここで十二日掛けてます」


 デリクは返事をしなかった。


 別の厚い封筒もある。


 宛先の男性はすでに死亡している。


 本人受領を指定された私信であり、家族へ渡すことはできない。


「これは送り主へ照会中?」


「ああ」


「期限は?」


「あと二日」


「返事が来なかったら返送ですね」


「そのつもりだ」


 セラは、


「本当に?」


 と言いたげな顔をしたものの、それ以上は言わなかった。


 その日の配達でも、デリクは一件へ予定以上の時間を使った。


《西三通り・青環工房・エリス・フォン》。


 現地へ着くと、工房の看板がない。


 隣の金工店へ聞けば、


「青環なら半年くらい前に閉めた」


 という。


「エリスさんは?」


「知らない」


 普通なら、その日は持ち帰って転居台帳を見る。


 デリクは向かいの店にも聞いた。


「あそこの若い職人なら、南の方へ移ったとか聞いたけど」


「どの工房?」


「そこまでは知らないね」


 南。


 それだけだった。


 それでも、


(今日はこの後、南側へ回る)


 と考え、担当経路を少し外れて金属工房を二軒尋ねた。


 見つからない。


 三軒目へ寄ろうとした時、時間を見るとかなり遅れていた。


 残りの通常便が五件。


 結局三軒目は諦め、通常便へ戻ったものの、最後の届け先へ着いた時には日が傾き始めていた。


 集配所へ戻る。


 セラが翌日の仕分けをしている。


「エリスさん、見つかりました?」


「今日は駄目」


「転居台帳は?」


「これから見る」


「なかったら?」


「明日もう少し南を回る」


 セラの手が止まった。


「今日、東端の通常便が遅れたでしょう」


「全部今日中に届けた」


「一件見つからない人を探すために、住所が分かってる五件を毎回遅らせるのは違うって言ってるんです」


「少し遅れただけだ」


「受け取り時間を指定してる店もありました」


「間に合った」


「今日は」


 デリクは少し苛立った。


「じゃあ、閉店してたらすぐ戻せって言うのか」


「そんなこと言ってません。台帳を見る、正式な手掛かりを聞く、送り主へ照会する。やることをやって、それでも分からなければ戻すだけです」


「まだ南って手掛かりがある」


「『南の方』だけで、何軒回るんです?」


 答えられない。


「五軒?」


「分からない」


「十軒?」


「だから調べるんだ」


「いつまで?」


 セラの問いに、デリクは沈黙した。


 ティオは、隣で荷札を整理しながら二人の会話を聞いていた。


          ◇


 それから数日後、デリクは薬房から出された小さな紙包みを受け持った。


 送り主は《ミレン薬房》。


 宛先は《南西区・アルト・グレン》。


 外側には、


『乾燥薬草見本・販売物ではない』


 と記されている。


 指定住所へ行く。


 家はある。


 ただ住人が違う。


「アルトさんなら前に住んでた人ですよ」


「転居先分かります?」


「港町へ行くって話だったかな」


「どこの港町です?」


「名前までは聞いてないですね」


 デリクは一度集配所へ戻り、転居台帳を調べた。


 記録なし。


 普通なら送り主へ戻すか、まず送り主へ照会を出す。


 薬草の見本という表示を見て、


(仕事上、急いでいる品かもしれない)


 と考えたデリクは、翌朝の配達前に《ミレン薬房》へ直接立ち寄った。


「アルト・グレンさんの新しい住所、分かりませんか」


 店番の薬師が首を傾げる。


「その名前、うちの常連じゃないですね」


 紙包みを見せると、


「ああ、それ若い薬師が出したやつだ。今地方へ採取に行ってて、六日くらい帰らない」


「他にアルトさんを知ってる人は?」


「多分、薬草採集の知り合いだと思うけど、私は知らないな」


 本来なら、その時点で、


「送り主側でも住所を確認できない」


 として一度戻してよかった。


 ところがデリクは、


(六日待てば分かる可能性がある)


 と考えた。


 保留。


 六日後。


 若い薬師が戻る。


「アルトさんなら《トレス港》へ移ったはずです」


「住所は?」


「そこまでは分からないです」


「職業は?」


「薬草採集人」


「所属組合は?」


「多分、向こうでも採集人組合に顔出すと思うけど」


 デリクの頭には、


(トレス港の採集人組合へ問い合わせれば)


 という次の考えが浮かんだ。


 そこへセラが来た。


「その荷、まだ持ってたんですか」


「トレス港まで分かった」


「番地は?」


「ない」


「宿は?」


「分からない」


「組合登録は?」


「これから聞く」


「誰が?」


「俺が」


「通常便の合間に?」


 デリクが黙る。


 セラは紙包みの日付を確認した。


「最初に来てから十一日です」


「戻したって、送り主はまた住所を探して出し直しだ」


「今その送り主本人が戻ってきてるでしょう」


「若い薬師は港の正確な住所知らない」


「だったら本人がアルトさんへ別の方法で連絡するかもしれない。少なくとも、返せば届いてないことが分かります」


「こっちで持ってても、届いてないのは同じだ」


「送り主は知りませんよ」


 セラはそこで少し声を落とした。


「デリクさんが持ってる間、送り主は『もう届いたかもしれない』って思ってるんです」


 その言葉で、初めて別の方向から荷を見た。


 自分は十一日間、


「届けようとしている」


 つもりだった。


 しかし送り主側から見れば、十一日間、何の返事もない。


 届いたのか。


 止まっているのか。


 住所が間違っていたのか。


 何も分からない。


「返せば、送り主が次を決められる」


 セラが言う。


「今のままだと、デリクさんだけが次を決めようとしてる」


 デリクは紙包みを見た。


 しばらく迷った後、返送札を取る。


『転居先確認不能。送り主照会でも正式住所不明』


 書く。


 返送箱へ入れる。


 手から離れた瞬間、


(届けられなかった)


 という重さが胸へ残った。


 規則通りの処理をしただけなのに、仕事の途中で荷を手放したように感じた。


          ◇


 その週の休日、兄がラト村から持ってきた《返し殻豆》が、デリクの家に残っていた。


 淡い茶色の硬い莢へ、丸い豆が二つか三つずつ入った乾燥豆である。


 兄から調理法も教わっていた。


「莢ごと一回温めたら、煮続けないで冷水へ戻せ。殻の筋が開くから、そこから豆を出して、豆だけもう一度煮ろ」


 聞いた時から、デリクには妙な方法に思えた。


「最初から割れないのか?」


「乾いたままだと殻が硬い。無理に割ると中まで欠ける」


「なら柔らかくなるまで煮れば?」


「だから煮続けるなって。殻を食う豆じゃないんだよ」


 兄はそう言った。


 ところが一人で作る段になると、


(せっかく火へ入れたのに、途中で冷たい水へ戻すのは無駄じゃないか)


 と思ってしまった。


 鍋へ返し殻豆を入れる。


 湯を張り、火を入れる。


 しばらくすると乾燥した莢が水を吸い、色も少し濃くなった。


 兄からなら、


「ここで止めろ」


 と言われる頃だ。


 触ってみる。


 まだ硬い。


「もう少し」


 そのまま煮る。


 十分。


 二十分。


 莢は少し柔らかくなったが、食べられるほどではない。内部の豆は先に膨らみ始め、殻へ圧迫されて一部が割れている。


 ようやく火を止めて殻を剥こうとした。


 硬い。


 力を入れる。


 中の豆まで割れる。


 そのまま豆だけ煮直して食べることはできたものの、兄から聞いていた、


「丸い形を保った、ほくほくした豆」


 とはかなり違った。


 翌日。


 残っていた返し殻豆を見ながら、


(今度は教わった通りにやればいい)


 とは思った。


 しかし仕事でも料理でも、一度自分のやり方を始めると途中で戻せなくなる癖があるような気がして、自分でも少し嫌になった。


 そこで、仕事帰りに《持ち込み食堂》へ持っていった。


 悠斗は莢を手に取り、振って中の豆の音を確かめた。


「かなり硬いですね」


「一回温めた後、冷水へ戻すらしい」


「それから殻を剥いて、豆を煮る?」


「ああ」


「昨日もそうしたんですか?」


「煮続けた」


「どうなりました?」


「殻が硬いまま、豆だけ割れた」


 ミレイアが少し笑いそうな顔をした。


「何だよ」


「ちゃんと作り方聞いてたのにと思って」


「途中で冷やす意味が分からなかったんだ」


 悠斗は小鍋へ湯を用意した。


「今日は、まず教わった通り試してみましょう」


 返し殻豆を莢のまま入れる。


 強く煮立てず、全体へゆっくり熱が入るよう火を調整する。


 しばらくすると、乾いて閉じていた殻が水分を含み、筋の部分へ細い隙間が現れ始めた。


「ここで一度上げます」


 デリクが莢を触る。


「まだ硬いぞ」


「殻を食べるわけじゃないですよね」


「そうだけど」


 悠斗は湯から上げた莢を、そのまま冷たい水へ移した。


 温まっていた殻が急に冷える。


 数分待つ。


 すると先ほど細い線だった継ぎ目が、指先を入れられる程度まで自然に開いた。


「開いてる」


 ミレイアも覗き込む。


「これなら剥けそう」


 悠斗が一つ手へ取る。


 大きな力を入れなくても、筋に沿って殻が二つに分かれ、中から丸い豆が出てきた。


 デリクも試す。


 昨日のように爪へ力を込める必要がない。


「何で冷やすだけで、こんな違うんだ」


「温めた殻と豆が冷える時に、縮み方が少し違うのかもしれませんね。少なくとも、ずっと煮続けるより殻が開きやすい」


 すべての豆を取り出す。


 そこから初めて、食べるための調理へ入る。


 白肉の表面へ軽く焼き色を付け、根玉葱を炒め、出汁を加える。そこへ返し殻豆を入れ、今度は豆そのものへ火を通すため、弱めの火でじっくり煮た。


 豆の中には硬さの違うものもある。


 悠斗は火を強くして無理に崩すのではなく、煮汁を保ちながら時間を掛ける。


 最後に塩と穏やかな香草で味を整えた。


《返し殻豆と白肉のやわらか煮》


 豆は丸い形を残している。


 匙で取れば簡単に割れるほど柔らかいものの、煮汁の中へ崩れ切ってはいない。


 口へ入れると、粉質の甘さと白肉の旨味が一緒に広がった。


「昨日とは別の豆みたいだ」


 デリクが言う。


「最初の火入れで、食べられるところまで完成させる豆じゃなかったんですね」


「途中で鍋から出したのに」


「殻を外す工程へ戻しただけです」


「火から出すと、途中で止めた感じするんだよな」


「でも戻したから、次へ進めた」


 悠斗のその言葉で、デリクは薬房の紙包みを思い出した。


「配達してる」


 そう言って、仕事の話を始めた。


 届け先が分からなくなった荷。


 返送期限。


 自分の棚へ溜め込むこと。


 ノーラへ手紙を届けられた過去。


 薬房の小包を十一日持ち、最後に戻したこと。


「届ける仕事なら、なるべく本人へ届けたいだろ」


「そうですね」


 悠斗は否定しない。


「簡単に送り主へ返したくない」


「どこまで探すかは決まってるんですか?」


「組合の手順はある」


「デリクさん自身の中では?」


「……見つかるなら、できるだけ」


「見つからない時は?」


 答えが難しい。


「それを早く決めたくない」


 ミレイアが尋ねる。


「送り主へ戻したら、失敗なんですか?」


「俺が受取人へ届けられてないのは事実だ」


「でも荷物はなくならない?」


「送り主へ戻る」


「送り主が新しい住所知ってたら?」


「書き直して出せる」


「じゃあデリクさんが戻したことで、次に届くこともあるんですね」


「理屈ではな」


 悠斗が空になった返し殻豆の莢を一つ手に取った。


「この豆も、最初の鍋から出した時点では食べ終わってないですよね」


「荷物と豆は違う」


「もちろんです」


 すぐ認める。


「ただ、自分の手元から離れたら全部そこで終わり、とは限らないんだなと思って」


 デリクは匙を置いた。


「昔、本当なら戻してたかもしれない手紙を探して、本人に届けたことがある」


 ノーラの話を詳しくした。


 仕立仕事。


 東寄り。


 市内。


 複数の情報を辿った末に見つけたこと。


「それは探してよかったと思います」


「俺もそう思う」


「今棚にある荷も、同じくらい手掛かりがある?」


 デリクは一件ずつ思い浮かべた。


 《ロア雑貨店》。


 北へ行ったらしい。


 それだけ。


 死亡した男性への私信。


 送り主の返答待ち。


 青環工房。


 南の工房かもしれない。


 それだけ。


「同じじゃない」


「ノーラさんの時の成功を、手掛かりのない荷にも使ってるのかもしれませんね」


「あと一日で見つかったら、って思うんだ」


「それは誰にも分からないと思います」


「なら戻せないだろ」


「だから、どこまで調べるか決めてるんじゃないですか?」


 組合の規則。


 転居台帳。


 再訪回数。


 送り主への照会。


 期限。


 それらは、


「早く諦めるため」


 だけにあるわけではない。


 届けるために必要な確認を一定のところまで行い、それでも道が見つからなければ、


「次に情報を持っている可能性の高い場所へ戻す」


 ための境目でもある。


「返送期限って、諦める日じゃなくて、次の人へ返す日なのかもしれないな」


 デリクが呟いた。


 まだ完全に納得したわけではない。


 それでも翌朝、自分の棚を一度全部見直すことにした。


          ◇


 次の日の朝。


 デリクは通常の仕分けを始める前に、自分の個人棚から七個の荷を全部作業台へ下ろした。


 セラが驚く。


「何してるんです?」


「整理する」


「全部?」


「ああ」


「珍しい」


「余計なこと言うな」


 ティオも近くへ来た。


 最初は、《ロア雑貨店》宛ての小箱。


 閉店済み。


 転居台帳なし。


 店主が、


「北へ行ったらしい」


 という曖昧な情報のみ。


 送り主は西方商社。


 返送期限はすでに過ぎている。


 デリクは記録を最初から確認した。


 周辺二軒へ聞いた。


 北区の同業三軒を確認した。


 転居届けなし。


 それ以上の正式な手掛かりはない。


「返す」


 セラが何も言わず返送札を渡す。


 デリクは理由を書く。


『店舗閉鎖。転居登録なし。近隣確認でも正式住所を特定できず』


 次は死亡した男性への私信。


 本人受領指定。


 家族への引き渡し不可。


 送り主へ照会を出したが返事なし。


 期限満了。


「これも返送」


 次。


 青環工房のエリス・フォン宛て。


 工房閉鎖。


 台帳なし。


『南の工房へ移ったらしい』


 という証言のみ。


 ここで手が止まった。


 あと数軒。


 南区の工房へ聞けば見つかるかもしれない。


 だが何軒ある。


 何を手掛かりに選ぶ。


 金具職人なのか、装飾職人なのかもはっきりしない。


「……返す」


 理由を記録する。


 七個のうち五個が返送。


 一個は送り主から正式な新住所が届いていたため、別区担当へ転送する。


 最後の一個だけは、送り主から、


『受取人本人が三日後に旧住所へ荷物を取りに戻る予定』


 という連絡が入っていた。


「これは三日延長して再訪」


 セラが頷く。


「これは具体的ですね」


「ああ」


「今までも全部具体的だと思ってた?」


 デリクが睨む。


「今日からは、そうかどうか見てから持つ」


 五個を返送箱へ入れる。


 以前なら胸が重くなっただろう。


 実際、少しは残った。


 ただ、


「何もせず戻した」


 わけではない。


 どこまで確認したか、すべて記録に残っている。


 その日の配達は、久しぶりに予定時刻通り進んだ。


 途中、届け先が存在しない封筒が一通あった。


 以前なら周囲を長く回ったかもしれない。


 今回は家番号を確認し、近隣へ必要な範囲だけ聞いた後、通常便を続ける。


 集配所へ戻る。


 転居台帳を調べる。


 記録なし。


 送り主が市内商店だったため、すぐ照会札を出した。


 ティオが尋ねる。


「返事なかったらどうします?」


「期限で返す」


「もう探さない?」


「具体的な情報が出たら探す。出ないなら、歩き回るだけになる」


「なるほど」


 デリクは、自分で口にした言葉を聞いた。


 手掛かりがないのに持ち続けることと、届ける努力は同じではない。


          ◇


 その変化が本当に意味を持つのかは、数日後に分かった。


 西方商社から、一つの小包が南集配所へ届いた。


 見覚えのある箱。


 返送した《ロア雑貨店》宛てのものだった。


 ただし新しい荷札には、


《北門外・石橋村市場 ロア日用品露店》


 と正式な住所が書かれている。


 セラが伝票を見せる。


「戻した箱です」


「見れば分かる」


「送り主側で店主へ連絡取れたみたいですね」


 箱に添えられた短い記録には、


『旧店舗閉鎖後、移転先確認。再発送』


 とある。


「北門便へ回す」


 デリクは自分で持って行かなかった。


 石橋村は北門便の担当区域である。


 正式な経路へ載せる。


 二日後。


 北側の集配所から受領確認が戻った。


『本人受取済』


 デリクはその札をしばらく眺めた。


「届きましたね」


 ティオが横から見る。


「ああ」


「デリクさんが返したから、新しい住所調べてもらえた」


「商社がちゃんと連絡取ったからだ」


「でも箱を持ったままだったら、商社は届いてないって分からなかったかも」


 以前の薬房の件でセラが言ったのと同じことだった。


「そうだな」


 デリクは、ようやく素直に認めた。


 自分は店主へ届けなかった。


 一度、送り主へ戻した。


 しかしその返送によって、


「この住所では届かない」


 という情報が送り主へ届き、送り主が新しい住所を確認し、再び配送へ載せた。


 荷物そのものが後ろへ戻ったように見えて、実際には次へ進むために必要な動きだった。


 もちろん、返せば必ず正しい住所が見つかるわけではない。


 戻ったまま終わる手紙もある。


 送り主にも行方が分からない人はいる。


 それでも、


「返した瞬間に配達が失敗として終わる」


 わけではないことは、目の前の受領確認が示していた。


 その後、同じような出来事が続いた。


 《ミア・セルト》という女性宛ての厚い封筒。


 指定住所へ行くと、管理人から、


「二日前に出た。東門から出るって言ってた」


 と聞いた。


 以前なら、


「東門」


 という一言だけで、東側の宿や商店を回ったかもしれない。


 今回は集配所へ戻る。


 転居登録なし。


 送り主は《リーヴァ町・セルト商店》。


 同じ名字。


 照会を出す。


 二日後。


『本人はレーヴェンを離れ、東街道のエノ村へ向かう予定。現在の滞在先不明。いったん返送希望』


 と返事が届いた。


 デリクは封筒を戻す。


 さらに四日後。


 同じ送り主から再発送された封筒が届く。


 今度は、


《エノ村・麦鐘宿》


 という正式住所がある。


 東門便へ回す。


「前だったら東側をどれくらい探しました?」


 ティオが尋ねた。


「半日くらい使ったかもしれない」


「見つかったと思います?」


「無理だな。もう町から出てた」


 その半日を使っても、本人は見つからなかった。


 むしろ送り主へ戻した方が、早く正しい住所が出た。


 デリクの中で、


「探さないこと」


 と、


「諦めること」


 が少しずつ別になっていった。


          ◇


 ただし、返すことを覚えたからといって、すべての不明荷を機械的に戻すようになったわけではない。


 秋の終わり頃。


 北方の小村から、一通の古びた封筒が届いた。


 宛先は、


《レーヴェン西区・旧石通り十三 ヘルマ・リンド》。


 旧石通り十三へ行く。


 現在は靴工房になっている。


「ヘルマ・リンドさん?」


 工房主が考える。


「この建物の前の前くらいに住んでた人じゃないかな」


「何年前?」


「七年か、八年か」


「転居先は?」


「そこまでは分からない」


 かなり古い住所だった。


 転居台帳にも記録はない。


 送り主は《リンド村・アルマ》。


 同じ名字である。


 封筒は速達でも、役所の通知でもない。


 規定通りなら、一定の確認後に戻せる。


 デリクの中へ、以前と同じ衝動が湧いた。


(もう少し探せば)


 ただ今は、


「何を手掛かりに」


 を自分へ聞ける。


 靴工房の主人は知らない。


 隣は新しい店。


 向かいには、十年以上営業している古書店がある。


「ヘルマ・リンドって人、昔この辺りに住んでたの知りません?」


 古書店主はしばらく考えた。


「ああ、足の悪い女の人?」


「分かりません」


「その人なら、ずいぶん前に南西の養老院へ入ったって聞いたことある」


「名前は?」


「《白樫院》だったかな」


 今度は、


「南の方へ行ったらしい」


 とは違う。


 施設名がある。


 デリクは集配所へ戻った。


 《白樫院》の連絡先を調べ、入居者確認を正式に依頼する。


 翌朝。


『ヘルマ・リンド在籍』


 と返答が届いた。


 養老施設への郵便は、本人名と施設名を正式に確認できれば転送可能である。


 荷札を作り直す。


 南西区担当へ渡す。


 二日後。


『本人受取』


 の確認札が戻った。


 デリクは、その札を見て笑った。


「今回は探しましたね」


 ティオが言う。


「ああ」


「前のミアさんは探さなかった」


「手掛かりが違う」


「どこからが探す手掛かりなんです?」


 新人らしい問いだった。


 デリクはすぐ答えず、自分でも整理する。


「次に確認する場所が具体的に決まる情報かどうかだな」


「《白樫院》は具体的」


「そう」


「《東門から出た》は?」


「広すぎる」


「《南の工房》も?」


「どの職種かも分からないなら、ほぼ当てずっぽう」


「なるほど」


「ただし、同じ情報でも状況で変わるぞ」


「難しい」


「だから記録するんだ」


 デリクは荷札の裏に残した確認経路を見せた。


『旧住所確認』


『古書店より白樫院の情報』


『施設へ在籍照会』


『本人在籍確認後転送』


「探す時も、何を理由に次へ進んだか残す。戻す時も同じだ」


「気合いで探さない?」


「そういうことだ」


 セラが近くから口を挟む。


「誰かさんが長年やってた方法ですね」


「今その話いらないだろ」


 ティオが笑う。


「でも覚えやすいです」


「お前まで言うな」


 集配所へ小さな笑いが広がった。


          ◇


 冬へ入る少し前、デリクは返し殻豆を一袋持って、再び《持ち込み食堂》を訪れた。


 ミレイアは袋を見てすぐ気づいた。


「今度は煮続けないですよね?」


「もう覚えた」


「本当に?」


「配達より信用ないな」


 悠斗が笑いながら豆を受け取る。


「今日は前と違う料理にします?」


「できるのか」


「豆が粉質なら、潰して焼くのも合いそうです」


「じゃあそれも食べたい」


 最初の工程は前回と同じである。


 乾いた莢を湯へ入れ、食べられるところまで煮ようとはせず、殻が水分と熱を受けたところで上げる。


 冷水へ移す。


 継ぎ目が開く。


 中の豆を出す。


 ここから二つへ分けた。


 半分は白肉と一緒に軽く煮る。


 残り半分は柔らかく煮た後、粗く潰し、刻んだ根玉葱と少量の乳酪を混ぜて平たく成形する。油を薄く引いた鉄板で両面を焼くと、表面は香ばしく、中には豆のほくほくした食感が残った。


《返し殻豆の乳酪平焼き》


《白肉と返し殻豆の淡煮》


 二つの皿が並ぶ。


「戻すところまでは同じなのに、その後が違う」


 デリクが言う。


「冷水へ戻すのは終わりじゃなくて、次の準備なので」


 悠斗の言葉へ、今度は素直に頷けた。


「最近、返送を増やした」


「荷物の?」


「ああ。ただし何でも返してるわけじゃない」


 《ロア雑貨店》の小包が、返送後に新住所付きで出し直され、本人へ届いたこと。


 ミア宛ての手紙も、送り主が正式な滞在先を確認してから再発送されたこと。


 逆にヘルマの手紙は、具体的な養老院名が分かったため正式に転送できたことを話した。


「前より仕事減りました?」


 ミレイアが聞く。


「探す時間は減った」


「楽?」


「全部が楽になったわけじゃない。戻す判断は今でも少し嫌だ」


「届けたいから?」


「配達人だからな」


 そこは変わらない。


「でも昔は、返したら俺のところで終わった感じがしてた」


「今は?」


「送り主へ情報を戻してると思えるようになった」


「情報?」


「この住所じゃ届かなかったってこと」


 デリクは淡煮の豆を一つ匙で割る。


「荷を返さなきゃ、送り主は届いてないことすら分からない場合がある。返せば、新しい住所を調べるか、別の連絡方法を使うか、もう送らないかを送り主が決められる」


「デリクさん一人で全部決めなくなった?」


 ミレイアが言う。


「そうかもしれない」


 少し考える。


「荷物って、そもそも俺一人で届けてるわけじゃないんだよな」


 送り主が渡す。


 受付が受け取る。


 仕分ける。


 街道便が運ぶ。


 集配所へ入る。


 担当配達人が持つ。


 必要なら別区へ転送する。


 最後に受取人へ渡る。


「俺は、その途中の一人だった」


「今さら?」


 ミレイアが笑う。


「二十三年やって、今さらだよ」


          ◇


 その冬、ティオが初めて西側の一部区画を一人で任されることになった。


 出発前、デリクは地図を広げた。


「この通りは同じ名字の家が二軒あるから家番号まで見る。こっちの商店は昼から裏工房にいる。集合住宅の管理人は荷を預かれないから本人受領」


「はい」


「住所が違ったら?」


「近所に確認。ただし荷の中身は話さない」


「転居してたら?」


「台帳」


「台帳になかったら?」


「送り主照会」


「それでも情報なかったら?」


「戻す」


 ティオは少し笑った。


「何だ」


「デリクさんから返送の話聞く日が来るとは思ってなかっただけです」


「俺だって規則は昔から知ってた」


「使ってなかった?」


「使ってた」


 隣でセラが咳払いした。


「一部だけ」


「お前は黙ってろ」


 ティオは鞄を背負って出発した。


 夕方。


 一通の封筒を持ち帰る。


「空き家でした」


「近隣は?」


「二軒に聞きました。半年前に出たらしいけど行き先不明」


「台帳?」


「なし」


「送り主?」


「市内商会なので照会を出しました。明日の昼まで返事がなければ期限通り返送です」


「それでいい」


 もう一つの小包は無事に届けられたという。


「南市場のロドさん宛て、住所が古かったです。でも隣の店が『今は同じ市場の北列』って教えてくれて、市場管理所の登録でも確認できたので、そっちへ持っていきました」


「それは届けていい」


「同じ転居なのに?」


「正式な確認が取れたからな」


「どっちも『近所の人が言った』から始まったのに」


「その後が違う。北列って具体的な場所が出て、管理所の登録でも本人を確認できた。空き家の方は『どこかへ行った』で止まってる」


「なるほど」


 ティオは自分の配達記録へ書き込んだ。


 デリクはその様子を見ながら、若い頃の自分がカイルへ、


「もう少し探せば」


 と言っていたことを思い出した。


 当時のカイルが教えたかったのも、きっと今自分がティオへ話していることだったのだろう。


 届けたい気持ちは必要である。


 しかし、


「届けたい」


 だけでは、どこまででも歩けてしまう。


 だから情報の確かさと、調べた記録と、期限が必要になる。


          ◇


 春が近づく頃には、デリクの個人棚から、何週間も残る『確認中』の荷はほとんどなくなっていた。


 保留がゼロの日もある。


 だからといって、以前より簡単に諦めるようになったわけではない。


 住所が僅かに違えば、まず書き間違いを疑う。


 転居の手掛かりがあるなら、正式な登録を確認する。


 送り主が分かれば照会する。


 同じ建物に長く住む人がいて、具体的な移転先を知っているなら、その情報から正規の確認を取る。


 それでも道が見つからない時には、いつまでも自分の棚へ置かずに返す。


 ある朝。


 セラが一通の小包を持ってきた。


「昨日の不明住所、送り主から返事来ました」


「どうだった?」


「西二通りじゃなく、西七通りの書き間違いだそうです」


「なら今日持っていく」


「こっちは、送り主も新住所を知らないので返送希望」


 別の封筒を渡される。


 デリクは記録を確認した。


「返す」


 迷わない。


 ティオが隣で仕分けをしている。


 デリクは今では新人へ、


「何でも戻すな」


 とも、


「何でも最後まで探せ」


 とも教えない。


「届けるために必要なことは調べろ。ただし、自分が何を待ってるのか分からない荷を棚へ置くな」


 そう言う。


 その日の昼前。


 市場の農家が返し殻豆を売っていた。


 ラト村のものより小粒で、殻も薄い。


「これ、北の返し殻豆と同じ?」


「同じ仲間だよ。南畑のは殻が薄いから、最初の湯は短くていい」


「冷水には戻す?」


「もちろん。煮続けるなよ」


 デリクは笑った。


「それはもう覚えた」


 一袋買う。


 その日の仕事が終わってから、自宅で半分だけ調理した。


 莢を温める。


 十分に食べられるまで煮ようとはしない。


 殻へ隙間が出たところで上げる。


 冷水へ戻す。


 殻が開く。


 中の豆を取り出す。


 半分は翌日の昼食用に白肉と煮込み、残りは乾かして保存する。


 以前なら、


「今日火へ入れたなら今日全部仕上げる」


 と思ったかもしれない。


 今は必要な分だけでいい。


 夕食を終えた後、翌日の配達予定を確認する。


 通常便。


 再訪便一通。


 送り主照会待ち一通。


 返送予定一通。


 以前は、


『照会待ち』


 や、


『返送予定』


 という札を見ると落ち着かなかった。


 今は、それぞれの荷に、


「次に何が起きるか」


 が決まっていることを確認できる。


 翌朝。


 返送予定の封筒に、最後の照会返事は届いていなかった。


 期限は今日。


 デリクは記録を最初から一度だけ確認した。


 住所確認済み。


 近隣聞き取り済み。


 転居登録なし。


 送り主照会済み。


 返答なし。


 これ以上、自分の手元へ置く理由はない。


 返送札へ、


『転居先確認不能。送り主へ返送』


 と記入する。


 以前なら箱の前で、


(あと一日)


 と考えただろう。


 今は、そのまま返送箱へ入れた。


 隣ではティオが今日の市内便を鞄へ詰め、セラは別区へ回す転送札を書いている。


 受取人へ向かう荷。


 別の担当へ移る荷。


 送り主へ戻る荷。


 同じ集配所から、それぞれ違う方向へ出ていく。


 デリクは長い間、


「自分が受取人へ渡せなかった荷」


 だけを見ていた。


 けれど本当に守りたかったものは、自分が最後まで持ち続けることではなかった。


 一通でも多くの便りや荷物が、その時点で分かる正しい道へ進むことだった。


 具体的な手掛かりがあれば、自分でつなぐ。


 情報が足りなければ、送り主へ戻して次の判断を渡す。


 戻した先から、新しい住所を付けて再び来ることもある。


 返し殻豆が、一度火から外されて冷たい水へ戻された後に初めて殻を開き、そこから本当に食べるための調理へ進むように、後ろへ戻ったように見える動きが、次の道を作ることもあった。


 デリクは今日届ける荷だけを鞄へ入れ、左肩へ掛けた。


 返すべき物は、すでに返る流れへ乗っている。


 転送する物は、次の担当へ渡されている。


 自分の手から離れたからといって、そこで全てが終わったわけではない。


 南集配所の扉を開くと、朝のレーヴェンには商店の戸を開ける音と、街道へ向かう荷車の車輪音が重なっていた。


 デリクは最初の届け先へ向かって歩き出した。


 今日、自分が届けられる荷は、自分が届ける。


 自分より先の情報を持つ人へ戻した方が進む荷は、きちんと戻す。


 二十三年掛かってようやく、その二つを同じ配達の仕事として考えられるようになっていた。


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