第100話 半分ずつ味の変わる巡り実と、帰る日を決められない旅の料理人
ここで最後の回とさせていただきます。
皆さんの好きな回はどの話しだったでしょうか?
是非、感想もいただけたら嬉しいです。
それでは、100話お楽しみください。
アベル・クロウは四十歳になる人間の男性であり、決まった店を持たず、町から町へ移りながら宿屋や酒場、食堂の厨房へ短期間だけ入り、その土地で知られている料理を覚える代わりに人手の足りない仕事を引き受ける旅の料理人として、二十年近く暮らしてきた。耳の下まで伸びた濃い灰色の髪は旅先で自分で切ることが多いため長さが揃っておらず、日に焼けた顔には目尻から頬へ細かな皺が伸びている。腰へ差した包丁は何度も研ぎ直したことで買った頃より少し細くなり、背負っている革鞄には着替えよりも、各地で譲られた木匙や香辛料、小さな石臼の欠片、乾燥香草など、料理に関係する物の方が多く入っていた。
料理人としての腕は十分にあり、初めて入った厨房でも数日あれば火の強さや道具の置き場所を覚え、その店で働いてきた人間の邪魔にならないよう動ける。地元の料理を自分のやり方へ無理に変えることも少なく、まず教わった通りに作ってから、
「ここの肉なら、切り方を少し変えれば火が入りやすいんじゃないか」
「この香草は最後に入れた方が香りが残る」
と提案するため、短期の手伝いとしてはかなり重宝された。
ただしアベルには、どの町でもよく言われることが一つあった。
「ようやく厨房へ馴染んだと思ったら、いなくなる」
西の港町では魚料理の店へ半年、北方の鉱山町では坑夫向け食堂へ八か月、東街道の旅籠では四か月、南の農村では収穫期の共同炊事場へ入り、冬が来る前に次の土地へ移った。長く働いた場所でも一年半を超えることはほとんどなく、旅人仲間からは、
「腕があるのに自分の店を持たない男」
と呼ばれ、料理人からは、
「覚えるものを覚えたら次へ行く」
と冗談めかして言われていた。
本人は、旅そのものを嫌っていない。
むしろ好きだった。
市場へ入った瞬間、見たことのない野菜が山積みになっている。
同じ肉でも、地方によって切り方が違う。
川魚へ香草を詰める町もあれば、塩だけで皮を強く焼く村もある。黄芋を潰してパンへ混ぜる土地がある一方で、薄く切り、屋根の下で乾燥させ、冬の煮込みへ使う地域もある。
知らない食材を見つけて、
(これは何だ)
と思う瞬間が、アベルは好きだった。
地元の人へ食べ方を聞き、自分で作り、最初は失敗して笑われる。そこで終わらず、次の日には教わった通りに切り直し、火を変え、少しずつ土地の味へ近づいていく。
その繰り返しを、若い頃から続けてきた。
ただし、
「旅が好きであること」
と、
「どこにも長く残らないこと」
は、本来まったく同じ意味ではなかった。
アベル自身がその違いを意識するようになったのは、ずいぶん後になってからだった。
◇
アベルが料理を始めたのは、十五歳の頃である。
生まれはレーヴェンから遠く離れた北西地方の小都市で、父は馬具を作る革職人、母は市場で温かな煮込みを売る小さな屋台を営んでいた。兄が二人おり、革仕事は長兄が継ぐ予定だったため、幼いアベルは父の工房よりも母の屋台へいることが多かった。
母が作る料理は、特別に珍しいものではない。
白豆。
根菜。
安価な肉。
季節の香草。
それらを朝から大きな鍋で煮込み、市場へ働きに来る荷運び人や商人、近くの工房職人へ一杯ずつ売る。昼休みが短い人でも食べられ、毎日買っても財布を圧迫しないことが大切な料理だった。
アベルは鍋の火を見張り、器を洗い、十三歳になる頃には根菜を切らせてもらうようになった。
「もっと肉を増やした方が美味しいんじゃないか」
そう言ったことがある。
母は鍋を混ぜながら答えた。
「増やせば値段も上げないといけないよ」
「じゃあ香草を増やせばいい」
「強い香りが嫌いな人もいる」
「だったら、一番美味しい料理って何なんだ?」
子どもらしい問いだった。
母は少し考えた後、
「食べる人が、今日その料理に払える金と時間の中で、食べて良かったと思えるものじゃないかね」
と答えた。
その言葉を、アベルは料理人になってからも覚えていた。
十五歳になると、近所の食堂へ入り、母の手伝いではなく職業として料理を覚え始めた。火加減、塩加減、保存、肉の部位、大量に作る時の順序、厨房を止めないための段取りなど、母の屋台では感覚でやっていたことにも一つずつ理由があると知った。
十七歳の頃には、
(この町でずっと料理をする)
つもりだった。
食堂の主人からも、
「あと何年かすれば、お前に夜の厨房を任せられる」
と言われていた。
ところが十八歳の春、母が急な病で亡くなった。
父も兄たちもカルノへ残った。
アベルも残ることはできた。
仕事もある。
家族もいる。
それでも市場を通るたび、以前母の屋台があった一角が目に入る。その場所を見ると、
(ここにいる限り、母がいなくなったことばかり考える)
という気持ちが強くなった。
半年後。
食堂を辞めた。
「少し旅をしてくる」
主人へそう伝えた。
「いつ戻る?」
「半年くらい」
「くらい?」
「まだ分からない」
その時、本当に半年ほどのつもりだった。
南へ向かう商隊の厨房補助へ入り、荷運び人へ食事を作りながら町を移る。三か月後には港町で商隊を降り、そこで魚料理店へ入った。
魚の切り方が面白かった。
半年が過ぎた。
次は山間部へ行き、保存肉と硬い穀物の扱いを覚えた。
そこでまた半年。
さらに別の村へ行く。
気づけば二年が経っていた。
一度カルノへ帰った。
父も兄も元気だった。
昔働いていた食堂の主人から、
「戻るなら席を空けるぞ」
と言われた。
アベルは、
「もう少し見たい土地がある」
と答えた。
その時も、本当にもう少しだと思っていた。
◇
二十代のアベルにとって、旅は純粋に楽しいものだった。
北方の村では、外気で凍らせた魚を薄く削り、塩と香草油だけで食べる方法を知った。湿地帯の町では水分の多い根菜を炭の中へ埋め、皮の内側へ蒸気を閉じ込めて焼く料理を覚えた。南方の放牧地では乳を長時間煮詰め、それを肉へ塗って乾燥を防ぐ保存方法を教わった。
地元の料理人と意見がぶつかることもある。
「その魚に、その香草は入れない」
「食べたことあるのか?」
「この土地ではやらない」
「なら賄いで一皿だけ試そう」
失敗すれば笑われる。
成功すれば翌月から店の献立へ加わる。
数日前まで知らなかった人間と同じ鍋を囲み、その土地の食べ方を教わり、自分の知識も少し残して次へ進む。若いアベルには、それ以上楽しい暮らしが想像できなかった。
二十八歳の時。
東部の宿場町にある《風待ち亭》という旅籠へ入り、一年を超えて働いた。
主人はダレスという五十代の男性で、食堂の中心には娘のエナがいた。エナはアベルより二歳下で、若いながら厨房を一人で回せるほど腕があり、旅人であるアベルへ遠慮もしなかった。
「魚へその香草は重い」
「量を減らす」
「そういう問題じゃない」
「じゃあ食べてから言え」
「賄いだけね」
そんなやり取りを何度もした。
失敗すれば、
「だから言ったでしょう」
と笑われる。
うまくいけば、
「次は客に出してみる」
となる。
アベルも《風待ち亭》の料理を覚え、エナも彼の旅先の料理をいくつか覚えた。
一年が過ぎた頃、ダレスから言われた。
「そろそろ、ここへ腰を落ち着ける気はないか」
アベルは返事をしなかった。
「エナも、一人で厨房を回すよりお前がいた方がいいと言ってる」
「まだ行ってない土地がある」
「土地は来年もあるだろ」
「食材には時期がある」
「ならその時だけ見に行って戻ればいい」
その提案は、今考えれば何もおかしくない。
しかし当時のアベルには、
「残る」
という言葉が、
「もう旅をしない」
という意味に聞こえた。
(ここを自分の場所にしたら、次へ行けなくなる)
誰もそんなことは言っていない。
それでも息苦しくなった。
二月後。
アベルは旅籠を辞めた。
エナは止めなかった。
「また来る?」
「近くへ来たら」
「いつ?」
「分からない」
「じゃあ待たない」
そう言って笑った。
アベルも笑った。
《風待ち亭》へ再び行ったのは、それから七年後だった。
ダレスはすでに引退している。
エナは結婚し、夫と共に旅籠を継ぎ、子どももいた。
「久しぶり」
彼女は昔と同じように迎えた。
「元気そうだな」
「そっちも。まだ旅してるの?」
「ああ」
「本当に変わらないね」
責める口調ではなかった。
だからこそ、その晩、アベルは自分だけが同じ場所に立ち続けているような気がして眠れなかった。
三十代へ入る頃から、旅立つ時の気持ちも少しずつ変わった。
若い頃は、
(次は何があるだろう)
という期待で町を出た。
ところが長く滞在した土地では、別の焦りが生まれるようになる。
常連客に名前を覚えられる。
厨房で自分の包丁を置く場所が決まる。
隣の店の主人と挨拶をするようになる。
休日に一緒に酒を飲む知り合いができる。
すると、
(そろそろ出ないと)
と思う。
誰かから、
「残ってほしい」
と言われる前に。
そして何より、自分自身が、
(ここへ残ってもいい)
と思う前に。
◇
レーヴェンへ来た時も、最初は二月ほどしか滞在しないつもりだった。
巨大な城壁都市であり、市場には各地方から食材が集まる。最初の三日だけでも見たことのない野菜や魚、茸をいくつも見つけたため、予定はすぐ三月へ延びた。
北区の宿屋へ短期間入り、その後は市場食堂、仕出し工房、祭事の臨時厨房と仕事を移した。
半年。
一年。
それでも町を出なかった。
レーヴェンは広いため、同じ町の中で働く場所を変えるだけでも別の土地へ来たような違いがあった。
西区では職人向けの濃い料理が多い。
南市場では旅商人が多いため持ち運びやすい料理が売れる。
北門周辺の宿では、冬になると体を温める煮込みが増える。
(まだこの町を見終わっていない)
そう自分へ言えた。
気づけば二年以上が過ぎていた。
料理人仲間から、
「お前、旅人って言う割にずいぶん長くいるな」
と笑われるようになる。
「次の春には出る」
春になれば、
「暑くなる前に」
と言い、夏になれば、
「秋の収穫を見てから」
となる。
秋には、
「冬の市場もまだ見てない」
と理由を作る。
出る理由ではなく、残る理由を探している自分には、とうに気づいていた。
ただ、
「レーヴェンへ残る」
と認めることもできなかった。
残るなら、一生住むのか。
旅をやめるのか。
自分の店を持つのか。
どこかの厨房へ正式に入るのか。
全部を決めなければ、
「ここにいる」
と言ってはいけないような気がしていた。
そんな冬の終わり、市場で《巡り実》という果実を見つけた。
掌よりやや大きな丸い果実で、表面は淡い黄緑色をしているものの、中央を境に片側だけ黄色が濃く、反対側は青みを残している。
「これ、片側がまだ熟してないのか?」
店主へ尋ねた。
「いや、それで食べ頃」
「色違うぞ」
「《巡り実》知らないのか。黄色い方は甘くて、緑の方は酸っぱいんだ」
「一個の中で?」
「そういう実だよ」
アベルは迷わず一つ買った。
宿へ戻って切る。
中央には一つの種があり、その周囲の果肉が左右で僅かに違う色をしている。黄色い側は柔らかく蜜に似た甘さがあり、緑側は水分が多く、舌へ残る爽やかな酸味を持っていた。中央付近だけは二つの味が混ざっている。
そのままでも美味しい。
ただ料理人なら、別の使い方を考えたくなる。
(黄色側を肉に合わせるか)
(緑側は魚だな)
(いや、全部煮れば甘酸っぱいソースになるか)
(焼いたらどう変わる)
一晩考えた。
翌日も考えた。
いくつも案が出るほど、どれか一つを選びにくい。
そこで、料理人仲間から何度も名前を聞いていた店を思い出した。
《持ち込み食堂》。
客が自分で食材を持ち込み、店主が状態を見ながら料理を作る小さな店である。
料理人である自分が、別の料理人へ食材を持っていく。
少し気恥ずかしい。
それでも、
(自分以外ならどう使う)
という興味の方が勝った。
◇
《持ち込み食堂》の扉を開けた時、アベルが最初に気に入ったのは、厨房と客席の距離が近いことだった。
火の音が聞こえる。
包丁の音も届く。
料理を隠して運ぶのではなく、
「そこで今作られている」
ことが分かる店だった。
カウンターの向こうにいた黒髪の男性が顔を上げる。
「いらっしゃいませ」
「これ、持ち込みでいいのか」
アベルは巡り実を置いた。
悠斗が受け取る。
「初めて見る食材ですね」
アベルは少し驚いた。
「知らないのか?」
「知らないです」
「珍しい食材を料理する店って聞いたけど」
「珍しいものは来ます。でも、全部知ってるわけじゃないので」
悠斗は巡り実をすぐ切らず、皮の硬さと香りを確認した。
「どういう実か教えてもらえます?」
「左右で味が違う。黄色側が甘くて、緑側は酸味がある」
「生食は?」
「昨日食べた。問題ない」
「加熱したことは?」
「まだ」
「なら最初に少量ずつ味を見てもいいですか?」
「もちろん」
悠斗が果実を切る。
ミレイアも断面を覗き込んだ。
「本当に左右で違いますね。同じ実を途中からくっつけたみたい」
「最初から一個だ」
アベルは笑った。
悠斗は黄色側と緑側を少量ずつ切り、生のまま味を見る。
「黄色側は柔らかくて甘いですね。緑側は少し締まっていて、水分と酸味が多い」
「俺なら二品へ分けるか、全部まとめて煮るかで迷ってる」
「料理人なんですか?」
ミレイアが尋ねる。
「ああ。自分の店はないけど」
「自分で作れるのに、どうしてここへ?」
「自分なら出ない使い方を見たい」
悠斗は少し考えた。
「一つの皿で、味を混ぜ切らずに残してみてもいいです?」
「二品にはしない?」
「今は一緒に食べた時の違いを見てみたいです」
白肉を用意し、表面へ軽く塩を振って焼く。
肉を一度取り出した鍋へ、黄色側の巡り実を厚めに切って入れる。焼き目が付く程度まで火を当てると、生の時より甘い香りが強くなった。
緑側は、黄色側より薄いくし切りへする。
こちらは最初から入れない。
白肉を戻し、黄色側の果肉と肉汁を短く合わせた後、仕上がる直前に緑側を加える。
酸味を完全に飛ばさない。
最後に少量の香草を散らす。
《白肉と巡り実の二味焼き》
アベルは黄色側と肉を一緒に食べた。
「甘いけど、肉へ合わせると重くないな」
次に緑側。
「こっちは脂を切る」
「二つ一緒もどうぞ」
甘味と酸味を同じ一口へ入れる。
二つが消し合うのではなく、違う味のまま順番に感じられる。
「全部同じ味へしなかったんだな」
「元から違うので、消す理由もないかなと思って」
「でも別皿にもしてない」
「一つの実なので、一緒に食べる面白さも残したかったです」
アベルはもう一口食べた。
「俺なら、最初に決めようとした」
「何をです?」
「この実を甘い果物として扱うか、酸味のある果物として扱うか」
「両方あるなら、両方でもいいのでは?」
「料理ならな」
口から出た言葉に、自分で少し引っかかった。
悠斗は無理に話を続けなかった。
だからアベルの方が話した。
「旅してるんだ」
「料理をしながら?」
「ああ。もう二十年近い」
「ずいぶん長いですね」
「最初は半年の予定だったけどな」
そこから、カルノの話をした。
母の屋台。
母が亡くなった後、町へいることが苦しくなったこと。
半年の旅が二十年近く続いたこと。
《風待ち亭》へ長くいたのに、残る話を出された途端、旅を捨てるような気がして町を離れたこと。
「旅が嫌になったわけではないんですよね」
ミレイアが聞く。
「嫌なら、とっくにやめてる」
「旅は続けたい?」
「続けたい」
「じゃあレーヴェンを出たい?」
そこで答えが止まる。
「……それが分からない」
「二年以上いるんでしたっけ」
「ああ」
「ここにいたい気持ちもある?」
「ある」
口にすると、少しだけ肩が軽くなった。
「だったら、今は残るでもいいのでは?」
「残るなら、旅をどうする」
悠斗が尋ねる。
「どうして、残ると旅をやめるんです?」
「同じ場所に住んだら、旅人じゃないだろ」
「旅をする人に、帰る場所があったら駄目ですか?」
アベルは黙った。
「ここで一年働いて、その後また旅をするのは?」
「できる」
「旅をした後、レーヴェンへ戻るのは?」
「できる」
「では、旅を続けることと、どこにも居場所を作らないことは別じゃないですか?」
その問いだけは、簡単に否定できなかった。
自分はいつから、
「旅人であるなら、帰る場所を持ってはいけない」
と思うようになったのか。
旅へ出た十八歳の自分は、そんなことを考えていなかった。
カルノへ帰るつもりだった。
半年後に。
「俺は、残るか旅するかの二つだと思ってた」
アベルが言う。
「今月残って、来年旅に出てもいいですよね」
ミレイアが言った。
「旅へ出て、また帰るのも」
「理屈ではな」
「なら、全部今日決めなくてもいいのかもしれません」
悠斗は巡り実の皿を見た。
「この実も、甘い実か酸っぱい実か一つへ決めなくても食べられましたし」
「人間と実は違う」
「はい」
悠斗は素直に頷いた。
「でも一つしか選べないと思っていたら、見えない方法もあるのかもしれません」
◇
店を出た後、アベルはすぐ宿へ帰らず、冬のレーヴェンをしばらく歩いた。
旅を始めた頃なら、町の風景は、
「知らないもの」
で埋まっていた。
今のレーヴェンには、
「知っているもの」
が多い。
この角を曲がれば、朝早くから茶を出す小さな店がある。
南市場の魚屋は夕方になると、傷みやすい魚を安くする。
西区の香料店では、主人より娘の方が新しい香草へ詳しい。
仕出し工房の裏口は、雨が降ると敷石が滑りやすい。
知らない町ではない。
だからこそ、何度も、
(慣れすぎた。そろそろ出ないと)
と思った。
旅人なのに、帰り道を覚えてしまったような気がした。
その夜、現在手伝っている仕出し工房の主人から声を掛けられた。
「アベル、春から正式に入らないか」
「またそれか」
「またって何だ。前から言ってる」
「人足りないのか?」
「それもある。でも、お前がいると若いのが聞きやすい」
「俺、教える時かなり口悪いぞ」
「そこは直せ」
主人は笑った。
「毎日じゃなくていい。週四日。祭事で外へ出る時には一緒に来てもらう。一年契約でどうだ」
一年。
今までなら、
「長すぎる」
とすぐ断っていた。
しかし《持ち込み食堂》で聞かれた言葉が残っている。
一年働くことは、一生住むことなのか。
「少し考える」
自分の口からその返事が出たことに、アベル自身が驚いた。
主人は追わない。
「五日後までに答えてくれればいい」
宿へ戻った夜、アベルは久しぶりに自分の革鞄の中身を全部出した。
北方の木匙。
港町で使っていた魚用の細串。
山村で貰った乾燥香草。
《風待ち亭》でエナから渡された鍋敷き。
それぞれ、
「そこにいたこと」
を示す物だった。
同時に今までのアベルにとっては、
「そこから去ったこと」
の証でもあった。
アベルはカルノの父と兄へ手紙を書いた。
『今はレーヴェンにいる。もう二年以上いる』
そこまで書く。
『春から一年、仕出し工房へ入るかもしれない』
まだ決めていないため、
「入る」
とは書かなかった。
最後に、
『旅をやめるつもりは今のところない』
と足した。
それでも矛盾していないように見えた。
次に、《風待ち亭》のエナへも書いた。
『あの時、残ったら旅をやめることになると思っていた』
『今考えると、誰もそんなことは言ってなかった』
『俺は今レーヴェンに二年以上いる』
少し手が止まる。
『旅を続けるなら出なきゃいけないと思っていたが、それも違う気がしてきた』
最後に、
『またそっちへ行ったら飯を食わせてくれ』
と書いた。
返事を求める手紙ではない。
七年前に再会した時にも言えなかったことを、今になって書いただけだった。
四日後。
仕出し工房へ返事をした。
「一年なら入る」
主人が目を丸くする。
「本当に?」
「誘ったのはそっちだろ」
「また『次の町がある』って言うと思ってた」
「一年後には言うかもしれない」
「それなら、その時考えろ。一年契約なんだから」
その言葉を聞き、アベルは笑った。
一年は、一年だった。
一生ではない。
その一年をここで働くと決める。
そして一年後に、残るか旅をするかをまた考える。
それでよかった。
◇
春から正式に仕出し工房へ入ると、アベルの仕事の仕方にも少しずつ変化が出た。
これまでは、
「どうせ何月かすれば出る」
と思っていたため、自分専用の棚を作らなかった。
包丁も毎晩持ち帰る。
新人へ仕事を教えても、
「俺がいなくなったら主人に聞け」
と最後に付ける。
今度は一年いる。
だから主人から、
「そこ空いてるから使え」
と言われた棚へ、自分の砥石と香辛料を置いた。
仕込みの記録にも自分の字で注意点を書く。
新人が同じ失敗をした時には、
「次は自分でやれ。俺は横で見る」
と、次に自分がいることを前提として話す。
初夏の祭事では、若い料理人二人と一緒に近郊村へ三日間出張した。
町の外へ出る。
知らない食材を見る。
他の村の料理人と話す。
アベルが好きだった旅の一部は、何も失われていない。
そして三日目の夜、
「明日レーヴェンへ帰る」
と自然に言った。
言ってから、自分で気づいた。
以前なら、
「レーヴェンへ戻る」
と言っただろう。
今は、
「帰る」
だった。
◇
初夏の終わり、アベルは再び市場で巡り実を買った。
今度は二つある。
一つは最初に食べたものと似ているが、もう一つは黄色側が大きく、甘い香りが強い。
《持ち込み食堂》へ持っていった。
「また巡り実ですね」
悠斗が笑う。
「今度は俺も一緒に考えていいか」
「もちろんです」
料理人同士で実を切る。
一つ目は前回と同じように白肉へ合わせる。
二つ目については、黄色側を焼き、緑側を潰して酸味のあるソースへすることにした。
ミレイアが言う。
「前は、この実を甘い料理にするか酸っぱい料理にするか迷ってましたよね」
「今日は実そのものが前と違うからな」
「同じ名前でも?」
「料理するなら状態を見る」
「自分のことも?」
アベルがミレイアを見る。
「よく覚えてるな」
「印象に残ったので」
二人で仕上げた《焼き巡り実と白肉の酸味仕立て》を食べながら、工房へ正式に入ったことを話した。
「一年働くんですよね」
「ああ」
「旅は?」
「祭事で三日出た」
「戻ってきた?」
「仕事あるんだから、帰ってくるだろ」
言ってから、アベルは笑った。
「何です?」
「前なら帰るって言わなかった」
悠斗が尋ねる。
「レーヴェンは帰る場所になりました?」
少し考える。
「今は、な」
「一生?」
「それは知らん」
以前なら、
「知らない」
と言うことが不安だった。
今は違う。
「今は帰る。来年のことは、来年決める」
◇
夏の終わりには、カルノの父から返事が届いた。
『一年も同じ町で働くなら、たまには故郷へ顔を見せろ。兄貴の子どもが、お前は手紙の中にしかいない人間だと思っている』
その一文を見て、アベルは声を出して笑った。
故郷へ最後に帰ったのは五年前だった。
旅を続けているのに北西へ向かう機会がなく、
「また今度」
を繰り返していた。
主人へ相談する。
「十日ほど休みたい」
「どこへ行く?」
「カルノ」
「祭事の予定はない。行ってこい」
「急な注文が入ったら?」
「お前一人で工房を回してるわけじゃない」
少し耳が痛かった。
「分かった」
十日間。
カルノへ帰った。
父は以前より背中が丸くなり、兄の髪にも白いものが混じっていた。姪と甥が三人増えており、本当に、
「叔父さんって本当にいたんだ」
と言われた。
母が昔屋台を出していた市場の一角には、別の若い夫婦が料理を売っていた。
最初は胸が痛んだ。
しかし、以前のように、
(母がいなくなった場所)
だけには見えなかった。
市場は続いている。
別の人が鍋を置き、別の客が食べている。
昔働いた食堂も残っていた。
主人は引退し、息子が厨房を継いでいる。
「一皿くらい作っていけ」
と言われた。
アベルは、母がよく売っていた白豆と根菜の煮込みを作った。
ただし旅先で覚えた香草をほんの少しだけ使った。
父が食べる。
「母さんのより、少し香りが強いな」
「嫌か?」
「いや」
父はもう一口食べた。
「お前の味になったんだな」
アベルは何も言わなかった。
長い間、故郷へ帰れば、
「旅へ出る前の自分」
へ引き戻されるような気がしていた。
実際には、二十年旅した自分のまま帰ることができる。
十日後。
レーヴェンへ戻った。
仕出し工房へ顔を出す。
「帰った」
主人が鍋を混ぜながら、
「おう。今日は休んで明日から働け」
と答えた。
特別なことは何も起きなかった。
それが心地よかった。
◇
秋になると、工房へ二十歳の新人料理人ケイルが入った。
料理歴は三年ほどで、火の扱いは悪くないものの、知らない食材へ手を出す時には少し慎重すぎる青年だった。
「アベルさんって旅の料理人だったんですよね」
ある日、仕込みをしながら聞かれた。
「今もそのつもりだぞ」
「でもここで正式に働いてる」
「一年契約だからな」
「一年後は?」
「まだ知らん」
ケイルが不思議そうな顔をする。
「決めてないんですか」
「決めてない」
「不安じゃない?」
「昔は不安だった」
「じゃあどうして今は平気なんです?」
アベルは根菜を切りながら考えた。
「一年ここにいるって決めるなら、その先の一生まで決めないと駄目だと思ってたんだ」
「何でです?」
「俺も今思うと分からん」
ケイルが笑う。
「旅をやめるか、一生旅するかの二つだけだと思ってたんだろうな」
「今は?」
「一年は一年だ」
「一年後に旅へ出る?」
「出るかもしれん」
「残る?」
「それもある」
「どっちなんです」
「だから一年後に決める」
「雑だなあ」
「二十歳のお前に言われたくない」
二人で笑った。
将来を全部決めていないことを、欠けた予定だと思わなくなった。
◇
一年契約の終わりが近づく冬の初め、アベルは市場で、その年最後になるという巡り実を見つけた。
「また買うのか」
店主に笑われる。
「一つくれ」
「今度はどう食べる?」
「切ってから決める」
「料理人なのに?」
「料理人だからだ」
そのまま家へ帰らず、《持ち込み食堂》へ向かった。
悠斗が実を見て笑う。
「今年最後ですか?」
「市場の親父はそう言ってた」
「今日は何を作りたいです?」
アベルは巡り実をカウンターへ置き、少し考えた。
「今日は俺が作っていいか」
悠斗が驚く。
「もちろんです」
「厨房、借りられる?」
「どうぞ」
アベルは自分の包丁を取り出した。
二十年近く、町を移るたび腰へ差してきた包丁である。
巡り実を切る。
黄色側。
緑側。
中央。
味を見る。
「今日は緑側が強いな」
「酸っぱいです?」
「ああ。でも悪くない」
以前なら、
(この酸味をどうするのが最善か)
と長く考えただろう。
今日は、
「煮込みにする」
と決めた。
白肉。
根玉葱。
豆。
黄色側の果肉は早めに入れ、甘味を煮汁へ溶かす。
緑側は全部使わず、半分を仕上げ近くで加える。
残り半分は細かく刻み、皿へ盛った後で少量だけ添える。
途中で味を見る。
「少し酸味強いな」
ミレイアが聞く。
「失敗?」
「まだ途中だ」
塩を少し増やし、白肉から出た脂を煮汁へ戻す。
もう一度確かめる。
「これでいい」
出来上がった料理へ名前を聞かれ、アベルは少し考えた。
「《巡り実と白肉の帰り煮》」
ミレイアが笑う。
「帰り煮?」
「今思いついた」
「何で帰り?」
「知らん」
三人で食べる。
最初の二味焼きとも、初夏の焼き料理とも違う。
甘味と酸味が煮汁へ馴染みながら、最後に加えた緑側だけは少し鮮烈な香りを残している。
「工房の契約、もうすぐ終わりますよね」
悠斗が言う。
「ああ。あと四月くらい」
「その後は?」
「西海岸へ行きたい」
「旅?」
「春の終わりにしか上がらない魚があるらしい」
「じゃあ出るんですね」
「それが、夏祭りも今年は最初から最後までやってみたいんだ」
ミレイアが笑う。
「両方やりたい」
「そうなる」
「どうします?」
「契約終わる頃に決める」
「一生分?」
アベルがミレイアを見る。
「一年か半年で十分だ」
自分でそう言って笑った。
◇
春。
一年契約が終わる一月前、仕出し工房の主人から改めて聞かれた。
「来年どうする?」
「来たな」
「契約だからな」
アベルは、以前より具体的に自分の希望を言えた。
「夏祭りまではここにいたい。その後、西へ二月か三月行きたい」
「冬は?」
「雪が本格的に降る前にはレーヴェンへ戻るつもり」
「部屋は?」
「残したい」
「なら半年契約へ延長して、秋から三月くらい休職扱いにするか。冬前に戻るなら、また入ればいい」
アベルが主人を見る。
「そんな働き方できるのか」
「お前の仕事がそれで回るなら、別にいいだろ」
「戻れない可能性もあるぞ」
「その時は連絡しろ」
以前なら、
「戻る保証がない」
と自分から道を閉じていた。
今は、
「戻るつもりだ」
と答えた。
「ならそれで決まり」
旅をやめない。
レーヴェンも捨てない。
夏祭りまで働く。
西へ行く。
戻る。
その後のことは、戻った時に考える。
二十年近く旅を続け、
「残るか、旅するか」
の二つしかないと思っていた男が、初めて帰る予定を持って町を出ることになった。
◇
夏祭りが終わった十日後。
アベルは旅の準備をした。
ただし以前のように、部屋の中の物を全部革鞄へ詰め込むことはしなかった。
鍋。
料理本。
工房の若者から贈られた木皿。
カルノの姪が送ってきた布飾り。
普段使わない包丁。
それらは部屋へ残す。
大家へ三月分の家賃を先に払った。
「本当に帰ってくるの?」
大家が尋ねる。
「ああ」
工房ではケイルが保存食を一袋渡した。
「西まで結構掛かるでしょう」
「重い」
「いらない?」
「持っていく」
主人は、
「魚の処理を覚えたら、冬にこっちでやれ」
と言った。
「覚えられたらな」
「そこは覚えてこい」
南門を出る。
二十年前、カルノから初めて旅へ出た時と同じように、背中には革鞄がある。
ただし、あの時は、
「半年後くらいには帰るかもしれない」
程度だった。
今回は、
「冬になる前にはレーヴェンへ帰る」
と自分で決めている。
予定通りにいかないことはある。
面白い土地へ出会うかもしれない。
怪我をするかもしれない。
魚の時期がずれるかもしれない。
それでも、
「戻るつもりで出る」
ことが、これまでの旅とは大きく違っていた。
二月半後。
レーヴェンへ冷たい風が吹き始めた頃、アベルは南門から町へ戻った。
予定より少し早い。
目当ての魚を食べた。
漁師の家へ泊まり込み、捌き方と保存方法も覚えた。
途中の港町では、
「冬まで厨房を手伝わないか」
と誘われた。
以前なら、そのまま残った可能性もある。
今回は断った。
「帰る場所があるから」
そう言った。
自分で使った言葉が、嫌ではなかった。
部屋へ戻る。
窓の隅へ少し埃が溜まっている。
鍋も本も木皿も、そのままある。
翌日。
仕出し工房へ行く。
「早かったな」
主人が言う。
「魚の時期が少し早く終わった」
「覚えたか?」
「かなり」
「なら二日休んで働け」
「帰ってすぐ使うのかよ」
「席残したんだから働け」
数日後から厨房へ戻った。
旅で覚えた魚の料理を、ケイルたちと試す。
一度目は魚を崩した。
二度目は塩が強すぎた。
三度目でようやく納得できる。
旅先で得た知識が、
「次の町へ持っていくもの」
だけではなく、
「ここへ持ち帰ったもの」
になった。
◇
冬の夜。
アベルは《持ち込み食堂》へ向かった。
今回は料理してもらうための珍しい食材を持っていない。
西海岸で手に入れた乾燥香草を、小さな土産として悠斗へ渡した。
「魚へ合う」
「ありがとうございます。今度使ってみます」
ミレイアが尋ねる。
「旅、楽しかったです?」
「ああ」
「また行きます?」
「行く」
「いつ?」
「まだ決めてない」
「帰ってくる?」
「ああ」
その答えには迷わなかった。
悠斗がその日の店にあった材料で食事を作る。
黄芋。
根玉葱。
白肉。
白豆。
珍しい食材ではない。
白肉と野菜の温かな煮込みが一皿出てきた。
アベルは食べながら、西海岸の話をした。
魚の脂が最も乗る時期。
皮を先に乾かしてから焼く理由。
漁師が塩水へ短く漬ける方法。
工房へ持ち帰って試した時、ケイルが一匹目を崩した話までした。
ミレイアが笑う。
悠斗も笑う。
「最初に来た時、巡り実でしたね」
ミレイアが言う。
「ああ」
「甘い果物として使うか、酸っぱい果物として使うか決めないとって」
「そんなことも言ったな」
「今なら?」
「切って、今日の実を見てから決める」
「旅とレーヴェンは?」
アベルは水を一口飲んだ。
「両方でいい」
それ以上、説明する必要はなかった。
◇
その年の最後の営業日、《持ち込み食堂》には特別な飾りも催しもなかった。
いつもの時間に店を開け、いつものように料理を作り、最後の注文が終われば器を洗い、厨房を片づける。
悠斗は炉の火を確認し、使った鍋を乾かして棚へ戻した。ミレイアは帳場の記録をまとめ、洗い終わった器を一枚ずつ所定の場所へ重ねていく。
店内には、夕食に使った肉と香草の匂いがごく薄く残っていた。
これまで、この店には様々な食材が持ち込まれた。
赤角兎の肉。
強い苦味を持つ茸。
硬くなったパン。
巨大な卵。
売り物にならない形の野菜。
大きな魚。
硬い貝。
豆。
芋。
香草。
果実。
乳酪。
使い道がないと思われていたものが、別の料理になったこともある。大切に残しすぎて食べられなくなっていた物を、ようやく口へ運んだ人もいる。同じ食材には一つの正しい使い方しかないと思い込んでいた人が、別の切り方や火の入れ方を知ることもあった。
ただし、一皿の料理を食べたからといって、誰かの生活が魔法のようにすべて変わったわけではない。
店を出た後で、また迷う人はいた。
一度変えた仕事のやり方を、忙しさの中で元へ戻してしまう人もいただろう。
謝った後、関係がすぐ以前のようにならなかった人もいる。
休むことを覚えたつもりでも、次の繁忙期にはまた無理をした人がいたかもしれない。
それでも一度、
「自分は何を困っているのか」
を料理の前で言葉にし、自分の口で食べ、自分なりに一つの選択をして店を出る。
その経験が、後になってもう一度思い出されることはある。
悠斗は、その程度でいいと思うようになっていた。
自分自身も、この店を始めた頃より多くの食材を知った。
しかし今でも、知らない食材はある。
初めて見る植物なら、まず客へ聞く。
匂いを嗅ぐ。
断面を見る。
少量だけ火を通す。
思っていた反応と違えば、次を変える。
自分がこの世界へ来た理由についても、分からないことは残っている。
雨の夜。
濡れた道。
白い光。
耳を塞ぎたくなるほどの大きな音。
時折戻る記憶は、そこから先へ進んでいない。
元の世界へ帰る方法があるのかも分からない。
以前なら、その答えが見つからないことを、
「ここで暮らしていてよいのか」
という迷いへ結びつけたこともあった。
今は少し違う。
分からないものは分からない。
それでも明日使う材料を確認し、包丁を研ぎ、床を掃き、次に店を開く日の準備をすることはできる。
「今日の帳場、終わりました」
ミレイアが記録帳を閉じた。
「厨房も終わった」
「じゃあ閉めますね」
「ああ」
悠斗はもう一度だけ火元と保存庫を確認した。
ミレイアが入口へ行き、表へ出していた営業札を裏返す。
《持ち込み食堂》
『あなたの食材、料理します。』
その下に、
『本日の営業は終了しました』
が現れる。
扉を閉めて鍵を掛けた後、ミレイアが振り返った。
「この店、ずっとこの名前ですね」
「何する店か分かりやすいから」
「もっと格好いい店名に変えようとは思わなかったんですか?」
「今のところは」
「今のところ?」
悠斗が笑う。
「先のこと全部決めなくていいだろ」
「誰かさんみたいなこと言いますね」
「誰だよ」
二人で少し笑った。
悠斗は厨房の灯りを消す前、静かになった店内を見た。
客のいない椅子。
拭き終えた机。
六席のカウンター。
鍋の並んだ厨房。
誰かが食材を持って入ってきて、料理を食べ、それぞれの事情を話し、最後には自分の足で扉を出ていった場所だった。
その夜、もう扉を開く人はいない。
今日の料理は、今日来た人のところで終わっている。
誰かの次の悩みを待つ必要もなかった。
悠斗は最後の灯りを消した。
◇
同じ夜、少し離れた職人街では、アベルが自分の部屋で西海岸から持ち帰った包丁を研いでいた。
次に旅へ出る日は、まだ決まっていない。
春かもしれない。
夏かもしれない。
今年はレーヴェンで別の仕事を覚えたくなり、結局どこへも行かないかもしれない。
以前なら、予定が空白であることに落ち着かなかった。
旅人なら次の土地を決めなければならない。
レーヴェンに残るなら、何年住むのか決めなければならない。
どちらかへ名前を付けなければ、自分が何者か分からなくなるような気がしていた。
今は、そこまで急がない。
机には、西海岸で買った乾燥香草、工房から借りた献立帳、カルノの父から届いた手紙が置かれている。その隣には、市場で買ってきた小さな巡り実が一つあり、翌日の工房の賄いへ使うつもりだった。
黄色側を焼くか。
緑側をソースへするか。
両方を煮込みへ入れるか。
まだ決めていない。
明日の朝に切り、香りと味を見てから考えればいい。
旅人であることをやめなくても、帰る場所は持てる。
帰る場所ができたからといって、別の土地へ行けなくなるわけでもない。
二十年近く自分を縛っていた二つの選択は、最初から完全に反対側へ置かれていたわけではなかった。
アベルは研ぎ終えた包丁を布で丁寧に拭き、鞘へ戻した。
窓の外には、冬のレーヴェンの灯りが点々と並んでいる。
その中のどこかに、《持ち込み食堂》の小さな建物もある。
今夜はもう閉まっている。
だから、また食べたい日に行けばいい。
次の旅へ出る日も、戻る日も、その時に決めればいい。
アベルは翌朝工房へ持っていく巡り実を籠の中へ置き、自分が旅の途中ではなく、今夜はここへ帰っているのだと静かに受け止めながら、部屋の灯りを消した。
100話まで読んでいただきありがとうございます。
書き溜めた作品ではありましたが、ここで完結とさせていただきます。
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次回作に期待いただければ幸いです




