第89話 熟す順番の違う時差実と、全部を今日の仕事にしてしまう修繕屋
アルノ・フェルトは四十三歳になる人間の男性であり、レーヴェン西区の職人街から住宅地へ入る境目で、《つぎはぎ修繕所》という小さな店を営んでいた。黒に近い焦げ茶色の髪には耳の上から少しずつ白いものが混じり始めており、仕事中は袖口を肘まで巻き上げ、腰には革紐や細釘、小型の金槌、薄刃、糸巻きなどを収めた道具帯を巻いている。身体は細身ながら、家具を持ち上げ、扉を支え、重い道具箱を持って町中を歩く生活を二十年以上続けてきたため、肩と腕には見た目以上の力があり、指先には木片や革、金具を扱う中でできた細かな傷跡がいくつも残っていた。
《つぎはぎ修繕所》へ持ち込まれる品物に、はっきりした共通点はない。脚のぐらつく椅子、取っ手の緩んだ鍋、蝶番が鳴る戸棚、留め金の外れた鞄、柄の緩んだ掃除道具、蓋が閉じなくなった木箱、雨のたびに少しだけ水が入る窓枠など、新しく買い直すほどではないが、このまま使い続けるには不便な物が毎日のように運ばれてくる。
アルノは家具職人として一から大きな棚を作れるほど木工へ特化しているわけではなく、金物職人のように鍋底の穴を綺麗に塞げるわけでもない。裂けた革を見事に継ぎ直すほどの技術もないが、どの程度なら自分で直せて、どこから先なら専門の職人へ渡すべきかを判断することには慣れていた。
椅子の接合部が緩んだだけなら、自分で古い膠を削り、木栓を作って締め直せる。鞄の革そのものが大きく裂けていれば革職人へ回すが、金具を固定していた革片だけが傷んでいるなら、交換して十分使えるようにできる。鍋底そのものが破れているなら金物屋へ渡すものの、木製の取っ手がぐらついている程度なら、一刻もあれば直せることが多かった。
そうした細かな判断を積み重ねる仕事には向いている。
それなのに、依頼された仕事の順番を判断することになると、アルノは途端に不器用になった。
朝一番で、
「昼までに鞄の留め金を直してほしい」
という客が来たとする。
その半刻後に、
「急がないから、今週中に椅子をお願い」
という別の依頼が入り、さらに近所の老人から、
「時間のある時でいいから、窓の建てつけも見てもらえないか」
と頼まれる。
期限だけ見れば難しい話ではない。
昼までの鞄を先に終え、椅子は午後か翌日に回し、窓は空いた時間へ予定を入れればよい。
アルノ自身も、それくらいは理解している。
ところが椅子が店の奥へ置かれ、依頼札が掛かった瞬間、その椅子は彼の中で、
「もう自分が終わらせなければならない仕事」
へ変わる。
老人から窓の話を聞けば、実物をまだ見てもいないのに、
(雨が降る前に確認した方がいいかもしれない)
と考え始める。
その結果、昼までの鞄を直している最中にも、週末までの椅子が目に入れば、
(膠を使うなら先に分解しておけば、乾かす時間を使える)
と作業を止め、椅子へ手を伸ばす。
椅子の脚を外したところで窓のことを思い出せば、
(見に行くだけなら今行った方が、部品が必要か早く分かる)
と工具袋の準備を始める。
そして夕方になれば、いくつもの仕事が少しずつ進んではいるものの、朝一番で終わるはずだったものまで作業台へ残っていることがあった。
アルノにとって、
「依頼されたが、今日はまだやらなくていい仕事」
という状態は落ち着かなかった。
客から預かった時点で、それは自分の責任になる。
責任になったものへ早く手をつければ、その分だけ早く終わる。
少なくとも、長い間そう思っていた。
実際には、道具を何度も入れ替え、別々の作業へ頭を切り替え、途中の品を邪魔にならない場所へ移す時間ばかり増え、一番急ぐべき依頼まで遅らせていた。
◇
アルノが、頼まれた物へできるだけ早く手をつけるようになったのは、二十三歳だった頃の失敗がきっかけだった。
父は荷馬車の御者で、母は宿屋から洗濯仕事を請け負っていた。四人きょうだいの二番目だったアルノは、幼い頃から家の中で壊れた物を触ることが多かった。
戸の留め具が外れれば、古い釘を抜いて打ち直す。
籠の紐が切れれば、余っている麻紐を使って結び直す。
桶の取っ手が緩めば、父の道具箱から木片を探し出して隙間へ入れる。
もちろん子どもの仕事なので出来映えは安定しなかったが、壊れた物がもう一度使えるようになることが面白かった。
十五歳になると西区の家具工房へ見習いとして入り、木材の扱い方や刃物の研ぎ方、膠の使い方、接合部の作り方を本格的に学び始めた。大きな家具を何日もかけて一から作る仕事より、持ち込まれた椅子や棚を分解し、
「どこが悪くなっているのか」
を探す方が自分には合っていた。
二十歳を過ぎる頃には、工房へ来る小さな修理品の多くを任せてもらえるようになった。
失敗したのは、そんな時期だった。
冬のある日、近所の菓子店から焼き菓子を運ぶ木箱が持ち込まれた。
蓋の蝶番が片方外れかけている。
店主は箱を作業場へ置きながら、
「急ぎじゃないよ。三日後の市場までに直ればいいから」
と言った。
アルノは箱を外から一度見た。
蝶番が外れかけている。
見たところ、大仕事には思えない。
「分かりました。間に合わせます」
そう答えた。
その日は、大口の棚修理があった。
翌日は新しい家具の納品準備が重なった。
二日目の夕方には木箱の存在を一度思い出したが、
(明日の朝やれば間に合う)
と考えた。
三日目。
昼前になって、ようやく木箱を作業台へ持ってきた。
蝶番を外す。
そこで初めて、問題が金具だけではないことへ気づいた。
金具を留めていた木部そのものが裂けている。
釘を打ち直すだけでは、またすぐ外れる。
傷んだ部分を削り、小さな木片を埋め、膠を乾かしてから穴を開け直さなければならない。
夕方には市場へ向かう荷車が出る。
どう考えても乾燥時間が足りない。
アルノは慌てて菓子店へ走った。
事情を説明する。
店主は怒鳴らなかった。
「急がなくていいって言った俺も悪かったよ。古い箱使うから大丈夫だ」
そう言った。
しかし後から聞けば、古い箱は小さく、予定していた焼き菓子の一部を市場へ持っていけなかったという。
アルノは長く悔やんだ。
依頼された初日に、蝶番だけでも外して状態を確認していればよかった。
その日に全部直す必要はなかった。
木部まで割れていると分かっていれば、翌日から始めることもできた。
少なくとも、
「乾燥へ一日必要だ」
と知った状態で予定を組めた。
それ以来、客が、
「急がなくていい」
と言っても、預かった物の状態だけは早く見るようになった。
その習慣そのものは正しかった。
依頼品を受け取ったら、一度開く。
故障箇所を確認する。
必要な部品がなければ、早めに注文する。
膠や塗料の乾燥へ時間が必要なら、納期から逆算する。
そこまでなら、二十三歳の失敗をきちんと活かした改善だった。
しかし年月が経つにつれ、
「状態だけはすぐ確認する」
という習慣が、
「確認したなら、そのまま少しでも直しておいた方がいい」
へ変わった。
少し手をつければ、
(ここまで開いたのだから、もう一段進めておこう)
と思う。
もう一段進めると、
(中途半端に止めるくらいなら、ここまで終わらせたい)
と思う。
そうして、
「受け取った日に確認する」
は、
「受け取った仕事を、全部その日の仕事にする」
へ変わっていった。
三十五歳で独立し、《つぎはぎ修繕所》を開いた後は、さらに悪化した。
家具工房にいた頃なら、親方から、
「それは明日でいい。今日はこっちをやれ」
と言われる。
独立後は、振り分ける人間も自分である。
客との約束も自分がする。
だからこそ失敗したくない。
失敗したくないから全部早く始める。
そして、全部早く始めた結果、本当に急ぐ仕事まで遅くしていた。
◇
《つぎはぎ修繕所》には、アルノのほかに二人が働いていた。
三十五歳の女性モーラは、以前は革小物店で働いており、鞄や袋、布張り家具の簡単な修繕を得意としている。落ち着いた性格で、預かった仕事を始める前には依頼札を机へ並べ、受け取り日や必要な材料を確かめる癖があった。
十九歳の青年エトは、見習い二年目になる。客の品を一人で大きく分解することはまだ許されていないが、木栓作りや掃除、紐の交換、簡単な研磨、工具の整備などはかなり任されるようになっていた。
春のある朝、店を開けて半刻も経たないうちに四件の依頼が重なった。
最初に来たのは、南区の伝令組合で働く男性だった。
「肩掛け鞄の留め金が外れたんだ。午後二時から次の配達があるんだけど、それまでに直せそうか?」
アルノは鞄を受け取り、金具を動かしてから革の固定部分を確認した。
金具そのものは無事で、革へ通している固定片だけが伸びている。
「これなら昼までにはできます」
「助かる」
男が帰った。
次に近所の食堂から、椅子が二脚運ばれてきた。
「一脚は座ると少しぐらつくの。もう一脚は背もたれが鳴るだけだから、週末まででいいわ」
今日は火曜日である。
「分かりました」
モーラが依頼札へ受取日を書く。
三人目は近所の老夫婦で、戸棚の扉だけを外して持ってきた。
「閉める時に下へ擦るようになってね。急いではいないけど、できれば今週中にお願いできるかい」
アルノは扉を少し動かし、蝶番の摩耗を疑った。
最後に来た商人は、掌二つ分ほどの小さな木箱を抱えていた。
「蓋の留め具が緩んだ。来週でも構わないから、暇な時に見てくれ」
四件が並ぶ。
モーラは依頼札を受取期限の順へ置き直した。
「鞄が最優先。椅子二脚と戸棚は今週。箱は来週」
「分かってる」
アルノも答えた。
最初に鞄へ取りかかる。
留め金を外して革の厚みを測り、交換用の革片を選ぼうとする。
そこまでやったところで、店の奥に置かれた椅子が目へ入った。
(ぐらつきが接合部なら、膠を使う。今のうちに分解しておけば、乾燥時間を無駄にしない)
鞄は昼までに終わる。
椅子を少し見るだけなら大丈夫。
そう判断して、作業台の端へ鞄を置いた。
椅子を裏返し、脚を左右へ動かす。
座面との接合部に遊びがある。
木栓を入れ直す必要がありそうだった。
(やっぱり先に見てよかった)
脚を一本外す。
古い膠が残っている。
削っておけば後が早い。
そのまま薄刃を取り、接合部を掃除し始めた。
モーラが鞄の置かれた机を見る。
「鞄、途中?」
「これ外したら戻る。椅子は乾燥時間があるから、今開いておいた方がいい」
「椅子は土曜までですよ」
「分かってる。今のうちにやれば明日が楽になる」
接合部の古い膠を削り終える。
次に木栓の寸法を測ろうとした時、今度は老夫婦の戸棚が目へ入った。
(蝶番を注文する必要があるなら、今日見ておかないと遅れるかもしれない)
そこは確かに、早めに確認する価値があった。
問題は、アルノが確認だけで止まらなかったことである。
扉から蝶番を完全に外し、穴の摩耗まで調べ、部品棚へ同じ型がないか探し始める。
「親方」
エトが声をかけた。
「椅子の木栓、寸法どれです?」
「まだ測ってない。ちょっと待って」
「鞄の革片は僕が切ります?」
「厚み合わせたいから、そっちは俺がやる」
「じゃあ何すれば?」
「……工具片づけてて」
昼前になった。
最初の鞄には、まだ新しい革片さえ付いていない。
椅子は脚を外されたまま。
戸棚の蝶番も外れている。
しかも来週でよい木箱について、アルノは客が帰った直後に留め具を一度開いており、蓋まで外して作業棚へ置いていた。
モーラが時計を見た。
「アルノ、鞄を終わらせて」
「今戻る」
「朝から三回言ってる」
「椅子も戸棚も、先に状態見ておかないと困るだろ」
「見るところまではいいよ。何で全部分解してるの」
「開けないと分からないところがある」
「分かった後に戻せるものは戻して、札に書けばいいでしょう」
「二度手間になる」
「今の方が何度も道具替えてるよ」
アルノは返事をせず、ようやく鞄へ戻った。
伸びた革片を外し、新しい革へ金具の位置を写し、厚みを揃えて切り出す。穴を開け、金具を固定し直し、肩へ掛けた時に力が一か所へ偏らないか確認する頃には、昼をかなり過ぎていた。
午後二時の少し前、伝令組合の男が店へ戻ってきた。
「できてる?」
「あと最後の確認だけ」
客は入口近くで待った。
アルノは金具を強く引き、革が抜けないことを確かめてから渡した。
「遅くなって悪い」
「いや、出発には何とか間に合う。助かったよ」
男は急いで鞄を肩へ掛け、店を出ていった。
大きな苦情にはならなかった。
それでも、朝の時点では昼までに終わると自分で判断した仕事だった。
客が出た後、モーラが静かに言った。
「朝から鞄だけやってたら、昼前には終わってたよね」
「椅子は膠を使うから、先に開いた方が今日中に進む」
「土曜までだって言ったでしょう」
「戸棚の蝶番も今日見たから、予備がないって分かった」
「それは確認してよかった。でも何で外したまま作業台に置くの?」
「また付けるの面倒だろ」
「作業日まで机を一つ潰す方が面倒だよ」
アルノは店内を見た。
モーラの言う通り、三つの作業台のうち二つが、今日完成させる必要のない物に占領されている。
それでも、
「先にやっておけば後が楽になる」
という考えを簡単には捨てられなかった。
その日の夕方までに、椅子一脚は接着まで進み、鞄は完成した。戸棚は蝶番の到着待ちになり、もう一脚の椅子は手つかずだった。
来週でよい木箱は、蓋を外した状態で棚へ残っている。
閉店前、エトが道具を片づけながら尋ねた。
「明日は何からやります?」
アルノは店内を見回した。
どれにも続きがある。
どれも途中である。
自分でそうしたのに、
「全部やらなければならない」
ように見えた。
「朝見て決める」
そう答えた横で、モーラが小さく息を吐いた。
◇
それからしばらく、似た状態が続いた。
アルノは朝から晩まで働いている。
長い休憩を取るわけでもない。
むしろ昼食を短く済ませる日が多かった。
それでも、
「いつ終わりますか」
と客から確認される依頼が少しずつ増えた。
理由は単純だった。
一つの仕事へ使う時間が長いのではなく、一日の中で作業を切り替える回数が多すぎた。
木工用の刃物を並べた直後に鞄修理へ移る。
革用の針を出したところで、戸棚の金具を探しに行く。
膠を塗った椅子を固定した後、その乾燥時間へ別の一件を終わらせればよいのに、さらに三件ほど状態を見始める。
閉店する頃には、五件、六件の依頼が少しずつ進んでいる。
しかし完成したものは一つか二つしかない。
ある日、モーラが依頼札をすべて持ってきた。
「今、店に何件あると思う?」
「十五くらい」
「二十三」
アルノは手を止めた。
「そんなに預かってたか?」
「完成してないから残ってるんだよ。今日触ったけど終わってないものも含めて二十三」
モーラは作業台の上へ札を並べた後、それらを大きく三つへ分けた。
「今日やるもの。今週やるもの。部品や返事を待ってるもの」
アルノは札の束を見る。
「今日やらなくても、状態確認だけはした方がいい」
「それは私も反対してない」
「じゃあ同じだろ」
「違う。状態を見て部品が必要なら頼む。でも、その場で修理まで始める必要があるかは別」
「途中までやっておけば、後が早い」
モーラは何も言わず、店内を指した。
外された扉。
分解した椅子。
蓋のない木箱。
革片だけ外された鞄。
作業開始を待つ物ではなく、全部が、
「いったん始めたから途中で止まっている物」
になっている。
「本当に後が早くなってる?」
モーラが尋ねた。
アルノは答えなかった。
「急ぎの鞄を客に待ってもらったよね」
「あの日は重なっただけだ」
「先週も靴箱の修理、受け取りの朝までやってた」
「あれは金具が」
「金具は三日前に届いてた」
「別の仕事があった」
「その別の仕事も、来週でよかったやつに手をつけてたでしょう」
耳が痛かった。
それでもアルノの頭には、二十三歳の木箱が浮かぶ。
三日あると思った。
急がないと言われた。
だから見なかった。
その結果、間に合わなかった。
「後回しにして、また中身が想定より悪かったらどうする」
アルノが言う。
「だから最初に状態を見るんでしょう」
「見たら、少し進めた方が確実だ」
「どこまで?」
モーラに聞かれ、アルノは黙った。
そこに基準がないから、少しで止まらない。
確認する。
分解する。
必要な材料を測る。
せっかくだから古い部品を外す。
外したなら掃除する。
そこまで進めたら補修も始める。
気づけば、
「今日はやらないはずだった仕事」
が一日の半分を使っている。
それでもアルノは、自分が間違っているとはまだ完全に認められなかった。
◇
そんな頃、近郊の果樹農家が収穫小屋で使っている椅子を一脚持ってきた。
座面の板が一本割れている。
「急がないよ。次に街へ来るのが十日後だから、その時に受け取れれば十分だ」
農家の男はそう言い、前金を置いた後で、小さな籠も作業台へ載せた。
「これは?」
「今年試しに増やしてる《時差実》。まだ売るほど熟れ方が揃ってないから、よかったら食ってくれ」
籠の中には、卵より少し大きな楕円形の果実が十個ほど入っていた。
皮は淡い黄緑色だが、同じ色ではない。黄色へ近いものもあれば、まだ青みの強い緑色もあり、指で軽く押した時の硬さにもかなり差があった。
「別の木の実が混ざってる?」
「同じ木どころか、同じ枝から採ったのもあるよ」
「何でこんなに違う?」
「名前の通り、熟す時期がずれるんだ。花が同じ頃に咲いても、食べ頃になる日は揃わない」
「じゃあ収穫も別々?」
「売るやつはね。色と硬さ見ながら何回かに分けて採る。これは枝を整理した時に一緒に取ったから、まだ早いやつも混じってる」
農家が帰った後、アルノは籠を店の奥へ置いた。
その日の夕食時、黄色の強い実を一つ切る。
中は柔らかく、淡い橙色で、甘い香りが立った。
食べる。
十分に甘い。
続けて緑色の強い一つを切った。
こちらは果肉が硬く、噛むとかなり強い酸味がある。
「同じ実でも、ここまで違うのか」
翌朝、残った実を全部まとめて食べられるようにしようと考えた。
黄色いものも緑のものも同じ程度の厚さへ切り、一つの鍋へ入れる。
硬い実へ火を通せば、全部同じくらい柔らかくなるだろう。
少量の水と蜜を加え、ゆっくり煮始めた。
しばらくすると、熟していた実から先に柔らかくなり、角が崩れ始める。一方、緑色の強い果肉はまだ硬く、串を刺しても抵抗がある。
硬い方へ合わせて煮続ける。
完熟していた実はさらに崩れ、煮汁へ溶けていく。
火を弱める。
それでも硬い実の酸味は強い。
蜜を足す。
今度は、崩れた熟果の甘さと重なって煮汁全体が甘すぎる。
出来上がったものは食べられないほどではなかったが、一番食べ頃だった実の形はほとんどなくなり、未熟だったものだけが妙に硬い角を残していた。
昼にモーラとエトへ少し分ける。
モーラは一口食べると尋ねた。
「熟してたやつも一緒に煮たの?」
「全部同じ実だから」
「熟してたなら、そのまま食べればよかったんじゃない?」
「硬いやつだけ残るだろ」
「残しておけば?」
「同じ籠なのに?」
「同じ日に食べないといけないの?」
アルノは答えなかった。
食べ物の話なのに、
「同じ店へある依頼だから、同じ日に手をつける」
自分の仕事をそのまま言われている気がした。
まだ籠には五個ほど残っていた。
今度こそ全部を自分の鍋で駄目にするのは惜しい。
数日後、アルノは残った時差実を持って《持ち込み食堂》へ向かった。
◇
悠斗は持ち込まれた時差実を一つずつ籠から取り出し、皮の色を比べた後で、傷をつけない程度に指先で硬さを確かめていった。
「かなり違いますね」
「同じ枝でも熟す時期がずれるらしい」
「全部使いたいです?」
「せっかく持ってきたし」
「今日全部食べたいですか?」
思っていなかったことを聞かれた。
「今日持ってきたんだから、今日料理するものじゃないのか?」
「熟してないものまで?」
「調理すれば食えるだろ」
「食べること自体はできると思います。でも保存できるなら、熟してから食べる方法もあります」
悠斗は五個を大きく三つへ分けた。
二つは黄色が強く、指で押すと柔らかい。
一つは中間で、少し張りが残っている。
残る二つは緑色が強く、硬い。
「この二つは、かなり熟してます」
黄色い実を示す。
「これは?」
「まず生で少し食べてみませんか?」
一つを切る。
香りが強い。
アルノも一切れ食べる。
「うまい」
「なら、無理に加熱しなくてもよさそうですね」
「店で何もしないで出すの?」
「食べ頃なら、切るだけの方がいい場合もあります」
次に中間の実を切る。
果肉にはまだ少し硬さがあり、甘味の後へ酸味が残った。
「これは、軽く焼いてみます」
悠斗は厚めの櫛形へ切った果肉へ少量の油をなじませ、強すぎない火で表面だけを短く焼いた。果肉の中心まで崩すほど熱を入れず、両面に薄い焼き色がついたところで蜜をほんの少し落とし、酸味を完全に消さず丸める程度へ仕上げる。
完熟した二つは生のまま。
中間の一つは焼く。
硬い二つには刃を入れない。
「この二つは?」
アルノが尋ねる。
「今日は使わず持って帰ってもらおうかと」
「せっかく店まで持ってきたのに?」
「アルノさんが今日どうしても食べたいなら煮ます。でも何日か置けば、今よりそのまま美味しく食べられる可能性が高いです」
「できるのに、やらない?」
「はい」
悠斗は特にためらわなかった。
「今日やる必要がないので」
皿へ、二通りの時差実が並んだ。
完熟した実は包丁を入れただけで、十分な甘さと果汁がある。
軽く焼いた中間の実は、表面の香ばしさによって酸味が穏やかになり、少量の蜜とも合っていた。
同じ果実である。
しかし状態が違うため、扱いも違う。
「硬いやつも今煮れば食えるだろ?」
アルノはまだ気になった。
「食べられると思います」
「だったらやってもいいんじゃないか」
「やってもいいです。でも今日はやらない方が、数日後に少ない手間で美味しく食べられそうです」
「料理屋なのに、できること全部やらないの?」
悠斗は少し笑った。
「頼まれてない仕事まで増やしたら、他の料理が遅くなりますから」
アルノは言葉に詰まった。
自分の作業場が、そのまま頭へ浮かんだ。
◇
時差実を食べながら、アルノは自分が修繕屋であることを話した。
二十三歳の時、急がなくてよいと言われた木箱を三日間ほとんど見ず、想定より大きな傷みがあることへ気づくのが遅れて、納期へ間に合わせられなかったこと。
それからは依頼を受けたら、早い段階で状態を見るようになったこと。
そこまではよかったはずなのに、いつからか確認だけでは安心できなくなり、預かった仕事全部へ少しずつ手をつけるようになったこと。
最近では二十件以上の依頼が店へ残り、急ぎの鞄修理まで客を待たせたこと。
悠斗はしばらく聞いた後で尋ねた。
「昔の木箱って、受け取った日に中を確認してたら間に合ったんですよね?」
「多分。少なくとも木が割れてるって分かってれば、次の日には始めた」
「今は、受け取ったら状態を見る?」
「見る」
「必要な部品がなかったら?」
「その日に頼む」
「乾かすのに二日かかるなら?」
「納期から逆算して始める」
「なら、昔と同じ失敗はもうかなり防げてません?」
アルノは止まった。
「でも確認したなら、そのまま少し進めた方が確実だろ」
「全部の仕事を?」
「できるところまで」
ミレイアが尋ねた。
「一日に終わる量より多くても?」
「途中まで進めておけば、次の日が楽になる」
「そのせいで今日中の仕事が遅れたこともあるんですよね」
「ある」
「なら、明日のための仕事が、今日の仕事を邪魔してることもあるんですね」
言われればその通りだった。
「でも明日、急な依頼が入ったら困る」
アルノは言う。
「予定が崩れることはあります」
悠斗が答える。
「じゃあ予定立てても意味ないだろ」
「崩れたら組み直すための予定でもあるんじゃないですか?」
「それだと結局、後へ回るものが出る」
「期限までに間に合えば駄目なんです?」
アルノは返事ができない。
仕事は早い方がいい。
そう思っている。
ただし客が、
「来週でいい」
と言っている箱を今日半分直したせいで、
「今日必要」
と言われた鞄を遅らせるのは、明らかに順番が逆だった。
悠斗は硬い二つの時差実を指した。
「これも、今日煮ることはできます。でも今日やらないと悪くなるわけじゃない。むしろ待った方が良さそうです」
「仕事は果物と違う」
「違います。でも、全部に『今やる必要があるか』って考えるのは使えそうですね」
アルノは完熟した実をもう一切れ食べた。
何も加えていない。
何も煮ていない。
それでも五つの中で、一番甘い。
前回自宅で全部を同じ鍋へ入れた時、自分はこの実まで硬い果実へ合わせて煮崩した。
今使う必要がないものを使っただけでなく、すでに良い状態だったものへまで余計な時間をかけていた。
「俺、昔の失敗を防ぐために、今は反対へ行きすぎてる?」
「その可能性はありそうですね」
悠斗はそれ以上決めつけなかった。
「受け取った日に状態を見ることと、受け取った日に修理を始めることは、別にしてもよさそうです」
その言葉を、アルノは店へ持ち帰った。
◇
翌朝、《つぎはぎ修繕所》へ入ったアルノは、モーラに頼んで依頼札を全て机へ並べてもらった。
二十三件。
改めて一枚ずつ読む。
数だけ見れば多い。
しかし、その二十三件が全て同じ状態にあるわけではない。
今日中に必要なものが二件。
二日以内が三件。
今週中が六件。
来週以降が五件。
部品待ちが四件。
客から返事を待っているものが三件。
「部品待ちは、部品が来るまで何もできない」
アルノが言った。
モーラが眉を上げる。
「今さら?」
「分かってはいた」
「作業台に置いてたけど」
「今日から棚へ戻す」
部品待ちの品を、依頼札と一緒に専用棚へ移した。
客から返事を待っている三件も別の場所へ移す。
それだけで作業台がかなり広くなった。
「店、こんなに広かったか?」
エトが言った。
「余計なこと言うな」
次に今日中の二件を作業台へ置く。
一つは鍋の木取っ手。
もう一つは子ども用の小椅子だった。
今週中の依頼も気になる。
アルノは札へ目をやる。
必要な材料はすでに確認済み。
乾燥時間も問題ない。
今日始めなくても納期へ間に合う。
「この二件から終わらせる」
アルノが言う。
モーラが尋ねる。
「今週中の六件は?」
「今日はやらない」
口に出すと、少し落ち着かない。
自分の店に預かっているのに、目の前へ出さない。
仕事があるのに手をつけない。
何かを怠けているように感じる。
それでも、まず鍋の取っ手へ集中した。
古い固定具を外し、取っ手の木部へ割れがないことを確かめた上で、新しい木片を削って隙間へ合わせる。金具を締め直し、実際に鍋へ水を入れた程度の重さを掛けても取っ手が動かないことまで確認すると、その依頼は昼前に完成した。
いつもなら途中で別の依頼へ移っている時間だった。
続けて小椅子へ取りかかる。
ぐらつきの原因は脚そのものではなく、座面下の横木が少し緩んでいることだった。必要な部分だけを外して接合面を掃除し、木栓を作り直して固定した後、乾燥時間へ入れる。
そこまで進めたところで昼になった。
「次、何します?」
エトが尋ねる。
アルノは二日以内の札を見る。
三件ある。
その中に、革を湿らせて馴染ませる工程が必要な鞄があった。
「これを今日始める。残り二件は明日」
「今から二件とも始められますよ?」
「始められる。でも今日始める必要はない」
自分へ言い聞かせるように答えた。
その日の夕方、完成した鍋を客へ返し、小椅子も乾燥を終えて仕上げまで済ませた。鞄だけが、革を馴染ませるため一晩置く状態になっている。
作業場に途中のものは一つしかない。
「何か、変だな」
アルノが言う。
「何が?」
モーラが聞く。
「店が空いてる」
「それが普通」
その日は閉店後の片づけも早く終わった。
アルノ自身、普段より身体が楽なことへ気づいていた。
◇
翌朝、予定していた二件の仕事へ取りかかる前に、急ぎの依頼が入った。
近くの商店から、
「入口扉の取っ手が外れた。客が来るから、夕方までに何とかしてほしい」
という相談である。
以前なら、予定していた二件も同時に少し始め、
「どれも遅れないように」
と考えただろう。
アルノは依頼札を見た。
二件とも期限は明後日。
材料も揃っている。
明日一日あれば間に合う。
「扉を先に行く」
エトと工具袋を持ち、商店へ向かった。
現場で確認すると、取っ手そのものではなく、扉側の木部が少し割れている。
埋め木が必要だった。
店を閉めるわけにはいかないため、仮の取っ手を別位置へ付け、客が使える状態にしてから本補修へ入る。割れた部分を整え、木片を埋め、十分固定した後で元の位置へ金具を戻した。
予定より時間はかかった。
それでも夕方前には修理が終わった。
修繕所へ戻る。
残り時間を見る。
明後日期限の二件を両方始める必要はない。
一件だけ、短時間で下準備できるものへ取りかかった。
もう一件は翌日へ回した。
翌日、二つとも約束より早く完成した。
予定は急な依頼によって崩れた。
それでも、全部を今日へ詰め込まなくても納期には間に合った。
その経験はアルノにとって大きかった。
予定を立てることは、予定外が起きないと信じることではない。
予定外が起きた時、何を動かせるか分かるようにすることでもある。
◇
とはいえ、長年の癖が数日で消えるわけではなかった。
来週受け取り予定の木箱を状態確認した時、蓋の右側へ小さな裂けを見つけた日がある。
修理方法は簡単だった。
傷んだ部分へ細い木片を入れ、膠で固定し、半日乾燥させればよい。
(今なら下準備だけ半刻でできる)
手が動きそうになる。
しかしその日の作業札には、夕方までに終えたい椅子が一脚残っている。
アルノは木箱の札へ、
『蓋右側に裂け。細木片補修。乾燥半日。木曜午前開始』
と書いた。
今日は月曜日。
受け取りは次の月曜日。
木曜日に始めても十分な余裕がある。
棚へ戻す。
椅子へ戻る。
ところが半刻ほどすると、
(木箱だけ先に膠へ入れておけば、木曜は仕上げだけで済む)
という考えが出てくる。
棚の方を見た。
モーラがすぐ気づいた。
「木箱?」
「木曜で間に合う」
「今日の仕事は?」
「椅子」
「なら椅子」
「子どもじゃないんだから分かってる」
「分かってる人は棚見ながら立ち上がらない」
アルノは椅子へ戻った。
木箱はそのまま棚にある。
翌日も何も起きない。
木曜日になり、予定通り棚から取り出して修理を始めた。
受取日の二日前には完成している。
何も問題は起きなかった。
こうした小さな経験を積み重ねるうち、アルノの中で、
「今やらない」
と、
「忘れて放置する」
が少しずつ別のものになっていった。
状態は見ている。
必要な作業も分かっている。
材料もある。
開始する日も決めている。
なら、今日は触らなくてよい。
◇
《持ち込み食堂》から持ち帰った硬い時差実も、自宅の棚へ置いたままにしていた。
数日後、皮の色を見る。
以前より黄色が増えている。
さらに二日置く。
指で軽く押すと、少し柔らかくなった。
切ってみる。
果肉から甘い香りが立ち、酸味はまだ少し残るものの、そのままでも十分食べられる。
「本当に、待つだけでよかったんだな」
残る一つはまだ硬い。
そこへ刃を入れず、さらに置く。
数日後、今度は仕事場へ持っていった。
三人の昼食後に切り分ける。
エトが食べながら聞いた。
「前に親方が煮たやつと同じ果物ですよね?」
「同じ」
「こっちの方が甘いです」
「何もしてない」
モーラが笑う。
「アルノには難しい調理法だね」
「最近はできるようになった」
昔なら、
「何もしない」
と言われると、怠けているように感じた。
しかし実際には、毎日状態を見ていた。
傷んでいないか確認する。
柔らかくなったか確かめる。
食べ頃へ来た時に切る。
今日加工しないと決めていただけである。
修繕所の棚に並ぶ依頼も同じだった。
札があり、期限があり、開始予定がある。
忘れているわけではない。
◇
夏の初め、修繕所へ本格的な繁忙期が訪れた。
近所の宿屋から客室椅子六脚。
薬房から薬箱三個の留め具交換。
伝令組合から鞄二個。
さらに雨続きの影響で、窓や扉の建てつけ相談が次々に入り、三日間で十件近い依頼が重なった。
以前なら、店の中へ全て運び込み、その日のうちに一度は触っただろう。
今回は朝一番で、三人が依頼札を机へ広げた。
「まず、使えないと客の仕事が止まるもの」
アルノが言う。
伝令組合の鞄は、翌日から使う。
これは早い。
「次、期限」
薬箱は五日後。
宿屋の椅子は、
「六脚全部を今週中に」
と聞いていたが、モーラが宿屋へ改めて確認すると、
「今週必要なのは二脚だけで、残り四脚は来週でも問題ない」
と分かった。
以前なら、六脚全部を店内へ広げていた。
今回は二脚だけ作業場へ入れる。
「窓の相談は?」
エトが札を見る。
一件は、雨が降るたび実際に室内へ水が入る。
当日確認が必要。
もう一件は、戸を閉める時に少し擦れるだけで、雨漏りもなく開閉もできる。
こちらは三日後で構わない。
アルノは札へ開始日を書き込んだ。
「雨漏りだけ今日見に行く」
「薬箱は?」
エトが聞く。
「明後日」
「椅子?」
「今週分の二脚だけ」
「伝令鞄は?」
「最初」
モーラが笑う。
「前なら全部『今日』だったね」
「前の話はいい」
仕事を始める。
まず伝令鞄二個を仕上げ、昼までに組合へ返す。
その後、宿屋の椅子一脚を分解したところ、想定していた接合部だけでなく座面裏にも細い裂けがあることへ気づいた。
修理時間が増える。
以前なら、
(遅れた分を今日中に取り戻さないと)
と休憩を削り、薬箱へも手をつけただろう。
今回は依頼札を見る。
薬箱は五日後。
一日開始をずらしても間に合う。
宿屋の椅子を先に確実に直す。
エトへ二脚目の状態確認だけ任せ、追加の傷みがないことを確かめてもらう。
夕方には一脚目の補修を終え、翌朝まで固定する状態へ入った。
薬箱は予定を一日ずらす。
それでも納期には余裕がある。
急な雨漏り相談も、その日のうちに窓枠へ仮補修を施し、晴れた日に本修理する予定を組んだ。
十件近い依頼が重なった週だったが、結果として一つも納期を超えなかった。
しかも、以前の繁忙期ほど夜遅くまで店へ残る日はない。
アルノは最終日の夕方、依頼札を見ながら不思議そうに言った。
「忙しかったはずなんだけどな」
モーラが答える。
「忙しかったよ」
「前より楽だった」
「全部同時にやらなかったからでしょう」
そこで初めて、アルノは身体でも理解した。
忙しいから全てを急ぐのではない。
忙しい時ほど、
「今やるべきもの」
を選ばなければ、本当に急ぐ仕事へ時間を使えなくなる。
◇
秋になると、最初に時差実をくれた農家が再び店へやって来た。
今度は椅子ではなく、収穫小屋の大きな戸についての相談だった。
「閉める時、少し持ち上げないと下へ擦るようになってきた。収穫本番は三週間後だから、それまでに見てもらえればいい」
以前のアルノなら、
「今日の夕方見に行く」
と言ったかもしれない。
今回は、まず状態を確認するための質問をした。
「今は開け閉めできる?」
「できるよ」
「雨は入る?」
「入らない」
「蝶番から変な音は?」
「少し鳴るけど、外れそうではない」
緊急性は低い。
ただし収穫本番までには必要。
アルノは店の予定を頭で確認した。
「明後日の午後に見に行く。金具だけが悪いのか、戸自体が下がってるのか確認する」
「今日じゃなくていいのか?」
農家が笑う。
「今日は今日の仕事がある」
「前は『急がなくていい』って言っても、その日のうちに何でも開けたがっただろ」
「状態は聞いた。明後日で困らない」
「そうか」
農家は満足そうに頷き、また小さな籠を置いた。
「今年の時差実。去年より出来がいいぞ」
中には、黄色く熟したものと、まだ少し緑を残したものが混じっている。
「全部一緒に煮るなよ」
「もうしない」
「本当か?」
「熟れてるのから食う」
農家が笑いながら帰っていった。
その日の閉店後、アルノは籠の実を状態ごとに大きく三つへ分けた。
今日食べられそうなもの。
二、三日ほど置けば良さそうなもの。
まだ硬く、もう少し時間が必要なもの。
並べた様子が、最近の依頼札に少し似ている。
アルノは一人で可笑しくなった。
◇
翌週、時差実をいくつか持って《持ち込み食堂》へ再び足を運んだ。
ミレイアが籠を見て気づいた。
「また時差実ですね」
「今年のやつ」
悠斗が一つずつ確認する。
「前より熟してるもの多いですね」
「俺もそう思う」
「今日はどうしましょう?」
以前なら、
「全部」
と答えた。
今回は、自分でも色と硬さを見た。
三つは十分柔らかい。
一つは少し硬い。
もう一つは緑色が強い。
「熟してる三つだけ使いたい。硬い二つは持って帰る」
悠斗が頷く。
「三つはどうします?」
「一つはそのまま食べたい。残り二つは料理できる?」
「できます」
一つは生のまま。
二つは白肉と合わせることになった。
悠斗は先に白肉へ焼き色をつけ、中心へ火を入れた後、最後の段階で熟した時差実を厚めに切って加えた。果肉を煮崩すほど長く火へ置かず、表面だけを軽く温め、出てきた甘い汁を肉汁と合わせて少量の塩と香草で整える。
《白肉と時差実の軽い焼き合わせ》が出来上がった。
果実の甘味が白肉の塩気へ合い、生で食べる時とは違う味になっている。
「前は硬い実へ合わせて、全部煮た」
アルノが言う。
「今日は熟してるものに合わせて料理できましたね」
「硬いやつを今日使わないって決めたからな」
「その方が作りやすいです」
ミレイアが聞いた。
「仕事もそんな感じになりました?」
「前よりは」
最近の修繕所について話した。
依頼を受けたら、状態確認はできるだけ早くする。
必要な部品や乾燥時間は先に確認する。
しかし実際に修理を始める日は、期限と客の困り方を見て決める。
「昔みたいに、何も見ずに後回しへ戻ったわけじゃないんですね」
悠斗が言った。
「それはしない。木箱の失敗は本当に俺が悪かった」
「じゃあ昔の失敗から必要なところだけ残したんですね」
アルノは少し考えた。
「前は、あの失敗を二度としないために全部急いでた。でもそのせいで、急いでる客を待たせてた」
「失敗を避ける方法が、別の失敗を作ってたんですね」
「そうらしい」
生の時差実を一切れ食べる。
今日食べ頃の実である。
硬い二つを無理にここへ合わせる必要はない。
◇
冬が近づく頃、見習いのエトへ、一日の仕事の振り分けを一部任せるようになった。
朝。
その日の依頼札を机へ並べる。
エトは受取期限を見て、
「これは明日。これは三日後。これは来週です」
と分けた。
アルノは尋ねる。
「期限以外は?」
「他にも見るんですか?」
「明日までのこれは何の修理?」
「椅子の脚です」
「材料は?」
「店にあります」
「乾燥時間は?」
「短いです」
「じゃあ明日でも間に合う。三日後のこれは?」
「窓の留め金です」
「同じ金具、店にあるか?」
エトが部品棚を確認する。
「一個だけあります」
「もし外してみて、もう一個必要だったら?」
「注文?」
「届くまで二日」
エトが少し考えた。
「じゃあ、窓の方は今日状態だけ見た方がいい?」
「そう。今日修理を終わらせる必要はないけど、部品が何個要るかだけ分かれば間に合う」
二人で窓金具を確認した。
外してみると、既存金具は二つとも摩耗しており、店にある一つだけでは足りない。
その日のうちに一個追加注文を出す。
状態確認を終えたら、窓は元の位置へ戻し、作業日まで棚へ置いた。
エトが言う。
「何か、ややこしいですね」
「俺も前は全部『早いか遅いか』だけで考えてた」
「急ぎじゃなくても、先に見るものがある?」
「ある。部品が遅いとか、乾燥が長いとか。でも、先に見たからって今日直すとは限らない」
「今日できるなら、今日やった方がよくないです?」
「今日の仕事を遅らせないならやってもいい」
「全部できそうなら?」
アルノは笑った。
「本当に全部終わるならな。途中を五個作るのは、全部やったことにはならない」
エトも笑った。
「親方、前それやってたんですよね」
「誰から聞いた」
「モーラさん」
「余計な教育されてるな」
そう言いながらも、アルノは怒っていなかった。
◇
ある冬の日、朝から雪が降った。
客足は少なく、予定していた修理も昼過ぎにはすべて終わった。
アルノは作業棚を見た。
来週受け取りの木箱がある。
三日後に始めれば十分な椅子もある。
客から取っ手の種類について返事を待っている戸棚もある。
以前なら、
(時間が空いてるなら、今できるものを少し進めよう)
と三つ全部へ手を出した。
今も、その考えは一瞬浮かんだ。
しかし木箱は状態確認済みで、材料も揃っており、開始日は二日後に決めている。椅子にも十分余裕があり、戸棚は客の返事がなければそもそも正しい作業ができない。
今日の予定は終わっている。
エトが尋ねた。
「次、何かやります?」
アルノは棚を見た後、作業台へ戻った。
「道具を整える。終わったら今日は早く閉める」
エトが驚いた。
「まだ明るいですよ」
「雪が強くなる前に帰れた方がいい」
モーラが笑った。
「ようやく普通のこと言えるようになったね」
「前から言えてた」
「言えてないから今言ってる」
三人で工具を掃除し、翌日使う刃物だけを取り出しやすい場所へ揃えた。
作業台には途中の依頼品が一つもない。
予定していた時刻より少し早く店を閉める。
それでもアルノは、
「仕事を残した」
とは感じなかった。
今日やると決めたものは、全て終わっている。
棚へ残った物には、それぞれ始める日が決まっている。
自分が忘れて逃げたわけではない。
◇
自宅へ戻ると、籠には時差実が二つ残っていた。
一つは昨日まで少し硬かったもの。
もう一つはまだ緑が強い。
最初の一つを軽く押してみると、ちょうどよい柔らかさまで来ている。
切ると甘い香りが立った。
夕食の後、そのまま食べる。
十分に熟れている。
もう一つには刃を入れず、棚へ戻した。
以前のアルノなら、
(せっかく果物を切ったのだから、もう一個も何とか食べよう)
と考えたかもしれない。
今は、まだその実の番ではないと分かる。
明日かもしれない。
三日後かもしれない。
傷ませないよう時々見て、食べ頃になったら食べればよい。
翌朝になれば、修繕所にはまた新しい依頼が来るだろう。
今日予定していなかった急ぎの修理が入ることもある。
その時は、予定を組み直せばいい。
予定を変えることと、全部を今日へ押し込むことは違う。
アルノは残った時差実を棚の奥へ忘れるように押し込むのではなく、毎朝状態を見られる位置へ置いた。
それから翌日の依頼札を一度だけ確認した。
朝一番で仕上げる椅子。
午後に状態を見に行く窓。
部品到着待ちの木箱。
客の返事が来るまで触らない戸棚。
それぞれに違う次の仕事がある。
だから、今夜その全てを頭の中で修理し始める必要はなかった。
アルノは依頼札を机へ伏せることなく、そのまま明日のために見える位置へ置き、まだ自分の番ではない時差実と同じように、今日やる必要のない仕事を今日の中へ引きずり込まず、その日の灯りを消した。
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