第1話 赤角兎と、辞めどきの話
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ガルド・ベインは三十五歳になる冒険者であり、レーヴェンの冒険者組合に所属してから十七年になる男だった。短く刈った焦げ茶色の髪と、何度も切り傷を作ってきた無骨な顔を持ち、左の眉からこめかみにかけて走る古い傷跡は、二十代の頃に森で魔獣と戦った時についたものである。
筋肉質ではあるものの、見せるために鍛えた身体ではなく、剣を振り、荷物を背負い、何日も野営しながら歩き続ける生活によって自然に作られた身体だった。革鎧にも何度も補修した跡があり、腰に下げている片手剣も高価な名剣ではないが、十五年以上使い続けてきたため、柄はガルドの手へ完全に馴染んでいる。
生まれたのはレーヴェンから数日離れた小さな農村で、父親は畑を耕し、母親は家畜の世話をしながら四人の子どもを育てていた。長男ではなかったガルドには農地を継ぐ予定がなく、十七歳の終わり頃、自分の腕だけで金を稼げる仕事に憧れて村を出た。
当時の彼にとって冒険者とは、知らない土地へ行き、魔獣を倒し、誰も見たことのない景色を見る仕事だった。
十八歳で初めて剣を買い、冒険者組合へ登録した日のことを、ガルドは今でも覚えている。
胸の奥には期待があり、それ以上に恐怖があった。
最初に小型魔獣と遭遇した時には足が震え、剣を握ったまま動けなくなった。同行していた年上の冒険者から逃げ道を先に見ろと怒鳴られ、その声に従って後ろへ下がったことで、ようやく身体が動いた。
それから十七年が経った。
今では赤角兎程度の魔獣を見ても、恐怖より先に間合いと逃走方向を確認できる。
けれど、昔はあれほど新鮮だった冒険者という仕事そのものに、最近のガルドは以前ほど心を動かされなくなっていた。
◇
その日の昼過ぎ、ガルドは城壁都市レーヴェンの西区を歩いていた。
右手には一羽の《赤角兎》を下げている。
赤角兎は草原や街道沿いに生息する小型魔獣で、名前の通り額から一本の赤い角を生やしている。兎と呼ばれてはいるものの、大きさは普通の兎よりはるかに大きく、成獣なら小型犬ほどにもなる。
肉は食用になり、皮も安価な防寒具へ使えるため、冒険者にとっては珍しくない獲物だった。
ガルドが持っている個体は血抜きまで済ませてあり、討伐直後から冷やしているため状態も悪くない。
それにもかかわらず、彼は市場へ向かわなかった。
向かったのは、西区の外れにある一本の路地だった。
最近、その場所に妙な店ができたという話を組合で聞いたからである。
◇
石造りの二階建ての建物に、小さな木製看板が掛かっていた。
《持ち込み食堂》
その下には、さらに小さな文字でこう書かれている。
《あなたの食材、料理します。》
「本当に何でも持ち込ませる気かよ」
ガルドは呟きながら扉を開いた。
店内は決して広くない。
四人掛けの卓が四つ、二人掛けの卓が一つあり、その奥には六人ほど座れそうなカウンターが延びている。
まだ開店して間もないためか客は多くなく、昼時を過ぎた店内には一人の老人が座っているだけだった。
「いらっしゃいませ」
声をかけたのは、店で給仕をしている若い女性だった。
ミレイア・フォルンという二十歳の人間で、栗色の髪を肩の辺りでまとめ、動きやすい茶色の服の上から前掛けを着けている。人懐こい性格で、初対面の相手にもあまり物怖じしないところがあり、この店が開いてからは悠斗と共に客の相手をすることが増えていた。
「持ち込みですか?」
「ああ」
ガルドが赤角兎を持ち上げる。
「こいつを料理できるか?」
「店主に確認しますね」
◇
厨房から現れたのは、二十八歳の人間の男だった。
名は鏡悠斗。
黒い髪と黒い瞳を持ち、この世界では少し珍しい顔立ちをしている。
数か月前、レーヴェンから離れた草原で一人倒れていたところを旅人に発見され、その後この街へ流れ着いた男だが、自分がどこから来たのかについてはあまり話したがらない。
剣も使えず、魔術にも詳しくない。
その代わり、料理についてだけは妙に多くの知識を持っていた。
見慣れない食材を前にしても、最初から知っているふりをすることはせず、匂いや繊維、脂のつき方、火へ当てた時の変化を確かめながら食べ方を考える。
その姿勢をそのまま店の仕組みにしたのが、《持ち込み食堂》だった。
「赤角兎、ですか?」
悠斗はガルドが持ってきた獲物を見た。
「知ってるのか?」
「名前だけは聞きました。でも、自分で料理するのは初めてです」
「食えるぞ」
「それは確認したいです」
悠斗は赤角兎を受け取る前に、いくつか尋ねた。
「毒がある部位は?」
「ない」
「内臓も食べる?」
「肝は食う奴がいる。今回は抜いてある」
「血抜きは?」
「済ませた」
「倒してからどれくらいです?」
「三時間くらいだ」
「冷やしてました?」
「氷石を入れた袋でな」
悠斗はそこでようやく頷いた。
◇
「状態を見て問題なければ料理できます」
「最初から食えるって言ってるだろ」
「俺、この世界の食材全部知ってるわけじゃないので」
「料理人なのに?」
「料理人だから確認するんです」
ガルドは少し怪訝な顔をしたあと、肩をすくめた。
「好きにしろ」
悠斗が赤角兎を厨房へ運ぼうとすると、ミレイアが尋ねた。
「一人分でいいですか?」
「ああ」
「今、四人掛けの席しか空いてないので、他のお客さんと相席になるかもしれません」
「構わん」
ガルドは空いている卓へ腰を下ろした。
座った途端、身体から力が抜けた。
朝から歩いていたせいだと思ったが、それだけではないことを本人も分かっている。
◇
「酒はあるか」
「ありますけど、食事の前から飲みます?」
「冒険者なら普通だ」
「仕事終わりですか?」
「今日はもう終わりだ」
ミレイアが薄い麦酒を持ってくる。
ガルドは杯を半分ほど一気に飲んだ。
「今日は何の依頼だったんです?」
ミレイアが何気なく尋ねる。
「街道沿いの草原調査だ」
「一人で?」
「新人を一人連れてた」
「教える側?」
「そんな大層なもんじゃない。組合に頼まれただけだ」
ガルドは少し嫌そうな顔をした。
「十八のガキだ。まだ登録したばかりらしい」
「何かあった?」
ミレイアが聞いた。
「別に」
ガルドはそう答えたものの、杯を置く音が少し強くなった。
◇
草原調査そのものは、難しい依頼ではなかった。
街道から少し外れた場所を歩き、危険な魔獣の痕跡や崩落、盗賊の野営跡がないかを確認して戻る。
新人が経験を積むにはちょうどよい依頼であり、組合もそのつもりでガルドを同行させた。
午前中までは何も問題がなかった。
新人も緊張しながらガルドの指示を聞き、獣の足跡や風向きを確認していた。
問題が起きたのは、帰路へ入ってからだった。
丈の高い草の中から、一羽の赤角兎が突然飛び出したのである。
◇
赤角兎は小型魔獣とはいえ、額の角で突進されれば大怪我をする。
しかし、冒険者が落ち着いて対処すれば、難しい相手ではない。
ところが新人は、赤角兎が自分へ向かってくるのを見た瞬間、握っていた剣を地面へ落とした。
声も出さず、その場で身体を固めた。
ガルドが横から入り、一撃で赤角兎を仕留めたため怪我人は出なかった。
そこで終わればよかった。
問題は、その直後だった。
「向いてない。辞めろ」
ガルドは新人へそう言った。
新人はしばらく何も答えなかった。
やがて落とした剣を拾いながら、低い声で尋ねた。
「ガルドさんは、最初から怖くなかったんですか」
ガルドは考える前に答えた。
「俺とお前は違う」
◇
その言葉を口にした直後から、ガルドの胸には妙な引っかかりが残っていた。
十八歳だった自分も、最初の魔獣を前にして動けなかった。
剣こそ落とさなかったが、恐怖で足が震えたことは今でも覚えている。
それなのに新人へは、そのことを言わなかった。
「何かあった顔してますよ」
ミレイアが言う。
「顔で分かるのか」
「分かりやすいです」
「余計なお世話だ」
「喧嘩した?」
「喧嘩じゃない」
「じゃあ?」
「少し言いすぎたかもしれん」
ガルドは残った麦酒を飲んだ。
◇
「謝る?」
「何で俺が」
「言いすぎたんですよね?」
「危なかったのは事実だ」
「それと謝るのは別じゃないですか?」
「お前、給仕のくせに遠慮がないな」
「よく言われます」
ガルドが何か返そうとしたところで、店の扉が開いた。
入ってきたのは、ガルドよりかなり年上に見える男だった。
右脚を少し引きずりながら歩いている。
名はザック・ローウェン。
かつてはレーヴェンの冒険者組合で長く活動していた男で、今では現役を退いている。
◇
ザックは若い頃から剣士として各地を渡り歩き、魔獣討伐だけでなく護衛、遺跡探索、山岳地帯の調査まで多くの仕事を経験してきた。
特別な英雄として名を残したわけではない。
それでも長く生き残り、仲間を何度も連れ帰ったことで、古い冒険者たちからは堅実な男として知られていた。
引退した理由は年齢ではない。
数年前、山間部での護衛依頼中に谷へ滑落し、右脚をひどく傷めたからだった。
治癒術によって日常生活を送れる程度には回復したものの、以前のように長時間走ることはできず、不整地を何日も歩く冒険者としての活動を続けるのは難しくなった。
今でも剣を振ることはできる。
だからこそ、自分から辞めたという感覚を持てずにいた。
身体の一部が先に「もう同じやり方では続けられない」と決めてしまったような引退だった。
◇
その日、ザックが持ってきたのは《黄鈴茸》という黄色い茸だった。
細い茎の先に釣鐘のような傘がつき、火を通すと香りが強くなる食用茸である。
「持ち込みだ」
ザックが言う。
「分かりました」
ミレイアが店内を見る。
「すみません、今空いてるのがあちらだけで」
示されたのはガルドの卓だった。
「構わん」
ザックが答える。
「お前は?」
ガルドも頷いた。
「好きにしろ」
ザックは向かいへ座り、腰を落ち着けた。
「冒険帰りか?」
赤角兎を見て尋ねる。
「終わったところだ」
「赤角兎とは随分平和な仕事だったな」
「新人同行だ」
「なるほど」
◇
悠斗は黄鈴茸も確認すると、赤角兎と合わせて料理に使えると判断した。
赤角兎の肉は脂が少なく、このまま強く焼けば硬くなりそうだったため、一口大に切って表面だけ軽く焼き、黄鈴茸と根玉葱を加えて煮込む。
そこへ乳酪を溶かし、肉の少ない脂を補いながら全体をまとめることにした。
「二人分、まとめて作っていいです?」
悠斗が尋ねる。
「俺は構わん」
ザックが答える。
ガルドも頷いた。
「茸代はどうする」
「少しくらいなら俺が出す」
「そういう意味じゃない」
「なら食え」
ザックはそれ以上気にしなかった。
◇
「新人と何かあったのか」
料理を待つ間、ザックが尋ねた。
「何で分かる」
「新人同行って言った時の顔が嫌そうだった」
「皆、今日は顔を見るな」
「分かりやすいんだろ」
ガルドは少し迷ったあと、赤角兎との一件を話した。
剣を落としたこと。
自分が代わりに仕留めたこと。
そして、「向いていないから辞めろ」と言ったことまで。
ザックは途中で口を挟まずに聞いた。
「それで?」
「それだけだ」
「新人は何て?」
「俺は最初から怖くなかったのかと聞いた」
「何て答えた」
「……俺とお前は違う」
ザックが一瞬だけ目を細めた。
◇
「格好つけたな」
「うるさい」
「最初から怖くなかったのか」
「そんなわけないだろ」
「なら同じじゃねえか」
「同じじゃない。俺は剣を落とさなかった」
「それは今の話か、十八の頃の話か」
ガルドは黙った。
「最初の仕事で魔獣に出会った時、どうだった」
「動けなかった」
「剣は?」
「握ってた」
「動けなかったなら、似たようなもんだ」
「違う」
「違いはあるだろうな。でも、最初から違ったわけじゃない」
ザックは淡々と言った。
◇
「俺は別に、あいつを冒険者にしたいわけじゃない」
「なら辞めてもいいと思ってる?」
「向いてないならな」
「本当に向いてないと思うのか」
「魔獣見て剣落とす奴だぞ」
「一回で?」
「一回でも死ぬ仕事だ」
「それは正しい」
ザックはすぐ認めた。
「じゃあ何が言いたい」
「辞めた方がいいかどうかと、お前が一回見ただけで決められるかどうかは別だ」
ガルドは眉を寄せた。
「お前なら続けさせるのか」
「知らん」
「知らんのかよ」
「本人を見てないからな」
◇
その返答に、ガルドは少し言葉を失った。
「お前、昔はもっと何でも答える奴だっただろ」
「歳を取ると、知らんことを知らんと言えるようになる」
「便利な逃げ方だ」
「便利だぞ」
ザックは笑った。
「でも、一つ聞くなら、お前はそいつに辞めてほしいのか」
「危ないなら辞めた方がいい」
「そうじゃない」
「何が違う」
「お前自身が、そいつにもう来てほしくないと思ってるかって聞いてる」
ガルドは答えられなかった。
◇
厨房から、肉と茸を煮る匂いが広がってきた。
黄鈴茸は火を通すことで木の実にも似た香りを出し、乳酪と混ざると濃い匂いへ変わっていく。
「俺は、引退する時に選べなかった」
ザックが突然言った。
ガルドが顔を上げる。
「脚か」
「ああ」
「今も剣は振れるだろ」
「振れるだけならな」
「護衛くらいできるんじゃないか」
「街中ならできる。教える仕事も、組合の受付補助も、探せば他にもある」
「ならやればいい」
「俺がやりたかったのは、それじゃなかった」
ザックは自分の右脚を見た。
◇
「朝に街を出て、山を越えて、知らない場所で野営して、何がいるか分からない土地へ行く。それが俺にとって冒険者だった」
「他の仕事は嫌か」
「嫌というより、同じじゃない」
「じゃあ何もしてないのか」
「今はいろいろ考えてる」
「何を」
「俺が冒険者の何を好きだったのかをな」
ザックは静かに笑った。
「昔なら、剣を振れなくなった時点で全部終わったと思ってた。でも、今はそこまで単純でもない気がしてる」
「随分悠長だな」
「選ぶ時間があるからな」
◇
「選べる時に悩める奴は、少し羨ましい」
ザックが言った。
ガルドは杯へ伸ばしかけた手を止めた。
「何の話だ」
「お前だよ」
「俺?」
「新人のことだけでそんな顔してるわけじゃないだろ」
「分かったようなこと言うな」
「十年以上やってる奴が、赤角兎一羽で昼から飲む顔じゃねえ」
ガルドはザックを睨んだ。
しかし、本気で怒る気にはなれなかった。
「最近、仕事がつまらん」
しばらくして、ガルドは低く言った。
◇
「つまらん?」
「依頼を受ける。歩く。獲物を倒す。帰る。酒を飲んで寝る。それをまた次の日にやる」
「昔は?」
「面白かった」
「今は?」
「嫌いじゃない」
「じゃあ何が問題だ」
「それが分からん」
ガルドは乱暴に髪を掻いた。
「森へ入るのは今でも嫌いじゃない。剣を振るのも嫌いじゃない。魔獣を追うのだって、別に苦じゃない」
「でも続けたい理由が分からない?」
「そうだ」
「辞めたい?」
「……それも分からん」
◇
「なら、今決めなくてもいいだろ」
ザックが言った。
「簡単に言うな」
「選べるんだろ」
「いつまでも悩んでられる歳じゃない」
「三十五だろ」
「若くはない」
「明日死ぬ予定でもあるのか」
「ない」
「なら今日全部決めなくてもいい」
ザックは水を飲んだ。
「続けるか辞めるかを決める前に、何に疲れてて、何ならまだやりたいのかを分けた方がいいんじゃないか」
「そんなきれいに分かれるか」
「知らん。俺もまだ分けてる途中だ」
◇
「だったら偉そうに言うな」
「経験談だ」
「まとまってない経験談だな」
「人生なんてそんなもんだろ」
ザックが笑う。
その時、悠斗が二人分の皿を運んできた。
「お待たせしました」
深い皿には、赤角兎の肉と黄鈴茸、根玉葱が乳白色の煮汁に包まれている。
「《赤角兎と黄鈴茸の乳酪煮込み》です」
「赤角兎に乳酪か」
ガルドが匙を取る。
「合わなかったらすみません」
「先に謝るな」
「初めてなので」
「そうだったな」
◇
赤角兎の肉は脂が少ないものの、弱火で煮たことで硬くなりすぎず、黄鈴茸の香りと乳酪の濃さが淡白な肉を補っている。
根玉葱の甘さも加わり、狩った直後に塩を振って焼くだけの食べ方とは随分違っていた。
「うまいな」
ガルドが言った。
「赤角兎ってもっと硬いと思ってました」
悠斗が答える。
「焼きすぎると硬い」
「じゃあ今回はよかった」
ザックも黄鈴茸と一緒に肉を食べる。
「茸も悪くないな」
「自分で持ってきたんでしょう」
「いつもは焼くだけだからな」
◇
悠斗は二人の会話へ積極的に入ってはいなかったが、途中から事情はある程度聞こえていた。
「新人さん、何が怖かったんです?」
悠斗がガルドへ尋ねる。
「赤角兎だろ」
「どこが?」
「どこって」
「角なのか、急に出てきたことなのか、向かってきたことなのか」
ガルドは少し黙った。
「聞いてない」
「じゃあ分からない?」
「……分からん」
「それなら、練習するところも決められないですよね」
「お前まで新人を続けさせる気か」
「俺はその人知らないので」
「今日そればっかりだな」
◇
「ただ、俺なら何が苦手だったのかは聞くかなと思っただけです」
「それで怖くなくなるのか」
「分かりません」
「役に立たんな」
「料理人なので」
悠斗はあっさり認めた。
ガルドは煮込みを食べながら、十八歳だった頃の自分を思い出した。
初めて魔獣を見た時、何が怖かったのか。
牙でも爪でもなかった。
自分が何をすればいいのか分からなかったことが怖かった。
当時同行していた年上の冒険者は、戦えとは言わなかった。
先に逃げ道を見ろと言った。
◇
逃げる方向が分かると、少しだけ恐怖が減った。
その次に相手を見る余裕ができた。
さらに何度か同じ程度の魔獣と遭遇して、ようやく剣を前へ出せるようになった。
「……俺も最初は怖かった」
ガルドが呟いた。
「知ってる」
ザックが言う。
「お前には話したことないだろ」
「十八の新人が怖くない方がおかしい」
「そういうもんか」
「全部じゃない。最初から平気な奴もいる」
「じゃあ、あいつは向いてないかもしれない」
「そうかもしれん」
ザックは否定しなかった。
◇
「でも、それを決めるのは今日じゃなくてもいいんじゃないか」
「死んでからじゃ遅い」
「だから危険な依頼へ出すな」
「練習させろって?」
「それもお前が決めることじゃない」
「じゃあどうしろってんだ」
「本人に聞けよ」
ガルドは黙った。
「続けたいのか、怖くてもう嫌なのか。続けたいなら何が怖かったのか。そこまで聞いてから、お前が思うことを言えばいい」
「面倒だな」
「人に辞めろと言うなら、そのくらい面倒見てもいいだろ」
◇
食事を終える頃には、ガルドの酔いも最初より落ち着いていた。
問題が解決したわけではない。
新人が冒険者に向いているかどうかも分からず、自分自身がこの先何年冒険者を続けたいのかも分からない。
ただ、一つだけ分かったことがある。
自分は今日の新人に腹を立てた。
剣を落としたことへ怒ったのは事実だった。
しかし、それだけではない。
怖くて動けなくなった十八歳の青年を見た時、昔の自分を見せられたようで腹が立ったのかもしれない。
それを認めたくなくて、「俺とお前は違う」と言った。
◇
「明日、組合へ行く」
ガルドが言った。
「いつも行くだろ」
ザックが返す。
「新人を探す」
「謝る?」
「言い方は謝る」
「辞めろって言ったことは?」
「まだ分からん」
「それでいいんじゃねえか」
「お前に許可されたくない」
「なら聞くな」
「聞いてない」
二人は最後までそんな調子だった。
会計を済ませると、ガルドは店を出た。
ザックはまだ黄鈴茸の残りを使った料理を少し食べてから帰るらしく、卓に残った。
◇
翌朝、ガルドは冒険者組合の前で昨日の新人を見つけた。
青年は掲示板から少し離れた壁際に立ち、依頼票を眺めるでもなく、腰の剣へ何度も触れていた。
ガルドを見ると、表情が固くなる。
「昨日のことだが」
「はい」
「先に謝る」
青年が驚いた。
「剣を落としたことは危なかった。それは今でもそう思ってる」
「はい」
「だが、向いてないから辞めろと一回で決めたのは早かった」
ガルドは一度言葉を切った。
「言い方も悪かった。すまん」
◇
「ガルドさんが謝るんですか」
「俺だって謝ることくらいある」
「珍しいんですか」
「知らん」
青年の緊張が少しだけ緩んだ。
「一つ聞く」
「はい」
「昨日、何が一番怖かった」
「赤角兎です」
「だから、その何がだ」
青年は少し考えた。
「急に出てきたことです」
「角じゃなく?」
「角も怖かったです。でも、草が動いたと思った時には、もうこっちへ向かってきていて」
「それで頭が真っ白になった?」
「はい」
◇
「剣の使い方忘れた?」
「剣どころか、逃げることも忘れました」
「なるほどな」
ガルドは昨日の自分を思い出した。
「俺も最初は怖かった」
青年が顔を上げた。
「でも昨日、俺とお前は違うって」
「あれは格好つけた」
「……はい?」
「聞こえなかったか」
「聞こえました」
「なら二回言わせるな」
青年は少し笑った。
「俺は剣こそ落とさなかったが、最初の魔獣を前に動けなかった」
「本当に?」
「嘘ついてどうする」
◇
「その時、先輩に教えられたことがある」
「何ですか」
「相手を倒す前に、逃げ道を見ろ」
「逃げ道?」
「怖くて頭が止まるなら、まずどこへ逃げられるかだけ決める。それが分かれば、少しだけ余裕が出る」
ガルドは組合の外にある訓練場を指した。
「今日の午後、暇か」
「はい」
「一回だけ付き合う」
「何に?」
「草むらから何か出た時の練習だ」
「教えてくれるんですか」
「一回だけだ」
◇
「弟子にする気はないぞ」
「分かりました」
「それでも続けたいのか」
青年はすぐには答えなかった。
「怖いです」
「そうか」
「でも、昨日みたいに何もできないまま辞めるのも嫌です」
「なら一回やってから考えろ」
「はい」
「それでまた駄目なら?」
「その時考えます」
「そうしろ」
ガルドはそれ以上励まさなかった。
向いていると保証することも、絶対に続けろと言うこともしなかった。
自分にもそんなことは分からないからだった。
◇
午後の練習では、ガルドは木剣を持たせる前に、訓練場のどこから外へ出られるかを青年へ確認させた。
次に、草束の陰から袋を突然転がし、反射的に身体が止まった時には、剣を抜くより先に横へ動くよう教えた。
何度か繰り返すうちに、青年は最初ほど完全に固まらなくなった。
それでも動きは遅い。
これだけで実戦へ出せるとは到底思えない。
「遅い」
「はい」
「周り見えてない」
「はい」
「でも昨日よりはましだ」
「本当ですか」
「少しだけな」
青年は嬉しそうにした。
「喜ぶほどじゃない。明日になったらまた固まるかもしれん」
「はい」
「だから続けるなら練習しろ」
◇
練習が終わったあと、ガルドは組合の依頼掲示板を見た。
普段なら、報酬の高い討伐依頼か数日かかる護衛依頼を探すところだった。
その日は少し違った。
明日も青年が訓練するなら、一日中山へ入る仕事を受ければ戻れない。
だから街道の状態を確認する半日だけの依頼を選んだ。
報酬は高くない。
危険も少ない。
昔のガルドなら、わざわざ選ぶことのなかった仕事だった。
「それ受けるんですか?」
受付の職員が少し驚いた。
「悪いか」
「いえ。ガルドさんならもっと上の依頼を選ぶと思ったので」
「今日はこれでいい」
◇
依頼票を受け取ったあと、ガルドは腰の剣へ触れた。
十七年間、ほとんど毎日のように同じ剣を持って仕事へ出てきた。
昨日までは、今日も冒険者だから剣を持つのだと思っていた。
いつからか、自分が選んで持っているのか、ただ昨日まで持っていたから今日も下げているのか、その違いさえ考えなくなっていた。
冒険者を辞めるのかもしれない。
あと十年続けるのかもしれない。
別の仕事をしながら剣だけは振り続ける可能性もある。
今のガルドには、まだどれも決められなかった。
それでも、少なくとも今日一日については、自分で決めることができる。
半日の依頼へ出る。
午後までに戻る。
明日は、怖くて剣を落とした新人へもう一度訓練をさせる。
その先は、その後で考えればよかった。
ガルドは剣の柄から手を離すと、昨日より少しだけ自分の足で歩いている感覚を確かめながら、半日の仕事が待つ街道へ向かっていった。
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