番外編:【おばあちゃんのおじいちゃんにも言えない独り言】
私はこの秋、三陸から「東京の娘の近くに住むのはどうか」と言われて下見に行ってきた。
そもそも我が家は大勢の妹弟がいて、私はその長女だった。小学校も中学校も家の手伝いや子守がほとんどで、戦争中だったこともあり、特に勉強なんてできなかった。その当時はそれが当たり前だと思っていた。中学を卒業してからは集団就職で、当然のように東京へと働きに出された。
お給料はほとんど実家に送られ、内気だった私は寿司屋の下働きや接客業まで手伝わされた。同じ屋根の下には雇い主の同じ歳の娘さんがいて、彼女が華やかに高校へ通っている間に、私は彼女の洗濯から家のことまで何でもやらされた。お客様には言葉もなかなか通じず、「ジュース」と言っても「ズース」と言っているように聞こえるらしく、とても苦労した。惨めで、嫌でたまらない期間だった。
そのうち姐やとして働くようになり、主人とお見合い結婚をして、ずっと東京で暮らしてきた。しかし、結婚前も結婚した後も、実家から続々やってくる妹たちの面倒を見させられ、母や妹たちは当然のように私にすべてを押し付けた。彼女たちは自立の目処が立つと好き勝手に生き、何かあるとすぐに私たちのところに相談を持ちかけた。
品川から多摩ニュータウンへと移り、「このままここで骨を埋めるのかな」と思っていた矢先、あの東日本大震災がやってきた。
それまで実家は弟が継ぐものと思っていたが、弟のお嫁さんと母の性格が合わず、弟はマグロ漁船を降りて家族と一緒に東京へ住むことになった。それからは母が1人で三陸の実家に残ったが、大震災が起きてしばらく連絡がつかなくなった。ようやく連絡がついたのは1週間も経った頃で、主人と話し合い、私たちは東京からUターンして実家に帰ることを決意した。
「ほっとけばいいや」「自分には関係ない」「私があのとき帰りたかったときは受け入れてくれなかったくせに、今更頼られても困る」――そう思ったことも確かだ。
それでも、長年染みついた長女気質がどうしても抜けず、義務感に負けてしまった。
もともと生まれ育った地元とはいえ、中学生卒業の頃からずっと東京にいた私には、馴染むのに大変な苦労があった。母がいたおかげで地域のコミュニティには受け入れてもらえたし、主人も横浜生まれの横浜育ちなのに、努力して私の地元に寄り添ってくれた。
そんな苦労をしたのに、母はそれから何年も経たずになくなってしまった。本当はすぐにでも東京に帰りたかった。けれど、もう東京には自分たちの拠点がなく、居場所がなかった私たちは、そのまま実家に暮らすことになった。
主人が社会でいろいろと苦労してきた人だったので、「実家に帰るなら、後々揉めないように名義を君に変えておいた方がいい」とアドバイスしてくれた。妹弟に相談したところ、大震災の後ということもあり特に異論は出ず、家を私の名義にすることができた。そのため、母が亡くなってからもそのまま気兼ねなく暮らせはしたのだが……。
歳を重ねるにつれ、主人と2人でこの不便な場所にいることがだんだんと大変になってきた。主人がいまだに車を運転してくれるから、買い物や病院、役場にも行けているけれど、あと何年できるかわからない。自治体の乗り合いタクシーもある。事前に予約が必要なだけでありがたいけれど、やはり気軽には乗れない。
そんな中、2年前の夏から孫が来るようになり、そこから私たちの止まっていた時間が動き出した。
そして今年の夏、孫が東京に帰る前の日に、娘から「東京の自分の近くに住むのはどうか」と提案された。
実際問題、この歳になってまた新たな生活や人間関係を作るのはきついと思った。けれど、「今動かなければ、この先この場所で生きていくのはやっぱり大変じゃないか」という思いもあり、前向きに考えようと思った。主人も最初は渋っていたが、横浜生まれの人間らしく、一度決心すると早かった。
秋になり、娘婿が単身赴任先から一時期帰国するタイミングで、みんなで迎えに来てくれた。こういうチャンスはなかなかないと、何年ぶりかで東京へ赴いた。
娘が想像以上に下準備をしてくれていて、スムーズに私たちのこれからの暮らし方や物件を見学することができた。昔と違って、私たちのような高齢者にも住みやすい環境が揃っていて、自然と前向きになれた。
見学のあとは、昔住んでいた品川と多摩ニュータウンにも足を伸ばした。
品川は昔の面影がすっかり消え、ただ高速道路の圧迫感だけが昔のままだった。住んでいた家の痕跡すらなく、時の流れに寂しさを覚えた。
一方、多摩ニュータウンはあまり変わっていなかった。小学校の名前こそ変わっていたものの、建物自体には大きな変化がない。ただ、私たちが暮らしていた頃は細かった植えたばかりの木々が立派な大木になっていて、やはりここでも長い年月が流れたことを実感した。
今回は娘婿もいろいろと協力してくれ、娘も安心している様子で本当によかった。遠くに離れていて、単身ふにんの留守宅を1人で守っている娘に今まで全然協力できなかったから、こうして元気に暮らす家族の姿を見られて少し安心できた。
……あとは、この家をどうするかだ。
私は、はっきり言って、もうこの家はどうでもいいと思っている。
あまり良い思い出がない。ずっとこき使われて働かされていた。誰にも言えないけれど、本当はこの場所が好きではなかった。なくなっても構わない。
東京が辛くて帰りたかったのに、母は「長男至上主義」の田舎の人そのもので、長女としての責任ばかり求められ、与えてもらえるものは何一つなかったような気がする。
こんな本音は、主人にだって言えなかった。
だから、東京に戻るのは本当はとても嬉しい。その機会をくれた孫や娘夫婦には、心から感謝している。
この家が私たちの代で朽ちてしまうとしても、それも時の流れだと思える。残りの人生は、少しでも便利なところで、穏やかに暮らしたい。
これが、私の心からの本音だ。




