死体の名前③
王城を出た頃には、空は薄く白み始めていた。
雨上がりの王都は静かだった。石畳にはまだ水溜まりが残り、灰色の空をぼんやり映している。馬車の車輪が、濡れた石畳をゆっくり軋ませた。
ルシアンは窓の外を見つめながら、小さく息を吐く。眠気はない。だが、頭の奥に雨の噴水が焼き付いて離れなかった。
笑う死体。血のない身体。そして、水面に映ったあの女。
向かい側では、セレネが静かに資料へ目を落としている。深い紺色のドレス。白い指先。窓から差し込む朝の光が、長い黒髪を青く照らしていた。
相変わらず、人形みたいな女だとルシアンは思う。感情を滅多に見せない。冷たい。近寄りがたい。
なのに。
ふと馬車が揺れた瞬間、甘い香りが微かに漂った。花の香りだった。強くはない。けれど、静かな雨の匂いに混ざると妙に印象へ残る。
セレネらしくない香りだ、と昔は思っていた。今ではもう慣れてしまったが。
「……何ですか」
視線を上げないまま、セレネが言う。
「いや」
ルシアンは窓へ視線を戻した。
「お前、昔からその香りだなと思ってな」
一瞬、セレネの表情がわずかに歪んだ。本当に一瞬だけ。だが確かに、何かを誤魔化すみたいに、彼女は静かに視線を伏せる。
「……そうですか」
それだけだった。だが、ルシアンはなぜか、その短い返事が妙に耳へ残った。
馬車は静かに王都を進んでいく。朝の街は、本来なら穏やかな時間のはずだった。市場の準備を始める商人。通りを掃く使用人。焼きたてのパンの匂い。
だが今朝は違う。
通りを歩く人々が、どこか落ち着かない。小声で囁き合い、水溜まりを避けるように歩いている者までいた。
噂はもう広がり始めている。
「早いな……」
ルシアンが呟く。
「人は恐怖を好みますから」
セレネが静かに答えた。
「好んでるようには見えないが」
「怖いものほど、人は話したくなるんです」
彼女は窓の外を見る。
「特に、自分が安全な場所にいると思っている時は」
ルシアンは眉を寄せた。
「まるで経験したことがあるみたいな言い方だな」
一瞬、セレネの視線が揺れた気がした。だが彼女はすぐ、何事もなかったように目を伏せる。
「……気のせいでは?」
誤魔化した。ルシアンは確信する。
最近、彼女はこういう顔を時々する。何かを知っている。だが語らない。まるで、言えない理由でもあるように。
やがて馬車が緩やかに止まった。
「殿下、学院へ到着しました」
御者の声。ルシアンは外套を羽織り直し、馬車を降りる。
朝靄の中、巨大な石門がそびえ立っていた。
王立学院。
高い石壁の向こうには、尖塔と古い時計塔が見える。まだ朝の鐘は鳴っていない。だが敷地内では、すでに生徒たちが動き始めていた。
寮から出てきた貴族子女たちが、眠たげな顔で講堂へ向かっている。その一方で、学院の空気は妙だった。
ざわついている。
生徒たちが小声で囁き合い、何度も中庭の方向を振り返っていた。
「……もう広まってるな」
ルシアンが低く呟く。近くを通った女子生徒たちが、慌てて口を閉ざす。
だが。
「本当に血がなかったんですって……」
「水鏡の魔女よ……」
囁きは完全には隠しきれていなかった。
その時だった。
ばしゃっ、と近くで水音が響く。一人の女子生徒が、水溜まりを避け損ねたらしい。
だが、その瞬間、周囲の生徒たちが一斉に悲鳴を上げた。
「きゃっ……!」
「み、水に触った……!」
女子生徒は真っ青な顔で立ち尽くしている。ただ、水に触れただけなのに。
ルシアンは眉を寄せた。
「……もうここまで来てるのか」
「ええ」
セレネは静かに答える。
「恐怖は、人の思考を簡単に壊しますから」
その声は冷静だった。だが、彼女の視線だけは中庭の奥へ向けられている。
まるで、死体以外の何かを探しているように。




