表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

4/32

死人の名前①

王城へ戻った頃には、空が白み始めていた。


夜明け前の薄青い光が、長い廊下の窓から差し込んでいる。ルシアンは外套を脱ぎながら、小さく息を吐いた。眠気はない。だが、胸の奥に嫌な感覚だけが残っていた。


雨の噴水。笑う死体。そして、水面に映った女。


「……錯覚か」


そう呟いた時だった。


「殿下」


静かな声が背後から響く。振り返るまでもない。セレネ・ヴァルキュリア。彼女はすでに着替えていた。雨に濡れていた黒のドレスは消え、今は深い紺色の室内用ドレスに変わっている。長い黒髪も整えられていた。


つい先ほどまで、死体の前に立っていたとは思えないほど、完璧に。


夜明けの薄光の中に立つ彼女は、相変わらず人形じみて美しかった。白い肌。感情を映さない海色の瞳。その整いすぎた美貌は、時々ひどく冷たく見える。


「休まなくていいのか」


「殿下こそ」


「俺は慣れてる」


「私もです」


淡々と返され、ルシアンは苦笑する。昔からこうだ。彼女との会話は、時々討論会みたいになる。学園時代からずっと。


ルシアンは執務室の扉を開けた。


「で?」


椅子へ腰を下ろしながら問う。


「お前は何を調べるつもりだ」


「まずは被害者について」


セレネは当然のように室内へ入ってくる。その姿を見て、部屋にいた若い騎士がぎょっとした。


「え……」


まだ配属されたばかりなのだろう。年若い騎士だった。


「ヴァルキュリア侯爵令嬢……?」


彼は戸惑ったようにルシアンを見る。


「なぜ捜査会議に……」


瞬間、部屋の空気が止まった。古参の騎士たちが、揃って微妙な顔をする。やがて一人が、呆れたように口を開いた。


「お前、知らないのか」


「え?」


「セレネ様は殿下の補佐役だ」


「ほ、補佐役……!?」


騎士は目を見開く。無理もない。普通、貴族令嬢が王族の捜査へ関わることなどあり得ない。だが学園卒業後、気づけばセレネは当然のようにここにいた。


情報整理。証言分析。貴族間の調整。時には騎士団より早く、事件の核心へ辿り着く。


「手伝っていただいているのですか……?」


新人騎士が恐る恐る尋ねる。セレネは少しだけ考えるように目を伏せた。


「手伝っているつもりはありません」


「は?」


「効率が悪いので、口を出しているだけです」


部屋が静まり返る。ルシアンは思わず額を押さえた。


「お前はもう少し言い方を考えろ」


「事実ですよ」


悪気が一切ない声だった。古参騎士たちは、慣れたように苦笑している。新人騎士だけが青ざめていた。


ルシアンは小さく息を吐く。


「で、被害者の身元は」


一人の騎士が書類を差し出した。


「レイモンド・グラディス伯爵です」


その名に、セレネの睫毛がわずかに揺れる。ルシアンは見逃さなかった。


「昨夜は?」


「ローディア公爵家主催の夜会へ参加していたとのことです」


その瞬間、セレネの視線が静かに落ちる。ほんの一瞬。だが、何かを考えた顔だった。


「最後に確認されたのは?」


「夜会終了後、一人で帰宅したところまでは」


「家族構成は」


「妻と娘が一人。息子はいません」


セレネは少しだけ考えるように目を伏せた。


「事業は?」


「は?」


騎士が目を瞬かせる。


「最近、投資に失敗したという噂が」


別の騎士が書類をめくりながら答えた。


「領地経営もあまり順調ではなかったとか……」


「借金は?」


静かな声だった。部屋が少し静まる。


「……現在確認中です」


ルシアンは椅子にもたれ、小さく息を吐いた。


「お前、最初からそっちを疑ってるな」


「怪異より人間の方が現実的です」


セレネは淡々と言った。


「特に、人が恐怖を利用する時は」


その言葉に、部屋の空気が少し重くなる。ルシアンは椅子にもたれた。


「だが、水鏡の噂はもう広がっている」


「ええ」


騎士の一人が嫌そうに顔をしかめる。


「今朝だけで、怪談話が十件以上……」


「早いな」


「怪談は広がるのが早いんです」


セレネが静かに言った。海色の瞳が、どこか遠くを見る。


「特に、人が死んだ後は」


ルシアンは、昨夜の水面を思い出す。長い黒髪。赤い唇。あれは本当に、見間違いだったのか。


その時だった。


ばんっ、と執務室の扉が勢いよく開かれる。


「殿下!!」


騎士が息を切らして飛び込んできた。


「第二の被害者が見つかりました!」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ