死人の名前①
王城へ戻った頃には、空が白み始めていた。
夜明け前の薄青い光が、長い廊下の窓から差し込んでいる。ルシアンは外套を脱ぎながら、小さく息を吐いた。眠気はない。だが、胸の奥に嫌な感覚だけが残っていた。
雨の噴水。笑う死体。そして、水面に映った女。
「……錯覚か」
そう呟いた時だった。
「殿下」
静かな声が背後から響く。振り返るまでもない。セレネ・ヴァルキュリア。彼女はすでに着替えていた。雨に濡れていた黒のドレスは消え、今は深い紺色の室内用ドレスに変わっている。長い黒髪も整えられていた。
つい先ほどまで、死体の前に立っていたとは思えないほど、完璧に。
夜明けの薄光の中に立つ彼女は、相変わらず人形じみて美しかった。白い肌。感情を映さない海色の瞳。その整いすぎた美貌は、時々ひどく冷たく見える。
「休まなくていいのか」
「殿下こそ」
「俺は慣れてる」
「私もです」
淡々と返され、ルシアンは苦笑する。昔からこうだ。彼女との会話は、時々討論会みたいになる。学園時代からずっと。
ルシアンは執務室の扉を開けた。
「で?」
椅子へ腰を下ろしながら問う。
「お前は何を調べるつもりだ」
「まずは被害者について」
セレネは当然のように室内へ入ってくる。その姿を見て、部屋にいた若い騎士がぎょっとした。
「え……」
まだ配属されたばかりなのだろう。年若い騎士だった。
「ヴァルキュリア侯爵令嬢……?」
彼は戸惑ったようにルシアンを見る。
「なぜ捜査会議に……」
瞬間、部屋の空気が止まった。古参の騎士たちが、揃って微妙な顔をする。やがて一人が、呆れたように口を開いた。
「お前、知らないのか」
「え?」
「セレネ様は殿下の補佐役だ」
「ほ、補佐役……!?」
騎士は目を見開く。無理もない。普通、貴族令嬢が王族の捜査へ関わることなどあり得ない。だが学園卒業後、気づけばセレネは当然のようにここにいた。
情報整理。証言分析。貴族間の調整。時には騎士団より早く、事件の核心へ辿り着く。
「手伝っていただいているのですか……?」
新人騎士が恐る恐る尋ねる。セレネは少しだけ考えるように目を伏せた。
「手伝っているつもりはありません」
「は?」
「効率が悪いので、口を出しているだけです」
部屋が静まり返る。ルシアンは思わず額を押さえた。
「お前はもう少し言い方を考えろ」
「事実ですよ」
悪気が一切ない声だった。古参騎士たちは、慣れたように苦笑している。新人騎士だけが青ざめていた。
ルシアンは小さく息を吐く。
「で、被害者の身元は」
一人の騎士が書類を差し出した。
「レイモンド・グラディス伯爵です」
その名に、セレネの睫毛がわずかに揺れる。ルシアンは見逃さなかった。
「昨夜は?」
「ローディア公爵家主催の夜会へ参加していたとのことです」
その瞬間、セレネの視線が静かに落ちる。ほんの一瞬。だが、何かを考えた顔だった。
「最後に確認されたのは?」
「夜会終了後、一人で帰宅したところまでは」
「家族構成は」
「妻と娘が一人。息子はいません」
セレネは少しだけ考えるように目を伏せた。
「事業は?」
「は?」
騎士が目を瞬かせる。
「最近、投資に失敗したという噂が」
別の騎士が書類をめくりながら答えた。
「領地経営もあまり順調ではなかったとか……」
「借金は?」
静かな声だった。部屋が少し静まる。
「……現在確認中です」
ルシアンは椅子にもたれ、小さく息を吐いた。
「お前、最初からそっちを疑ってるな」
「怪異より人間の方が現実的です」
セレネは淡々と言った。
「特に、人が恐怖を利用する時は」
その言葉に、部屋の空気が少し重くなる。ルシアンは椅子にもたれた。
「だが、水鏡の噂はもう広がっている」
「ええ」
騎士の一人が嫌そうに顔をしかめる。
「今朝だけで、怪談話が十件以上……」
「早いな」
「怪談は広がるのが早いんです」
セレネが静かに言った。海色の瞳が、どこか遠くを見る。
「特に、人が死んだ後は」
ルシアンは、昨夜の水面を思い出す。長い黒髪。赤い唇。あれは本当に、見間違いだったのか。
その時だった。
ばんっ、と執務室の扉が勢いよく開かれる。
「殿下!!」
騎士が息を切らして飛び込んできた。
「第二の被害者が見つかりました!」




