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感情を持たない婚約者は怪異の真実を知っている 〜第三王子と月夜の怪異事件録〜  作者: 葉月うみ
第1章 水鏡の魔女

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水鏡の死体②

 雨音の中、セレネの声だけが静かに響いた。


 一瞬、誰も言葉を発せなかった。やがて騎士たちが顔を見合わせ、困惑したようにざわめき始める。


「し、しかしですね…ヴァルキュリア侯爵令嬢」


「傷一つありません」


「こんな死に方、人間にできるわけが」


 怯えた声が重なる。セレネは騒ぎ立てる騎士たちを見ようともしなかった。ただ静かに、死体の右手を持ち上げる。


「灯りを」


 短く告げると、騎士の一人が慌ててランタンを近づけた。雨に揺れる炎の橙色が、死人の灰色の指先を照らす。皮膚の白さがランタンの光を吸い込み、爪の白濁した縁だけが、わずかに反射した。そこで初めて、ルシアンは違和感に気づいた。爪の隙間に、黒ずんだ泥のようなものが入り込んでいる。光に照らされて、その黒が、ただの汚れではなく、しっとりと湿気を含んだ重さを持っていることが分かった。


「……土か」


「ええ」


 セレネは淡々と答えた。


「ですが、王都の土ではありません」


「分かるのか」


「王都の土は赤みが強いんです」


 彼女は指先についた泥を軽く擦った。


「これは水辺特有の黒土ですね。湿り気が強い」


 ルシアンは眉を寄せた。この噴水広場は貴族街の中心だ。石畳で整備されており、土や泥が入り込むような場所ではない。


「つまり、この男は別の場所で死んだ」


「可能性は高いです」


 セレネは死体の靴へ視線を落とす。


「靴底の濡れ方も不自然です」


 ルシアンも視線を追った。服は雨で濡れている。だが死体が履いている革靴は、雨に濡れただけとは言えない。まるで浅い水辺に浸かっていたように濡れていた。革のつやが完全に死に、底の縫い目に黒い水が滲んで、足首のあたりまで色が深くなっている。雨で上から濡れたなら、こうはならない。下から、長い時間をかけて、水に浸かった靴だった。


「運ばれた死体……」


 騎士の一人が呟く。その声には、まだ拭いきれない恐怖が滲んでいた。


 セレネは今度は死体の腕を持ち上げ、静かに袖をめくった。重く濡れた礼装の布地が、肘の内側で皺になり、めくる手の動きに合わせて鈍く音を立てる。青白い腕が露わになる。その白さは異常だった。生きた人間の肌ではない。血の気を失ったというより、身体の内側を丸ごと空にされたような色だった。皮膚の下にあるはずの筋の動きも、脂肪の柔らかさも、何かが欠けたまま、ただ白い表面だけが残っている。


 そこで、ルシアンは小さな傷に気づく。肘の内側に、針穴のような、わずかな痕があった。ランタンの光を近づけなければ見落としてしまう、ほんの一点。けれど、その縁だけが、まわりの灰色と違って、ごく薄く赤茶けて固まっていた。


「血液を抜かれた痕跡です」


 騎士たちが息を呑む。


「ぜ、全部抜かれているのですか……」


「そんなこと、人間に」


「血が無くなっていますが完全ではありません」


 セレネは静かに言った。


「ですが、ほぼ全て失っていると思われます」


 ルシアンは改めて死体を見る。灰色の唇。乾いた皮膚。異様な軽さ。まるで人の形だけを残し、中身を空にされたようだった。


 セレネは、笑ったままの死体を静かに見下ろした。雨水が、死人の頬をゆっくり流れていく。


「……不自然ですね」


「何がだ」


「表情です」


 彼女は淡々と言った。


「ここまで急激に血液を失えば、人はまず苦痛で顔が歪みます」


 白い指先が、死体の頬に触れる。


「ですが、この方は違う」


 男の口元は、幸福な夢でも見ているように吊り上がっていた。背筋を、雨より冷たいものが伝う。


「苦しんで死んだ顔ではありません」


 セレネの海色の瞳が、静かに細められる。


「まるで、何かを見ながら死んだみたいですね」


 雨音だけが、静かに広場へ落ちていく。ルシアンは無意識に、噴水へ視線を向けた。


 揺れる水面。雨粒が次々と落ちて、波紋が幾重にも重なり、そのたびに水面に映る鏡が乱れた。鏡が静まる一瞬の合間。そこに映る自分の顔。眉の下に落ちる影。濡れた前髪の毛先。その隣に、長い黒髪の女が立っていた。青白い肌。血のように赤い唇。水面に映っているはずなのに、女の輪郭だけが、雨の波紋に乱されていなかった。女は笑っている。死体と同じ、不自然な笑みで。


 息が止まる。


 瞬きをした瞬間、水面には何もなかった。ただ雨だけが、静かに落ちている。指先がいつのまにか、外套の縁を強く握っていた。冷たい水を含んだ布地が、掌の中で重く沈んだ。


「……殿下」


 騎士の声に、ルシアンは我に返った。周囲を見る。誰も気づいていない。ただ一人、セレネだけが、静かに水面を見つめていた。


 感情の見えない横顔。だが彼女は、小さく呟く。


「何かを起こそうとしているのですね…」


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