水鏡の死体①
雨が降っていた。
王都アルヴェリアの石畳を濡らす夜の雨は静かで、けれど妙に冷たかった。
ルシアン・アルヴェリアは黒い外套を翻しながら、騎士たちに囲まれた噴水広場へ足を踏み入れる。
深夜だというのに、人が集まりすぎていた。
貴族街で死体が見つかった。
その報せだけで十分だったのだろう。
「第三王子殿下!」
若い騎士が慌てた様子で駆け寄ってくる。
顔色が悪い。
「現場は?」
「こちらです……」
妙に歯切れが悪い。
ルシアンは眉を寄せた。
殺人事件など珍しくはない。
王都の治安を預かる以上、死体を見ることにも慣れている。
だが、今夜の空気は妙だった。
誰もが怯えている。
雨音ばかりが、
やけに大きく聞こえた。
騎士に導かれ、
噴水の前へ出た瞬間――ルシアンは足を止めた。
噴水の縁に、
一人の男が座るように倒れていた。
年は四十前後。
上質な濃紺の礼装は雨に濡れてなお高級品だと分かる仕立てで、胸元には銀糸で刺繍された家紋が刻まれている。
指には深紅の宝石を嵌めた印章指輪。
腰には儀礼用の短剣。
間違いなく高位貴族だった。
だが、その姿を見た瞬間、
ルシアンは息を呑んだ。
男の肌には、
一切の血色がなかった。
青白い、というよりも、
まるで蝋で作られた人形のようだった。
唇は死人特有の紫色すら通り越し、
灰色に近い。
指先まで色が抜け落ち、
血管の浮きもない。
人間の身体から、
本当に血だけを抜き取れば、
こうなるのではないか。
そう思わせるほど、
異様な死体だった。
なのに。
男は笑っていた。
頬は不自然につり上がり、
幸福そうに。
まるで死の直前、
何かに魅入られていたかのように。
ぞくり、と背筋が粟立つ。
「……死因は」
「わ、分かっておりません」
騎士が震えた声で答える。
「ですが、その……体内の血液が、ほとんど失われていて……」
「外傷はないな」
「はい……っ」
ルシアンは黙って死体を見下ろした。
傷一つない。
争った形跡もない。
なのに、
この死体はあまりにも空っぽだった。
ふと、
鉄臭い匂いが鼻を掠める。
血の匂いだ。
だが周囲には血痕一つない。
雨水だけが、
石畳を静かに流れている。
「……何を怯えている」
ルシアンが低く問うと、
騎士たちは顔を見合わせた。
やがて一人が、
恐る恐る口を開く。
「水鏡の魔女です……」
広場の空気が凍りつく。
「最近、王都で噂になっている怪談です」
「どんな話だ」
「水面に本当の顔を映された者は、死ぬ、と……」
くだらない。
そう切り捨てるには、
騎士たちの怯え方が異常だった。
「被害者は死ぬ直前まで、ずっと噴水を見ていたそうです」
「それで怪異だと?」
「し、しかし殿下……!」
騎士は震える指で噴水を指差した。
雨粒が水面を揺らしている。
その中に。
一瞬だけ。
死体の顔が、
泣いているように見えた。
ルシアンは目を細めた。
次の瞬間には、
ただの水面に戻っている。
「……錯覚だ」
そう言ったものの、
胸の奥に小さな違和感が残った。
騎士たちはまだ死体に近づこうとしない。
ルシアンは小さく息を吐く。
「セレネを呼べ」
その名が出た瞬間、
騎士たちの表情が微かに変わった。
安堵。
そして、
わずかな緊張。
「すでに使いを出しております」
「なら早いな」
そう言った直後だった。
広場の奥から、
静かな足音が聞こえた。
黒い外套。
夜を溶かしたような長い黒髪。
月明かりを浴びるたび、
濡れた夜のように青く光る。
深い海色の瞳は、
ほとんど光を映さない。
静かな海底を覗き込んでいるような、
冷たい色だった。
肌は驚くほど白い。
雪というより、
月光に近い。
冷たく、
触れれば消えてしまいそうな白さ。
整いすぎた顔立ちは、
美しいというより人形じみていた。
その完璧さが、
逆に人を遠ざける。
セレネ・ヴァルキュリア。
ルシアンの婚約者。
社交界では、
こう囁かれている。
――ヴァルキュリア侯爵令嬢は、人の形をした月だ。
セレネは死体を一瞥し、
静かに噴水へ近づく。
騎士の一人が慌てて止めた。
「セ、セレネ様! 危険です!」
「何がです?」
「水鏡の魔女が……!」
「怪異なら」
セレネは静かに言った。
「もっと上手く殺します」
場が凍りつく。
ルシアンは思わず苦笑した。
「相変わらず容赦ないな」
「事実です」
彼女はしゃがみ込み、
死体の指先に触れる。
細い指が、
死人の灰色の肌をなぞった。
海色の瞳が細くなる。
「……異常な貧血状態ですね」
「分かるのか?」
「ここまで血液を失えば、
通常は顔面が歪みます」
セレネは、
笑ったままの死体を見下ろした。
「なのに、なぜ笑っているのでしょう」
雨音だけが、
静かに広場へ落ちていく。
やがて彼女は、
ぽつりと言った。
「……殿下」
「何だ」
「これは呪いではありません」
セレネは水面を見つめたまま、
静かに告げる。
「人間が作った死体です」




