52話 狂乱(1)
――第三教区アシュトレル、聖地ヘレネケーゼ。
清浄な魔力に包まれた純白の祭壇。
建造物そのものが巨大な魔法装置として起動しており、穢れを退ける『聖域加護』を絶えず展開し続けている。
清浄な魔力によって包まれた大地は一切の穢れを寄せ付けない。
混沌の時代に誰もが求めて止まない"安寧"が、皮肉にも戦争の火種となってしまっていた。
「……始まってしまう」
陣営の中でシェーンハイトが呟く。
その剣で罪無き者たちを殺められるほど、以前のような盲目にはなれない。
騎士たちは極めて士気が高い。
語り継がれる聖女と共に聖地奪還の戦いを行うのだ。
敬虔な信徒として、これ以上ない誉れだろう。
「エルベット神教のために、ガルディア帝国を切り捨てる……それが教皇聖下やカルネ猊下の命とあらば、躊躇う理由などありませんよ」
騎士たちに指示を出しながら、エルヴィスは聖地を眺める。
ヘレネケーゼの『聖域加護』を第三教区全土に齎せたならば、きっと彼の名前も歴史書に残ることになる。
「……貴方は、死が怖くないのですか?」
多くの命が失われてしまうというのに。
シェーンハイトからすれば、嬉々として指揮を取っているエルヴィスが不思議でならなかった。
「まさか。僕は恐らく、誰よりも臆病者でしょうから」
エルヴィスは自嘲するように笑う。
それは本心のように見えた。
「混沌の時代……人間の命なんて安いもので、風が吹けば容易く飛んでいってまう。誰もが、その異常な世界に麻痺してきてしまった」
だからこそ、とエルヴィスは続ける。
「きっと吹いて飛ばされる前に、生きた証を残したいのだと……僕はそういう人間なのでしょう」
死の先に待っているものは何か。
――虚無だ。
意識は失われ、肉体は朽ち果て。
いずれ彼を知る者たちも同じ道を辿り。
存在の痕跡は薄れ消えて行く。
「消えたくない……なんて、そんな恐怖に囚われた愚か者です。大層な志があるわけでもない」
だからこそ、功績を上げる必要がある。
エルベット神教に心を捧げ、剣を振るうことに価値を見出だしたのだろう。
彼の心境の一端を知り、意志まで否定するほど残酷にはなれなかった。
シェーンハイト自身も共感してしまう部分があったからだ。
「補佐官に志願したのは、貴女の剣に憧れを抱いたから……そんな理由もありました」
エルヴィスは真面目な顔をして、シェーンハイトを見つめる。
「猊下の剣を迷わせるものは何でしょうか」
「迷い、ですか……」
即座に答えることは出来なかった。
躊躇っているわけではなく、言い淀んでしまうほどに心当たりが多すぎた。
剣の迷いを見透かされている。
エルヴィスだけでなく、カルネやアルピナにも。
枢機卿として剣を振るい続けるには心が揺らぎすぎている。
それこそ、大切に抱えていたはずの信仰心さえ曖昧な状態だ。
そんな思いが表情に出てしまっていたのだろう。
「貴女のそんな姿は見たくない……ッ」
エルヴィスは微かな苛立ちを見せる。
背中を追い続けてきたというのに、当の本人が道を見失ってしまったというのだ。
同時に哀れみを抱いていた。
確固たる信仰の下に剣を振るう――ただそれだけの事に、シェーンハイトは気付けないのかと。
邪教徒を討つだけでいい。
返り血で汚れようと構わない。
剣は信仰のために振るわれて初めて存在意義を持つ。
エルベット神教の威光を知らしめるため、命じられるがままに殺戮するだけでいい。
不必要に深く考える必要はないのだと。
「もし、迷いの種が信仰に不要なものであるなら――補佐官として斬り捨てて見せましょう」
エルヴィスは枢機卿候補として挙げられるほどに卓越した剣の才能を持つ。
本気を出した彼を相手に打ち合える者は少ない。
「斬り捨てては……いけません。これは私自身の問題です」
「いえ。猊下がこの戦いの中で迷いから脱しないのであれば――」
極めて冷徹な瞳で射貫く。
「――この剣で、全てを元通りにして見せましょう」
その宣言に絶対の自信を持っている。
事実として、エルヴィスは枢機卿に次ぐ実力者だ。
序列四位のシェーンハイトも、迷いがある状態で彼と渡り合うのは不安があるほど。
「勇猛で誠実な騎士ですね」
カルネが現れ、彼を讃え微笑む。
その顔を見ただけで、信徒誰もが命を賭した剣となることだろう。
「カルネ猊下。この剣で帝国を滅する姿を、間もなく御覧にいれましょう」
「期待していますよ、騎士エルヴィス・ヘズ・ハイラント」
名を偉大な聖女に呼ばれる誉れ。
滾る熱量が今にも溢れ出しそうになって、戦場に行き場を求めて唸っていた。
「はぁ……もう始まるの?」
眠たげな顔をして現れたのは、小柄な魔術師の少女――枢機卿序列二位『天魔』アルピナ・フェルメルタ。
怠惰なようでいて、その実は誰よりも努力を重ねてきた。
稀代の才と謳われる少女が、弛まぬ鍛練によってさらに力を高めこの場に臨んでいる。
「ふぁ……眠い。ちょっと休んでるから、必要な時に起こしてよね」
小さく欠伸をして、アルピナが離れていく。
相応の準備をしてきたのだろう。
眠たげな目の下には酷い隈ができていたが、それを語ることはしない。
直前まで、寝る間を惜しんで魔術の研鑽を積んできたのだ。
彼女の在り方こそ枢機卿に相応しい……と、シェーンハイトは羨んでしまう。
曇りの無い瞳で使命を果たすアルピナ。
その横に並ぶには、自分はあまりにも優柔不断に過ぎる。
同時に、妬ましく思ってしまう。
そんな彼女だからこそ教皇から信頼を得ているのだろうと。
「……ッ」
心に黒い感情が渦巻く。
同じ枢機卿だというのに自分はなんという体たらくだ。
剣を捧げるわけでもなく曖昧に。
聖地奪還の戦いにさえ、殺しへの忌避を抱いて。
挙げ句の果てに、敵対勢力であるはずのガルディア帝国の心配さえしてしまっている。
これが迷いだ。
盲目な信仰を失った者の絶望だ。
答えの無い迷宮に囚われ、縋るべき道標も見付けられない。
取り残されている間にも皆は信仰と共に歩んでいく。
異教徒を殺す事への抵抗感は拭えず、未だに覚悟を決められずにいる。
帝国を討つわけではない。
エルベット神教を諌めるわけでもない。
宙吊りにされた心が、救いを求めるように奥底から負の感情を溢れさせている。
「――シェーンハイト卿」
それをカルネは見透かしている。
だからこそ"私と似ている"などという悍ましい言葉を吐けたのだ。
両手をシェーンハイトの頬に添えて顔を覗き込み――。
「剣を取りなさい」
迷える子羊に道を示すように。
「欲するものを想像しなさい」
甘い声でそっと囁く。
「かつての自分を思い出しなさい」
人々を堕落させる悪魔のように。
「殺戮に溺れることこそ、貴女が救われる唯一の方法なのです」
目を妖しく光らせて嗤う。
心を黒く染め上げる不浄の力。
開花を後押しすることが、現世で最も惹かれる娯楽だった。
◆◇◆◇◆
「……想像以上に多いな」
戦地に集った者達を見てリスティルが呟く。
帝国のことではない。
エルベット神教のことだ。
聖地へレネケーゼを守るように、万を超える軍勢が陣を取って構えている。
よほど多くの戦力を投入したのだろう。
一都市のみが現存するガルディアとでは兵数に十倍近くの差があった。
「練度にも差がある。あいつらは本職だろうが、こっちは大半が民兵だ」
グレンは肩を竦め、自陣の戦力を見渡す。
相手は名高きエルベット神教だ。
その威光に背くような者はほとんどおらず、傭兵を雇い入れるにも限界があった。
武器類の質にも埋めようの無い差がある。
上等な金属鎧を身に付けた騎士達を相手に、なまくらを握った素人では大した仕事はできないだろう。
「だが、負け戦と決まったワケじゃねえ。そうだろ?」
「当然だ」
リスティルは笑みを浮かべて見せる。
とはいえ、具体的な打開策があるわけでもない。
鍵となるのは優れた個の存在だ。
もしこの場でグレンを好きに暴れさせたなら、生半可な数では押し潰せないだろう。
エルベット神教側にも枢機卿が控えているが、少なくともシェーンハイトは協力者だ。
戦争による被害を抑えるため、可能な限り動いてくれる手筈となっていたが――。
「……連絡が来ねえな」
間もなく開戦するというのに、シェーンハイトは何も行動を起こしていない。
本来であれば、通信魔道具を用いて情報交換をする予定だった。
「監視の目が多いのだろう。迂闊に姿を消せば怪しまれかねない」
「戦場でどうにか接触するしかねえか」
そう言いつつも、何故だか不安が渦巻く。
彼女のような優秀な人間が、そう簡単に予定から外れるような状況に陥るだろうか。
「……俺は、俺の仕事をするだけだ」
標的は『殉教者』カルネただ一人。
それ以外の犠牲は極力抑えるべきだ。
開戦を阻止できずとも、敵将を討てば撤退させることも可能だ。
熱に浮かされたエルベットの信徒達も、依代となる聖女を失えば統率は容易に崩れる。
「ねーえー、グレンー。わたしも戦うー」
「あ、ダメだってば!」
ユノがぱたぱたと駆けてきて、シズに咎められる。
戦場を駆け回るには彼女は幼すぎるだろう。
だが、ユノの言葉を即座に否定できなかった。
聖者の墓標で見せた彼女の魔術は常人の域に留まらない。
場合によっては、敵陣に控える枢機卿――『天魔』アルピナ・フェルメルタと撃ち合えるのではないかと思うほどに。
それでも幼子を連れ回すわけにはいかない。
戦場で生き延びるには未成熟に過ぎる。
「ユノは陣地に残って敵の動きを警戒してくれ。それと、魔法を使うときはシズに許可をもらえ」
「うん、わかった!」
グレンが視線を向けるとシズが頷く。
彼女にお守りを任せれば、陣地の外に飛び出すような危険もないだろう。
「それで、ヴァンには何を任せたんだ?」
「カルネの目論見を阻止するために、幾つか頼み事をな」
リスティルはへレネケーゼを指差し、その後に六ヶ所を指す。
「儀式方陣に必要なものは"供物"と"魔力"、そして"条件"の三つがある」
「そりゃ、この時代に廃れるわけだ」
十分な魔法の研鑽さえ積めない過酷な世界。
そんな中で、儀式方陣のために様々な物を用意する余裕などあるはずがない。
だが、それをエルベット神教は可能としている。
カルネの目論見を実現させるために、必要な素材等も容易く集められるのだろう。
「ヴァンには"供物"……聖地を取り囲むように設置されているであろう魔石の破壊を任せた」
儀式方陣の発動を阻止する。
カルネの目論見を潰す上では最優先事項だろう。
「それで止められるのか?」
「確実性はない。だが、効力を削ぐことは可能だ」
何を目的として戦争を引き起こしたのか。
その中で、どのような地獄を作り出そうというのか。
リスティルの未来予知でさえ枢軸の使徒を見通すことは叶わない。
儀式方陣が完成するまでカルネの目論見は不明瞭のままだ。
彼女の掲げている"救済"などという生易しい言葉では済まない。
多くの命が失われる戦争、そして儀式方陣。
その先にこそ、彼女が目指す本来の目的が隠されている。
「全てを暴き、阻まなければならない」
拳を固く握り締め、リスティルは敵陣を睨む。
聖女の名を騙る悪魔を殺さなければ……と、精神を研ぎ澄ませていた。
陣地の先頭ではラースヴァルドが演説を始めていた。
誰もが彼の言葉に心酔し、自らを鼓舞させるように声を上げている。
莫大な資源と武力を保有するエルベット神教。
痩せ衰えた帝国が対峙するには厳しい相手だろう。
それでも、この場に臨む皆が勝利を疑わずに剣を握っている。
「帝国の民よ」
濁りきった世界の中で、甦った一筋の希望。
灯火に縋るように集った者達が、共に心を燃やし尽くすよう声を上げている。
「誇り高き戦士達よ」
勝利のためならば。
此の戦いで命を落としたとしても構わない。
「決戦に臨み、そして後世に繋ぐのだ」
泥濘のような絶望と諦念を享受するよりも。
血肉を沸き立たせ、ラースヴァルド将軍の征く覇道の礎となることを望み。
「やがて訪れる夜明けに、ガルディアの旗を掲げるためにッ!」
翳し上げた剣に、数多の意志が呼応した。
彼我の戦力差は歴然。
それでも、開戦を前にした熱量はエルベット神教を上回る。
「誇りを抱き――蹂躙せよッ!」
ラースヴァルドが先陣を切って、帝国軍が後に続く。
熱き信念の奔流が、聖地奪還を目指して突き進んでいく。




