第四章 ブーケ⑩
「北浦さん、一度も菫子さんに触れていないんじゃないですかね」
田中さんの言葉に思わず「手を引いたりもですか?」と確かめるように聞いた。
「ああでも一度だけ——」
田中さんは今度は言い淀んで言葉を止めた。
「そうか、最期の時。菫子さんが手を繋いだのですね」
「はい」
田中さんの短い返答に、上田さんが隣で深く息を吐いた。
まるで何かを思い出すように深く、長く。
「北浦さんは入院を拒んで、さくらでの最期を望まれました」
田中さんの言葉は、ひとつひとつが重たいものだった。
部屋の中はまるで病室と変わらなかった。
ベッドの周りには様々な計器や呼吸器が備え付けられていた。
唯一違うのは、消毒液の匂いがしないことくらいだった。
部屋の主はもう、自ら身体を起こすことも叶わずベッドに身を横たえていた。
着替えの介助を終えた私が「日下さん、いいですよ」と言うと車椅子を押された菫子さんが入って来た。
「ごきげんよう、田中さん」
菫子さんはそう言って前を過ぎると、北浦さんのベッドの脇に止まった。
これが北浦将吉と菫子お嬢様の、最期の二週間の日課となった。
前夜からの微熱が続いていた。
明け方まで荒い呼吸が続いていたが、午前八時頃には小康状態となっていた。
いつものように菫子さんが見舞いに訪れ、夕方まで共に過ごす。
だが、この日の二人に午後は訪れなかった。
警報が騒がしくがなり立て、喘ぐような呼吸が聞こえた。
看護師や我々職員が慌ただしく動く中、菫子さんはそっと北浦さんの手を握った。
そして両手で包むように胸元に掲げた。
北浦さんはゆっくりと菫子さんへ顔を向けて、とても安らかな表情を浮かべて目を細めた。
廊下を走る靴音が聞こえた。
きっと常駐させた医師のものだろう。
不思議と今この場に最も不釣り合いに思えた。
北浦さんの右手が菫子さんの手から離れた。
ゆっくりと菫子さんへと、その指先を伸ばした。
菫子さんはその意図に気づいて、頭を近づけ低く下げた。
カタン——
北浦さんの指先は、虚空を彷徨うように落ちるとベッドの横を叩いた。
飛び込んできた医者が心臓マッサージを始めようとしたのを、菫子さんが止めた。
「——もう私だけだから」
まだ朝の光の名残を留めた部屋の中。
老女の小さな呟きが、恋の終わりを告げるようにそっと置かれた。
上田さんが目頭を押さえて離れて行った。
私は北浦将吉という男に、不思議な感情を覚えていた。




