第三章 椿㉗
膝と脛に当てられたガーゼから、消毒液の匂いが香った。
空港のショップで服とクレンジングを買った。
崩れた化粧なら素っぴんの方がマシだ。
そう思ったのだけれども、真一さんを前にすると俯いてしまった。
テーブルを挟んだ真一さんが、珈琲に手を付ける気配を感じた。
「先程、全て笹島さんから聞きました。憶測混じりでしたが——不器用な人ですね」
真一さんはそう言うと、溜息をついた。
「あの手紙ですが、忘れてください」
「......はい」
当然だ。
これは報いだ。
愚かな私が払うべき代償だった。
天候不良で遅れたフライトのお陰で起きた奇跡。
無事に真一さんの旅立ちを見送ることが出来た。
小さくなっていく機影をいつまでも見ていた。
翼の点滅が星の瞬きに紛れ消えても、その場を離れることが出来なかった。
あれから京ちゃんとは、もう一度話し合った。
辞める意思は変わらず、私にはそれを説得するつもりも無かった。
そして私も、京ちゃんの退職をもって店を畳んだ。
寒椿の散り際に花を開いた椿も、その花を落とす頃——
私がこの街を去る日を迎えた。
最後に真一さんと出会った店を見に行った。
通りから出てきたトラックが過ぎた向こうに、賑わいを見せる場所があった。
真新しい赤いテントの庇。
レンガ調の腰壁に、
新装開店の花輪が飾られ、オーナーになる女性が最終の指示を出していた。
「京ちゃん」
そう呼ぶと女性は振り向いて「藤さん!じゃなくて秀美さん」と駆け寄って来た。
「藤でいいわよ」
「じゃ、藤さん。今日、発つんですね」
「お互い新しい門出ね」
「でも本当に良かったんですか、何もかも」
京ちゃんが店を振り返って言った。
「辞める意思は変わらないわね、京ちゃん」
「はい。まだ教わりたいことは山ほど残ってますけどね」
あの晩——
私の問い掛けに京ちゃんは、そう答えた。
「そう、分かったわ」
私はそう言うと、真一さんのジャックダニエルを注いでカウンターに置いた。
私の分と二杯のロック。
京ちゃんの隣に腰を下ろした。
そして半身を捻ると、こう切り出した。
「ところで、私はこの店を畳もうと思っているの。誰か、いい後継者を知らないかしら?」
私はそう言って、目線の高さにグラスを掲げた。
空港で真一さんは、あの手紙は忘れろと言った。
そして「秀美の準備が出来たら一緒に世界を回ろう」と言って手を差し出してくれた。
迷いなど無い。
私は真一さんの手を取った。
——次の瞬間。
真一さんは私の手を引くと、自らの顔を近付けて唇を重ねた。
驚いて目を見開いた私だったけれど、見えた景色は滲んで見えるだけだった。
「嘘をついた仕返しです」
悪戯が見つかった子供のような顔で、真一さんは笑った。
「京ちゃん、貴女に継いで欲しいの」
私の準備はこれしかないと思った。
「もちろん看板は変えてくれて構わないわ」
「藤さん——」
二人きりの店内に、グラスのぶつかる音が短く響いた。
京ちゃんの視線の奥から、作業服姿の男性が出てきた。
右手には工具を握っていた。
「藤さんじゃないか」
「社長、ツケの先払いですか?」
「バカ言えよ」
社長は豪快に笑い飛ばした。
そして「賭けは俺の勝ちだな。なぁに、ツケにしておくよ」と言って、更に大きく笑った。
「四年後、夫と支払いに伺います」
私は深々と頭を下げた。
「楽しみに待ってるよ。なぁ、京ちゃん」
「じゃぁ......四年後もあるようにご贔屓にお願いしますね、社長」
「こりゃ敵わねぇな」
京ちゃんは頭を搔く社長に、片目を瞑って見せた。
高雄の空港に降り立った。
暖かい空気に驚きを覚えた。
つい数時間前まで着ていたコートはもう必要無い。
SIMを入れ替えたスマホに誘導されながら、空港ロビーに向かった。
漢字圏とはいえ心細い。
私は、受け取ったばかりのキャリーバッグを強く握り締めて歩いた。
逆光の中、大きく手を振るシルエットが見えた。
鼓動が駆け出した。
そうね、私はヴィオレッタとは違った。
彼の腕の中で迎える結末は、悲劇ではない。
-了-




