01 一日の終わり
ミアンナ・クネルとリーネ・フロウドが王国調律院ラズト支部にやってきて、およそ半月が経った。
彼女たちと支部員のやり取りも少しずつ日常のものになっていき、「出会ったばかり」のぎこちなさはほぼなくなってきた。
資料塔担当官ウィントンだけはいまだにびくついた態度を取るが、それは彼の通常状態で、殊更にミアンナを怖れている訳でもない。
ミアンナは統理官として主理術士として、時に書類を整え、時に町に出た。淡々としながらも誠実に対応してきたことで、支部員のみならず町の者たちにも「うちの統理官」というように思われ出してきた。
「ほら、これ。持っていきな」
ある日のことである。
どん、と籠がリーネの目の前に現れた。
「え、ええと?」
「理術士様はお忙しいんだろ。これでふたり分」
「あっ……はい! 有難うございます、マギーさん!」
リーネの力強い礼の言葉に、マギーことマグリタは肩をすくめて背を向けた。
庶務官であるマグリタは、業務上リーネと話すことはあるものの、ミアンナと直接話している姿はあまり見ない。だからと言って苦手にしているということでもなく、マグリタとミアンナは母娘ほどの年の差にもかかわらず、同じ支部で働く者として互いに敬意を抱いていた。
「でも最初はちょっと戸惑っちゃいました」
へへ、と理術士用執務室でリーネは照れくさそうに笑った。
「『理術士様はお忙しい』って、皮肉かと思っちゃって」
言いながらリーネは、ミアンナの仕事机の空いた場所に受け取った籠を置いた。
「林檎の酪層焼きですって。すっごくいい匂いしてます」
乳酪を練り込んで焼いた生地は、それだけでも食欲がそそられる。そこに甘い林檎のかすかに焦げた匂いが入り込むと、いますぐお茶の時間にしたくなるほど魅力的だ。
「この香りは、煮林檎」
「当たりです」
煮た林檎を使う方法と生の林檎を焼き込む方法があるが、前者だ、とミアンナは当てた。この「詳しさ」に、リーネも驚かなくなってきた。
「マギーさんの『お忙しいんだろ』は、『根を詰めてないで休憩した方がいい』なんですよね。前もお手製の焼き菓子くれましたし……ほんと、いい人です」
まるで「お菓子をくれるからいい人」と言っているかのようだったが、リーネの意図するところは「ミアンナを気遣ってくれるいい人」だ。
「区切りもいい。提案に従って休憩にしよう」
「やった、こっち片付けますね」
嬉々としてリーネは、部屋の中央にある大きな卓の書類を棚に移した。
「わ、刺し匙にお手拭きまで入れてくれてる。助かるなあ」
「そう言えば、イスト広報官に差し入れをしたら刺し匙をなくされたと話していたな。次の定期便に新しいものを入れてもらおう」
「お礼ですね! よかった、気になってたんです。……あれ、珍しい。マギーさんとお喋りしたんですか?」
「パトフ殿とマグリタ殿が話しているのを耳にしただけ」
「へえ、パトフさんもあんまり話してるのを見ないですけど、そのおふたりだと料理のこととか話すのかなあ」
彼女らがそんな話をしていたのは、通常の就業時間をとうに回った黄の刻の頃だ。
支部員たちの業務時間はあくまでも目安で、きりがよければ早く上がったり、逆に少し残ったりすることは自由だが、あまり遅くなることは推奨されない。休息を取れずに体調を崩せば、業務の均衡も崩れるからだ。
調律院の業務が乱れれば、各所への影響は大きい。個人の労働力に頼っては危うい、ということを調律院はよく判っていて、個人への負担がかかりすぎないよう、公務官たちを管理しているのだ。
だがこの日は、昼間に町で問題が発生し、理術士ふたりとその理報補官および理報官、更には上級連衛官、技術保全官まで出て解決に当たる事態になった。発端は住民同士のちょっとしたいざこざだったのだが、町の整備に関わる重要な式盤付近で喧嘩になったせいで式盤が壊れてしまったかもしれない、と。
最終的には、式盤の設置位置がずれて安全装置が働き、一時的に停止になっただけのことだった。しかし解決するまでは住民たちも現場に詰めかけ、まるで大祭のような大騒動だった。
急ぎの仕事がない者はゾランと相談して早めに上がらせたが、当のミアンナとゾランは今日中に仕上げてしまいたい件があり、一階の共有執務室と二階の理術士用執務室でそれぞれ残っている。
ミアンナはリーネにも上がっていいと言ったが、彼女は「ちょっとやることが」などと言って明日以降でも何も問題ない書類整理に手をつけており、ミアンナは理報補官のためにも手早く済ませたいところだった。
コンコン、と扉が軽く叩かれた。ふたりがそちらに顔を向けると、「失礼」と言ってゾラン上級連衛官兼副統理官が入ってくる。
「状況はいかがかな」
「もう終わる」
刺し匙を持ったままミアンナは答えた。それを見てゾランは少し笑う。
「マギー殿の差し入れか。私もいただいた。彼女が菓子を焼いて戻ってくるほど時間が経っていたとは気づかなかったな」
マグリタの業務は騒動の影響をほぼ受けなかったこともあり、彼女は定時で上がっていた。そのあとわざわざ酪層焼きを作って持ってきてくれたのだ。
「ゾラン殿も済まれたなら上がっていただいて問題ない。戸締りはこちらで確認しておく」
「かまいませんよ、どうせ階下で眠るだけですので」
二階にはミアンナとリーネの私室、一階にはゾランとジェズルの部屋がある。
「そう言えば、ゾランさんはおうちを借りないんですか?」
支部での寝泊まりが義務付けられているのは理術士のふたりだけで、連衛官や理報官は外に住居を借りられることになっている。
「赴任したての頃は借りたが、むしろ面倒だった」
ゾランは顔をしかめた。
「使うのは一部屋だけであるのに掃除は全ての部屋に必要だ。帰りが遅いと隣人が心配してくることもあった。有難いことだが、頻繁に夕餉などに誘われてな」
「ああー……」
赴任先の住民との交流は必要だが、公正に接することが望ましい。だが個人的に世話になることがあれば、人情として贔屓してしまうこともあるだろう。逆にきっちり公正を保てば、相手の方で「何だあいつ、面倒を見てやっているのに」と不満に思ってしまう可能性もある。
「そうか、理術士が調律院に篭りきりになりがちなのはそういう理由も……」
休日にもミアンナやジェズルはあまり外出しない。本部でもそういう理術士は多かった。それは何も性格的なものばかりではなかったのだ、と理報補官は気づいた。
「もっとも私の部屋は本来なら客間だからな。もし客人が二名あれば、ジェズルの部屋にしばし居候だ」
階級も年齢も上のゾランが居候などと言うのを聞いて、リーネは笑ってしまった。
「あ、ジェズルさんの部屋と言えば」
そこで彼女は思い出したように手を鳴らした。
「あの、下のお部屋って上より小さくありません? わたしの部屋の方が広いようで、少し気になってたんですけど……」
「ああ」
ゾランはそのことかとうなずいた。
「お気づきの通りだ。本来、二階の二室が理術士用として作られている」
「や、やっぱりそうなんですか!?」
「とは言え、ジェズルの性格ならどう考えるか、だいたい判るだろう」
「ええ?……あっ、もしかして」
「若い男女が隣室で寝泊まりするのはいかがなものか、と」
ニヤリとしてゾランは言った。
「それに、ジェズルが二階なら、リーネ殿と私が隣室になってしまう。それもどうもよろしくなかろうということになってな」
「ええ……ちょっと申し訳ないです」
「何の。あやつが勝手にやったことだ。無論、もし私の隣室がご希望であれば話を通すが?」
「えっ、あっ、ええと、このまま二階の部屋をお借りしておきます」
大人の冗談にリーネは苦笑いを見せた。ミアンナも一瞬だけ「これは理律違背に当たるかどうか」と考えたが、ミアンナの前で言っていることからも軽口なのは明らかであり、むしろリーネに遠慮させないための配慮であるとも理解できたので、ギリギリ許容内のものと判定した。
「済んだ」
ゾランとリーネの話を聞きながら酪層焼きと書類をどちらもしっかり片付けたミアンナは、籠を持って立ち上がった。
「ここは閉めよう。この籠はマグリタ殿の私物か」
「備品ではありませんな」
「では明日返しておく。ゾラン殿、施錠の確認は」
「これからです」
「ならば手分けして行おう」
「私がやろう」「いえ今日は私が」のやり取りになるのを見越して、ミアンナは提案した。ゾランは笑って承知する。
それは、町での騒動も含めたラズト支部の日常の、何と言うこともない一日の終わりだった。
そのはずだった。
ミアンナが背後の窓を施錠し、執務室をあとにしようとしたときである。
部屋の中央にある共有の設置式盤が橙色に激しく点滅した。
「え!?」
「これは……」
「――第二級通信」
鋭く呟くと、専理術士は設置式盤の上に指を走らせた。
「サレント自治領からの、緊急報だ」
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