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第9話

  愛媛県立松山西東工業高校二年 野球部投手 宮内志郎


  「たとえ時代の傀儡となっても、俺は投げることを選ぶ」

 藤岡猛鍼灸院は、市内からバスで三十分ほどの所にあった。そこはうらぶれた小屋のような建物で、監督が何を理由に自分をここに向かわせたのか、宮内はいくら考えてもわからなかった。鍼灸術の意外な効用は聞いたことがあったが、こんな所にさびれた診療所を構えて落ち着いているような医師に、自分の左腕を元に戻せるとは思えなかった。

 正面から入り、中をそっと覗いた。しかし受付には誰もいなかった。呼び鈴を鳴らして人が出てくるのを待ったが、建物の奥から誰かが出てくる気配は感じられなかった。

 小さなロビーに置かれた皮の破れたソファーに座って、何を待つでもなくしばらく佇んでいた。すると、十分ほどが経過した頃、正面の出入口から大きな体の男が、のっそりと重そうな体を揺らして中に入ってきた。男は宮内に気づくと、誰だ、と無骨な声で尋ねた。宮内は立ち上がり、姿勢を正すと、例の名刺を取り出して、言った。

「西東工の宮内という者です。この名刺は、野球部の森石監督にいただいてきた物です」

「森石? あの森石か?」

「たぶん、そうです」

「するってえと、宮内ってのは、あの宮内か?」

「たぶん、その宮内です」

 男はここで、初めてその口角に微かな笑みを見せた。

「その宮内が、こんな所になんの用だ?」

 宮内は、ここ数ヶ月に起きた自分の体の異変と、それに対する自分の間違った向き合い方と、今日医師から受けた最後通告と、そのあとに会った森石の言葉をそのまま藤岡に告げた。彼は、目の前の男が自分の悩みを解消してくれるなどとは露ほども思っていなかったが、それでも、今日まで独りで抱えてきたこの苦悩が、話すことによって(たとえそれが初対面の相手でも)いくらかでも軽減される種類のものであったことを、話しながらも体感せずにはいられなかった。

「そうか、あいつは二十年前と、同じ過ちを繰り返したってわけだな」男が言った。

「過ち、ですか?」宮内は怪訝な顔を男に向けた。

 すると男は、大きな鼻から男臭そうな息を吐き出し、「子供を巻き込んだアマチュアスポーツというものは、いつの時代も悲劇を生むもんだ」と言って、薄汚れたソファーにどっかりと腰を下ろした。

「俺が藤岡猛だ。森石とは野球部で同窓だった」


 松山西東工業高等学校野球部の最初の栄光は、当時のエースピッチャー藤岡猛と、その女房役を務めた森石丈二(もりいしじょうじ)の栄光だった。豪腕で鳴らした藤岡は、その重い球質と繊細なコントロールで、同校を甲子園初出場に導いた。しかし、藤岡はその栄光の中で、体の中心に蝕む悪魔の所業に苦しんでいた。

「俺は腰を悪くして、プロへの道を断念したんだ。お前と同じで、健康体に対する心構えに乏しかったのが、全ての原因だな」

 二十年経った今、彼は笑って二十年後輩の宮内にそう話したが、その時の彼の苦しみはひどいものだった。

 その年、甲子園を初戦で敗退した彼は、この時の宮内と同じ二年生だった。彼は腰の容態を監督に話し、同時に退部届けを出した。しかし、当時の監督森石章治朗(もりいししょうじろう)は、この退部届けを受理しなかった。

「森石?」

 宮内は藤岡の話を止めて、その名に反応した。

「ああそうだ。現監督の森石丈二の親父だよ。あいつは当時の正捕手でもあり、当時の監督の息子でもあったんだ」

 森石章治朗は、彼の退部を認めなかった。藤岡がいて初めて甲子園での勝負ができるチームであって、監督としての野望を叶えるためにも、藤岡の不在は考えられなかった。しかし、彼の腰はどうにもならなかった。日常生活に支障を来すほどに、彼の体の中枢はぼろぼろに破壊されていたのだ。

「しかし、当時の西東工は、続く春の選抜でも甲子園に出場しているはずです。その時のピッチャーは、別の人だったのですか?」

「いいや、俺だ。俺の他にもう一人、佐々木隼人(ささきはやと)というリリーフピッチャーがいたがな」

 その後の藤岡に対し、森石がしたことは残虐だった。彼は顔の利く地元の企業、松山西東重工業に藤岡を連れていき、彼の体を『工業的』に手術したのだ。藤岡猛は、一夜にしてサイボーグとなった。

「あの時は、ショックだった……」

 藤岡は当時を思いだしたのか、少し寂しそうな表情をした。宮内はショックを隠し切れずに、それでいてかける言葉も見つからずに、ただ黙っていた。

 彼は鋼鉄の腰を手に入れた。おかげで、本来のピッチングをとり戻すこともできた。しかし、エスカレートするこのような近代野球に、彼は疑問を抱かずにはいられなかった。そして後に、衝撃の事実を知る。彼の手術のために、その前実験として、一人のチームメイトが犠牲になっていたのだ。それが、佐々木隼人だった。

「隼人は、その体に俺以上の改造を施されていた。その体のほとんどが、西東重工業製と言っても過言ではなかった……」

 藤岡はそこで、重いため息を吐いた。そして不意に顔を上げると、「隼人、そろそろ姿を現したらどうだ」

 と、言った。診療所の奥から、すらっとした背の高い男が現れた。


「話は聞かせてもらったよ。君が宮内君だね? 僕が佐々木隼人だ。森石の最初の被害者、そしてまたの名を、改造ピッチャー2号だ」

 宮内は、男の目に悲しみの憂いを見た。そして、所属していた野球部に対して憎悪の想念が沸き起こってくるのを、どうすることもできなかった。藤岡の話は続いている。

「それから俺たちは、まるで野球マシーンのように代る代るマウンドに立たされた。結果、春の選抜では準優勝をすることができたよ。しかし、虚しさが俺たちの胸の中から消えることはなかった。そしてあれは夏の予選を直前に控えた頃だった。俺たちは二人とも、油が切れちまったんだ。文字通り、故障ってやつだよ。それであっさり捨てられた。まるでスクラップみたいにな。それがきっかけだったか、俺たち二人は、奇妙な友情をお互いに感じるようになった。そして、森石と、その野望を手助けした西東重工業に、復讐の念を抱くようになったんだ」

「しかし、それならばなぜ、鍼師などをなさっているんですか?」

 宮内が口を挟んだ。するとこれには、佐々木が答えた。

「二度と俺たちのような被害者を出さないためだ。東洋医学の神秘は、未だ解明されていないことが多い。俺たちはきちんとしたスポーツ医学と、無限の可能性を秘めた鍼治療を融合させることによって、スポーツに育む青少年たちを真っ当な方法でサポートしたいと考えたんだ」

「復讐は、完了したんですか?」

「完了する前に、森石章治朗は死んだよ。西東重工業の方は、この二十年で合併と分社化を繰り返しているため、残念ながら的が絞り難くなっている」

「それでは、亡くなった森石の息子である現監督の森石丈二は、なぜ僕をここに寄越したのでしょう」

「森石丈二は、親父の森石章治朗が俺たちに施した非道を、当時から知っていた。そして、その恐るべき勝利への執念に、子鹿のように震えていたはずだった。少なくとも俺たちは奴をそう見ていた。しかし、違ったようだな。親父と一緒で、勝利に対する欲望が尋常じゃない。お前を改造ピッチャーにして、尚も投げさせようという腹なんだろう。結局、奴は未だに俺たちのことを、そして、十代の少年が仲間の想いを背負ってたった独りでマウンドに立つ時の気持ちを、わかっていなかったんだ。もしそれらを理解していたならば、お前の体をここまで放っておかずに、大事になる前にここに寄越していただろうに……」

「ちょ、ちょっと待ってください、お前を改造ピッチャーにって、お二人はスポーツ医学と針治療の先生なんじゃないんですか?」

 すると藤岡が、あたりまえのように言った。

「俺たちは自分の体をメンテナンスしないといけない。製造元の西東重工業は、もうこの世から消えちまったのと同然だからな。この体が文字通り錆び付いた時、知識がなくってどうするんだ? 俺たちはその体の特質上、医学と同時に、機械のことも学ばなければならなかったんだ。まあ、デカルトも言っているように、人間の体と機械は、似たような物だがな」

 そう言ったあと、藤岡は悲しそうに、それでいて誇りを顕示するような顔つきで、こう付け足した。「しかし、俺たちは機械じゃない。生命の宿る、歴とした人間なんだ」

 宮内は混乱していた。そして、藤岡と佐々木の抱えてきた、深く暗い、絶望という名の悲しみに、全身の細胞をもって打ち拉がれていた。こんなことってあるもんか! これが人間の仕業だというのか!

「お前はここにくるのが遅過ぎた。だから、俺たちには選手としてのお前に、してあげられることなど何もないんだ。問題なく日常生活を送れる程度になら、可能だろうがな」

 宮内は、沸々と怒りが沸き起こってくるのを感じた。しかし、それが誰に対しての感情なのか、この時の彼にはわからなかった。

「診察してやろう。宮内、診察室にくるんだ」

 佐々木が言った。しかし宮内は、返事をしなかった。

「どうしたんだ? おい。日常生活ができる程度じゃあ、不満か?」

 藤岡が言った。しかし宮内は、それにも返事をしなかった。

「状態によっては、森石を殴れるくらいには回復するかもしれないぞ」

 藤岡はそう続けて笑ったが、それでも宮内は、下を向いて黙っていた。

「お、おい……?」

 急に様子の変わった宮内を見て、藤岡と佐々木は顔を見合わせた。すると宮内は、不意に立ち上がったかと思うと、

「お、俺の……俺の黄金の左腕はもう戻らない」

 と呟いて、くふふふ、と奇妙な吐息を微かに洩らし、二人に挑むような視線を交互に投げかけた。

「だけど、鋼鉄の左腕になら、生まれ変ることができるぞなもし!」

 それは確認するような、それでいて攻撃的な口調だった。思いも寄らぬ少年の覚悟を感じとった二人は、両目を見開いて、戸惑うことしか許されていないとでもいった無力な大人に、一瞬にして成り下がった。

 僅か十七歳の少年が、悲壮の決意を、神にも背く決断を、今にも言葉にしようとしている。

 しかし、

 待て、落ち着くんだ、それを口にしてはいけない。

 という、たったそれだけのことを、彼らは声にして少年に届けることができない。それは彼らが、目の前の手負いの獣に、二十年前のそれぞれの自分の姿を無意識のうちに重ね合わせていたからかもしれなかった。

 まるで木偶のように立ち尽くし、宮内が悪魔との契約を締結させるのをただただ待っているかのような二人。そんな彼らを尻目に、少年はその口から、遂に激烈の言葉を発した。

「たとえ時代の傀儡となっても、俺は投げることを選ぶ」

 宮内志郎は、復讐者とも、或いは純粋なスポーツマンともとれる、複雑な顔つきで続けた。

「俺を改造ピッチャーにしてくれ」

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