第10話
神奈川県立塗李高等学校一年 野球部補欠 宇賀神栄太郎
「ローション? ああ、あれでっしゃろ、ウヒヒ」
大晦日から正月にかけて、年を越す瞬間すらも、塗李ナインはローション塗れだった。彼らの中には、お節料理がぬるぬるしているのはローションに塗れているからだ、とそう錯覚する者さえいたほどだった。
彼らは、自分たちの野球を、未だ試合で披露していなかった。今騒がれるのはまずい、というのが、彼らの共通の見解だった。研究、そして攻略の暇を与えるのは愚の骨頂だ。情報化社会は熟成しきっている。一気に広まって模倣されるのが落ちなのだ。
春は捨てて、夏に懸ける。我慢し、魂を圧縮させて、爆発させる。頭ではわかっていても、実践するとなると非常な忍耐力が求められた。それでも彼らは、十代の少年とは思えないほどに、強靭な精神力でこれに立ち向かい、乗り越えていった。
三学期になり、春休みになった。そして春の大会に参加することもせず、四月になり、一年生は二年生に、二年生は三年生になった。
ローションベースボールは着実に完成に向かっていた。あとは実践で自信をつけるのみ、というところまで、彼らの技術は達人の領域にまで突入していた。しかし、翔平は別のことで頭を悩ませていた。野球部の厳しい練習が変に有名になってしまい、それを敬遠されたか入部希望者が一人も現れないのだ。九人しかいないということは、誰かが怪我などで離脱すれば、塗李ナインはたちまちのうちに塗李エイトになってしまう。エイトでは、試合をすることすらできないではないか。
部室にて、緊急のミーティングが行われていた。どうやったら新入部員を迎えることができるか、それがテーマだった。しかし答えはなかなか見つからず、空気が、淀んでいた。
「情報漏洩のことを考えると、このままでもいいような気がする」
それを言ったのは翔平と同級の、野球部の中でもずば抜けた守備力とローション拭き取り能力を併せもつ、華麗なるショートストップ、結城裕樹だった。
「それはそうだけど、一人の脱落者も許されないというのは精神衛生上よくないよ。俺たちはただでさえぎりぎりの所でモチベーションを保っているんだ。もし何かの事故でメンバーが欠けて試合ができなくなるというようなことにでもなったりしたら、俺たちがこれまでに積み上げてきたものは、一瞬で瓦解してしまうんだぜ」
「新入生はハードな練習を嫌がってる。それに加えて俺たちには実績がない。練習は大変なのに、結果がまるで伴っていないと思われているんだ。そろそろ俺たちの野球をお披露目する段階にきてるんじゃないかな。そうすればたとえ練習がハードでも、入部したいと思う奴が出てくるかもしれない」
「だけどそうなりますと、僕らの野球は早い段階で研究対象にされてしまいます。はたしてそれでいいのでしょうか」
部員全員が、ああでもないこうでもないと自分の意見を述べていた。翔平は誰の意見も正しいと思ったが、しかしそのどれもが、彼自身が何度も繰り返し考えてきたことで、いつまで経っても新しいアイデアが出そうにないのが、より彼の気持ちを暗くさせた。
部室のドアがある大柄な男によって乱暴に開かれたのは、話し合いが膠着し、皆が黙り込んでいた時だった。塗李ナインは、ドアを開けた男に一斉に視線を浴びせかけると、示し合わせたように、お前は何者だ、という沈黙をつくった。すると男は、ぎろりと皆を睨めつけてから、その迫力とは裏腹の滑稽なイントネーションでもって、言った。
「野球部の部室は、ここでっか?」
塗李高校野球部、十番目の男、宇賀神栄太郎の登場である。
その巨躯は、それだけで全ての塗李ナインを圧倒した。身長は優に二メートルはあり、首が太く、胴長短足ではあったがそれが逆に、がっちりとした体幹を見る者に印象づけた。分厚い唇と上を向いた鼻は、つぶらな瞳と相まって奇妙な愛嬌をつくりだしている。
「なんだお前は」
北田が言った。その男が入部希望者などとは、露ほども疑っていないといった口調だった。すると男は、例の奇妙なイントネーションで、
「私は宇賀神と申します、野球部に入部したいんですわ」
と、言った。まさかの台詞に、全員が驚いた。しかしすぐにその驚きは嬉しさに変わった。大きな悩みが、その男(得体の知れない男ではあったが)によって解消しようとしているのだから、無理もなかった。
「うがじん、か。一年生だな?」
翔平は尋ねた。すると宇賀神は、
「はい、沢井先生に勧められて、きますた」
と言って、軽く頬を染めた。
彼のクラスの担任となった沢井美加は、宇賀神を一目見て、アスリートとして素晴らしい人材だ、と思った。その彼が何もせずに帰宅部を決め込んでいたので、それを見かねた沢井は、彼に野球部に入ることを勧めてみたのだった。
快活で健康的且つ美しい沢井に、初めて話しかけられ、宇賀神は一瞬で心を奪われた。もしその時、沢井に、軍隊に入って戦闘機のパイロットになって勲章を二十個集めろ、と言われていたならば、彼はその通りにしたかもしれなかった。しかし彼女は、野球部と言った。しかもその野球部は、彼女が部長を務めているのだ。彼が部室を訪れない理由はなかった。
「よし、お前の入部届けを受理する。ところでお前は、中学時代、どこのポジションをやっていたんだ?」
翔平が言った。すると宇賀神は、きょとんとして、「ポジション、でっか?」と不思議そうに首を傾げた。
後にその怪腕を全国に轟かせることになる宇賀神栄太郎ではあったが、この時の彼は、野球経験がゼロだった。どころか、他のスポーツの経験すらなかった。そしてそのことを知った時、翔平以下塗李のナインは、失望の色を隠そうともしなかった。それでも、翔平は主将として、次の質問をぶつけてみた。
「それなら、ローションは知っているか?」
すると宇賀神は、
「ローション? ああ、あれでっしゃろ、ウヒヒ」
と、その愛嬌のある顔を下品に崩した。翔平は身震いし、それでもなんとか主将としての自覚を呼び起こし、言った。
「今日からお前は、俺たちの仲間だ。しかし、お前はもっと言葉遣いに注意し、選手としても成長しないといけない。島袋、お前は猿渡と一緒に、今日から宇賀神に野球の基礎を教えるんだ。作戦のことは追い追い説明するとして、秘密を守るということも、宇賀神にはきちんと理解してもらわないといけない。それは木戸の役目としよう」
突然現れた怪物の世話を任ぜられた三名の二年生たちは、露骨に嫌そうな顔をした。しかし、はい、ととりあえずは返事をして、渋々と立ち上がった。新生塗李野球部は、異物を吸収するためのぎこちない努力を始め、ゆっくりとその速度を落としたのだ。
この時、この宇賀神が、塗李野球という名のパズルの最後のピースとなることに、誰もが気づいていなかった。そして、ここが自分にとっての最高の場所となることには、宇賀神自身も、気づいていなかった。




