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最終話

  全国大会審判委員 幹事 青島貫一


  「ゲーム!」

 二つに割れたくす玉が、どすんとフィールドに落っこちた。砂煙が薄れると、倒れた選手たちが現れた。それでも、直撃を受けた者はいないようで、どうやらみんなが無事である。主審を務めていた球審の青島貫一は、へなへなと腰が砕けそうになりながらも、それを見て、ひとまずの安心を得ることができた。それにしても、と彼は改めて恐れ入る。彼は塗李高校の準決勝でも主審を務めたが、まさかあれ以上に壮絶なゲームを審判することになるとは、思ってもみなかった。

 しかしこの状況で、どのような判定をすればいいのかがわからない。延長なのか塗李の勝ちか、経験豊富な彼でも、ルールブックの確認なしでは瞬時には判断がつかなかった。上空を飛ぶ飛行物体にボールが当たった時は、はたしてホームラン判定だったかアウト判定だったか。目の前には、意識を失ったらしい兵頭が倒れているが、ホームラン判定で彼が動けないとなれば、播磨灘は彼に代走を出さなければならないだろう。しかし播磨灘ベンチを見れば、蛻の殻となっている。これを試合放棄とみていいか、青島は決断に躊躇うのだ。

 すると彼の後ろで、何か唸り声のようなものが聞こえた。振り返ると、そこには塗李の捕手、堀啓介が踞っていた。青島は彼に近づいていった。大丈夫かい? と声をかけた。そして堀を覗き込み、容態を確認しようとしたその時だ。彼は我が目を疑って、思わず息を飲んだ。そこで彼が見た物は、堀のミットに収められた、真っ黒に焼け焦げている公式ボールの一破片だった。

 まさか、と思った彼は、次にファウルゾーンに突っ伏している北田のミットを確認しにいった。するとどうだ、彼のファーストミットにも、公式ボールの一破片が掴まれているではないか。彼の胸は年甲斐もなく高まった。次々と塗李の選手たちのグラブを確認してまわる。木戸、島袋、喜与川。どのグラブにもボールの欠片が収められている。そして最後に、三塁手の高原のグラブの確認が終わると、彼は結局、投手桜田以外の八人の野手のグラブから、一つずつのボールの破片を回収することができていた。そしてそれを合わせると、一つのボールとなった。なんと塗李の野手たちは、事件といっても過言ではないあの恐ろしい出来事のさなか、八つに分裂した球の破片をそれぞれに追っていたのだ。しかもそれぞれがその全てを、しっかりとキャッチしている! ルールブックの確認など不要だと、彼は即座に決断した。試合終了を宣告する、「ゲーム!」という一言を、彼は寂とした甲子園球場に、高らかに宣告した。それは塗李高校の、優勝決定の合図でもあった。

「や、やったズラ? やったズラか?」

 と言って青島に目を向けたのは、塗李野球部最強の補欠、宇賀神栄太郎だった。青島がその問いかけに静かに頷くと、宇賀神は改めて、大音声を轟かせた。

「やったズラ!」

 宇賀神がベンチから飛び出した。その巨体の接近を感じて、翔平は戦いた。まさかあいつ、俺の所に向かってきてるんじゃないだろうな? その顔面を甲子園の土に突っ込みながら、彼はそれだけを恐れた。そしてその予感は的中する。彼は宇賀神のダイビングをその背中で受け止めると、僅かに残されていた意識を完全に失ったのだった。


 病院のベッドの上で、翔平は目を覚ました。自分がどこにいるのか、すぐにはわからなかった。すると脇のミニテーブルに、甲子園大会決勝戦の記念プレートが載せられているのに気づいた。塗李高校と播磨灘高校の先発メンバーの名前が左右に分かれて刻印されている、朱色の陶器皿だ。そして学校名の上には、それぞれの最終成績が記してあった。神奈川県立塗李高等学校という文字の上に、『優勝』という文字が刻まれている。

 あれからどれくらいの時間が経ったのか、皆目わからなかった。すると扉が開き、大宮可奈子が入ってきた。体を起こしている彼に気づいて、翔平さん! と言って飛びついてくる彼女。二人は早速、ちゅっちゅちゅっちゅした。

「あれから丸二日も眠っていたのよ? 死んじゃったのかと思ったんだから」

 翔平は驚いて、辺りを改めて見回した。

「ここは、どこなの?」

「大播磨灘病院よ。播磨灘高校の方のとり計らいで、個室を使わせてもらっているの」

「みんなは?」

「一昨日のうちに地元に帰ったみたい。横浜は連日、塗李フィーバーですって」

 喜ぶタイミングを失って、翔平は損した気分になった。あのあと皆は場を改めて、喜びを分ち合ったに違いない。

 そしてふと、兵頭のことが気になった。彼も最後の対決で、力尽きていたはずだ。

「ひょ、兵頭は?」

 すると大宮は、表情を曇らせた。

「そうか、何も知らないのね。彼もあのあとすぐにこの病院に運ばれたんだけど、それ以来、ずっと昏睡状態が続いているみたいなの。もう意識は戻らないかもしれないって……」

 翔平はそれを聞いても、さして驚きはしなかった。理由はわからなかったが、彼はどこか、兵頭と、意識の部分で共有が行われているような感覚でいたのだ。黙り込み、傍らの花瓶を見つめる。大宮が続けた。

「大会はかつてない注目を集めたわ。実際、それに相応しい素晴らしい試合だった。だけどいいことばかりじゃないの。あの試合中に亡くなったと思われる人が場内で三名も見つかって、あの決勝戦は悪い意味でも、未だに注目を集めている。更には、兵頭君の身体から微量の放射性物質が検出されたということで、その方面でも大騒ぎなの。身体検査の結果、塗李の堀選手や球審の人からも極微量の反応があったみたいだけれど、健康には問題がない程度らしいから心配はしないでね。だけど問題はその理由。なんでそんな反応があったのかって、マスコミはいつものように警察気取りで報道を続けている。そして……」

 大宮はしばらく言い淀んでから、続けた。「行方不明者も二名いるの。一人は青森県の男子高校生で、もう一人は私たちの仲間、太田花恵という子……」

「な、なんでまた」

「わからないわ。死者が出ているということからも、その二人も事件に巻き込まれた可能性があるということで、私たちも警察の取調べを受けたんだけど……なんだか噂では、播磨灘の関係者に事件の鍵を握っている人がいるということなんだけど、その人、なんかおかしくなっちゃったらしくって、証人の責任を果たせないみたいなの。私も花恵ちゃんのことが心配なんだけど、今は捜査が進むのを待つしかないから……」

 翔平は、予想もしていなかった情報の洪水に、ただただ困惑するだけだった。すると段々に、再び眠気が襲ってきた。大宮の声が聞こえてくる。

「午前中までお義母様がいらしてたのよ。目を覚ましたことを知らせなくっちゃ」

 彼女が鞄から、pinkSpyを取り出しているのが見えた。しかし翔平はそのまま、再び眠りについた。


 兵頭は夢の中にいた。そこは小さな公園で、ツツジの花壇の向こうに母親の姿を見ていた。お母さん、と彼は呼びかけたが、母親は振り向かなかった。すると彼はいつの間にか、ヘリコプターの機内にいた。地上を見れば召使いたちが、ライフルの照準から逃れようと必死にもがいている。かと思えば今度は、スーツの上からエプロンを着けた、彼の弁当を拵える木村の後ろ姿があった。そして場面は流れ、甲子園大会の決勝戦。彼の活躍で播磨灘高校が優勝を決めたシーンだった。それは何度も繰り返された。全てが違う対戦相手だった。すると鮮烈なイメージが、何もかもを上書きした。彼の前に現れたのは、塗李高等学校の選手たちだった。彼は自分が夢の中にいるという自覚があったが、心拍数が上がっていくのをその胸にリアルに感じた。最高の投手と繰り返される、最高の対決。最後に飛び込んできたのは、白い大きな蛇だった。

 なんだろうあれは?

 彼は再び、深い眠りに入った。


 横浜市塗李区にあるとある小さなレストランで、塗李高校の祝勝会がそれは小規模に行われていた。会を仕切っていたのは、前キャプテンの千葉で、彼はナイン以上に大いにはしゃいでいた。

「さすが俺の後輩だ! さすが俺の指名したキャプテンだ! さすが俺の応援だ! さすが俺の渡した御守りだ!」

 しかしそのキャプテンは、未だ入院中である。ナインは翔平が心配で、いまいち会に乗り切れないでいた。

 ひとまず落ち着いて、話は宇賀神の活躍に及んだ。彼らは、決勝戦の間に宇賀神がどこで何をしていたのか、まだ聞いていなかった。するとその話の中に、知らない老人が出てきた。悪者から捕われの姫を宇賀神が救うはずの物語に、突如として現れたその登場人物には違和感があった。

「誰だそれ? そんでその爺さんは、どこにいったんだ?」

 宇賀神は、わかりまへん、と答えた。しかし彼は一通の手紙を、その老人から受け取っていた。


 二〇一一年の選抜大会から五十年連続で、甲子園大会で行われた全ての試合のスコアブックを、余すところなく記帳しているのが松島光一の自慢だった。彼は録画していた先日の決勝戦を改めて見直しながら、その試合経過を丁寧にスコアブックに記帳し直している。そこへ茶を持って現れたのは、彼の妻、松島房江(まつしまふさえ)だった。

「本当に好きねえ」

「うむ。何しろ俺は、元偵察部隊だからな。これは癖のようなものなんだ」

 彼は、合田高次だった。亜空間に放り込まれた彼が次に意識をとり戻したのは、彼自身未だ理由をつけられないでいるが、二〇一〇年の阪神甲子園球場の職員用便所の一室だった。表に出れば、そこでは決勝戦が行われている真っ最中で、それは沖縄県のチームが春夏連覇を果す、記念すべき試合でもあった。彼は自分が望まぬうちに時空の旅人となったことに、理解するまで多くの時間を費やした。そんな彼がここまでやってこれたのは、彼に数分遅れて二〇一〇年にやってきた、太田花恵の存在が全てだった。

 彼らはそれを受け入れてから、二人で生きていくことを決意した。人類初のタイムトラベラー(かどうかは彼らに知る由もなかったが)ということを発表して、うまくやっていけるとは思えなかったからだ。二人は多くの苦労を共有して生きた。松島という夫婦の戸籍を手に入れてパスポートをつくり、イギリスのブックメーカーで金を稼ぐようになるまでは、苦労の連続だった。そして、安定してからも、未来への懐古は変わらなかった。元の自分たちが生きた時代に再び戻ることを夢見ながら、彼らは寄り添って生活を続けた。

 パラレルワールドに放り込まれたという可能性を危惧したこともあった。しかし、自分たちの本当の誕生日に、それぞれが、自分が産まれたはずの病院で自分自身を確認できた時、そこでようやく、二人は積年の懸念を若干ながらも緩めることができた。それでも彼らは、決してもう一人の自分とそれ以上のコンタクトをとろうとはしなかった。もしそれをすれば、合田高次と太田花恵は救うことができるかもしれないが、現在の自分たち、即ち松島光一と松島房江がどうなるかはわからず、彼らはそれを、心配したのだ。それは彼らが、現実を完全に受け入れたということ、そしてお互いを愛していたということの、証明になるような決定かもしれなかった。

 しかし彼は、宇賀神は救いたかった。宇賀神は二〇一〇年には現れなかったが、あの穴が全てを同じ世界に運ぶとは限らない。元々は同じ世界にある別の穴へボールを移動させるだけの技術で、その穴から出ることのできなかった自分たちはなぜか時代を越えたが、体の大きな彼のことだから、あのあと同じ穴に放り込まれたとしても、別の世界に送り出されてしまっている可能性も考えられた。それでもその世界で彼がうまくやっているのなら、二〇六〇年の彼を救うことは間違いになるやもしれないが、自分たちとは違い、たった独りで別の世界に暮らす宇賀神が、幸せを掴んでいる姿を彼は想像できなかった。宇賀神を亜空間に入れてはいけない。彼はそれだけは決めて、二〇六〇年を待った。

 そして今回、無事に宇賀神を救えたことに、彼は非常に満足していた。しかし、宇賀神は合田と太田の消滅を目撃しており、彼の証言は、内容にもよるが、二人がやっと手に入れた平穏な生活に余計な波風を立てる恐れがあった。それで彼は、予め右のような詳細を手紙に認めておき、全てを秘密にしてくれるよう、決勝戦後、宇賀神に渡した。幸い、宇賀神はそのあとも、約束を守ってくれているようだった。

「それにしても、凄い試合だったわねえ」

 妻が言った。たしかに二人は、ほとんどの試合の結末を知っていたが、決勝戦の途中からは、久しぶりに未知の世界を体験する興奮を味わった。

「そうだな。凄い試合だった。死ぬかと思ったもんな」

 そう言って彼は思いだすように身震いすると、不意に嬉しそうな顔をして、続けた。

「だけどこれからは、そういった感動の連続だ。やっと俺たちは、この世界の本当の住人に戻れたんだ」


 二人の高校生はいずれも行方知れずのままであったが、数日後、彼らの両親に、本人らからと思われる駆落ちを知らせる手紙が届けられたことにより、この件に関しては別の関心が寄せられることとなった。そして兵頭虎太郎の死は、寿命による大往生と診断され、その華々しい人生を息子の晴れ舞台で終えたことは、彼らしい派手な終焉だとして人々に受け止められた。更には、彼が試合中に息子に送ったメッセージが、優勝の祝福という間違った物であったことで、それが彼という人物の、再評価への思わぬ触媒となり、あの男も自分たちと同じ人間であったのだと、怪人の人間性を温めるエピソードとして伝えられた。二件の殺人事件と核燃料取引の容疑は、兵頭コーポレーションの重役、木村栄次に焦点が絞られたが、当の木村が精神に異状を来したことにより、その捜査は難航を極めた。

 試合後、医務室に運ばれた塗李高校の選手、桜田翔平の背中から、化粧水のような物が入れられていたと思われる、平たく白いタンクが発見されていたことが、大会の興奮が収まりつつあった十月の初め、財団法人日本高等学校野球連盟によって発表された。それが試合の結果にどのような影響を与えたのかがマスコミによって検証されると、塗李ナインはヒーローから一転、悪党にまで成り下がってしまった。しかし、連盟の会長は弁明することもなく、公式会見で次のような見解を示している。

「もしこの魂の投球を反則投球となじる者がいるならば、私は彼らの尊厳を守るために、渡米してMLBのコミッショナーにルールブックの書換えを進言することをも厭わない。それほどの価値が、この反則投球にはあると私は信じる」

 それでも、このような投球が人々の倫理観を納得させるはずもなく、彼らはドラフト候補から外れ、スポーツ推薦による進学や就職の道も閉ざされた。しかし彼らに、後悔はなかったと思われる。少なくとも、彼らがそのたった一度の青春を真白な灰になるまで燃焼させたことは、紛うことなき事実であった。寄せられた誹謗中傷は、宮沢昭伸が心配するまでもなく、彼らの人格を歪めるような効力をもたなかった。後に、『エレクトリックスポルタ』にて発表された木戸のコラム、『ローションピッチを、もう一球』が、それを証明している。このコラムは、一定の批判を受けつつも、有識者の間で高い評価を得た。

 そして月日は経ち、桜田ら三年生が高校を卒業する季節、大播磨灘病院の一室で、兵頭鷹虎が息を引きとった。兵頭虎太郎が人工衛星『祝福』に例のシャトルを積載させたのが、彼が高校に入学して野球部に入部した頃と時期を同じくしていたこと、そして老人がそのシャトルの発射を命じたのが、老人の身が例の玉座によって自由を奪われる直前であったという事実を、彼は知らぬままにその生涯を閉じた。因みに、兵頭鷹虎の合法的実父殺害計画は、一部の者に噂されたが、未だ謎のままである。或いは、彼は、『合法的』という部分については固執していなかったかもしれぬ。ソルジャーヘッドに残されるログの始末を考えていた節がなかったし、そもそも、タイガーホークを使用している時点で、打球が人間に命中すれば嫌疑がかけられるのは必至なのだ。罪を受け入れてこその計画の完了であったか。それとも、彼は、どのような道筋を辿るにしても、今回のような己の末路を予期していたか。いずれにしても彼が、その定義の仕方はどうであれ、作法を蔑ろにするような人間でなかったことについては、間違いがなさそうである。

 兵頭虎太郎とその相続人の死によって、兵頭コーポレーションは解体され、そのほとんどが外資の手に渡った。そのため、兵頭鷹虎の葬儀は盛大に行われることもなく、一部の、彼の元部下たちの自費によってこぢんまりと執り行われた。そしてその遺骨は、東京都の奥多摩にある、彼の母と同じ小さな墓石に納められた。史上最高の野球選手の墓を見ようと、初めのうちはそこを訪れる者も少なくなかったが、次第にその数は減少していき、三ヶ月も経てば、そこは彼の孤独な人生を象徴するような、それは静かな墓場となった。




 二〇六一年八月二十三日、第一四三回全国高等学校野球選手権大会決勝が行われた翌日。ワシントン・ナショナルズの筆頭スカウト、ブーパー・グラースは、在来線を乗り継いで東京都西多摩郡奥多摩町にある、とある小さな墓地を訪れていた。大会の終わった今、本来ならばすぐに帰国しなければならなかったが、かつて五年に渡って追いかけていた恋人とも言えた名選手、兵頭鷹虎の墓に手を合わせておきたかった。

 降り頻る雨の中、革靴を汚してその墓地に足を踏み入れた時、彼はそこの管理者と思われる背の低い老婆とすれ違った。老婆は珍しそうに彼を見上げて、

「あらまあ、外人さんかえ」

 と言って、顔の皺を深くした。「今日はこんな雨降りなのに外人さんまでくるなんて、なんかあるんかねえ」

 ブーパーは老婆に兵頭の墓の場所を尋ねた。すると老婆は、「あんたもあそこかえ」と言って、隅に佇む小さな墓碑を指差した。「今日だけで十人はきちょる。なんの日なんだろ」老婆は親切にも、桶の使い方を教えてくれた。彼は礼を言って奥に進んだ。

 墓の前に着くと、持っていた傘を畳んだ。冷たい雨が顔にかかった。昨日まで晴天の続いていたはずの東京を思うと、彼はその雨が、生前の兵頭を想っていた者の涙のようにも思われた。彼がそのように感傷的になったのは、今日という日が、兵頭鷹虎の死のきっかけとなったあの決勝の日から、ちょうど一年後であったからかもしれない。

 彼は日本の作法に倣って、墓の前で手を合わせた。そして改めて、その天才の死を残念に思った。前回大会で発覚したいくつかのチームの不正野球の影響で、今年の大会は健全な内容にはなっていたが、昨年のようなエキサイティングな試合は、彼の感じたところ、一つもなかった。そして何より、彼のような職業者を興奮させる、強烈な才能がなかった。彼は兵頭のプレーする姿を思い浮かべると、その蒼い目に涙を滲ませたりした。

 彼は線香に火をつけると、墓の下部にある穴のような所にそれを置いた。そこには既にいくつかの線香があって、雨に湿って燻っていた。そこで彼は、先ほど老婆から受け取った木製の桶のことを思いだした。老婆曰く、中の水を杓子で掬って、墓にかけるということだった。墓は既に雨に濡れていたが、その上からでも構わない。墓石を清めたいという、参拝者の真心に意味がある。

 墓の側面に、何かが張り付いているのに気づいた。それは墓の上方に生い茂る、木々が落とした木の葉のようだった。彼は水をかける前に、それを払ってやろうと、手を伸ばして墓石に手をついた。その時、彼の表情が驚きに変わった。そしてその驚きは、すぐに得心に変わっていった。ブーパー・グラースは、遅れてやってきた豊かな温もりに包まれると、その頬に新しく、やさしい微笑を浮かべる。そして手を戻し、その白い掌を見つめながら、呟く。


「ナンカヌルッテル」


                                  了


2011.3.23

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