第41話
兵頭家 夫人 兵頭鷹子
「母さんはあなたに、どうしても会いたかったの」
不治の病に犯された者たちが未来に治療が可能となることに賭けて、高額の料金を支払ってまでコールドスリープという不確かな道を選んだ。これを認めている国は世界でも数カ国であり、保守的な日本ではもちろん、許されることではなかった。
しかし、倫理の問題として議論の対象となる中で、コールドスリープはその蘇生率を年々上げていった。そして、二〇四〇年代に入って蘇生率が七〇%にまで達すると、反対の立場から態度を軟化させ、意見を転ずる者もちらほらと現れ始めた。ショーン・ボンドという英国人により、人体接着部分調和促進剤が開発されたのもこの頃だ。その時勢を読んだ兵頭虎太郎は、二〇四二年、新しい生命の誕生を決定した。二人の少年の結合体、『兵頭鷹虎』(遺伝子組み換えでない)の誕生日を、十二月十四日に設定したのである。因みにこの年は、桜田翔平や宮内志郎、牧野秋義らがこの世に生を受けた年でもあり、後に彼らは鷹虎世代と呼ばれ、アマチュア野球界を席巻することになるのだが、それはもう少しあとのことである。
この時、兵頭鷹子は既に他界している。冷凍睡眠に入った自分の息子との再会を、彼女は信じることができなかった。生きる希望を失った彼女は、見る見るうちに生命力を衰えさせ、五十一歳という若さで衰弱死した。
そして更に年月は経過し、二〇五二年の秋、兵頭虎太郎は八九%にまで上がった『コールドスリープからの蘇生率』と自分の年齢(七十六歳)を考慮して、『兵頭鷹虎』の復活を決断した。大播磨灘病院の極秘の冷凍室の奥から、鷹虎の眠る冷凍カプセルが十六年振りに取り出されたのである。兵頭鷹虎、十歳。実年齢は、二十六歳であった。
母親の温もりを全身に感じながら、鷹虎は夢の中で無邪気にこんな質問をした。
「母さん、母さんはなんで、あんなに憎んでいたはずの父さんの子を産むのを受け入れたんだい?」
これは少年の積年の疑問だった。「子供が欲しかったんならさ、あんな奴とはさっさと離婚して、別の人との間に子供をつくればよかったじゃないか」
すると彼の母親は、少し考えたあと、こう答えた。
「それじゃああなたと会えないじゃない。母さんはあなたに、どうしても会いたかったの」
蘇生の準備が始まってから十八時間と十八分後、兵頭鷹虎はその人生で、二度目の誕生を終えた。一度目は二人の人間として、別の日に別の場所で泣き叫びながら産まれたが、この日の彼は一つの場所で、静かに泣いて産まれた。そして四十八時間の安静期間を経ると、彼は病院のベッドの上で、完全に意識をとり戻した。
「お目覚めでございますね、鷹虎様。まだ接合部分が馴染んでおられないかもしれません。お体をお起こしになる時は、お急ぎになられずにごゆっくりと」
その言葉を遮るように、黙ってむくりと起き上がると、少年は肩を回して、こきこきと首を鳴らした。
「俺は鷹虎というのか」
「さようでございます」
「そちはなんという」
すると男は改めてかしこまり、頭を少し下げてこれに答えた。
「私は木村と申します。鷹虎様が現代の生活にお慣れになるまで、身の回りのお世話をさせていただく者でございます」
鷹虎は木村に、最初の下知を下した。
「木村、茶を持てい」
木村は、心の内で鷹虎の一言一句に圧倒されていた。それは彼が、鷹虎の人格は鷹臣と同じものだと考えていたからで、しかし実際は予断と違い、かといってそれは虎次のものでもなく、全くの新しい人間のようであったからだった。そして実のところ、それに関しては鷹虎自身も同じ思いであった。彼の脳や顔は鷹臣のそれであったが、虎次の肉体が鷹臣に融合を求めたか、二人は完全に同化したかのようであり、新しい人格が自分を支配していることにその新しい人格が戸惑っているという、彼はそのような、奇天烈な現象のさなかにいたのだ。
「玉露でございます。鷹虎様」
木村はベッドの脇に立ち、次の命令を待った。彼はその僅かな時間で、帝王の誕生を察知していた。
兵頭鷹虎は播磨灘小学校に編入すると、その日のうちに全校生徒を支配した。そしてリトルリーグに入団すると、その日のうちにエースと四番の座を奪い、キャプテンに就任した。学業では全ての分野で教師以上の実力を示し、街を歩けばチンピラというチンピラが小学五年生の彼を前に跪いた。
虎太郎は、全てが首尾よく進んでいることに満足していた。鷹子が死亡したことで誰に気兼ねするでもなく鷹虎を独占できるようになっていたし、鷹虎に鷹臣の人格がまるで残っていなかった(虎太郎はそう思っていた)ことは、彼にとっては思惑以上の結果だった。野球というくだらんスポーツに夢中になっているのは玉に瑕だが、子供のうちはボール遊びに夢中になるくらいがちょうどいいのかもしれない。彼はそうやって自分を納得させると、今度は虎次の時のように干渉し過ぎないよう、それでいて長男らのように無能にもならないよう、鷹虎の成長を慎重に見守った。兵頭鷹虎はその期待に応えた。そして順調に育っていき、彼はその傍らで、父親を殺す準備を整えていった。
そして二〇六〇年八月。彼は積年の計画を実行する、最高の舞台を手に入れていた。塗李高校のおかげで、人々の注目は例年になく集まり、マスコミの取材攻勢も加熱している。このままいけば数万人の観衆集まる甲子園球場という公の場で、法律を些かも犯すことなく実の父を殺害することができるだろう。兵頭鷹虎、十七歳。実年齢は三十三歳。微かな武者震いと共に、怨念の塊を飲み下すのだった。
(兵頭虎太郎……遂にこの時がやってきたぞ。帝王なら帝王らしく、歴史に残る死に様を曝してみせろ)
「君ならそう言うと思っていたよ。しかしこれ以上ぬるぬるを増したら、ボールを君たちの支配下から遠ざける結果になりはしないだろうか」
宮沢の心配を、翔平は跳ね返した。それは自分に言い聞かせるような、決意めいた口調だった。
「やるしかありません。僕らは、勝ちにいくんです」
翔平の言葉を受けて、宮沢は少し間をあけたが、「わかった……」と小さく呟くと、その語調を急に明るいものに変えた。「実はもう、できているんだ。明日の練習には間に合うよう、現地に届けるよ」
翔平が礼を言って電話を切ると、ナインが心配そうな顔つきで彼を見た。
「ど、どうなんだ? おい」
待ちきれない様子でそう尋ねたのは北田。翔平は顔を上げて、笑顔でこれに答えた。
「更にぬるぬるなローションが、完成しているそうだ」
すると皆の顔に、力が漲った。そこで声を発したのは、やはり喜与川八郎太だった。
「漁色放蕩のドンファン男も背筋を正す聖戦を前に、うっかり微睡む戦士の恍惚は稜線に揺蕩う一番星か。ああ純情のスポーツマンシップよ、後戻りなどがどうしてできよう? 霊験あらたかなあの甲子園球場に、命を預ける時がやってきたのだ。憂国の志士たちが咆哮を上げたなら、それは衝動のシュプレヒコール! 防人歌を聴きながら、同志よ、泡沫の涙を流せよ。さあ立ち上がれ! 円卓の騎士たち! 時空を越える回天の稲妻で、暗黒面を両断するのだ。そして呼び戻せ! 開拓時代の知恵を! 燃え盛る鍬を手に、未開の惑星に降り立つのだ。何を怖れることがあろう、化粧水野球は無敵だ! どこまでもどこまでも突き進み、暴走の悦楽に溺れようかッ!」
ここまでくるとさすがに皆、喜与川が何を言っているのかわからなかった。水を打ったような沈黙の中で、「な、長い……」と誰かが呟いた。




