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第38話

  ワシントン・ナショナルズ 筆頭スカウト ブーパー・グラース


  「アレガ プリンス・オブ・ハリマナダ サ」

 兵頭鷹虎を敬遠地獄に追い込んだのは、彼が一回戦から二回戦にかけて、九打席連続で本塁打を放ったのが主な理由であろう。二回戦の四打席目以降、彼は一打席として勝負してもらえなくなった。しかし、播磨灘高校は兵頭鷹虎だけのチームではなかった。慢性的な爆発状態の打線の中で、出塁率十割の兵頭は、全ての機会でホームに帰還した。十九打席九打数九安打、二十一打点十九得点。播磨灘の貴公子は、依然として圧倒的な存在感を示し続けていたのだ。

 彼の放った九本の本塁打は、九本が九本とも、驚異的な飛距離であった。その鮮烈なイメージは、全ての関係者に恐怖を植え付け、兵頭鷹虎が選手として、完全に完成の域に到達していることを納得させた。そのため誰もが、彼に対する徹底的な敬遠に、批判的な意見をもたなかった。

 しかしそれでも、勝負は定めのように再開される。眼前に立ちはだかるのが強大であればあるほど、魂の戦いを挑みたくなるスポーツマンシップの誘惑だ。その誘惑に駆られたのが、私立長岡河継高等学校三年、最後の武士、牧野秋義(まきのあきよし)だった。

 牧野は、この一年で最も大きな成長を遂げた選手の一人だった。下半身を強化するために昨年末から取り組み始めたウェイトトレーニングが、投手としての彼を、著しく成長させた。それがあったからこそ、長岡河継は甲子園に出場できただけでなく、準決勝まで上がってくることができたのだ。チームも牧野に対して、絶大なる信頼を寄せていた。

 カミソリシュートとスライダーを得意とする右投手の彼は、特に右打者に対して、大きな自信をもっていた。彼は兵頭がその右打者であることから、自分ならうまくすれば抑えられる、とも考えていた。監督やチームメイトが彼に兵頭との勝負を許したのも、彼らの中にさえ、自分たちのエースに対する密かな自信があったからに違いない。牧野の実力を冷静に判断すれば、本来ならばそれも、嘲笑するほどの過信ではなかったはずだ。

 しかし相手は、兵頭鷹虎であって、兵頭鷹虎であった。最初の対決で牧野は、完璧にコントロールされたはずの外に逃げるスライダーを兵頭に打たれた。ボールはライナーで右方向に飛んでいき、ライトポールに当たって本塁打となった。彼は数センチ単位のコントロールミスを呪った。あと少し外に外すべきだったと、彼はそのように自戒したのだ。

 そして二度目の対決。彼は強烈なシュートを、兵頭の胸元に見舞った。しかしそれも打たれた。腕を器用に折り畳んだ兵頭は、そのボールをレフトポールにぶち当てたのだ。この時も牧野は、自分のコントロールミスを呪った。もう少し内だった、ブラッシュボールぎりぎりの所に投げ込めば、兵頭とて抑えられるはずだ。

 しかし、三度目の対決でまたしてもライトポールに打球を当てられると、彼の脳裏に微かとは言えない疑念が通り過ぎた。ポールに当たる本塁打を三連続で打たれるなんて、こんな偶然があるだろうかと考えたのだ。それから彼は投球を乱し始め、他の選手にも痛打を喰らい始めた。そして兵頭との四度目の対決で、またしてもレフトポールを直撃する本塁打を打たれると、彼の疑念は確信に変わった。そんなはずはない、そんなはずはないのであるが、俺は兵頭に、ポール直撃の本塁打を狙い打たれている!

 そう思ってしまった瞬間から、彼の投球はがたがたになってしまった。結局、彼は播磨灘打線の爆撃を受け、九回表二死までに十三失点を喫した。そして、兵頭との最後の対決でセンター方向に打球を飛ばされ、バックスクリーン上方の電光掲示板に表示された『牧野秋義』の『野』の字の部分をその打球によって破壊されると、彼はここでとうとう、あらゆる意味において陥落してしまった。スコアボードだけでなく、投手としてのプライドまでをもずたずたにされてしまったのだ。自責点十五点でようやく降板した牧野は、自分が試合後、どうやって球場を出たのかも覚えていなかった。因みに兵頭の個人記録は、高校通算本塁打百七十本、大会通算本塁打四十本と、二試合ぶりに更新され、その生きる伝説は淡々といった様子で、前人未到の領域を突き進み続けている。


「アレガ プリンス・オブ・ハリマナダ カ」

 唸るようにそう言ったのはトロント・ブルージェイズの名スカウト、アレクセイ・ジョーンズ。甲子園球場のバックネット裏の一角を、メジャーリーグ全三十四球団から派遣されてきたそれぞれの筆頭スカウトが占めている。その中でそれに応えたのは彼の隣りに座るワシントン・ナショナルズの名スカウト、ブーパー・グラース。タカトラ・ヒョウドウが世界ドラフトの一巡目で指名されることは確実であり、ウェーバー順からナショナルズの獲得が困難であることを残念に思いながら、彼はこう言った。

「アレガ プリンス・オブ・ハリマナダ サ」


 テレビ観戦を終えた塗李のナインは、全員が協力して沈黙をつくっていた。見れば見るほどに自信を喪失させる強敵だ。幾度となく試練を迎え、その度に一癖も二癖もあるライバルたちを退けてきた彼らでも、兵頭の衝撃を振り払うことは簡単なことではなかった。大黒柱の思わぬ復帰に、本来の勇気をとり戻していた彼らではあったが、兵頭が彼らに与えたインパクトは、隕石の衝突のそれだった。プリンス・オブ・ヌルリと呼ばれる桜田翔平でさえ、この場合に適切な言葉を見つけることができない。

 その時、土気色の顔をした宇賀神に、翔平は初めて気づいた。

「お前、どうしたんだ?」

「私はどうもしません。何かおかしなことでもありましたでしょうか?」

 その話し方がおかしいんだ、と言いたくなったが、翔平はどこか様子の違った宇賀神を、しげしげと観察した。すると彼が、左手で無意識に右手首を庇っているのに気づいた。

「お前、それ……」

 翔平はそう言って、嫌がる宇賀神の左手を掴んだ。すると宇賀神の、異常に腫れた右手首が現れた。翔平がその手をとってやさしく撫でると、宇賀神は苦痛そうに顔を歪めた。

「なんでもありません、なんでもありません」

「お前あの時のホームランで、手首を挫いたな? 馬鹿野郎! なんで言わないんだ!」

 翔平はそう叫ぶと、すぐに保険医の熊川を呼んで宇賀神を診察してもらった。これくらい大丈夫です、と彼は言ったが、熊川によると宇賀神は、右手首の靭帯を損傷している疑いがあるということだった。ボールが重い球だったことと、怪力故の災難だろうが、試合の半ばでこれほどの怪我を負いながらも最後まで投げ抜くという精神力はどうだ。自分が降板したら全てが終わってしまうという責任感からだろう。しかし、翔平としては認めることができない。それは大きな誤りであったと、翔平は宇賀神を叱責した。

「いいかお前らよく聴けよ。俺たちはたしかに甲子園で優勝することを目標にやってきたが、それは誰かの犠牲の上に成り立っていいものでは決してない。宇賀神の無理があったからこそ、俺たちは決勝にいくことができるが、それは決して褒められた決断ではなかった。今は宇賀神の右手首が完治することを祈るのみだが、今、現段階で、身体に無理を抱えている者はいないだろうな?」

 結局、熊川によって全員の健康診断が改めて入念に行われた。しかし、疲労はしていても致命傷を負っている者は宇賀神の他にはいなかった。翔平はほっと息を吐いた。それと同時に、改めて塗李野球部が手負いの獣であることを認識させられた。最後の最後になって、遂に、代わりの人間が一人としていなくなってしまったのだ。

 翌二十一日、播磨灘の試合を再度見直していると、塗李の泊まる宿舎を宇宙科学高校の宮沢が訪れた。宮沢は前日の勝利を祝い、桜田の奇跡の回復を喜ぶと、すぐに顔つきを真剣なものに変えた。そして、小脇に抱えたバッグから一本のボトルを取り出すと、彼はおもむろにこう話しだした。

「播磨灘を倒すには今まで以上のぬるぬるが必要なはずだ。だから、決勝に間に合うよう新ローションの開発を急がせていたのだが、そのサンプルが今朝届いた。今はまだ2リットルしかないが、今日明日の練習はとりあえずこれでやってくれ。そして感想をもらえれば、明後日の決勝までには完成品を届けられるだろう」

「宮沢さん、僕ら……」

「いいんだ、何も言うな」

 宮沢はそう言って翔平の礼を拒んだ。「俺は今、まるで自分が決勝の舞台に立つような、そんな不思議な気分でいるんだ。この歳でこんな気持ちにさせてもらって、俺の方が礼を言いたいくらいだ」

 宮沢が帰るとすぐ、塗李ナインは新ローションのサンプルを持って、早速練習場に向かった。いつまでも播磨灘を恐れていても始まらない。体から納得させて、内に震える恐怖に打ち勝つのだ。

 そして練習場。その新しい液体を掌に落とした時、たしかに翔平は今までよりも数倍のぬるぬるを実感した。しかしそれでも翔平は、あの悪夢のような兵頭のバッティングを頭から振り払うことができなかった。足りない。他の打者ならともかく、これでは兵頭を抑えることができないという予感。もっとぬるぬるさせない限り、俺たちに明日はない。もっとぬるぬるを! それは彼だけでなく、全てのナインの共通の願いだった。この世界のぬるぬるを少しずつ集めて、プリンス・オブ・ヌルリの、その右手の中に!

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