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第35話

  兵頭コーポレーション 秘書室室長 袴田清政


  「この人は、他人の気持ちを理解できぬままに一生を終えるのだろう」

 塗李の肩をもちながらも、宮沢昭伸は伊達の投球に感心していた。彼の指揮する宇科高が実践していた、七色の魔球は偽物だった。しかし、彼がこの試合で目撃したものは、本物の七色の魔球だった。だからといって彼は、他の観客同様にその魔術的な投球に魅了されていただけではなかった。宮沢昭伸は科学を信じる。この世界に起こる全ての不思議は、全てが科学に基づいた現象なのだ。そして科学は、解明し、進化し、勝利する。塗李よ、お前たちの野球も科学に基づいたベースボールだということを忘れるな。粘り強く考えれば、論理的な攻略法を構築できるはずだ。


 四回の最後の打者もそうだったが、五回の裏の先頭打者も明らかに意図をもっていた。昌美は、早くも自分を追いつめ始めた塗李打線に、必要以上の驚異を感じていた。『止まる球』の際のメゾピアノ線は既に使用を封じられていたし、『重い球』を投げてみても執拗に観客席を狙われる。『平和の球』の時などは、ピースやジェニーらの存在に気づかれてしまったか、塗李の打者たちは不自然に上空を見上げながら、鳩たちに合わせてタイミングをとるではないか。残る魔球は四つになるが、『消える球』と『死の球』は一イニングに合わせて三球までしか使えない。『爆裂の球』も危険が大き過ぎるため、この試合ではあと数回が限度だろう。となると、『分身の球』を多用するしかないのだが、それで最後まで抑えられるか、という心配がある。事実、今打ちとったばかりの堀という打者は、『分身の球』の狙い撃ちを考えているような挙動だった。

 どうするか、と考えているうちに、昌美は宇賀神栄太郎を打席に迎えた。

(この宇賀神という人に限っては、重い球でもよさそう。ファウルゾーンに打ち分ける技術は、きっとないでしょう)

 出し惜しみが、その球種を選択させた。電光石火の早業で公式球とすり替えた。昌美は捕手の稲田に、『魔球・重い球』のサインを出した。


 天気が勝敗を左右することに気づいていたのは、塗李の戦士たちだけではなかった。甲子園球場第四準備室。兵頭鷹虎が3D映像を見つめ、試合の行方を占っている。

「木村。天気の方はどうなっている」

「お天気でございますか? 外は日がかんかんに照りつけてございますよ」

「もっと正確な情報が知りたいんだ。アメデゴザンス(Automated Meteorological Data Earth Great Oppai Zone Acquisition National Systemの略。アメダスの数倍の精度を誇る、二〇四九年より運用が始まった気象観測システム)に問い合わせて、三十分先の予報を調べてくれ」

 木村が内ポケットから端末を取り出した。いくらか操作すると、天気の行方がわかったようだった。

「雨の予報はありません。夕立ちが降ることもなく、日中は厳しい猛暑が続くことになるようです」

 スタンドから歓声が響いてきた。兵頭は映像に目を戻した。


 一球目を空振りし、宇賀神は尻餅をついた。観客席に向かって打つなんて無理ズラ、と彼は思ったが、彼は彼なりにそれを目指していた。するとピッチャーが、またしても腕を伸ばして投げてきたので、彼はなんとかタイミングをずらして、早めにバットを振りだした。しかし再びずっこけて、観客席に笑い声が起こるのを彼は聞いた。

(無理ズラ、無理ズラ、無理ズラ)

 昌美は昌美で、既に次の打者のことを考えていた。どうしよう、消える球はあと二球、爆裂を一回使っちゃおうか、それとも平和の球……。そんなことは考えず、荒木昌美は全神経を目の前の打者に集中させるべきだった。彼女は重い球を掌で一度転がすと、稲田に向かってこくりと頷き、三球目を投じた。

 ガキン、というメタルバットと重い球の衝突音が轟いたのは、それから僅か一秒後のことだった。えっ、と思って一瞬固まり、恐る恐る振り返る。するとその時は、ボールがバックスクリーンに激突し、バウンドしてフィールドに戻ってくるところだった。宇賀神の偶発的なホームランの被害者となったことに気づくまで、彼女は十秒ほどの時間を要した。

(そ、そんな……あの重い球を、あそこまで飛ばすなんて……)

 なんだかわかりません、といった表情でダイヤモンドを回る宇賀神。ベンチから飛び出した塗李の選手たちが、ホームに帰った宇賀神を手荒く迎えるのを茫然と見つめた。

(強い……)

 そんな弱気が、彼女の心に忍び寄った。しかしここで膝を折るわけにはいかない。決勝に進出して播磨灘を、兵頭鷹虎の暴走を止めなければいけないという、揺らぐことのない動機づけが彼女を支えている。


「宇賀神……!」

 と合田高次が溢れる涙を拭うためにハンカチを探しているうちに、島袋と結城が立て続けに凡退。試合は六回に突入した。覚醒した宇賀神の投球は、まさに快刀乱麻を断つといった勢いで、真田高校の攻撃をこの回も三者凡退で終わらせた。まだ一点のビハインドを追う立場ではあったが、塗李ナインの士気は上昇を続ける。一打席一打席に工夫を凝らして、スーパーエース、伊達昌幸を追いつめていくのだ。

「宇賀神のホームランは観客席には入らなかったが、しかしあれでもう重い球は完全に使えなくなっただろう。メゾピアノ線を使った二つの魔球も封じることができている。問題は消える球だが、過去の記録を見てみると、奴は消える球を一イニングに四球以上投げた過去がないようだ。そうなると、消える魔球を三球投げさせさえすれば、あとは分身と爆裂球に狙いをしぼれるというわけなのだが……」

 堀はそこまでまとめると、顎に手をやった。「問題はその消える球を、どうやって三球投げさせるかだ。たとえそれが叶っても、あの分身と爆裂球をどうやって打つか……」

 喜与川が凡退し、木戸が打席に向かった。その様子を見つめながら、

「逆だ」と結城が口を開いた。

「なんだって?」堀が怪訝な顔を向ける。

「分身と爆裂球を打込むことさえできれば、三球しか投げられない消える球なんぞはどうとでもなる」

 そうは言ったものの、結城にも答えは出ていなかった。さあどうする、俺たちはどうすればいいんだ。木戸が凡退し、猿渡が打席に入った。

「こんな時、桜田がいれば……」

 ネクストバッターズサークルで、高原利久が独り言ちる。それは皆が、心のどこかで考えていたことだった。士気挫けずとも袋小路に迷い込んだ塗李ナイン。大黒柱の不在が、ここにきて彼らを苦しめ始めていた。


 この塗李野球部最大のピンチに、桜田翔平は医務室の寝台に横たわりながら、大宮可奈子とちゅっちゅちゅっちゅしていた。

「ねえ可奈ちゃん」

「なあに翔平さん」

「もう俺、どうだっていいや……」

「あたしもよ、翔平さん。あたし、翔平さんがいるなら、野球なんかどうだっていい!」

 宇賀神だとか魔球だとか、もはやどうでもよかった。唇と唇が触れ合い、そして離れる度に、二人は脳をとろとろにさせ、幸せの絶頂に身を任せるのだった。そこへ現れた二人の男たち。それは藤岡猛と、佐々木隼人だった。

「仲間が死闘を繰り広げてるってのに、いい気なもんだな」

 ぱっと顔を赤らめて離れる大宮可奈子。翔平は怪訝な顔で、男たちに言った。

「誰ですかあなたたちは」

 すると藤岡が言った。

「運命が、塗李高校を決勝に導くだろう。その時お前は、ベッドに臥せたままか? あの宇賀神とかいう一年生に、兵頭が抑えられるのか? 忘れてもらっては困るが、お前の仲間というのは今試合に出ているあいつらだけじゃない。桜田翔平、お前には立ち上がってもらわないと困るんだ」

 そう言って彼は、小さな布を床に開いた。布の中から、いくつもの鍼が姿を現した。


「何がおもろいんかのう袴田(はかまだ)。なぜに鷹虎の奴は、こんなくだらんお遊びに夢中になっているんだ」

 準決勝第一試合の中継映像を見ながら、兵頭鷹虎の父、兵頭虎太郎は言った。「早々にわしの会社を継いで、世界を牛耳った方がよほど面白いやろうに……」

 この人は、他人の気持ちを理解できぬままにその一生を終えるのだろう。兵頭虎太郎の第一秘書、袴田清政(はかまだきよまさ)はそう思った。

「おぼっちゃまは、野球は高校までと約束なされました。この大会が終われば、経営学の勉強にきっと身を入れてくださいますでしょう」

 しかし老人は何も言わず、じっと映像に見入っていた。自分で話を振っておいてまるでその返答に期待していない時がある。それはいつものことであり、袴田は慣れていた。

「雨が降ったら、塗李とかいう方の勝ちやな」

「雨、でらっしゃいますか?」

「ああそうだ。雨が降ったら、真田とかいう高校は終わりだ」

 野球のルールも知らないくせに、と袴田は思ったが、老人は専門外の分野でも、時折わかったようなことを口にする。そしてそれは、なぜかいつも的中するのだ。だからこそ、たとえ人の気持ちが、実の息子の気持ちさえわからずとも、兵頭虎太郎はその所有する会社を、ここまでの国際企業に成長させることができたのだろう。事実、袴田は身をもってその驚異を体験し続けてきた。老人の予言は予言でなく、明日のニュースキャストその物なのだ。

「この真田高校とやらじゃ、鷹虎には勝てんわな」老人が言い切った。

「それならば、このまま真田高校がこの試合を物にしましたら、おぼっちゃまの完全無欠の五連覇が確定ということですね」袴田がやや興奮気味に言う。「高校野球の歴史に我がグループ播磨灘高校の名が永遠に刻まれることになりましたら、私としても鼻が高いです」

 すると老人は、かっ、と喉を鳴らし、

「くだらん……本当にくだらん。それがなんになる? そんなことで世界と戦えるのなら苦労はないわい」

 と吐き捨てた。「どうせなら鷹虎の奴に未練を残さんよう、屈辱的なまでに叩きのめしてもらいたいもんや。うむ……袴田、気象庁に繋げや」

 それでどうして、気象庁に繋げ、となるのか。しかし、八十三歳にして会長職に身を退かず、未だ社長職に居座り続けるこの怪人に対して、袴田は『聞き返す』ということを許されていなかった。


 気象庁が世界に誇る先端の観測システム『アメデゴザンス』には、全国各地に配置された気象観測装置から送られてくるデータを、整理し、分析し、それを基に予測し、各地気象台に配信するという従来からある基本機能の他に、天災を和らげたり、或いは完全に防いだり、場合によってはあえて天候を悪化させるなどの、自由に気象をコントロールできる『気象介入機能』なるものがあった。その機能の最終責任者は、ツカサ(開発当初は人型のアンドロイドであったが、コスト削減のためにプログラムだけが残され、アメデゴザンス内にそのまま組み込まれた実体をもたないスーパーコンピュータ。コードネームだったTsukasaDollからそのまま命名)と呼ばれるAIだった。そのツカサに、一つの命令が届けられた。それは兵庫県の一部の地域に、少量の雨を降らせろというものだった。

 ツカサは、上司からのこの命令に疑問をもった。

(この日常に介入しろですって? いったい、何があったのかしら)

 気象への介入は、天にも背く行為だと主張する宗教団体の反発や、一度の使用で巨額の税金が投入されるということなどから、台風や、洪水が懸念される大雨時、日照りの続いた夏、降雪地帯の冬場などにしか許されていなかった。ところが、このような日常の中で、幾人もの責任者の審査を通過し、ツカサはその発動を命令されている。しかもそれは、たしかに猛暑が続いているようではあるが、あまりにも局地的な小規模降雨命令なのだ。ツカサが疑問に思うのも、無理はなかった。

(人間は時々、不可解な決断をする。そのために私がいるのだから、これはもう一度確認をとらなければ)

 彼女はそう思い、一度その命令を拒否した。しかしすぐに、同様の命令が彼女の下に繰り返し届けられた。彼女は仕方なく『気象介入機能』を始動させた。気体の圧力をコントロールし、低気圧を人工的につくり出すのだ。

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