第34話
神奈川県立塗李高等学校三年 野球部遊撃手 結城裕樹
「ヌルリアンドリームを完結させるんだ!」
しかし宇賀神も負けてはいなかった。一回二回と、押し出しにより一点ずつを奪われはしたが、三回は一人の走者を出しただけで、無事に終えることができた。昌美はその様子を見て、改めて気を引き締めた。
(私たちはもう二点をとってる。あとは私が、塗李を完全に抑えるだけ!)
昌美はマウンドに立ち、『真』の字が刺繍された緋色の帽子を被り直した。打席に向かう結城裕樹が、彼女の視界に入った。
打席に入って眺める景色が、通常のそれとは違っていた。十八メートルと四十四センチの向こうに、一人の少女が立っている。襟足は短く、坊主頭のように見えるが、おそらく舞台の時に使う羽二重などを使って、上から鬘を被っているのだろう。その下には普段の彼女を彩る豊かな黒髪が納められているに違いなく、元々控えめな胸は晒しか何かで圧迫されているはずだ。そしてあの臀部! あの不自然な膨らみは、アスリートのそれではない。結城は確信した。塗李野球に立ちはだかるその小さな巨人は、紛れもなく『女』であり、プリンセス昌美であったのだ!
(君はなぜ、このことを教えてくれなかったんだ? 君を出場不可の女性だと、僕が大会主催者に告発するとでも思ったか? それとも、僕が塗李の選手だと知ったから、付き合う振りをすることにしたのか? 僕から、俺から、塗李の秘密を聞き出そうとでも思ったか!)
怒りのような悲しみのようなどっちつかずの激情が、結城裕樹の瞳孔を赤黒く焼いた。しかし、その視線を真正面から受け止めたはずの荒木昌美の瞳が、真っ直ぐで、黒く透き通り、静かな炎を滾らせているだけだということに気づくと、彼の脊髄を、ある単純な答えが、一直線の稲光りとなって貫いた。今、目の前に立つのは、水晶のように一片の曇りもないイノセントプレイヤーであり、それに相対する自分も、単なる餓えた狩猟者であるに過ぎないのだという発見。それは純粋な勝負、生存という本能に遺伝子の鳴る、一つの青さの証明だった。胸に支えていた何かが、みるみるうちに氷解していく。戦う男のシンコペーションが、結城裕樹の心臓のリズムを、劇的に、変えた。
(何を迷っていたんだ……俺のやるべきことはただ一つ。仲間と共に、ヌルリアンドリームを完結させるのみじゃないか!)
燃える闘魂がメタルバットの隅々にまで染み渡る。(たとえ君がオナベであろうとこの愛に変わりはない。しかしここは戦場。この想い、君の望み通り一旦脇に置こう。そして改めて、ここに俺は開戦を宣言する。伊達昌幸! 貴様の情熱を飛び越えて、その上に胡座をかいてみせようぞ!)
結城がバットを構えた。それは昌美の巡り合ったことない、誠実な男の迫力だった。
結城に対して選ばれた魔球は、七色の魔球の中でも最高の破壊力を誇る、『魔球・爆裂の球』だった。ボールに火薬を塗して点火してから投じることにより、火花を散らしながら進むボールはホームベースに辿り着く頃に破裂する。予選で一度だけ使われたこの球は、消える球と同じく審判団の間で物議を醸したが、ストライクゾーンを通過(ホームベース上で球体という姿を失いはするが)したことには変わりがないと判断され、結局、長野県予選ではストライクのコールを受けている。それは大会主催者にも報告され、本大会でも同じ扱いを受けるはずだった。
昌美からそのサインを受け取ると、稲田信夫はいよいよ覚悟を決めた。緊張という名のプラズマが、彼の集中力を高めていく。『魔球・爆裂の球』には危険が伴う。これは一試合に何度も使える球種ではない。しかし伊達がその球種を選んだからには、この打席には特別な意味があるはずなのだ。宣戦布告のイメージ。それは、試合はこれから始まるのだという、凄まじい未来を約束するサインでもあった。
爆裂投球を受けて、結城はあえなく三振に終わった。しかし彼の意気が消沈することはなかった。彼はベンチに戻ると、皆を集めて言った。
「みんなに話すことがあるんだ。落ち着いて聴いてくれ。あのピッチャーはマジシャンだ、そして彼の投げる球は、奇術を駆使した、イリュージョン投球なんだ」
「なん……だと?」
北田が、目を見開いて言った。「なんでお前がそんなことを知っている」
「俺は彼を知っている。彼の舞台を見たことがある。俺たちは皆、いや、これは観客も含めての話だが、彼の創り出した幻影に引き摺り込まれているんだ」
結城が昌美のことを『彼』と言ったのは、彼女が出場不可の女性であることを隠そうとしたからではなかった。結城にとってプリンセス昌美は今、まさに雌雄を決する青春のライバルへと昇格していた。
グラウンドでは喜与川が、最初のボールを空振りしていた。それは、『魔球・分身の球』だった。
「見てくれ。今のは堀に投げたのと同じ球だ。これは奴が、レパートリーの全てを出し尽くしたということだと思う」
喜与川がツーナッシングに追い込まれた。二球目は、『魔球・消える球』だった。
「俺は最初から伊達の投げる全ての投球を奇術投球と睨んで観察していた。これを攻略するにはまず、それぞれの魔球のからくりを解いていかなければならないだろう」
彼はそう言って、伊達昌幸を指差した。「伊達の尻を見てみろ。でかいだろう」
皆が伊達の臀部に改めて注目する。高原が言った。
「だけじゃなくって、不自然な形だ」
結城は頷いた。
「そうだ。しかも、その不自然な尻をしているのは伊達だけじゃない、というのがポイントだ。キャッチャーもそうだし、他の内野手もバッテリーほどではないが、少しだけ歪な膨らみをみせている」
「どういうことだ?」
「あそこに、奇術に必要な小道具が隠されているということだ」
喜与川が、『魔球・平和の球』で三振にとられた。九番の木戸が打席に向かう。
「問題を整理しよう。奴の魔球は七つ。正式な名称は知らないが、重い球、止まる球、消える球、分身の術、消える牽制球、尋常でない変化球、そして爆発する球、だ。俺は、奴を攻略するには、奴から一つ一つ、魔球を奪っていくしかないと思っている」
「奪っていく、だと?」
北田が答えをせがんだが、木戸が打ちとられ、攻守交替となった。
宇賀神は四回の表を、三者凡退で終わらせた。そして皆がベンチに戻ると、再び結城の講釈が始まった。
「まず一つ、重い球だが、これは実際に重量の重いボールにすり替えているんだと俺は睨んでいる。そうなると、このボールが観客席に飛び込むことを向こうは嫌うはずだ。ばれちまうからな。今までの対戦相手は、球の遅さをいいことに思い切りフェアゾーンに叩き込んでいたかもしれないが、俺たちは違う。あれがきたら、観客席を狙うんだ」
「どうやって重い球だと見極める」北田が言った。
「陸上の円盤投げみたいな、腕を伸ばした投げ方だったら、重い球だ」堀が答えた。
「続いて止まる球だ。これはメゾピアノ線を使っているとしか考えられない」
「メゾピアノ線だと? あれは素人では手に入らないはずだ」喜与川が言った。
「素人じゃあ、ないんですよ」木戸が答えた。
「だから俺たちは、打席に入る度にバットでそれを払うんだ。魔球のセットが済んだ、投げる直前にやるのが効果的だろうな。奴はきっと、これも使えなくなるだろう」
猿渡が三振してベンチに戻ってきた。北田がネクストバッターズサークルに向かう。結城が続ける。
「それから消える球だが、俺が推理するに、投げていない、ということはないだろうか」
「投げていない、ですって?」島袋が驚いた。
「なるほど、投げた瞬間に消しているのか。そしてさも投げられたように、捕手がキャッチした仕草をする。大胆なトリックだ」堀が言った。結城は頷いて続ける。
「そうなると、弱点が見えてくる。伊達は、投げていないのに捕手から返球を受け取らなくてはならないから、消える球を投げて返球を受け取る度に、ボールをユニフォームの中に、そう、尻の倉庫にストックしていかなければならない、という問題を抱えているはずだ。尻には他の道具も仕舞われているだろうから、そうはスペースがないだろう。元々が消える球は、一イニングにそう多くは投げられない球種のはずなんだ」
「なるほど、だから今までの試合では、無敵のはずの消える球だけでなく、重い球のような不完全な魔球も投げていたんだな。そうなると、一イニングに何球投げられるのかを検証する必要がある。あくまで仮説の上での話だが、段々と奴から球種を奪ってきたぞ」
高原が凡退した。仮説を途中まで聞いていた北田の打席は注目だった。
北田は打席に入ると、メゾピアノ線を払うような仕草を何度もした。そしてボールが投じられると、明らかにファウル狙いの打撃を繰り返した。それは執拗だった。マウンドの伊達が、少し困惑したように、塗李ナインには見えた。しかし結局、最後に平和の球を喰らい、三振。試合は、五回の表に進んだ。
宇賀神は五回の表でも安定を見せて、真田のクリーンナップを三者凡退に打ちとった。それでも彼の発汗は相変わらず尋常でなく、アンダーシャツはぐっしょりと濡れていた。
打席に堀が向かう中、次打者である宇賀神を結城はベンチに留めた。お前にも聞いておいてもらいたい、と結城は言うのだった。
「宇賀神が喰らった牽制球アウトについても触れておきたい。デッドボールは故意だろう。魔球は牽制球の方だったんだ。あれも消える球の一種だと考えて間違いないと思う。奴らは隠し球のようなことを自由自在にする。何しろ全ての内野が、その尻に本当にボールを隠し持っているんだからな。だから、塁に出ることができたとしても、決してリードをしてはいけない。消える牽制球は、いつでも飛んでくるぞ」
宇賀神が、うんうん、と忘れないように頷いた。
「それからあの変化球だ。特に上に変化するやつ。二百年に及ぶ野球の歴史の中で、ボールをあそこまでホップさせた投手が他にいたか?」
「ホップしたように見えるほど伸びのあるストレート、というのならわかるんだが、奴の球は上方に向けて直角に上がっているからなあ。しかも二十センチくらいだ。ちょっと異常だぜ……」
そう言った高原に顔を向けて、結城はあとを続けた。
「これもメゾピアノ線が関係していると思っていたんだが……前回、対策をしたはずの北田が、これにやられている。しかし、縦方向のあの変化はどうしても不自然だ。そこで俺は、ボールを下から押し上げているのではなく、上から持ち上げているのでは、と考えた」
「持ち上げているだって?」
「ああ、するとどうだ。マウンド上空に、三羽の白い鳩が飛んでいるじゃあないか」
結城がそう言った時だった。ちょうど伊達が、指笛で下部たちを呼んでいた。
「見てみろ。やはりメゾピアノ線を使っていたんだ。あのボールは伊達によって投じられていたのではなく、鳩によって運ばれていたんだ。ボールをよく見ろ、と指導者は言ったもんだが、上空に奴らがいる時は、ボールを見たって仕様がないぜ? 鳩をよく見ろ、だ」
常識破りの投球に、皆が驚きの表情を浮かべた。
「分身の術みたいなやつと、爆発する球はどうなっている」
喜与川が言うと、猿渡が反応した。
「爆発はともかく、分身の方は野手がセカンドベース付近に集まりますから、投げてくることがわかります。それに、ボールが分身するわけでもないし、普通に打ちにいけばいいじゃないですか」
「しかし堀も言っていたが、ボールが急に出現するから対応が間に合わないんだ。俺もさっき、一球だけ体験した」
北田が言うと、猿渡は唸って、下唇を突き出した。結城が、最後の講釈を始めた。
「分身に関しては、俺もはっきりしたことはわからない。しかし、オーロラ3Dビジョンを見るに、蜃気楼の原理を利用しているんじゃないかとは思う」
「それは僕も考えていました」
これを言ったのは木戸だった。「蜃気楼は、温度変化を受けた大気が光を屈折させることによって起こる現象です。グラウンド上は異常な暑さですから、何かしらの方法で大気を急激に冷やせば、可能なのかもしれない」
「ああ。そしてもしその通りなら、火薬を使っていると思われる俺が喰らった爆発する球と共に、分身の術を封じる方法が一つだけあるんだがな……」
結城はそう言って空を見上げた。釣られて空を見上げる塗李ナイン。まさか、と呟いたのは島袋。結城はこくりと頷いて、静かにこれに応えた。
「そうだ。となると、あとはお天道様のご機嫌次第ってことになる。試合が中止にならない程度の雨。うーん……降らねえよなあ……」
まさに真上。雲一つない大空のど真ん中に、眩しい太陽が居座っていた。




