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第23話

  神奈川県立塗李高等学校三年 野球部一塁手 北田広太


  「本当の勝負が、ようやく始まるってわけだ」

 準々決勝当日、前キャプテンの千葉が、宿舎まできてくれた。

「会社の人がさ、盆休みに甲子園に出てる後輩の応援にいくって言ったら、これを差し入れしてこいって」

 千葉はそう言って、十人分の塗李神社の御守りを鞄から取り出した。そしてそれぞれに、丁寧に手渡していった。

「お前が宇賀神か。でっかいなあ」

 最後にそう言うと、彼は宇賀神の腹を拳で軽く突いた。「お前のことはよく知らないけど、お前はきっと、この体の通り、みんなの大きな支えになっているんだろうな。今日の相手は強いけど、よろしく頼んだぜ」

 照れたように頭を掻いた宇賀神に、千葉は握手を求めた。そして差し出された宇賀神の右手をがっちりと掴んだ瞬間だった。千葉はその、異様な手触りに驚いた。

「お前……」

 すると宇賀神は、てへっと笑い、

「千葉先輩、頑張りまっさ。出番はなくても、あっしは塗李の一員でっさかい」

 と手を引っ込めた。全員から感謝の言葉を貰ったが、千葉は茫然として、少しも聞いていなかった。球場に向かうバスに乗り込む塗李ナイン。彼は自らの手を見つめながら、先ほどの感触を思い続けていた。

(もしかしたらこいつらは、俺の想像を越えるほどの、凄まじい戦いをしているさなかなのかもしれない)


 八月十七日の午前九時三十分。第一試合、松山西東工業高校と塗李高校の一戦が始まる。ベスト8に進出した公立校はこの二校だけであり、しかもお互いが大会を代表するエースを擁していたことから、この一戦には大きな注目が集まった。記者席には大勢のカメラマンが陣取り、五感テレビ対応のカメラも通常の二倍が設置されていた。選手が入場し、お互いが整列。先攻は塗李。アンパイアのプレイボールのコールとともに、ピッチャーズマウンドに立った宮内志郎が、大きく振りかぶった。球場にサイレンが響き渡る。その第一球を、一番打者の猿渡が待ち構えた。

 風か、と見紛うほどの、超速球だった。猿渡は、今までに見たこともないその球筋を、第二球でこそしっかりと確認しようと思った。しかし、今までに見たこともないその球筋は、第二球を見終えても、今までに見たことのないもののままだった。

(見えない。このままじゃ永遠に、こんなの見たことがないって言い続けるだけになっちゃうよ)

 第三球は、高速スライダーだった。ストレートよりかはいくらかスピードが遅く、今度はなんとか見ることができたが、これも初体験だった。まるで一塁ベースにいる人間が、左のバッターボックスに立つ彼を目がけて投げたとでもいうような軌道。しかしそれでいて、しっかりとストライクゾーンを通過する不思議。猿渡は、サイレンが鳴り終わる前に、バッターボックスに居続ける権利を失ってしまった。

「どうだ?」

 と尋ねた二番打者の高原の脇を、猿渡は黙って通り過ぎた。無視したわけではなかった。

彼はその衝撃体験に、言葉を失っていたのだ。

 高原も同様の体験をした。これはまずい、とすら彼は思った。この大会、圧倒的な結果を残している投手は、真田高校の伊達昌幸、そして桜田とこの宮内だ。伊達は消える魔球とやらを使うし、桜田はローション投法。しかし宮内はオーソドックスなスタイルであり、スケールが大きいだけかと思っていた。その大きさを、彼は完全に侮っていた。昨晩、皆で映像を見るには見たが、そんなもんじゃあない。これは完全にプロ級だ、いや、或いはそれ以上の……。

 そんなことを考えているうちに、彼の打席は終わっていた。二者連続三振。ネクストバッターズサークルの、北田広太(きただこうた)が呟いた。

「宮内志郎か。本当の勝負が、ようやく始まるってわけだ」

 北田は、塗李打線の中核だった。それは本人も自負していたし、ナインも認める結果を残してきた。しかし彼は、まだ本領を発揮していなかった。彼は、自分のリストの強化と、繊細なバットコントロールを成長させ続けるために、本戦が始まったあとも、ずっとローションを拭き取らぬまま打席に立ち続けてきたのだ。そして今、彼は遂に本物の投手と出会った。掌に付着したローションを拭き取って、初めてがっちりと、グリップを握った。

「本気でいかせてもらうぜ、宮内さんよ。塗李野球が、桜田のローション投法だけでないことを証明してやる」

 呟いて、宮内志郎を睨めつけた。

 しかし、宮内は北田に背を向けて自軍のベンチを見ていた。いや、正確にはベンチではない。ベンチの向こうの観客席にいる、二人の男たちを彼は見ていたのだ。

(俺はきっとこの左腕で、あんたたちの夢を叶えてみせるよ)

 藤岡猛と佐々木隼人は、その視線をしっかりと受け止めた。宮内に、弟、いや、息子のような感情をさえ抱いている彼らは、うむと頷いて視線を投げ返した。

(お前は既に、俺たちを超えている。改造ピッチャーとしての誇りをもて! そして俺たちを、未体験の夏の決勝に連れていってくれ!)

 宮内志郎の、セラミックカーボンに包まれた上腕二頭筋が唸った。彼の左腕は、七五%が精密機械でできていた。

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