第19話
私立札幌薄野桃腿学園三年 ハニートラップ隊隊長 大宮可奈子
「意志の強そうな男。やりがいがあるわ」
沢井美加は、ナインのうずうずした態度を見て、彼らが自由に行動したがっていることを悟った。
「熊川先生、どうしましょう。みんなそれぞれ自由行動をとりたいみたい」
「許可してもいいんじゃないの?」
「だけどもし何かあったらと思うと……私は一応、責任者なんです」
「心配し過ぎよ沢井せんせ。よく考えて? 彼らはもう高校生なのよ? 最近の高校生は、私たちが思っている以上に、大人なの」
熊川に全幅の信頼を置いている沢井としては、その言葉を聞いただけですっかり安心することができた。彼女はナインに自由行動の許可を出した。すると彼らは、彼女の予想通り、大いに喜んだ。
「二十時までには必ず宿舎に戻ること! 約束よ!」
彼女がそう言い終えるや否や、ナインは返事をする間も惜しむかのように、四方に飛び散っていった。「もう! わんぱくなんだから!」と彼女は呆れた様子で向き直った。やっぱり彼らは、まだ子供なのではないでしょうか。言いかけて、沢井は言葉を呑んだ。熊川武実も、いなくなっていた。
札幌薄野桃腿学園、五十二名のハニートラップ隊を統率する大宮可奈子は、選りすぐりの関西派遣部隊十七名の中から、更に美しい隊員を九名選んだ。自分も含めて十名。そしてそれぞれに、それぞれが担当するべき塗李ナインの写真を手渡していった。
「清美ちゃん、あなたは木戸って子ね。堅物そうだけど、こういうタイプが一番脆いものよ、頑張って」
全ての隊員に指示をし終えたあと、大宮可奈子は自分が担当する男の写真を眺めた。
(意志の強そうな男。やりがいがあるわ。桜田翔平、待っていなさい!)
十人の桃腿学園ハニートラップ隊が、神戸港に散っていった。
駅前に向かっていたのは猿渡と島袋の二年生コンビだった。彼らは、今春から全国で稼働しているファーストパーソンスポーツゲーム『デラックススタジアム』(3D五感筐体対応)がやりたくて仕方がなかった。地元でもできたが、今までやる暇がなかった。彼らはそれをやるために、その筐体が置いてありそうな大きなアミューズメント施設を探していた。
見つけると、彼らはすぐに中に入ってその筐体を探した。するとそこには、夏休みということもあってか、幾人かの子供たちが列をつくって並んでいた。彼らはわくわくしながら、その列に加わった。
自分たちの後ろに二人組の女の子が並んだことには、すぐに気づいた。女の子自体がこの手の店では珍しかったし、何より彼女らは、とりわけかわいらしかった。ここ一年、野球一筋だった彼らに、後ろの二人を意識するなという方が無理だった。
するとすぐに、その彼女らが話しかけてきた。二人は驚いて、それぞれ自分の顔を指差した。
「え? 俺?」
「はいそうです。もしかして、塗李高校の人たちじゃないですか? 人違いだったらごめんなさい」
ナインの中での人気は、翔平や高原、結城などに集中している。それも所詮は地元だけの話で、家から遠く離れたこの土地で、脇役のような自分たちのことを知ってくれている者たち(しかも女の子!)がいたのは、吃驚に値する出来事だった。この事実は、二人を有頂天にするには充分過ぎるほどの要素をもっていた。
「そうだけど、何?」
「わあ、やっぱり本物だったんだあ! 今日の試合、観ました、かっこよかったです!」
右翼手、猿渡信吾。左翼手、島袋鉄平。一瞬で調子に乗った。
木戸崇は図書館で涼みながら、背の高い本棚の間をゆっくりと歩いていた。不意に立ち止まり、一冊の本に目を止める。ニーチェの主著、『ツァラトゥストラはかく語りき』だった。彼はそれを手にとろうと、本の背に人差し指をかけた。その時だった。彼のその指先は、同じ目的で伸ばされたと思われる、見知らぬ少女の白く細い指と触れ合った。
「あっ、ごめんなさいっ」
少女が顔を赤らめて、慌てて手を引っ込める。
二塁手、木戸崇。一瞬で恋に落ちた。
喜与川は一人で、二〇世紀に流行したやくざ映画を観ていた。古い映画を上映している映画館は暗く、周囲にどんな人間が座っているのかはわからなかった。劇中のやくざ役の男の、凄みを利かせた声が館内に響く。
『最後じゃけえ言うとったるがのう……追われる者よりも追う者の方が強いんでえ。そがあな考え方しとったらあ、隙ができるど』
(最後じゃけえ言うとったるがのう……か。ふむ……なかなかイカしてる)
喜与川がそう唸っていると、スクリーンでドンパチが始まった。すると隣りから、女の小さな悲鳴が聞こえたような気がした。喜与川はふと顔を横にやった。かわいらしい女が、ちょうど彼の右腕にしがみついてくるところだった。
「こ、怖い……」
男、喜与川八郎太。一瞬で隙だらけとなった。
このように、塗李のナインが次々とハニートラップ隊に攻略されていく中で、大宮可奈子は全ての隊員のpinkSpy(桃腿仕様のiSpy)に、かつて何度も送ってきた隊の禁止事項を改めて送信し直していた。
『絶対に貞操は守ること。淑女の嗜みを忘れてはなりません』
たしかに彼女は、愛する草刈のためならなんでもできた。しかし、貞操までをも犠牲にするとすれば、それはあまりにも悲しい恋ではないか!
(いけない。私たちは恋の奴隷なの。だからこそ、真実の愛から目を背けてはいけないのだわ)
大宮は送信を終えると、草刈のことを想い浮かべた。
大宮可奈子は、孤児だった。彼女は十五歳まで、札幌市郊外にある児童養護施設で育った。そんな彼女の前途に、思ってもみない光が差し込んだのは、彼女が十三歳になったばかりの頃のことだった。当時、同施設で生活を共にしていた彼女より二つ歳上の少年が、札幌薄野桃腿学園に野球推薦で入れるかもしれないという話があった。その少年がセレクションを受けるというので、彼女は付き添いで桃腿学園に付いていった。
彼女が、彼女だけのあしながおじさんに初めて出会ったのは、その時だ。桃腿学園野球部監督、草刈和正との出会いである。草刈はその当時から、ハニートラップ隊の結成を考えていた。付添いできたその美しい少女を一目見て、これは使える、と彼は心に留めた。
結局、二つ歳上の少年は入学がならなかったが、彼女の方はその日を境に、草刈と文通をするようになった。君の文章はユーモアがあって面白い、と草刈に突然言われ、君が私に手紙を書いてくれるならその度に私は君の入学金を積み立てていこうではないか、と提案されたからだった。彼女は、高校にいきたかった。草刈がいつ自分の文章を読んだのかは不明だったが、とにかく彼女は必死になって、『憂鬱な月曜日』とか『憂鬱な火曜日』とか『土曜日はそうでもない』とか『とにかく平日は憂鬱』とか、色々なタイトルの手紙を書いた。その甲斐あって、彼女は桃腿学園に入学することができた。全ては、草刈のおかげだった。その草刈になんとか恩返しするためにも、彼女はマネージャーとして野球部に携わることにしたのだった。
彼女は草刈の役に立ちたかった。それは次第に愛へと変わっていった。草刈がハニートラップ隊の結成を考えていることを知ると、彼女は率先してそれに尽力した。そして現在に至る。私は貞操を守る、この純潔は愛する彼に捧げるもの、他校の野球部員などに許すものでは決してない、それは他の隊員も同じでなくてはならない、私たちは天使の使わした、真実の愛の体現者なのだから!
十数歩先に、彼女のターゲット、桜田翔平がいた。彼女は、あらゆるシミュレーションの中から、最も高度なものを選んだ。
翔平はこの休みを利用して、大阪見物でもしようかと考えていた。そして通天閣の近くまできた時、彼は何か、妙な気配を背後に感じた。恐る恐る、振り返った。するとそこには、栗色のくるくる巻き毛のウィッグに真っ赤なドレスを身に付けた紅い唇の横にいかにも思わせぶりといったセクシーなほくろのある睫毛ぐりんぐりんの女がいた。腰をくねらせヒールを鳴らしあはんうふんと桃色吐息を二秒に一回洩らしながらこちらに向かって蛇のような老獪さで近づいてくる……。
キャプテン、桜田翔平。一目散に逃げ出した。
夜の八時になって、ハニートラップ隊が各地から作戦を終了させて戻ってきた。
「掟は守ったわね?」と大宮が確認すると、
「はい、もちろんです」と皆は口を揃えて答えた。
「首尾はどうなの?」と大宮が重ねて尋ねると、
「ばっちり、エロエロしく挑発してきました。今夜の蛋白放出は間違いなしです」と一人の隊員が答えた。
「デートの約束は?」重ねて報告を促すと、
「試合の前日まで毎晩少しだけ会う約束をしてきました」とこれまた皆が口を揃えた。
報告を聞いて、大宮は安堵した。
(これなら試合の当日、彼らはきっとヘロヘロの役立たずになっていることでしょう)
そして少し間を置いて、心の中でこう付け足した。
(肝心の桜田翔平以外は!)
武市高校のレギュラー陣が、それぞれの待ち合わせ場所ですっぽかしを喰らっていたこの時刻、塗李高校の宿舎には、沢井の言いつけ通りに皆が続々と戻ってきていた。
「みんな楽しんできた?」
と沢井が尋ねると、ナインは、はいと頷いて、沢井に感謝の気持ちを述べた。教員になって四年目。生徒たちからこんな眼差しを送られたことなどかつてなかった。彼女は嬉しくなって、今回の決断を後押ししてくれた熊川に、早く感謝の気持ちを伝えたくなった。しかし熊川はまだ帰らない。熊川はこの時、ミナミのホストクラブで大酒を喰らい、金が足りなくなって支配人に土下座しているところだった。




