第18話
私立青田学院三年 野球部偵察部隊神奈川県担当 合田高次
「このままでは塗李は、骨抜きにされてしまうぞ!」
島根県立鳥取野左高等学校野球部主将、縞酉善次君の選手宣誓全文。
『せんせい! われわれ! せんしゅいちどうは! こうしえんをもくひょうに! ともにわらい! ともになき! ともに! もういっかいわらい! どんなときでもぺろぺろきずをなめあってきたなかまをほこりにおもい! ここまでささえてくれたみなさまがた! そしてたくさんのであいにかんしゃし! たくさんのひとに! ゆうきとかんどうをあたえ! こうこうやきゅうのすばらしさをつたえられるよう! ときにあつく! ときにぬるい! こうこうせいらしいないすなやきゅうを! さいごまで! せいせいどうどうとぜんりょくでぷれーすることを! ここに! ちかい! ま! す! めいせいにじゅうろくねん! はちがつなのか! せんしゅだいひょう! しまねけんりつとっとりのひだりこうとうがっこうやきゅうぶしゅしょう! しまとり! ぜんじ!』
闘志漲れば情熱は沸点に、臨界を越えたところで能力は爆発する。開会式翌日の八月八日、県立塗李高校は、萩大工学を八対〇で撃破。心身共に充実。広がるフィールドに静謐を迎え入れ、塗李高校の校歌が初めて甲子園球場で斉唱された。
東雲の 塗李が丘に 飾りたる
理想の影に 命燃え
塗李の嶺と 白金の
これぞ我らが学びの舎
平和 平和 平和を求めん
羽ばたけぬるり
輝くぬるり
ぬるり ぬるり
おお 我らが 塗李高校
初めての甲子園のマウンドで、見事完全試合を成し遂げた桜田翔平は、インタビューでこう応えている。
「萩大工学は素晴らしいチームでした。結果は八対〇というものでしたが、一歩間違えれば逆の結果もあり得たのではと今も考えさせられます。彼らからは、戦いは試合前から始まっているのだという、全国レベルの戦略を学びました。この経験を、次の二回戦にも生かしていきたいです」
塗李ナインは宿舎に戻ると、早速録画しておいた映像を、レンタルしてきた3D五感テレビで再生した。捕球の瞬間を一時停止してコマ送りにして見るのだ。息を飲んで映像を見守る塗李ナイン。ローションを拭き取る仕草は、捉えられていなかった。一秒間に五百八十六コマの超映像でも、彼らの早業は一度として捉えられていなかった。空間に映し出されたボールを触ってもみたが、ローションのぬめりは再現されていなかった。ナインは、ほっと息を吐いた。これならやれる。俺たちは次の試合もその次の試合でも、俺たちのローションベースボールを思い切りぶつけることができる。そう思うと、彼らはようやく、固い緊張を解くことができた。
しかし、彼らの戦いはまだ始まったばかりだった。彼らの最終目標は全国制覇という大きなものであり、それまでには一癖も二癖もあるような難敵を、あと五度も倒さなければならなかった。彼らは、これまでに消化された試合を全て録画していた。一回戦に集中していたため、誰もがまだ一試合も観ていなかった。
まず強烈だったのは、やはり播磨灘高校だった。四番の兵頭は、六打席連続本塁打を記録していた。特に、彼のスイングがボールを捉える瞬間の映像は衝撃的だった。白球は一瞬で紅蓮の炎に包まれ、火を噴きながら浜風を物ともせず一直線に突き進んでいくその軌跡は、まるで巨竜の咆哮のようだった。スタンドの観客が必死に避けると、座席に直撃した黒焦げのボールが大映しになる。語彙の豊富な放送局のアナウンサーですらその現象に絶句し、言葉にできずにしばらく沈黙したほどだった。そして塗李のナインも、その光景をまのあたりにして、唖然とした。なんだこれは、なんだこいつは、こいつには、こいつにだけは、ローション投法も通用しないんじゃないか……。
「ピッチャーも……凄くね?」
高原が言った。たしかにピッチャーも凄かった。九イニングを四人で分担して投げていたが、奪三振二十一、一安打一四球、全ての投手が見た目とは裏腹の完璧な結果を残していた。
本当に優勝なんてできるのだろうか……。そういう弱気が、皆を蝕み始めた。それだけの迫力が、播磨灘高校、ひいては兵頭鷹虎にはあった。翔平でさえも挫けそうになるほどの、それは圧倒的なパフォーマンスだった。
「う、うん……でも播磨灘は、三回戦まではあたらないから、とにかく今は目の前の相手に集中しよう。その方が建設的だ」
翔平はなんとかそう言って、停止ボタンを押した。そして、先ほど決まったばかりの次戦の相手、札幌薄野桃腿学園の一回戦の映像を空間に呼び出した。
少しの弱点も見逃さまいと、十人の高校生がじっくりとそれに見入った。そして映像が終わりに近づき、皆がその実力をしっかりと把握した頃だった。
「弱くねえか?」
と北田が呟いた。決して油断が許されない戦いの連続の中で、迂闊にもそんなことを口にした彼は即座に叱責されるべきであったろう。しかし、相手の武市高(高知)の方が地力に上回るのは誰の目にも明らかで、それでも軍配が桃腿学園にあがったのは武市高の度重なるミスや後半のスタミナ切れに原因があったとしか思えず、そのことが、翔平や堀のような責任ある立場の者にさえ、注意の一言を怠らせた。桃腿は甲子園で勝てるようなレベルに達していない、というのは、映像を見た彼ら全員の、偽らざる本心であったのだ。
「ついさっきまで播磨灘を観ていたからですかね」島袋が言った。
「いやしかし、冷静に見てもやっぱり弱いよ」結城が言った。
「待て、そう簡単に判断しちゃ駄目だ」堀が言った。
「おいらより下手じゃけん、余裕ばい」宇賀神が言った。
油断が再び彼らを襲う。そこへ現れたのは、彼らの関西逗留に責任者として同行している、部長の沢井美加だった。
「明後日までは試合もないし、気分転換にお外にいかない?」
この一年、休息というものをろくにとってこなかった彼らにとって、その言葉はあまりにも魅惑的だった。体を休ませるだけでなく、自由に羽を伸ばすことを提案されたのだ。翔平はチームメイトの表情を見て、それもいいかもしれない、と考えた。彼にそう決断させたのは、観たばかりの桃腿学園の試合の印象が、助けていたかもしれない。
「合田はまだ戻らないのか。塗李はもう次の次だぞ」
青田学院の監督、徳川三郎が側近の者にそう言った時、合田高次は大阪市内の、とあるビジネスホテルの近くにいた。そのホテルには、札幌薄野桃腿学園の三十五人が宿泊していた。なぜ彼がそこにいるのかは、彼自身もよくわかっていなかった。
合田にとって不審だったのは、三十五人のうち約半数の十七人までが、女性マネージャーで占められていたことだった。
(多過ぎないか?)
という疑問が、偵察部隊としての合田の本能に語りかける。高野連が許している参加校の関西逗留人数は、一校あたり三十五人までであり、通常、この三十五という枠は、試合に出場できる男子部員が競って奪い合うものだ。しかし桃腿はそのほぼ半分を、女子マネージャーにあてている。桃腿野球部には男子部員が七十六名もいるというのにだ。貴重な枠の半分をも使ってまで、不必要なほどに女子マネージャーを連れてくる理由は何か。彼女らを大阪に逗留させるに、何か深い意味はあるのか。
合田は、まさかの敗北を喫した武市高校の方を調べることにした。あれほどの強豪校が桃腿程度に破れたとなれば、彼らはきっとショックを受けているに違いない。一機だけ張り付かせているバグスカウトを遠隔で操作し、帰り支度をしているであろうナインの周辺を覗かせた。
すると、武市高校に問題が起こっていることがわかった。なんと、レギュラークラスの選手、十五人が、試合が終わってから姿を消してしまったというのだ。不行届きの責任を恐れた教師たちが慌てている。その中で、医師として同行していたらしい男が、その騒ぎにまるで釣り合わないトーンで、監督に話しかけた。
「なんとなく、敗因がわかったような気がします」
「な、なんだと?」
選手の行方と同じくらい、監督は男の言葉が気になったようだ。「敗因って、敗因ってなんだね」と彼は咳き込んで尋ねた。
すると男は、一束の書類を監督に提示した。
「これは、試合後に行われた選手たちのドーピング検査による、採尿検査の結果報告書です。ベンチ入りした全ての生徒に、『蛋白+』と出ています」
塗李野球部の十人は、部長の沢井と保険医の熊川に連れられて神戸港を訪れていた。潮風を受けて遊覧船を眺めているだけで、ナインは解放的な気分を存分に味わうことができた。これだけのことで余暇を満喫できる現代人が他にいるものか、と翔平などは自分におかしみを覚えた。それは彼だけでなく、他のメンバーもほとんど同じ思いだった。彼らはそれほど、野球一筋の一年間を送ってきたのだ。
普通の高校生はこの夏休みをどう過ごしているのだろう、と思うこともあった。本当なら自分たちも、いいかげんな野球部のままでいいかげんな高校生活を送っていたはずだ。適当に遊び、適当に学び、適当に恋もしていただろう。それなのに、実際の自分たちときたらどうだ。この一年、馬鹿みたいにローションに塗れて過ごしてきた。それも極秘にだ。それはなぜか。青春を懸けたからだ。男に二言はない。どうせならこの想い、この大会が終わるまで、決して挫けることなく貫いてみせようではないか。しかし今日だけは、今日だけは全てを忘れて思う存分羽を伸ばしたい。彼らはまさに、全員がそう考えていた。それだけ彼らは、結ばれた集合体として、一つの固い結晶になりかけていたのかもしれない。
その固い結晶を破壊するためかどうか、彼らに桃色の影が近づいていた。札幌薄野桃腿学園、ハニートラップ隊の面々である。
(まさかそんなことが。しかし、現代の黒ずんだ高校野球界ならばそれもあり得ぬことではない。まずい! このままでは塗李は、骨抜きにされてしまうぞ!)
本来、何もまずいことはない。桃腿が強敵塗李を二回戦で倒してくれるとあらば、戦略を無効化された桃腿の方が塗李よりも敵として楽なのはわかりきっているのだから、合田の所属する青田学院にすれば、それは何よりも最良のシナリオであるというものだ。しかし、合田にはなぜか、その選択肢はなかった。彼の考えでは、塗李は必ず三回戦に進出しなければならなかった。そしていよいよ対決となった時に、自分がどうするつもりなのか、彼は自分でもわかっていなかったが、塗李のようなチームが桃腿風情に敗北した時は未来を照らすはずの高校野球の曙が再び闇に包まれる時だ、ということだけは、はっきりとわかっていた。塗李は、青田学院と対決しなければならない。その時自分がどういう立場をとるにしても、塗李高校は三回戦で、青田学院と対決しなければならないのだ。
しかし合田は、桃腿学園の具体的な作戦内容がわからなかった。対戦相手のパフォーマンスを大きく低下させるために、その直前に彼らの体内から、動物にとって重要な栄養素と言われるアミノ酸を奪う。それはわかるが、問題はやり方だ。はたしてどうやって蛋白を……いったい、彼女らはどこまで実行するつもりなのか……。
合田は、考えられるあらゆるパターンの検証に入った。そして、ある程度の想像を越えると、とりあえず蛋白を放出した。




