第11話
神奈川県民 宇賀神家専業主婦 宇賀神栄子
「お前には、みんなを笑顔にできる、そういう素質があるんだよ」
「お前グラブも持っていないのか?」猿渡が言った。
「グラブってなんですか」
「グローブだよグローブ」
「グローブ?」
猿渡はため息を吐いて島袋を見た。島袋もお手上げといった様子で、インテリの木戸に助けを求めた。木戸は眼鏡を押し上げて、練習プランを組み直す覚悟を決めた。
「宇賀神、俺たちはお前を歓迎している。しかし俺たちの野望は大きい。俺たちの敵は強大なんだ」
「きょうだい?」
「そうだ、強くて大きいの強大だ。その強大な敵を打ち破るためにも、お前の力が必要なんだ。しかし今のお前のままじゃあ駄目だ。いっぱい練習しないといけない。わかるな?」
「わ、わかっとりますばい」
「よし。それならまずはランニングからだ。ローションベースボールは、無尽蔵の体力を要求するからな」
宇賀神の特訓が始まった。それはあまりにも初歩的なところからスタートした。彼の成長が自分たちの運命を握っているとは露知らず、全ての部員が彼の練習を無条件にサポートした。
連日夜の十時までの練習。宇賀神はへとへとだった。しかし、それも新入部員だからという理由での、今だけの特例だった。三年生と二年生はそのあとも練習を続けている。学校側に許されている練習時間を破ってまで、彼らは自らに練習を課しているのだ。それを思うと、宇賀神栄太郎は不安になるのだった。
(やっていけるやろか)
目当ての沢井美加が練習場に全く姿を現さないのも、彼にとっては誤算だった。しかし、入部したことを知った沢井がそのことを喜び、その彼女に、
「あの野球部の練習に音を上げないで一週間も続いているなんて、先生見直しちゃった!」
と言われた時のことを思いだすと、彼はにんまりと相好を崩すのだった。
自宅に着くと、お兄ちゃん最近帰りが遅いのね、と言って、妹が食事の支度をしてくれた。父親は仕事に疲れたか、ごうごうと鼾をかいて眠っている。彼は不意に、亡くなった母親のことを思いだした。
『お前には、みんなを笑顔にできる、そういう素質があるんだよ。何事も一生懸命にやりなさい。そうすればみんながお前を慕って、友だちだってきっとたくさんできるに決まってるんだから』
宇賀神は、小さな頃から大きかった。小学一年生で身長は一四〇センチを越えていたし、中学一年生の時には一九〇センチ近くの、人並外れた堂々たる体躯を手に入れていた。しかしそれは、彼の人生のアドバンテージにはならなかった。彼の体の大きさは、周囲の人間に不気味な印象を与えただけだった。
そんな彼をいつの時も守ったのは、母親だった。彼の母は、自分とそっくりの容姿をもつ息子を溺愛した。息子によからぬ細菌が付かぬよう、常に彼の傍を離れなかった。そんな彼女の愛情がその息子にもたらしたものは、母親に対する感謝の気持ちと、大空の下の孤独だった。
宇賀神は、友人らしい友人をもったことがなかった。彼はその現状をなんとか打開したいと、そのことばかりを考えて過ごすようになった。そこで彼が編み出したのが、彼独特の似非方言だった。アニメのキャラクターで、東北や関西や中国、九州地方の方言を、ごちゃ混ぜにして話すカラスのキャラクターがいた。そのカラスは子供たちから抜群の人気を集め、シリアルや炭酸飲料のイメージキャラクターにもなっていた。宇賀神はそれを真似た。そうすれば自分も人気者になれると思ったのだ。しかし、その話し方は周囲の人間を余計に気味悪がらせただけだった。そんな時、彼の母親が蜘蛛膜下出血で急逝した。それが原因だったかどうか、彼はその話し方を元に戻せなくなってしまった。そして彼は、ついぞ友人をつくることなく、高校生になった。
自分の未来に希望がもてなかった。彼は、自分にはなんのとり柄もない、と信じきっていた。塗李高校に入学して、一ヶ月が経った。起きて飯を食って学校にいって授業を受けて飯を食って授業を受けて帰って飯を食って布団に入って眠る日々。彼はそんな繰り返しの毎日に、虚無感を感じずにはいられなかった。そんな時、彼に声をかけたのが、担任教師の沢井美加だった。
「宇賀神君、いい体してるじゃない。それでなんにもしてないなんてもったいない! 時間があったら、私が部長を務めてる野球部にきてみたら? 部員のみんなは、世界中の恵まれない人々のことまでをも考えてあげられる、素晴らしい先輩たちよ!」
恬淡とした雰囲気をもつ沢井美加が、一瞬、母親に重なって見えた。それでいて母親とは違う美しいその容姿が、彼の心拍数にかつてない影響を及ぼした。それに加え、野球部である。宇賀神育成担当の三人の先輩たちは、厳しく、そしてやさしかった。
「どうしたのお兄ちゃん、お味噌汁冷めちゃうよ」
練習の厳しさを思いだし、食欲がわかない、などとらしくないことを思ったり。それでいてやはり、たくさん食べておかないと体がもたない、と考えてみたり。
宇賀神栄太郎は父親似の小柄な妹に礼を言って、箸を取ると静かに食事を始めた。
『何事も一生懸命にやりなさい。そうすれば、友だちだってきっとできる』
もう少し頑張ってみよう、と考えた。




